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ベルギーの歴史年表

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紀元前60年 ローマで第一回三頭政治(=ポンペイウス・クラッスス・カエサルによって行われた私的盟約による政治)が行われる。カエサルはガリアを遠征。
紀元前57年 カエサルのローマ軍によって征服される→ガリア・ベルジカという名前のローマ領に。
紀元後431年 ローマ帝国衰退。フランク族がやってきて占領。
481年 フランク王国のメロヴィング朝の首都がベルギー地方のトゥルレーに置かれる。
751年 メロヴィング朝の宮宰(=”家政の長官”の意味で行政・財政面の長)であったカール・マルテルの息子ピピンがメロヴィング朝を廃しカロリング朝を作り、ピピンの息子、シャルルマーニュ(=カール大帝)がフランク王となる。
   ヴェルダン条約(843年)・メルセン条約(870年)によってシャルルマーニュの3人の息子にフランク王国は3分割される。
   ベルギー地方は西フランク、中フランクに分割された。
850年頃 ノルマン人の大移動!ベルギー地方でもその脅威からたくさんの封建国家が生まれた。
1396年 ブルゴーニュ公国がベルギー地方を統一。現在のベルギーの首都ブラッセルが栄える。
1400年頃 ブルゴーニュ公の息子フィリップ善良公のころ、全盛期となり文化が発達する。ファン・アイク兄弟・ブリューゲル・ヴァンダイク・ルーベンスなどが活躍し、フランデレン芸術とよばれた。また、フランドル・ゴシック様式建築も誕生。
1477年 フィリップの息子シャルル勇胆公の死で家系が断絶。シャルルの娘マリーの婚姻によりネーデルランド(低地地方の意。ベルギーやオランダを指す)はオーストリア=ハプスブルク家領に。
1516年 マリーの息子フィリップ・ル・ボーがスペインの王位継承者と結婚。スペイン王の地位を得る。ネーデルランドはスペイン=ハプスブルク家領となる。
1519年 フィリップの息子はスペイン王カルロス1世はカール5世として神聖ローマ皇帝にもなる。「陽の沈むことのない帝国」の領主に。芸術や科学、文化が発達する(エラスムス・メルカトールなど)
1549年 アウグスブルグ条約、基本法勅令により、神聖ローマ帝国の中で独立主権と国家の地位を与えられネーデルランドは主権を持つ統一国家となる。
1568年 スペイン王フェリペ2世の重税・新教徒弾圧により、市民が反発。ネーデルランドの独立運動開始。ネーデルランドの南部10州が独立戦争から脱落。この10州がのちのベルギーとなる。(スペイン領ネーデルランドのまま・・・)
1579年 ネーデルランド北部7州がユトレヒト同盟として対スペイン軍事同盟を結成1581年には独立を宣言し、ネーデルラント連邦共和国が成立。1609年、スペインと休戦条約が結ばれ独立を達成。1648年のウェストミンスター憲章によりスペインは、オランダ連邦共和国の独立を承認。
1702年 スペイン王カルロス2世の死後、フランスとオーストリアとでスペイン領ネーデルランド割譲先を巡りスペイン継承戦争が勃発。
1713年 ユトレヒト条約によってスペイン領ネーデルランドはオーストリア=ハプスブルグの手に。
1790年 フランス革命勃発を受け、オーストリア領ネーデルランドもオーストリアに対抗する為ベルギー合州国として独立を宣言。しかしオーストリアに制圧される。
1795年 オーストリアとの戦争に勝ったフランスは、オーストリア領ネーデルランド(=ベルギー)を解放したが、弾圧を受けることとなる。
1815年 ワーテルローの戦いでナポレオン敗北。ウィーン会議でベルギーはオラニエ公ウィレム1世のオランダ王国に。
1830年8月25日 音楽革命。オベール作曲の”La Muette de Portici”(ポルティチの聾唖者)が劇場で上演されると、民衆は立ち上がり革命に!
10月4日 ベルギー暫定政府が樹立
1831年7月21日 国民議会によってベルギー国王としてレオポルド1世が就任。レオポルド2世の時代、植民地としてコンゴを手に入れる。
1914年 第1次世界大戦。戦後、ベルギーの大部分の地域は厳しいドイツ占領下に置かれた。
1939年 第2次世界大戦。ドイツはベルギーとオランダを攻め、レオポルド3世率いるベルギー政府はイギリスに亡命。
1944年 連合勢力がベルギーを解放。
1951年 国王はレオポルド3世の息子ボードワンに。
1958年 ヨーロッパ共同体(EEC(現EU))の本部がブリュッセルにおかれる。
1967年 北大西洋条約機構(NATO)の本部がブリュッセルにおかれる。
1993年 ボードワン国王逝去。弟のアルベール2世が現国王。
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