◆ ◆ ◆
「ほう」
ギルガメッシュの声に、紛れもなく喜色が混じった。
とるに足らぬと思っていた駄菓子の詰め合わせの袋の中に手を伸ばし、掴んでみたのがことの他、面白い味であった――そんな風な、声だった。美味というには足りぬ。珍味というには珍しくはない。だが、面白い。
「紆余はあれど、早々とそこに至ったのは、褒めてやってもよい――」
「……はい」
士郎は二刀を下げた姿勢のままで対峙し、突然、ギルガメッシュの前に出現した。
二人の御神の剣士をして捉え損ねた、神速を超えた神速。
それをたやすくこの高町士郎は行ってのけた。
まるで別人だった。
彼が別人となった理由。それは、極限まで鍛えられた戦闘意志の制御法に他ならない。
遥かな昔。侍達は刀を抜いた時点で、殺し殺される事を当然のように受け入れたという。それは武士としての心構えからではない。刀の柄を握った瞬間に、彼らは覚醒するのだ。
殺し合う為だけの肉体、生き残る為だけの頭脳に。
試合の前に気を引き締める、などというレベルの話ではない。彼らは刀を抜く事で脳の機能を切り替える。肉体を戦闘用に切り替えるのではない。脳が、肉体を戦闘用に作り変えるのだ。
かくして筋肉は生物が使用するべき方法ではない方法で活動し、血脈は血液の循環ルートを変えて呼吸さえさせなくなる。
これは、かつて御神の剣士たちも当たり前のように行っていたことだった。
刀を持ち、構えた時には彼らは他の剣豪たちと同様にまったく別の生物となっていたのだ。
本来、神速とはこの段階においてなお感覚を速めるために練り上げられた技法であった。
後代の御神流の者たちがこの制御法を失ったのは、時代が平和になったということ以上の理由はない。戦国の時代では当たり前のように死地を踏み越えねばならず、結果として精神は日常的に練磨され、時に魔性に接して打倒せねばならなかった。
まさに常在戦場という言葉どおりの戦慄の日々の中で培われた感覚が、平和な時代に残せるはずもない。
護りの剣である御神だけではなく、暗殺の剣流たる不破にして同然の有様だった。
もっというのなら、恐らく御神と祖を同じくする永禅不動八門の現存する使い手たちも、今となっては誰一人としてできないだろう。
二千余流にも達した剣術の達人とその命脈を繋ぐ者たちにしても、江戸期においては数瞬だけならまだしも完全にこの領域に至れた者はほとんどいなかったのに違いなく、現代ともなれば幾つかの流派にその形骸が残るのみである。
当たり前であったがゆえに技法と認識されることはなく失われたこれとは別に、意識して作られたより高度な神速が現存しているのは皮肉なことであるのかもしれない。
高町士郎は夜を疾り、刃を走らせる。
殺すために人間である心を捨てるのではなく、家族への愛を原動力に剣を振り、未来への希望を糧に必死となれた。
殺意や敵意は負の感情ではなかった。
愛情や信頼は正の感情ではなかった。
心の生み出す、一つの様相に過ぎない。
殺すために愛を捨てる意味がなく、愛するために殺意を捨てる意味もない。
愛で人を殺せるのなら。
憎しみで人を救えるだろう。
愛も憎しみも哀切も何もかもが肉体を制御するために必要だった。
その全てを賭ける意志、決定をこそ「覚悟」というのだ。
今の高町士郎は、まさに一個の怪物なのだ。
音をおいていく程の速さで距離を詰めて突きこんだ八景の切っ先が空を貫くのと同時に旋回して。
上段から打ち込まれる二つの神剣の刀身を叩いて逸らしてなお踏み込んで下段の蹴りを、
鼻先を掠めて、真上から剣が落ちた。
脚を振りぬけば、自らの勢いで切断していたのではないか、という位置への落下だった。
すでに何処かに隠していたというのではなく、虚空から武器、兵器を取り出すのを目撃していた士郎であったが、このタイミングでこの距離でのそれは完全に意想外だったらしく、消えたかの如き速度で回り込み。
腹部に、爆発的な衝撃を受けた。
それが、剣から手を離したギルガメッシュの左拳であったと認識したのは、吹き飛ばされたその百分の一秒の後だ。その二秒後に着地して膝をついたが、痛みに屈したというのではなく、短距離走のクラウチングスタートに似た姿勢だった。
続けての攻撃のために顔を上げて。
「――誇れ」
英雄王は、無手だった。
何も持たず、何もせず。
ただ突っ立ったままで。
笑っていた。
「遊びとはいえ、我が手ずから拳を振った相手は、神世の頃を含めて五人とおらんぞ。加減はしたが、我の拳であるのに違いない。お前が、そのことを誇ることを許す。未来永劫、世の終わり、輪廻の果てまで誇るがよい」
空気が――変わった。
ギルガメッシュの背後に波紋が浮かぶ。現実にはあり得ぬ現象であり、それを波紋と呼んでいいものかも解らなかったが、そのように見える何かだった。それらはすぐに姿を現したが、美由希は一瞥してそのまま座り込み、恭也をして呆然とさせた。
剣が。
刀が。
槍が。
矛が。
槌が。
鏃が。
ありとあらゆる、武器の形をしたナニカが現れた。
高町家の人間に武器の真贋をはかる知識、骨董への興味はほとんどない。ないが、それらが全て本物であるということは知れた。本物の、何かだ。
剣を超えた剣であり。
刀を超えた刀であり。
槍を超えた槍であり。
矛を超えた矛であり。
槌を超えた槌であり。
鏃を超えた鏃であり――
先ほどまで彼の手にあった神剣と同等か、あるいはそれ以上の存在。
そしてそれらの全てを所有し、従える存在こそが。
英雄王。
ギルガメッシュ。
「お前のいるそこはな、古くは戦士と呼ばれる者ならば当たり前に至れた場所だ。
自分自身のために自分自身とそれ以上のものを背負える、人間以上へと進む道の途上よ。
神世の昔は、誰もが何かのために己の全てを賭けていた。
当世ではまるで見かけんが、その中ではお前は見所がある方だ。
だがな、勘違いするな。
それらの戦士の悉くを、足元に寄る雲霞の如く蹴散らかしていたのが、我だ。
自分自身を背負えることが最低限の戦士の条件だが、それの上に立つ英雄とは、自身のみならず目に映る全てのモノを背負う」
ならば。
透徹した眼差しで、世界の果てまでをも見通すこの男は――
――この世の全てを、背負っている。
背負い込めたものの量が力になると、この男は言っていた。
それはつまり、世界の全てを背負うこの男以上の力を持つ者はいないということではないのか。
目を細めて自分を見る士郎へと、ギルガメッシュはまた笑いかけた。嘲笑に似ていた。
「言うまでもない」
「…………………」
「――さて、そろそろ、遊びは終わりだ。階(きざはし)の一段目とはいえ、人間以上の者へと踏み出したのならば、雑種なれども、確かに戦士には違いない。戦士ならば、我に挑むのも遊びとはすません。
全力を出すにはまったく値せぬが、この腐れた当世ではそこに至れただけで上出来というものか。
我の拳で打たれたことを誉れとせよ。
そして、死ね」
裁定は下った。
英雄王は、遊びをやめると告げた。
それはすでに、高町士郎は死んだということだった。
「王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)」
本来、これは闘いなどと到底呼べぬものだったのだ。
射出される宝剣、神剣、魔剣、妖刀、――ありとあらゆるそれらのモノは、その一つ一つが死の具現だ。当たれば死に、掠っても死に、かわしても次に打ち出されたモノにあたって死ぬ。
それを士郎は神速を超えた神速で回避し続けた。
戦場を幾度か巡った彼をしても、これほどのものは経験がなかった。たった一秒の生存が百年の生涯と等価の意味を持つ殺戮の領域。
さらに驚くべきは高町士郎か。一秒を二秒、二秒を三秒。三秒を四秒、……考えられる限りの言葉を尽くしても、そこに生き続けられているという事実を表現する術は多くない。
「しぶとい」
業を煮やした、というのではなく。
ただ鬱陶しくなったというような声をギルガメッシュは発した。
刹那だが、射出された剣の勢いが弱まった――と思えて。
士郎は踏み込んだ。
神速を超えた神速を、さらに超えた、命を削った踏み込みだ。
一身を刃と変えた、そのような打ち込みだ。
――と。
落ちた。
剣が。
先ほど、眼前に落ちたのと同じものであるということを認識できたのは、その煌く意匠の色合いを覚えていたからだろうか。あるいは鈍い輝きを宿す刀身を目に焼き付けていたからか。
あと数歩で必殺の間合いへと至った、まさにその時に、それは先ほどよりも、さらにそれに数十倍する勢いで砂浜に落ちたのだ。
「父さん!」
叫ぶ息子の声を、士郎は頭上に聞いた。
吹き飛ばされ、彼は宙に舞っていたのだ。
◆ ◆ ◆
気が付けば、士郎は暗黒の世界にいた。
いや、つい数瞬前に背中に感じた衝撃を「熱い」と感じたことをかろうじて覚えている。全身を動かそうとしてはたせぬまとわりつく冷たい液体の正体にも気づいている。鼻から入り込んで味覚を侵す味を「辛い」と思ったのも忘れていない。
(海に落とされた)
上も下も解らない。
ただ、それだけが理解できた。
意識の断絶があったのは百分の一秒以下のことであったのだろうが、それだけの時間で彼は暗黒の中で何もかもを見失った。
どちらに向かって手を動かせばいいのか、脚を動かせばいいのか。
体力は冷たい水の中で失われ続けていた。
(早く戻らないと)
戻らないと。
恭也や美由希は、あの二人は自分が吹き飛ばされた瞬間にも戦いを挑んでいるのかもしれない。
いや、挑んでいるに違いない。
高町恭也と美由希の戦闘能力、資質はおよそ人の身に達せる極限に近いところにあり、特に美由希の資質は自分以上と思ってもいる。だが、それを知っていてなお、二人がかりであったとしても、士郎には二人がギルガメッシュに勝てるとは思えなかった。
人の領域を超えた今の自分をしてすら、このざまなのだ。
三人がかりであったとしても、勝機を拾うのは広大な砂浜の中に一粒の砂金を見出すのよりも難行だろう。
戻ったからといってどうすることもできるはずがない。
だが、それを知っていてなおも士郎は戻らなければならないと思っていた。
何故なら彼は、家族を背負っているから。
今の状況が彼の無謀の結果であるということは、重々と承知をしていることだが。
あの大英雄に勝つ術などまったくないのだが。
それでも、諦められない。
諦められるはずがなかったのだ。
(戻らないと)
腕を動かし続けて足掻いても、どうにもならない。士郎は自然と動きを止めていた。
まずはどちらが上かを確かめなくてはならない。
全てが暗黒で上も下も解らないこの状況は、まるで宇宙空間にも似ていた。
似ている――ということは、同じではないということであり。
違うということである。
浮力がある。
潮の流れもある。
浮力に任せて上に行けばいいはずだ、ということに気づくのに二秒かかった。
そのままだと潮の流れにもまれて遠い場所にもっていかれるのではないかということに考えが及ぶまで、もう一秒。
(駄目か)
諦めてはいない。
諦めたりなんかしない。
諦めることなどありはしないが。
状況は最悪だった。
夜の海の水は一秒ごとに彼の体力と熱を奪っていく。
ここから脱出するために必要な力も、搾り出せるのか解らない。
そのためにどっちに向いていけばいいのか、それすらも解らない。
(駄目なのか)
そして、果たしてここから脱せたとして、この海から這いでることができたとして。
ギルガメッシュとどう戦えばいいのか――
五体を武器として。
五情を力と変えた。
それでも及ばない。
それでもなお届かない。
おそらく、自分があと百人いて、百人がともに挑んだとして。
あの男は、一振りでことごとくを塵芥の如く蹴散らかすことができるのだろう。
それだけの力の差を感じた。
「戦士」の領域に達せたがために、改めて、本当の力の差というが実感できる。
あれには勝てない。
絶望も諦観もなく、そう思う。
あれは人間とか戦士とか、そういうのを超越した怪物だ。
怪物を倒す怪物なのだ。
そもそも、なんでそんなものに挑もうとしたのか?
それは――
『お父さん』
声がした。
(なのは)
幻聴だ。
現実であるはずがない。
決して聞こえるはずがない声だ。
だが、決して忘れてはならない声だ。
そうとも。
自分は家族を背負っている。
家族のために戦っている。
それは自分自身の選択と決断があってのものだ。
そのことを悔いたりなんかしない。
自分は家族を守るために修羅になると。
とっくに、そんなことは「覚悟」していたではないか――
と。
――修羅では勝てぬ
(?)
誰かの声が聞こえた、ような気がした。さっきのなのはの声よりも、ずっとはっきりしない声だったが。確かに聞こえたように思えた。刹那にも満たない時間だが、疑念が湧いた。
(――何故戦わなければならないのか――)
目的のためにするべきことは、まだ他にもあったはずではなかったのか。
――それも、すぐに消え去ったが。
『お父さん』
なのはの声が聞こえる
『お父さん』
大丈夫だ。
『お父さん』
まだ、イケる……戦える。
『お父さん』
御神の剣士は、立てる力があるのなら。
『お父さん』
まだ刀を握ることができるのなら。
『お父さん』
(それは、戦えるということだ)
神速をかける/感覚を広げる。
神速ヲかけル/心臓を早める。
神速をカケる/脳に血を集め。
神速をかケル/全ての感覚を。
神速ヲカける/周りの時間を。
神速ヲカけル/とめてしまえ。
御神流の歩法の奥義である神速は、しかし本来は歩法とは関係がない技法である。
自分の感覚を早めるための精神集中法、というのが本来の姿だ。
脳の処理速度を上げることによって感覚は加速し、周辺の時間は遅延しているように感じる。
その感覚に合わせて、あるいは引きずられて肉体が加速する――というのが現在における御神流の神速の大まかな概要だ。
これは本来の、過去の侍たちの戦闘法に比して、肉体そのものはノーマルのままであり、ゆえに引き出せる速度というものも限界が低い。
感覚を広げ、加速させ、周辺の情報をより多くとりこみ、より優位なポジショニングを得るための技法なのだ。
脳の計算処理の上限は、身体のそれよりも遥かに高い。
ギルガメッシュとの戦いにおいて、最初はそちらを高めることによって限界を搾り出していた。
今は、
鼻血が出た。
限界の限界の限界の限界の限界の限界の、
ギリギリなどではない。
命の危険などもうどうでもいい。
――――突っ走る。
自分の位置を確認するために広げられた感覚は冷たい海流の流れを掴み取っていく内に浮力の働きが微かに服を持ち上げようとしているのを察知したのでそちらにむかって体を動かして手を、
延ばした、時。
イツしかセカイは一変していた。
自分が何か黒い渦のような中にいるのだと士郎は気づいた。
竜巻のようなナニの中心に立っているのだと士郎は気づいた。
グルグルと回っているものは光る何かだったと士郎は気づいた。
それらは上の方から零れ落ちていくようにして、
伸ばした手の先に、ある。
ソレは、在る。
ナニかガ有る。
赤も青も白も。
そこからは全ての色が生まれて流れていく場所だった。
生まれた色たちは混ざり合って、下に流れるほどに黒くなってしまっていた。
それなのに、色たちが生まれてくるそこに在る/有るものは、白――いや、無色――虚無。
ナイものがアル
士郎の左/右手はソレへと伸びて、
思う。
(ココは、全てが生まれた場所だ――)
◆ ◆ ◆
海上へと腕が出た。そのずっと真上に、丸い丸い、月がある。
◆ ◆ ◆
高町恭也は父が爆風に吹き飛ばされた、そう思ったまさにその瞬間に駆け出していた。
向かう先にいるのはギルガメッシュ――英雄王。
勝算などは欠片もなかった。
だが、そんなことは今の彼にとってはなんの問題にもならないことだ。肉体を動かすのは精神であり、精神を駆動させるのは魂だった。
その魂が彼に命じたのだ。
挑め――そして打ち砕けと。
神速に神速の重ねがけ、感覚を加速させる。周囲の時間は一気に遅延し始めた。
見える。
こちらに気づいたギルガメッシュは、ゆっくりと唇を動かしていた。
止まれ、と言ったのた。
おろか、と言ったのか。
そのどちらであったのかを判別する余裕はない。
視界に突然飛び込んだのは七つの剣。
いつ飛ばしたのか、それすらも解らずに体を捻り、
吹き飛んだ。
自分を囲むように剣は打ち込まれたのだと知ったのは、吹き飛ばされてからの受身をとって身を起こした時だ。
「恭ちゃん!」
「来るな」
駆け寄ってくる美由希を見もせずにそう鋭く投げかける恭也であったが、その視線の果てに一人立つギルガメッシュが、自分たちを見ていないことに気づいていた。
やつは――海を見ている。
(父さん……?)
恭也も美由希も、ギルガメッシュに倣うようにそちらへと眼を向けてしまう。
やがて、数分の時が経過する。
いつしか、風はやんでいた。
静寂とも言える夜だ。
月下の海の砂浜に、寄せ返す波。
黒い――海は黒く、闇の領域に見えた。
古代の人々は、海は異界へと繋がる場所なのだと信じていたという。
その果てにはある国では地平から暗黒へと流れ落ちる滝があると考えられ、またある国では神と魂の生まれては去り往く常世へがあると思われていた。
特にこの国では、多くのモノは海の彼方から訪れてきたものだった。
神々も。
文化も。
災いも。
何もかもが海の彼方より訪れるモノだったのだ。
恭也も美由希にも、理性と常識がある。あるのだが、それゆえにこそ古来より連綿と伝えられてきた想念を無視できなかったのかもしれない。
――広く昏い海に対する畏怖を
そして二人はまた知識として知っている。
原初の刻(とき)においては、生命すらも海より生じたのだと。
遥かなる異界への路であり、全ての母でもある海――
そこから、高町士郎は這い上がってきた。
いや。
「なん……だ?」
恭也は、思わず、呻くように呟いていた。
「……誰?」
美由希もまた、疑念を声にだしてしまっていた。
二人は、「それ」が士郎であるのかどうか、一瞬だが自信がもてなかったのだ。
ずぶ濡れになって海からあがる「それ」の姿は、間違いなく彼らのよくしるはずの高町士郎のものだ。
だが、違うのだ。
全てを飲み込む暗黒の深淵であるかの如き夜の海――その一部が人の形となって生まれ出でたかのような。
「それ」はそのような、人とはまったく違う怪物に見えたのだ。
「解せんな」
と、「それ」を見て、やはり怪物というべき男は呟いた。
眼を細めて、「それ」を見極めようとしている――ように、美由希には思えた。
いや。
「直結したようだが、そのような類の器とは思えん。まだ、そこの娘の方が近いだろうが……さりとて、我の見立てが誤っているはずもない――」
ギルガメッシュは、「それ」を知っていたのだ。
無言のままに指を差し向けたのは、試すためか見極め損ねたモノの排除のためか、三本の魔剣が虚空より現れて魔弾と化して「それ」に向けて射出された。
美由希も恭也にも叫ぶ暇すらない。
だが。
世にも美しい音を立て、光が夜を裂いた。
その光こそは「王の財宝」より撃ち出された魔剣であり、夜空に舞ったのは的であるはずの「それ」が手に持つ小太刀で弾き飛ばしたからであった。
ありえざる事態を二人の御神の剣士が把握するのに――いや、二人に解ったのは魔弾の射出と天に掲げられた黒い小太刀、そして夜空に舞った光から、「それ」がいかなる技をもってしてか、魔弾の投擲を逸らしたのだということだけである。
恐らくは音よりも速く撃ち出された魔弾を、回避するのならばまだしも人の手によって逸らすなどということはありえない。
いや、ありえないことなどはこの夜に何度となく起きている。
その中でも、これは最上の不可能なのだ。
だが、現に目の前でそれは起きたのだ。
恭也は驚く機能すら麻痺してしまった脳みそで考える。
(打ち込まれた剣のベクトルを、最高の角度とタイミングで逸らした――)
武術において、「機」だの「拍子」だのとと言われる概念がある。
ごく大雑把に言うとそれはタイミングと集中力をあわせた言葉であるが、通常の物理学の範囲内でおいてさえ、人は神秘とも言える現象を可能にできる。
中国武術の高手は自分の倍の体格の大男を打撃で吹き飛ばす。
合気道の名人は真正面からのストライカーの打撃を撥ね返すこともできる。
それらは単純な運動力学だけではなく、相手との位置関係、打ち込みにあわせて百分の一秒単位のタイミングを掴み取れて初めて可能な神技の領域だ。
全てはタイミングと角度の問題に集約される。
時に枝についた木の葉が銃弾を弾き飛ばすという事象があるというが――
条件次第で、それは可能になるのだ。
高町士郎がたった今為し得たのは、それらの神技や偶然を超えた、奇跡の領域の技だった。
虚空より世にあるまじき宝剣を投擲するのは絶世の英雄王だ。
その射線を捉えることだけでもすでに人間には不可能の領域の技であり、身に迫る魔弾を打つなどは人生をどれほどに積み重ねようとも常人にはなし得ぬ大難事であろう。
ましてその刃に機を合わせて逸らすなどは、太古に活躍した半神の英雄ですらも果たしてできたかどうか。
夜空を切り裂いた光は遠く暗黒の彼方に消え、高町士郎は掲げた剣をぶら下げるようにおろした。
そして。
進んだ。
一歩。
二歩。
「いいだろう……」
その声は、恐ろしかった。
そうとしか言えなかった。
一切の形容を許さない、人間の想像を絶した何か。
その時、まさにこの瞬間に。
高町美由希と高町恭也は、真実の英雄王とであったのだ。
金色の王気をその身より発し、天地の全てをひれ伏さんとする絶対の覇者に。
「王の財宝」
声と共に、再び魔弾の射出が始まった。先ほどまでのそれの倍する数の刃が、同じく閃光の速度を以って高町士郎へと襲い掛かる。
そして。
それを士郎は回避した。
どう回避していたのかなど誰にも解らない。
ゆらりと揺れるだけで、ふわりと動くだけで、魔弾は通り過ぎていくのだ。
「父さん……」
美由希の声は、掠れていた。
彼女は自分の義父がいかなる領域に達したのか、ようやく悟ったのだった。
◆ ◆ ◆
◆ ◆ ◆
(見える)
高町士郎は喜ぶでもなく焦るでもなく、ただ事実であることを簡潔に思う。
先ほどまでの、戦士の領域にある時でさえも光の線が走ってくるだけとしか認識できなかった英雄王の魔弾をはっきりと認知できる。
それは神速による時間感覚の遅延とは似て非なるものだった。
いや、あるいは異なるようでいてその延長にあるものだったのかもしれない。
士郎の視界には様々なものが見えていた。
それを「見えている」と視覚としての言葉で語っていいものかどうか。砂粒より細かい匂いの微粒子の動き、流れが「観え」る。砂浜をぬらす海によって冷えた温度の様相が「観え」る。
この世界を構築する、ありとあらゆる存在の流れとその様相が「観え」るのだ。
神速の神速の神速の神速の――その果てにあるところが、ここだった。
ギルガメッシュは見る場所が違うと言っていた。まず敵を見るよりも先に自分自身を見なければならないと言った。そして観た。自分自身のありようを知った。
だが、その先は?
自身を見た後に、敵を見た。あまりにも強大で強烈な存在だった。勝てないと解った。自分自身をどれだけ弄ろうとも到底至らない。
だが、その先は?
……暗黒の海の中で、高町士郎は多分、世界を見た。
あれは世界だったのだと、士郎は思う。世界ではなかったかもしれないが、あるいはその全てに繋がる何かだということは確信できた。
勿論、彼は知らない。
あれが〝根源〟とも言われる全てが生まれ出て、還り往く場所なのだと。
あそこに生きながら至ることをこそ、世の求道者たちは望んでいるのだと。
そこに至った時、高町士郎は知った。
己とは世界の一部であり。
世界とは己の一部なのだ。
個は全、全は個――言葉にすればありきたりのものでしかなかったが、真実とはそのようなものだった。
それを知識としてではなく、感覚として認知したこの瞬間に、高町士郎はこの境地にいた。
過去の剣聖と呼ばれた者たちをして、ようやく至れた場所に、高町士郎はいた。
今の高町士郎は世界の一部であった。
大地をどれほどに穿とうとも地球を割ることなどできはしない。
海の水をどれほどに汲み上げようとも大海が尽きることなどありえない。
どれほどの戦士だろうとも、あるいは覇者であろうとも、世界という単位の前にしては小さな個でしかなかった。
それはギルガメッシュだろうと同じだ。
今の士郎の目から見たら、確かに美由希や恭也に比してその圧倒的な存在感は強大ではあるが、それだけだった。
生も死も超克した、世界そのものと一つになった今の高町士郎にしてみれば、何を恐れることがあろうか。
今の彼には、どうすればギルガメッシュを殺せるのかが解る。
いや、より正しくには彼がギルガメッシュを殺そうとした意志が、その世界の法則となって結果を導くのだ。
押し寄せる魔弾などどれほどのこともない。
現に最初に弾き飛ばしたそれ以外は、彼のいた位置を通り過ぎて虚空の果てへと消え去っていた。
回避するだけでは英雄王へと近づくことすらできないが、それはまだその時ではないというだけのこと。
その時がくれば――
突然、士郎の背後で黒い魔物が現れた。
「――――!?」
「――――!?」
美由希と恭也は声もなくそれを見た。
魔物と見えたのは、波濤だ。
それはまるで暗黒の怪物が立ち上がったかのようであった。
突如として生じたそれが、最初の魔剣が海に落ちた時の衝撃によるものであるということに、遂に二人は気づかなかった。
いや、二人だけでなくギルガメッシュですらもそのタイミングで波が現れるなどということは察知しえなかったのである。
「―――――!」
万分の一、億分の一あるか否かの、集中力の途切れというにはあまりにも儚い微かな刹那の刻。
本来、虚を突かれるなどということのない僅かな瞬間。
奇跡の如き――いや、それこそがまさに奇跡なのだろう。
高町士郎は波に押されるようにして――跳んだ。
ギルガメッシュの射撃も、それを弾き飛ばす拍子も、落ちた魔弾によって生じる波濤も。
それが、このタイミングで起きることも。
全てが士郎の認知の範囲内での、今の目的を果たすために起きるべくして起きたことだった。
世界の一部である士郎にとって、相手を殺すということは容易いことだ。
あるべき時に動き、あるべき場所に刃を打ち込めばいいだけのことだ。
全ての存在は、生まれた時より滅ぶことが宿命づけられている。
〝根源〟に直結した彼が望めば、全ての存在が滅ぶべき時間、死すべき急所を把握することができるのだ。
機会を計って相手の隙を突く、急所を突く、――言葉にすればそれだけのことであり、その究極ともいうべき技。
歴代の御神の剣士がかつて望み、微かにその糸口に辿り着くことしかできなかった領域。
斬、貫、徹、の先にある、ただ倒す相手を見定め、その刃を疾らせるだけで必ず命を奪う境地。
―――閃―――
暗黒の波濤の後押しを得ての夜空への跳躍のさなか、士郎は確かに英雄王の体に走る死の線ともいうべきモノを観た。
そこをなぞれば、ギルガメッシュは死ぬ。そして、それは今や避けえぬ運命となった!
振り下ろされる八景の軌跡を阻むものなど最早ありえず、あらかじめそこに刃が入り込むのが決まっていたかのように、吸い込まれるかのように刃は閃く。
それが、森羅万象を貫く大原理であるかの如く――!
だが、知るがいい、剣の聖者よ。
道理(ルール)は無理に蹴っ飛ばされる。
この世にはかつて、世界に挑み無理を押し通そうとした者たちがいたことを。
宿命に抗い、己を貫こうとした者たちがいたことを。
世界に対して我が侭を貫いた者たちがいたことを。
彼らこそ英雄(ヒーロー)。
ただ一つの個にして、巨大なる世界に対峙する魂の持ち主たち。
その頂点たる英雄王が、やわか世界の端末如きに、容易く遅れをとることなどありえないのだと――。
「――――――!?」
刃が届くまであと二メートルという場所で、士郎はありえざることに空中に固定された。
いつの間にか全身を縛り付けている――それは、鎖だ。
何処からか伸びて、絡み付いていた。
――天の鎖(エルキドゥ)――
彼はそれの名前を知らなかった。
かつて世界より生み出された抑止の使者にして、英雄王のただ一人の朋友。
定められた宿命に抗い、己の望みのままにギルガメッシュを助け、共に戦った――紛れもない英雄の名を。
その名を冠せられた宝具の銘を。
仮に道具であれど、エルキドゥの名を与えられたそれが、例え世界そのものが相手だろうと朋友の敵を見逃そうはずがない。
やがて。
ギルガメッシュは顔を上げた。
夜の中でなお鮮やかなその真紅の目は、黄昏よりも昏く、血の流れよりも赤い――。
口元は邪悪にも見える歪み――笑みが浮かんでいた。
そして。
その手にあるのは。
いつの間にかいつものライダースーツではなく、下半身を黄金の戦装束に、上半身を裸となっていた英雄王のその手にあるものは。
(――――――!?)
今の高町士郎は世界の一部だ。生も死も超克した存在のはずだ。
それなのに、その背筋が震えた。
あるはずのない戦慄が駆け抜けた。
大地をどれほどに穿とうとも地球を割ることなどできはしない。
海の水をどれほどに汲み上げようとも大海が尽きることなどありえない。
だが。
その手にあって、赤黒く捩れた剣のようなソレは――
それこそは、始まりにあって終末を作り出せしモノ。
天も次元も突破する、世界を切り裂く螺旋の力――
――乖離剣エア
英雄王はそれを脇構えにも似た態勢から。
本来ありうるべくことではない、ただ一人の人間に向けて。
振りぬいた。
◆ ◆ ◆
散り散りになった鎖が、雨のように砂浜に散らばった。
◆ ◆ ◆
ざくり、という足音が耳に届き、士郎の意識が戻った。
(……どうなった?)
背中に感じる乾いた砂の感触。赤い何かが視界に生じたかと思った瞬間に、全身を襲う衝撃を感じたのを覚えている。足は、動かない。両手にあるのは、それでも離さなかった愛刀・八景。
ざくり、という足音が近づいてくる。士郎は顔を上げようとしたが、それもできなかった。全身の筋肉がズタズタになっているような気がした。内部に意識を集中しようとしても、それすらできない。
ざくり、という足音が止まった。視界の昏さがやや濃くなった。自分を前にして立ち止まった英雄王がいるのだと理解できている。手にあるのは、多分、あの剣のようなナニカだ。
(結局、あの一撃で全てが終わったのか)
赤黒く捻れたそれが、果たして剣と呼ぶべきものであったのか、士郎にも解らない。
ただ、その真価は発揮されずして彼如きを相手にするには充分に過ぎたのは確かだ。
そう。
士郎には解っていた。
あの時の、あの、自分に向けられた魔風の衝撃などは、本来のアレの全力の威力からはほど遠いということを。
たかだか二メートルの距離を置いて固定されている相手へ本来のアレを向けたのならば、こんな程度のダメージではすまなかったはずだ。
こんな程度――恐らく筋肉のほとんどが傷み、骨という骨に亀裂が入っているが。
恐らくは本当のアレの全力であったのならば、自分などは塵芥と化して原型など留めず消滅していたに違いない。
手加減、というよりも。
ただ軽く撫でたというのが正解だろう。
あれは自分などのようなただの人間に向けて使うものではない。
ただ、世界の一部となった自分に対して使うのはアレしかなかった――のだろう。そう思う。
アレは世界を壊せるモノなのだ。
少なくともその概念によって、自分を動かしていたあの感覚は打ち崩された。しかし、不本意だったに違いあるまい。かの英雄王の矜持からしてみれば、人間如きを相手に対してのあれは、牛刀で鶏首を刎ねるよりもなお過剰な行為であったろう。
しかし。
あえてそれを行ったということは。
ただ粉砕するだけならば他の手段もあったろうに、こうして原型を留めたように打ち倒したのはどうしてか。
「……我を殺すと言ったな」
「はい」
かろうじて、声が出せた。全身は動かせず、くびから上だけはなんとか動く。これが意図した結果だとすれば絶妙の力加減だと思った。
「即答を許す。――いかなる理由を以って我に挑んだ?」
そう。
今のギルガメッシュは、それを聞くためだけに高町士郎を生かしていたのだった。
ただの愚昧ならば捨て置いただろう。
ただの戦士ならば、やはり殺しただろう。
生かそうと決めたのは、士郎が直結したからだ。
――直結、とギルガメッシュは呼んでいたが、つまりは世界との強固な接続によって世界の一部と化したことをさしている。
世界の一部であるということは、世界の全てを生み出している〝 〟にも繋がるということである。
ただの数秒、数分の間だけそこに至るということは実は人類の歴史からすればそう珍しいことではない。
名人とも達人とも言われている者たちならば、日常的にそこに至れることも可能だ。
ただ、その感覚をあそこまで強烈に持ち、保持し続けることは聖人や仙人などのそれこそ選ばれた器を用意して生まれた者たちのみに可能なことなのである。
高町士郎は達人の領域にあれど、それほどの戦士とか人間とかを遥かに超越したところにまで至るような器ではない。
だが、常に例外がある。
時にあるのだ。
平凡な少女が大国の軍勢を打ち破る将となるような。
足手まといでしかなかった小物が戦場で鬼神の如き働きを見せるかのような。
歴史――世界そのものが、何かの意志を以っているかのように無名の人物を突き動かすのである。
先ほどまでの士郎がそうであったのは、まず間違いない。
ならば理由はあるはずだ。
世界が後押しして、この英雄王に立ち向かわせるほどの「理由」が――。
士郎はしばし逡巡したが、気力体力ともに尽きかけたこの状態でギルガメッシュの問いに抗えるはずもない。
一言。
「なのはの、ために」
と言った。
最終更新:2010年05月18日 23:22