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なのははその時、父と兄と姉の姿もなくなっていることに気づかなかった。
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海鳴の夜道を歩くのは、久しぶりだった。
いつもは彼はこの町にきて、適当に遊んでからホテルに入る。
遊ぶというのは釣りだのゲームセンターだのだが、つくづく人のすることはくだらないなと彼は思っている。
そして、そんな人のくだらなさを彼は愛していた。
近頃はそれでも少し飽きてきたが……。
もっとも、それと彼が今、この海岸線沿いの夜道を一人歩いているということには繋がりはない。
愉快なことがあったのである。
あるいは、現世に還ってから、もっとも楽しいことであったのかも知れぬ。
『お友達ができました!』
とるにたらぬ小娘であった。
とるにたらぬと思っていたが、まっすぐに彼を見上げるその眼差しの強さ、そこから窺い知れる魂の勁(つよ)さ――思い出すと、口元が綻ぶ。
「子どもはよいな」
呟いた。
声は出て行く端から闇に溶けていったが。
「そうですか」
返答があった。
後ろ――彼の背中の方向、十五メートルほどのところから聞こえた声だった。
彼は足を止めたが、「ふん」と鼻を鳴らしてからまた歩き出す。
「子どもはよいぞ。未だ何者にもなっていない。先が見えぬというのは、よい」
「……はい」
声との距離は変わらない。
だが、彼は歩きながらである。ならばその声の主もそうしているはずだった。しかし、夜道に響く足音は彼のものだけだ。
そのことに彼は気づいているはずであるが――さして気に留めるほどのことではないらしい。
平然と夜を歩いている。
歩きながら声を出している。
「それでも、とおかそこらで器のほどはたいがい知れるが」
「……はい」
「なかなか、器量のとおりに生きられる者というのも少ない」
「……はい」
「いつの間にか、くだらぬ大人になり果てているものであるが」
「……はい」
彼は足を止め、振り返った。
赤い瞳は闇夜を見通すのか、まっすぐに視線はその先にいる者の姿を射抜いていた。
「貴様の娘は、少しばかり違ったところに辿りつくやもしれん」
「はい」
かつり、と初めて足音がした。
その時になって、距離は変わっていないのに、男の輪郭が夜の中に生じた。
黒い男であった。
黒い装束を身に纏い、黒鞘の小太刀を両手に持つ。
闇の中から、闇が浮かび上がったかのようであった。
「――――ふん」
突然、闇の中に火花が生まれた。
それは彼が細身の剣を打ち振ったからであり、その刃の軌跡と交差した別の刃があったからであった。
だが、その刃は何処から生じ、何処にあったのか。
夜の下、闇の中、彼に対峙しているのは一人だけであり、その位置は遠い。
十五メートル――それだけの空間を超えて攻撃を仕掛けるには、小太刀では遠きに過ぎる。手裏剣であってもその有効距離はせいぜいが五メートルから六メートルほどだ。拳銃ですらも十メートルと離れたのなら的に当てることすらおぼつかない。
まして、彼に向かうその男は、小太刀を持つ手を動かしてさえいない。
いや。
彼と男は、同時に同じ方向を、海岸とは逆の方を見た。
「美由希」
「――ごめんなさい」
闇の中から姿を現したのは、男と同様の姿をした少女である。
まだ十代の後半という程度の歳のその娘は、しかしつい数十分前まで翠屋で彼を歓待していたはずだ。
貸しきり状態の店の中で、酌婦代わりというわけでもなかったが、彼が用意したり買わせたジュースやお茶を、甲斐甲斐しく皆の中身が飽いたコップに注いで継ぎ足していたのである。
高町美由希――
いや、それを言うのならば彼の目の前に立つ男も、店の中で静かに娘や息子たちと共に話を聞いていたのではなかったか。
翠屋にいた時と同じく、だが、全く違う静かな面持ちで、その男――
高町士郎は、佇んでいた。
言った。
「手は出すなと言ったはずだ」
「だけど……」
「何故止めなかった、恭也」
声は美由希を素通りして、その後ろにある闇へと投げかけられる。
闇は士郎の声を吸い込み。やがて木霊のように答えは返った。
「そいつは、異常だ」
そいつとは、誰のことか。
士郎は瞼を伏せ、美由希はびくりと震え、彼は――
「ほう」
と笑った。
「美由希は何も間違っていない。仕掛けたのはそいつの気が親父に向けられた瞬間で、鋼糸を打ち込む時に気の乱れもさせなかった。完全に意識の外からの攻撃だ。あんなものは生半な人間には受けられない」
闇は闇のまま、声は続いた。
「俺でも、あのタイミングでは難しい。親父や美紗斗さんならば、あるいは――だが、そいつは初見で応じた」
かつん、と音がした。
「そして何よりも、その剣は何だ? 目を凝らしていた。神速を使いながら見ていた。それでも、見えなかったぞ。その剣は何処に持っていた? いや、何処から出たんだ?」
彼の笑みが深まった。その端正な顔に浮かんだそれもまたある種の芸術品であるかのようだった。その表情を一枚絵として残せた画聖がいたとするのなら、タイトルには【美しい悪魔の微笑み】とでも刻んだかもしれない。
「天叢雲之剣と云う」
剣を目の前にかざし、言った。
「貴様らもよく知るはずの剣だ。この島国に降り立った神が、蛇と戦いながらその尾の中より見出したという神剣――後の世の倭建命が使って草を刈って火伏せを成したことより草薙之剣とも呼ばれている」
それは日本人ならば誰もがとは言わないが、多くの人間が一度は耳にしたであろう神話の物語の一部であり、彼の手にあるのは、その中で語られていたという伝説の剣の名前だ。
しかし、その剣が今何処にあるのかということについては――
「草薙之剣は、熱田神宮に納められているはずよ。皇族とその関係者でさえも重要な祭祀がある時でなければ視ることすらできないといわれているわ。もっと言えば、剣の本体は壇ノ浦の合戦の時に平家滅亡と共に身を沈めた安徳天皇と一緒に海へと沈み、見つからなかった」
美由希が、精一杯の勇気をかき集めて言う。
彼女は読書家であり、日本神話のような比較的知られているような物語から、その中で登場した神剣がどういう顛末を迎えたのかも知っていた。
その彼女の知識からすれば、彼の持つ剣が天叢雲之剣などということはありえぬ話である。
ならば彼の手にあるモノはニセモノのはずなのである。
そして、美由希はそれが決してニセモノなどではないということも解っていた。
ひと目見て、解る。
あれは、ホンモノだ。
骨董やら器物の氏素性を見抜く眼力を持ち合わせてなどいないが――
この場にいる高町家の面々にも、それはホンモノだと問答無用で解らせる何かがその剣にはあった。
「そうだな」
と彼はまったく抵抗なく美由希の言葉を受け入れる。
意外なまでにあっさりと、しかし口元に浮かぶ笑みは消えてはいない。
「この剣は、正確には天叢雲之剣とは違う――その原型となったモノだ。今の我の手にある段階では無銘の剣に過ぎぬが」
「それは……」
どういう意味なのか。
彼の言っている言葉の内容の半分も美由希には解らなかった。恐らくは他の誰でもがそうだろう。高町家は現代社会の影を知る者たちであるが、より濃く深い闇の中、神秘の領域などはたまに垣間見るだけだ。それは彼らが健全で聡明であることも意味していた。
好き好んで魔性と拘ろうとするモノは、愚者というに足る。
そして、彼らは今、この夜、まさにその愚者の列の中に入ろうかとしていたのである。
彼は、ギルさんと高町家の面々が呼んでいた男は、その手に持つ剣を下げたままで士郎に向き直った。
「本来ならば、我に刃を向けた者など塵芥となるまで粉砕してくれるところだが、今宵は機嫌がよい。そして、貴様らはその関係者だ。よい。即答を許す。申せ、何ゆえに我の前に立った」
ここで答える必要などない。
文字通りに問答無用とばかりに無言で飛針を打ち、鋼糸を投げ、小太刀で斬る――それが実戦剣法たる御神の、不破の剣の身上だ。得体の知れぬ相手に対して言葉を交わす必要などあるはずもない。
だが、高町士郎はそうしなかった。
「ギルさん……いや、ギルガメッシュ、貴方は何者だ?」
まっすぐに、士郎はギルを、ギルガメッシュを見ていた。
最終更新:2009年10月05日 06:51