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パレスチナ問題の発端は、中東での覇権をめざしたイギリスの態度である。まず、19世紀の終わりごろから、イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しようという考えがユダヤ人の間で広まり、シオニズム運動となり、1897年にはシオニスト会議まで開かれていた。シオニスト会議では、約2000年前、パレスチナに存在した「ユダヤ国家」の再建を目指そうとする考えが出されていた。しかし、その約2000年の間に、当然パレスチナには別の人々(パレスチナ人)が住んでおり、この争いが始まることとなった。イギリスは第一次世界大戦で、オスマントルコとたたかい、戦争を有利に進めるために「三枚舌」外交を行なった。アラブ人には、1915年、パレスチナを含むアラブ国家の独立を認め(フセイン=マクマホン書簡)、フランスとの間では、1916年、戦後の中東を両国で分割する密約(サイクス=ピコ協定)を結び、ユダヤ人に対しても、1917年、パレスチナでの「民族的郷土」の建設を支援する約束したのだ(バルフォア宣言)。このことは1917年ロシア革命の際にレーニンに公表され、公となった。バルフォア宣言に基づき、1918年ごろからユダヤ人はパレスチナに対する移民を強化し、ユダヤ人の人口は大幅に増加した。初めはユダヤ人を暖かく受け入れたパレスチナ人やアラブ人であったが、ユダヤ人は彼らを劣等とみなし、彼らを牛耳り始めたのである。1920年、イギリスがパレスチナの委任統治権を得ると、アラブ人もユダヤ人もこれに反発し、イギリスに対してテロを起こすようになった。1947年、イギリスから国連へ委ねられたこの問題に対し、国連はパレスチナ分割案を可決した。しかしこの案はユダヤ人が人口が全体に対して3分の1であり、土地も5-8%しか所有していないのにも関わらず、ユダヤ人に55%もの土地を与えるというパレスチナ人やアラブ人にとっては不利な内容であった。1948年、アメリカ・ソ連の援助のもとでイスラエルは建国し、それと同時に第一次中東戦争が始まった。1949年一時休戦となるが、1952年、エジプト革命が起こり王政から共和制となった。1956年エジプトがスエズ運河国有化を宣言し、これを阻止するためにイスラエル軍がエジプトのシナイ半島へ侵攻し、スエズ動乱(第二次中東戦争)となった。途中、イギリス・フランスも参戦したが、ソ連の圧力により撤退、1957年イスラエル軍もアメリカの圧力で撤退し、実質的にはそれまでのイギリス・フランスからアメリカとソ連が中東の主導権を握るようになった。1964年、アラブ諸国によって領土なき国家・PLOパレスチナ解放機構を結成。


1967年、第三次中東戦争(イスラエルをアメリカが支援、アラブをソ連が支援。イスラエルはエルサレム・ガザ地区・シナイ半島・ヨルダン川西岸・ゴラン高原を占領。)1973年PLOがパレスチナ唯一の合法的代表だと承認される1974年、国連のオブサーバーの地位へ…PLOは準国家機関として承認された1987インティファーダ1988パレスチナ独立国家宣言