弥永 家子プロローグ


弥永 家子(やなが いえこ)は夢を見る。
夢の中の彼女はとても愛らしい少女の姿をしている。
目の前には笑顔の白田君がいて彼女の手を引っ張る。
見上げた空は雲一つ無い青空だ。太陽が眩しくて少し暑い。
夏服の袖で汗を拭い、白田君と手を繋いで一緒に走る。これからどこへ行くのだろうか。きっと、とても楽しいところに違いない。
願わくば、この夢が。
もっと長く続きますよう――。



弥永 家子は目を覚ました。
周囲はまだ真っ暗だ。手元のリモコンで明かりをつけて時計を見る。時刻は朝の3時。眠っていたのは一時間ほど。いつもの通りだ。
もそもそと体を起こし、服を着替えて、部屋を出る。妹を起こさないようにゆっくりとした動きで階段を降り、洗面所で毛並みを整えて家を出る。
庭に止めてある専用の自転車、イェーガー号のスタンドをガコンと蹴って起こし、サドルに腰かけ、勢いよくペダルを回す。全長2メートルを超す巨大な車体が動き出す。

――さあ、今日も駆け出そう。

まだ夜が明けない町を、銀色の二輪とその上に跨る白い巨体が風のように駆けていく。

「おや、家子ちゃん、おはよう。今日も頑張るねえ」

時刻は朝の5時。
既に夜明けを迎え、イェーガー号はこの町の半分以上を既に回り終えていた。

「オハーーヨウーー、ハイ、シン――ブンーー」

いつも彼女を笑顔で迎えるお婆さんへ、家子もいつものように挨拶を返し、丸められた新聞紙を手渡した。

「ありがとう。はい、これ。いつものお礼だよ」

お婆さんは新聞紙を受け取ると、手に持った新巻鮭を家子に手渡した。

「アーーリーーガトーーウ」

家子も精一杯口を動かして、お礼をいう。

「この後も頑張ってね」

家子は手を振って答え、お婆さんの家を後にする。
新聞を配る家はまだあと三分の一程度残っている。
家子は新巻鮭を空中へ放って口の中へ入れながら、イェーガー号に積まれた残りの新聞紙を手に取る。
そして電光石化の如く、道に並ぶ家の郵便受けへ、次々と新聞を投げ入れながらまた風のように走るのであった――。



「あ、お姉ちゃん。おはよう――」

朝6時。
家に帰った家子を妹の弓子(ゆみこ)が出迎える。
食卓には弓子が用意した朝食が並べられている。暖かい味噌汁、ほかほかの白いご飯、そして――巨大な冷凍マグロ。
家子は巨大な椅子に腰かけ、それぞれに腕を伸ばす。味噌汁に口を付け、ご飯をお椀ごと持ち上げて口に運び、マグロをバリバリと齧る。
弓子の味付けはいつもの如く絶品だ。

「お姉ちゃん、じゃあ私、朝練あるから先に行くね――」

せわしなく食事する家子とは対照的に、弓子は綺麗に皿を片付けると、席を立った。

「お弁当、いつものところに置いてあるから、今日はより一層腕を込めて作ったよ」

家子は、腕まくりをしながら外へ出た弓子の背を見送ると、食器を片付け、食卓を後にする。
そして弓子が用意した、家子用の特性巨大弁当箱を手に持った。
腕によりをかけたとは何だろう――。家子は思いを馳せるが、それはお昼までの楽しみに取っておくことにした。

弁当箱を抱え、時計を見る。
部活をしていない家子は、学校へ行くまでまだ時間がある。
昨日眠る前に途中まで読んでいた少女漫画の続きでも読もうかと、家子は再び自分の部屋へと戻った。



「おはよう、家子。今日も一番乗りかーーー」

朝の8時15分。
家子が教室で朝の掃除をしていると、彼女の親友である氷堂 萌華(ひょうどう もえか)が威勢良く声をかけてきた。

<<萌華の方こそ、早い>>

家子はその萌華に向かい、手持ちのタブレットに素早く文字を打ち込んで、返事をする。

「あははっ、そりゃあたしは剣道部の朝練あるもの。でも家子はもう少しゆっくりでもいいんじゃない? ほら――」

萌華は、家子専用の大きな机から少し離れ、隣にある机の近くに行って呟いた。

白田(しろた)君と一緒に登校すればいいのに」

笑顔を向ける萌華に対して、家子は再びメッセージを返した。

<<私と一緒に登校すると、目立つから>>



「お、おはようっ! みんな-!」

8時57分。
始業開始直前にガラリとドアを開けて滑り込んできた一人の少年。

「おはよう、てか、遅いわ」

「い、いや……。それがさ、なんか荷物抱えたおばあちゃんがいて、運んであげたり、あとなんかモヒカン頭の不良どもが暴れているのを止めたり、あと道端で急に倒れこんだ女の子がいてね、病院に運んであげたりとかしてたから……」

「全部、言い訳でないのが相変わらず恐ろしいね」

「と、とにかく間に合って良かった……」

息を切らせ、少年は席に着く。

「こりゃー、家子も確かに一緒に登校はしない方がいいかもねー……」

萌華はそんな彼を微笑ましく見つめる。
その少年は一息つくと、その端正な顔立ちを少し離れて座る家子へと向けて、言った。

「おはよう、家子ちゃん」

家子もまたタブレットを向けて、返す。

<<おはよう、白田君>>



朝の9時。
始業ベルが鳴り、家子達のクラスの担任の女教師が教室に入って、始業の挨拶を行う。
全員の出席を取った後、重々しい雰囲気で女教師は口を開いた。

「突然だが、重大な話がある。昨晩、学校でちょっとした事件があってな」

教室内が張りつめた空気に変わる。
何の話か、また最近勃発しているという、突如昏睡状態になるという生徒の話なのか、生徒たちは様々な思いを張り巡らせるが、女教師の口から出たのは意外な言葉だった。

「昨日の夜、購買部の地下倉庫に盗難が入ったらしい。調達部が仕入れた取っときの北海道産タラバ蟹、北極産ペンギンの燻製肉、シベリア産サーモン等々……、新鮮な食材がごっそり無くなっていたそうだ」

ざわざわ……

教室内が騒がしくなる。
全て今度の文化祭のイベント用にと調達部が気合いを入れ、危険な超生物達が跳梁跋扈する地帯へと赴いて、ようやく得られた大切な食材達だ。
一体誰がそんなことを……しかもそんな大量の食材を一晩の内に運び去るなどどいう芸当、並の人間、魔人にできるはずがない。

「倉庫内の食材だが……外に運び去られたのは一部ではないかという話だ。多くは倉庫内でそのまま姿を消したらしい。そんな大量の食材を運べば目立つからな。食材の一部が倉庫内に散乱しており、生のままで一気に食べたのではないか……と現場を見た人間は言っている」

ざわざわざわざわざわっ…………

教室内の喧騒がより一層激しさを増す。
倉庫内にあった大量の新鮮な蟹や魚等の肉を一気にその場で食すことのできる犯人。
彼らは一人だけ、その人物に心当たりがある。皆の視線が一箇所に集まる。
が、一つの声がそれを遮った。

「ちょっと、みんな! それだけで家子を疑うの?」

氷堂萌華だ。
彼女は立ち上がって、皆を一瞥しながら声を上げる。

「家子がそんなことするわけないじゃない? 家子は普通の……とても優しい子だって皆知っているでしょう」
「そうだね、家子ちゃんがそんなことをするはずがない」

萌華に呼応し、家子の隣にいる白田も立ち上がって、彼女の擁護を始めた。
教室内の生徒たちもその様子を見て、意見を変え始める。そうだよねー。家子ちゃん、朝早く来て教室の掃除とかやってるしー。色々学園のボランティアとかしてるもんねー。家にも毎朝新聞届けてもらってるー。と皆、次々と彼女の良さを挙げていき、すっかり場の空気が変わった。

「そうだな。私も彼女を疑うつもりはない。今日は皆に昨晩何か変わったことがなかったか、それを聞きたい」

そうして、教室内の話題は昨晩の学校の様子に関することへと移り変わった。

「良かったね。家子ちゃん」

白田君が笑顔を家子に向ける。遠くの方では萌華もザムズアップして家子に応えている。
家子はそんな彼らの姿にとても胸が暖かくなるのを感じる。
が、同時に家子の脳裏に大きな疑問が沸く。一体食材を盗んだのは誰なのか。一晩の内に大量の海産物を一気に平らげるなど。

――確かに、自分ならできる。
自分は元来、雪山に住む生き物であるが、元々の人間だった時の嗜好が混ざり合ったせいか、生の魚や蟹、海産物などの肉がとても好みになっている。数百キロ程度あっても、一晩の内に食すなどはたやすいだろう……実際、みんなの前でそんなことをしてしまったこともある。(というか、調達部も私をイベントの何かに使う目的でそれらを仕入れたんじゃないだろうか)

まるで私に疑いの眼を向けたいかのような事件だ、と家子の中の冷静な部分が考えていた。幸い、その疑いは萌華と白田君が阻止してくれたけど。

何か良くないことがまだ起こりそうな予感がする。
家子の研ぎ澄まされた野生の勘の部分がそう告げていた――。



「家子、お昼食べよう」

正午。
昼休みのチャイムが鳴ると同時に、萌華が家子に昼食の誘いの声をかけた。

<<うん、いつもの場所で。白田君も一緒に>>

タブレットのメッセージで家子は返す。白田君もそれに応じる。

「あ、僕は今日購買部でパンを買ってから行くから、二人とも先に行ってて」
「了解ーー」

互いに会釈を交わし、廊下を出て別れる。
萌華と家子は二人、階段を並んで昇る。
家子がいるだけで大分目立つ格好なのだが、屋上のいつもの場所は三人専用のスペースであることが知れ渡っているので、三人の食事の邪魔をする者はいない。
こうして三人で食事をするようになったのはいつの頃からだったろうか。家子はふと過去を振り返る。
小学生の時、今の体に生まれ変わってすぐの頃は、彼女の傍にいてくれたのは家族と白田君だけだった。無理もないことと思う。
それが中学に入って萌華と出会った。自分と違って常に明るく、活発な彼女は、姿形から周囲に常に敬遠されていた自分の傍へ、何の気兼ねも無く近づいてきてくれた。
そして白田君の次に初めての友達になった。白田君ともすぐに仲良くなり、気が付けば二人だった世界が三人になり、やがて周りも家子を受け入れるようになっていき、世界は広がっていった。
そして高校は魔人学園であるこの希望崎学園に三人で入学することにした。少し怖かったけど、ここなら自分を受け入れてくれる土壌もある。流石にこの学園でも自分は少し目立つことは避けられないけど、萌華と白田君がいれば怖くない。

「ちょっと、家子! ちょっと!」

はっ、と萌華の声で家子は我に返った。

「どうしたの一体?」
「アーーーーウン―――」

思わず呻き声をあげる。考え込んでいる内にいつの間にか屋上まで来ていたらしい。

<<ごめん、ちょっと考え事してた>>

家子はとっさにタブレットに文字を打ち込んで言い訳をする。

「変なの」

萌華はふふっと笑い、いつもの場所へと向かう。
悪いことをしたな、と家子は手で自分の頭を打つ。結局何を考えていたんだっけ、そうそう。いつから三人で食事をするようになったか、か。
あまりに自然なことだったようで、もう思い出せないな――と思い、家子は萌華の背中を追った。

「さて、家子。今日は腕によりをかけて作ったんだよ!」

萌華が弁当箱を取り出す。
萌華は料理の腕も良い。この姿になって満足に包丁も握れなくなった家子にはただただ羨ましい限りである。

<<本当? 奇遇ね。弓子も今日は腕によりをかけたって言ってた>>

家子もまた腕に抱えた特製巨大弁当箱を置く。
正直、これは恥ずかしく思うことも多いが、仕方がない。萌華も白田君も気にしないのが本当に救いである。

「本当!? じゃあ先にそっちを見せてもらおっかなー。弓子ちゃん、今日は何を用意したんだろう」

萌華は家子の家に遊びに来ることも多いので、弓子とも顔見知りであり、仲も良い。料理の話なども良くしている。

「ウン。ター―ノーーシ――ミ――」

家子はもうタブレットを使わずに呟き、弁当箱をカパッと開けた。
すると――

「え……、こ……これ……」

萌華の口から驚きの声が上がる。
その弁当箱には、巨大な北海道産タラバ蟹、北極産ペンギンの燻製肉、シベリア産サーモンの活け造りなどが並んでいた。
いずれも常人には容易に取得不可能なもの……危険地域でのみ調達可能な希少食材達である。

「ナ……ナンデ……」

家子もあまりのことに弁当箱の蓋を持ち上げたまま動きが止まる。
何故、弓子がこの食材を持っていたのか。何故自分の弁箱箱にこれが入っているのか。
訳が分からないまま立ち尽くす彼女たちの背後へ、一つの影が姿を現した。

「やはり、そういうことだったでござるな、弥永家子!」

驚き、振り向く彼女たちの前に立ったのは、研ぎ澄まされた新潟産和包丁を握り、純白の調理人衣装に身を包んだ一人の少女!

「拙者、調理部二年、三条 鷹美(さんじょう たかみ)!! その食材は全て某が調達してきたものに相違ない!」

己の名前を高らかに名乗ったその少女は、ビシッ!と手に持つ包丁の切っ先を家子に向けて告げた。

「調達部で情報収集した結果、やはり今回の事件でこの校内で一番怪しいのは弥永家子殿、あなただと結論が出た。ゆえにこうして常にあなたの動向はマークさせていただいていた」

鷹美はその後、悲しげに俯きながらも言葉を続ける。

「しかし弥永殿の性格は私も良く知っている。疑いたくは無かった……できれば自らの手で潔白を証明したかった……」

が、次の瞬間、鷹美は素早く家子の前に迫り、その手を掴んだ。

「だが、こうして証拠品が出てきてしまった以上、もはや言い逃れの余地は無し! 弥永殿!ここから先は調達部の部室で聞こう!」

「ま、待ってよ! これは何かの間違い……」

止めようとする萌華を、家子はしかしその長い手を伸ばして制止する。

「家子……」
「ダイ……ジョウブ……」

家子はそう言って、大人しく鷹美の指示に従う。

「潔し、弥永殿。では来てもらおう」

促す鷹美の後ろへと家子は従う。
家子は自分自身が潔白であることを知っている。だから、話せば分かってもらえるだろうと信じていた。

家子と鷹美が階段へと向かった後、その逆側から白田君が姿を現した。

「ごめん、ごめーん! 購買部混んでて遅れちゃった! あれ? 萌華ちゃん、どうしたの?」

事態をまだ知らぬ白田君は立ち尽くす萌華とその場にいない家子に気づき、訝しげに尋ねる。
萌華は地面にあった自分の弁当箱を拾って、答える。

「うん……場所を変えて話そうか。お昼どころじゃなくなっちゃったからね」

そう言って、萌華は白田君に見えないよう、自分の弁当箱をそっと開けてその中身を見つめた。

その弁当箱の中身は、空っぽであった……。



午後3時。
弥永 家子は希望崎学年の地下室の中で一人蹲っていた。
タブレットを介してしか満足に会話のできない家子と調達部のやり取りは困難を極めた。加えて何を聞かれても家子は知らぬ存ぜずである。
午後の授業の時間を使って行われた取り調べだったが、進展は何もなく、調達部の外から取り調べ能力を持つ魔人達が来るまで彼女の身柄は、四方を厳重に囲まれたこの部屋へと移された。
このままでは彼女を待つのはより過酷な拷問に近い取り調べである。それ自体は耐えられるだろうが……問題はこのまま進めばあの弁当を作った家子の妹にも捜査の手は及ぶ。
何より家子自身も妹の弓子があれをどこから手に入れたのかが気になっていた。妹が犯人のわけが無いが、真相は調達部より先に調べる必要がある。
それにはここを今の内に抜け出さないといけない。
家子は意を決した。

「うー、うー、苦しいーーー!! 助けて―!!」

地下室の外、見張り役であった三条 鷹美は突然聞こえた少女の悲鳴に驚いた。
何故!? この中にいる少女はろくに人語を話せない、そのような生き物となってしまった者のはず――。
地下室の小窓から中を覗き見る。するとそこには見慣れない制服姿の美少女が、確かに苦しげにのた打ち回っているではないか!
一体何が起こったのか!? 鷹美はすぐに地下室の鍵を開けて、中の少女を助け起こす。

「どうした!? 何があったのでござるか!? ここにいたイエ……巨大な生き物はどうしたでござる!?」
「わ、分からない……急に、ここに……」
「と、とにかく医務室へ連れていくでござる!」

鷹美は少女に肩を貸し、地下室を出て地上への階段を登る。
項垂れたまま彼女に連れられた少女は地上へ付くなり、

(ごめん――)

と心の中で呟く。
するとその姿が見る見るうちに巨体へと変わっていく。

「な……ななっ――」

突如の事に態勢を崩した鷹美は、更にその巨体から繰り出された素早い一撃によってたちまち気を失った。
気絶した鷹見の懐から、今しがた少女から姿を変えたばかりの巨躯――弥永 家子は自分のタブレットを取り出し、素早く外へと駆け出す。
希望崎学園から抜け出した彼女は、タブレットの連絡先から妹の名前を探し出した――。



「信じられない、家子ちゃんがそんなことをするはずがない」
「私だって、信じたくない、けど……」

午後4時。
希望崎学園の外の並木道。
氷堂 萌華と白田まさしは二人で並んで歩いていた。

「ねえ、白田君。白田君は家子のことをどうしてそこまで信じるの?」
「え……」
「白田君にとって、家子はなんなの?」
「……大切な人だよ」
「でも家子は、人じゃないよ?」
「萌華ちゃん?」

萌華は、白田と少し距離を置き、彼の眼を見つめながら話した。

「この先、本当にいつまでも家子と一緒にいられると思う? 仲良くし続けられる? 大人になっても」
「そんな先のことは分からないよ」
「ううん、分かるわよ。そんなの無理だって。いつか別れる時が来るって」

萌華は真剣な表情で語る。
白田君は戸惑いの表情を浮かべる。

「でも私は違うわ」
「も、萌華ちゃん……?」
「私ならいつまでも傍にいてあげられる。白田君の傍に……」

萌華の姿がゆっくりと白田君へと迫る。
その顔は心なしか上気しているように見える。白田君の眼も、その瞳へと吸い込まれていく……。

「モーーエーーカーーチャーーン」

その静寂を、一つの呻き声が遮った。
彼らの前に現れる白い巨体。

「家子ちゃん!」

我に返った白田君が呟く。

「ふうん……もう出てきたんだ。思ったより早かったな……」

その隣で、萌華は表情を歪め、家子の方を睨みつけた。

「ナーーーーンーーーーデーーーー」

家子は萌華に向かって叫ぶ。

「もう弓子ちゃんに聞いて知っているんでしょ? そう、彼女に盗んだ食材を渡したのは私。あなたを追い詰めるためにね」
「え、え? どういうこと?」

この場でただ一人、事情を飲み込めぬ白田君が右往左往する。

「どういうこともなにも……こういうことよっ!!」

萌華は懐からライターを取り出し、点火した炎で……己の身を燃やした!
紅蓮の炎が、たちまち彼女の身を包んでいく。

「消えな……家子っ!!」

萌華が腕を振りかざすと、巨大な火炎弾が放たれ、家子へと襲い掛かる。
家子はとっさに両腕で防ぐ。
大きな火花が、並木道に奔る。

「やるね……やっぱり一撃で消し炭とはいかないか」

一人ごちる萌華。

「も、萌華ちゃん……これは一体?」
「ああ、白田君には見せるの初めてだっけ。これがあたしの能力」

そう、これが氷堂 萌華の魔人能力『本能寺の変』である。時代劇好きな萌華が織田信長の本能寺での死に様に心底痺れた時に目覚めた能力だ。
その力は至ってシンプルな炎操作系能力である。炎が己の身を焦がしている間、自由にその炎を操ることができる。
ただし炎が全身を包んで数分も立つと萌華自身が焼死してしまう。命の危険を常に伴う能力だが、その分威力は並みの発火能力に比べて高い。加えて時代劇の影響で武道を嗜む萌華自身の戦闘能力も高く、完成された魔人能力となっている。

「こんな形で見せたくは無かったんだけどさ……」

言って萌華は顔を赤らめる。身を焦がす炎は既に制服の一部を溶かし、萌華の下着が見えかけてしまっている。まだ童貞の白田君には目の毒だ!

「さて、とっとと決着をつけるよ、家子」

萌華は家子の方を向き直し、再び炎を浴びせる。
家子はただ防戦一方だ。

「ナンデ?ナンデーー?」
「はん! 未だに喚くしかできないの? そんなんだから私は行動したのよ!」

激情の萌華はその勢いのまま、炎と己の心をぶつける。

「家子! あんたは白田君には相応しくない! だってあんたは――」

「イエティ、なんだから――!!」



弥永 家子は生まれつき体が弱かった。
寿命は十年持たないだろう、と生まれた時に言われていた。
だが、彼女の父、弥永 家次郎(やなが いえじろう)はその運命を受け入れなかった。何としても娘を生かしたかった。そんな彼が選んだのは彼女を世界で最も生命力の強い生き物へと生まれ変わらせることだった。
UMAハンターであった家次郎は、彼がこれまでに出会った中で最も強き者――ヒマラヤという過酷な極寒の環境でも生き延びる伝説の白い巨人、イエティの肉体を娘へと与えた。己の魔人能力によって。
奇跡的に、家子は新たな生命を得た。大きな代償と共に。

「化け物が! 消えろ!」

家子は今、そんな風に自分がこれまで生き延びてきたことを心底から後悔することとなっていた。
醜い姿となった後も彼女が前を向いて生きてこれたのは家族と、白田君と、そして目の前にいる少女、萌華のおかげであった。
その彼女が今、熱い炎と信じられない程の冷たい言葉を彼女に向けている。
それは過去に経験したどんな病の苦痛よりも彼女の心を蝕んでいた。

「どうしたの!? 何故反撃しない!」

萌華が吼える。
しかし、反撃などできない。できるわけがない。
彼女の言う通り、自分は化け物だ。これまで生きてきたことが間違いだったのだろう。
何より白田君と萌華の方がお似合いに決まっている。悔しい気持ちも起きないぐらい、当たり前の事実である。
萌華はどんな気持ちでこれまで自分と接していたのか。それが例え嘘偽りであったとしても、家子に恨む気持ちは無かった。こんな自分に温もりを与えてくれた少女--。
彼女を攻撃するなど自分にはできない。このままその炎にこの身を焼かれてしまえばいい。
だが――。

「くっ――しぶとい!!」

萌華がだんだんと息を切らす。
その強烈な炎がどれだけ浴びせられても、家子の体には小さな傷こそ増えていくものの、決定的なダメージにはならない。
彼女の父が世界最強と信じたイエティの鋼鉄の皮膚は生半可な衝撃では傷つけることなどできず、その白い体毛は、時には絶対零度にも達するというヒマラヤの極吹雪からもその身を守るのだ。いわんや、その真逆の灼熱をや。

「く、くそっ……」

萌華の息が切れていく。
その炎は既に彼女の全身を覆おうとしていた。このままもし能力を使い続ければ――。

「こうなったら、最後の一撃--!!」

萌華の全身が燃え上がり、巨大な紅蓮の火柱が天空へと立ち昇る。

(萌華――――!!)

それは野生の本能か、あるいは家子自身が萌華の想いを感じ取った故か。
瞬間、家子の身体は萌華へと向かって弾け飛んだ。

「――――!?」

家子は、その巨体で萌華に覆い被さった。
そして全身を白く輝かせる。
ヒマラヤの過酷な環境で生き抜くべく身に着けた能力として、イエティの体温は自在に調節可能である。マイナス200度にまで下げられた家子の皮膚が、萌華の炎を消していった。

「家子!?」
「モエカ……モーーーエーーーカーーー」
「……馬鹿ね」

家子の腕の中で萌華は微笑む。

「やっぱり貴方は――」

夕暮れが照らす中、二人の少女は抱き合ったたまま、暫く互いに身を預けていた……。



午後9時。

「ターーダーーイーーマーー」

弥永 家子は長い一日を終え、ようやく家へと帰ってきた。
あの後、三条 鷹美を含めた調達部の連中が駆けつけ、真相は全て明かされた。
萌華の姿はいつの間にか消えていたが、彼女の所持品から盗まれた食材のいくつかが発見され、彼女が真犯人であることが証明されたのだ。
なお大量の食材が消えたのは、彼女が己の能力でその場で消し炭にしたためである。誰かが食べ散らかしたかに見えるよう偽装した上で。
明らかに家子に疑いが向くその手口に三条鷹美などは厳しい罵倒の言葉を浴びせたが、家子はそれにもまた非常に心を痛めた。
その後取り調べの続き等、諸々の事務処理もあったため、家子の帰宅はすっかり遅くなってしまった。

「……?」

部屋が暗い。
家子は訝しげに思い、明かりをつける。そういえば弓子には電話で今日の弁当の食材についてを聞いたきりである。
あの後家にまだ帰っていないのだろうか? そう家子は不安に思ったが――。

「ユミ……コ」

弓子はいた。
明かりもつけず、机の上で突っ伏して泣いていた。

「ドウーーシーー」
「ごめん……なさい……ごめんなさい! お姉ちゃん! 私!」

わっと顔を上げて泣き出した弓子は、堰を切ったように彼女の知ることを話し始めた。

昨晩、萌華が突如弓子の元を訪れ、この食材を使って翌日の家子の弁当を作ってほしいとお願いしたこと。
そこまでは家子が既に聞いていた通りだったが、弓子はその時、その理由についても聞いていた。
すると、萌華は「弓子ちゃんには正直に話すね」と言って、その目的を告げていたのだった。



「まあ、泣いた赤鬼作戦っていうわけでもないけど」
「あの子、このままだといつまでたっても素直になれないどころか、いつかはやっぱり自分が悪い!って身を引いちゃいそうじゃない?」
「どこかで、誰かが無理やり背中を押して上げないとって思って」
「まあ、半分ぐらい本心でもあるんだけどね。私も白田君のこと、結構好きだし」
「だから、どこかで身を引かないとって……それでこんなバカなことしか考え付かなかった」
「ごめんなさいね。弓子ちゃんまでこんなことに巻き込んじゃって」



「アオオ……アオオ……」

家子は、ただ呻く。
弓子の口から告げられた萌華の想い。それはただ、彼女の心を穿つ。

「私、内緒にしてって言われたけど……こんな……こんなこと――」

弓子の顔も涙でくしゃくしゃになっている。
家子はたまらず、その場から走り去った。

「お姉ちゃん!」

家子はそのまま家を飛び出し、裏の山へと向かい、坂道を駆け登った。
ただ、ただ走りたかった。自分に湧き上がる激情のやり場が見つからなかった。

「アオオオオオオオオオオオーーーーーーーーーーーーーーー!!」

家子は、月に向かって吼えた。
それは本能的な行動なのか――。
白い氷の息を辺りに吐き散らし、裏山の木々を凍らせていく。
ジダバタと地団太を踏み鳴らし、激しい振動で大地を揺らす。
それでも家子の気持ちは静まらない。
怒り、悲しみ、嘆き、悔しみ、愛しみ、あらゆる感情が溢れ、白き巨体は大自然の中でその身を轟かせる。
どれ程の時が経ったのか――。やがて疲れ果てた家子は、ぐったりとして、その身を休めた。
しかしこの疲れもほんのわずかな眠りで消え果てる。
そんな我が身が今はとてつもなく恨めしい。
そんな思いと共に、家子の意識は闇に沈んでいった――。



弥永 家子(やなが いえこ)は夢を見る。
夢の中の彼女はとても愛らしい少女の姿をしている。
目の前には笑顔の白田君。
そして隣には、微笑んで彼女を見つめる萌華。
見上げた空は雲一つ無い青空だ。太陽が眩しくて少し暑い。
三人で笑いあい、とても楽しい話をしている。ほんの少し前にあった、けれどももう随分懐かしい光景。
家子は自分の小さな両手を二人に差し出す。二人は自分の手を取ってくれる。
そして三人で一緒に走る。これからどこへ行くのだろうか。きっと、とても楽しいところに違いない。
願わくば、この夢が。
もっと長く続きますよう――。
最終更新:2016年01月25日 20:53