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#divid(SS_area){{{*安道 ハル子プロローグ 見飽きた路地裏は、まるで極彩色のペイント弾を数十発もばらまいたかのようだった。 【《超》過激《超》濃厚サービス】【*あの*スターも愛用している!?】【安心!安全!】【アフター5の素敵な高収入?】【即日即決!どなたにでも御融資できます】【素人がお好き?】 その光景に彼は言葉を失った。 十数年も苦楽を共にした仕事場が、退廃的ポスター広告で埋め尽くされた堕落の有様へと変わり果てていたのだ。 しかしこれは、こと彼にとってはもう少し複雑な状況だ。 売春、賭博、闇金融、脱法薬物。 すなわちこれは彼の生業のパイを横あいからかっさらわんとする、明確な挑発行為である。 それをやったのが、怯えた目で袋小路に背を預ける、この安っぽいチンピラ女であることは疑いようがなかった。 「あはは……お兄さん、ここンちの人?」 間の抜けた調子で女は言った。 厚手のダッフルコートにぼろぼろのジーンズ、小脇のバッグは偽ブランド品。 外見の年齢に見合わない、酒と煙草に焼けて干からびた声だった。 「ああ、そうだ。そんならついでに、人様のお庭で好き勝手いたずらする小娘がどんな仕置を受けるかも、わかってくれるな」 「いや! あたし……ほら、言われただけ……この場所にって、上の人に、さ!」 「ナメるな。魔人だろうが、貴様も」 女の三白眼が所在なげに泳いだ。 そしておそるおそる右手を伸ばしコンクリート壁を押さえた。 その手に青白いパルスのような火花が生じると、壁には真新しい【今のジョブはこれ】の文面が鮮やかに踊っていた。 だが、彼はそれに一瞥もくれない。 正確には、意識的に、つとめて目を逸らすことができていた。 「えーと……わかってほしいなぁ。あたし、これしかできないんだよ。魔人ていってもさ。ホント、ただの雇われ……」 「だから見逃せってェか?」 哀れを乞う態度を見せながらも、この女の持つ危険性は明らかだった。 四方八方を取り囲む低俗な誘惑の幻想。 それは本来一握りでも良識があれば誰であれ存在ごと無視して立ち去るに違いない類のものだ。 だが現実に――挑発的な文言、鮮烈な色彩――それは老練の魔人ヤクザである彼をもってしても何か抗いようのない蠱惑的な魔力を放っていたのだ。 その様子を見て、女は覚悟を決めたような顔を作った。 「……ね、お兄さん、アイダって知ってる?」 「あぁ?」 「広告のAIDAだよ。A・I・D・A。まずは、ほら、こうさ……Attention。顧客の注意を引く」 言いながら、女はバッグに手を入れた。 「動くな! テメェ!」 「で次に、Interest。興味を抱かせる」 と取り出したものは、ただのペットボトル飲料だった。 彼がその手首を掴んだときには、女は既に蓋を外しその口を咥えていた。 次の瞬間彼が見た、 【えっちな人以外は絶対見ないでください?】 それは水滴だった。 口から吹きつけられた清涼飲料水の飛沫が霧のディスプレイとなり、空中に刹那のサブリミナル広告を映し出していた。 情欲を煽る女性の肢体が、彼の網膜に確かに刻み込まれた。 そして彼はえっちだった。 否、えっちでない人間がこの世にいるはずもない。 大脳皮質から湧き上げられた彼の獣欲は、理性的思考を数秒ほども消し去った。 「Desire。欲望を引き出す! そんで――」 それは魔人同士の戦闘においては永劫の時と言ってよいほどの間隙である。 硬直した彼の股間に、スニーカーを履いた女の足先が食い込んでいた。 声にならない叫びの口をつくって、彼は路地裏の地にくずおれた。 「これがActionだよ、クソったれ! 死ね、この野郎! 死んじまえバーカ! バァーカ!」 女は飲みかけのボトルを投げつけ、程度の低い捨台詞を残しながら足早に逃げていった。 すぐにあたり一面、退廃の色彩が音もなく消え去ると、あとには灰色の路地裏にうずくまる男だけが残された。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 「ふざッけんなよ! 畜生! 会田テメェ!」 「お疲れ様です、安道さん。仕事は無事に終えられたようで、何よりです」 女の名は安道ハル子。 法の規制や業界ガイドラインを意図的に無視した反社会的な広告配信を生業とする。 いわゆる、スパム業者である。 「聞いてねえぞ! 夜魔口のシマだったなんて……おいこら!!」 「はは、まあ、知らせていたら嫌がられるかと思いましたので」 「はァ!?」 ハル子が逃げ込んだのはカラオケ店の個室だった。 二台の携帯電話を用い、憤怒の通話の片手間に別の画面を操作する。 表示されているのは複数の偽名で登録されたオンライン銀行口座である。 ひとつひとつ確認していくたび、彼女の顔に一層の歪みが生じていった。 「……残高0。予算が15万円分、全部消化されてる。これも……こっちのもだ」 「ええ。すなわち、先程の広告がもうそれだけ多くの人々にリーチしたということですね。迅速な効果発揮は流石のクリエイティブが為せる賜物です」 「バカにすんな。誰も寄り付かないヤクザの路地裏にポスター撒いたところで、こんなに早く使い果たすはず無いだろ」 彼女はしばしの暗算の後、一つの答えを出した。 「……どっかから撮影してただろ、さっきの。で、動画をネットに流してた」 「ほう……よくおわかりで。別件ですので詳しくはお話できませんが、彼ら夜魔口に恨みを持つ方は多いのですよ」 「ああ、そうかよ、糞……で、そいつらはあのヤクザが無様に女にヤラれるのを、喜んで見てたってわけ」 「その類の嗜好を持つ方々は広告コンバージョン率も非常に高いですからね。ヌシ様からも喜びの声を承っております。先程から売上が右肩上がり、業務が追いつかないほどと」 「ヌシ様……ははっ、広告主様ね」 ハル子は手元の端末を捨て、ソファの背に身を投げだした。 固いクッションがハル子の肉体を癒すことはなかった。 「あたしはボコボコにされてりゃよかったか? ヌシ様のためにさ。で、よってたかって犯されて。そっちの中継した方が閲覧稼げるだろ」 「いやいや、まさか。あなたは、我がPP社の大切な広告商品ですから」 ハル子はうなだれ、額に手を当てると、長い溜息をついた。 口では反抗しながらも、彼女が電話口の向こうにいる相手に本気で逆らうことは決してない。 彼女はまっとうに生きていく術を持たない。 魔人でありながら、その能力で自ら道を切り開くこともできない。 傍若無人の圧倒的な広告掲載能力は、それ相応の無慈悲な対価を要求するからだ。 無一文では何一つできない。 生きるための金を彼女に提供するのが、会田と、彼が興したパブリック・プレジャー株式会社、そして彼がどこからともなく集めてくる魑魅魍魎じみた広告主たちである。 ハル子はヌシの奴隷であった。 「ところで早速で申しわけないのですが、次の仕事の話をさせていただきたく思いまして。新商品の開発に関わるのですが、安道さん、お時間いただけるでしょうか」 彼女は半ば夢の中にいる心地でそれを聞いていた。 「いいよ……どうせ拒否権は無いんだろ? 何が新商品だって?」 「夢です」 「……は? ……夢?」 ハル子は耳を疑った。しかし会田は続けた。 「弊社とDMネットワーク様との協業が正式に決まりました。我々は新たな広告商品を開発し彼らに提供します。そのテストの第一段階。まずは貴女に『ドリームマッチ』への出場をお願いしたい」 「ドリーム……ちょ、ちょっと待て。なんだって?」 「いつもと同じですよ。貴女は現場に赴き、存分にその力を発揮してください。勝敗は問いません。ただただ、あなたの魔人能力を使ってください。当日分の受注も既に決定しておりまして、広告主様としてデジ産業様から300万、パラケルススワークス様から120万、KPIグループ様から100万……」 「お、おい。テスト運用って言ったろ? テストフェーズでそんなに!?」 「それだけ、ヌシ様方も期待してらっしゃるのです」 会田は電話口の奥で熱に浮かされたように語り始めた。 「街角の片隅。新聞、雑誌、ラジオにテレビ放送、そしてインターネット。我々は古今東西ありとあらゆる時空の隙間を広告ビジネスに活用してきました。すなわちコンテンツあるところに広告あり。我々は光に常に寄り添う影なのです。そしてようやく今、準備が整いました。手つかずのブルーオーシャン……実に人の一生、その三分の一をも占める、広大な空白領域を運用する時が」 「それが『夢』」 「その通りです」 ハル子は笑った。 諦念に少しの嘲笑が混じった乾いた笑いだった。 この男は、狂っている。 真の安らぎの時間である夜の眠りに。 そこにバカげた広告を差し込むつもりなのだ。 文字通り、人の夢を食い物にする気だ。 そして紛れもなく、今の自分はこの狂人の手先、奉仕する先兵だった。 「夢、ね」 口から思わず言葉がついて出た。 夢。かつては確かにそんなものがあった。 きっかけは、手描きのチラシを父親に褒められただとか、そんな些細な事だ。 それからはただがむしゃらだった。 自分の仕事が、どこぞの外資のスーパーマーケットを大いに成長させたときには、いくばくかの喜びはあった。 それが巡り巡って商店街が一つシャッター街に変わり、気前のいいパン屋のおやじがただのアル中に成り果てたときには、もはや何の感慨も抱かなかった。 いつからそうなっていたのかは、よくわからない。 「じきにあなたも『無色の夢』をご覧になることでしょう。それが合図ですので、準備をお願いいたします。では」 それだけ言って、会田は一方的に通話を切った。 ハル子は一人ぼんやりと考えた。 もしあの男の言うことが本当なら。 もし、全世界の人々の夢に手を触れることができたなら。 「ああ、そうだな……見せてやる……とびきりの夢を……二度と忘れられないやつを」 夢といったのは、ただただ、自分の描いた絵を皆に見てもらいたかっただけだ。 金だ。金さえあれば、それが実現する。 だから今はこれでいい。 いずれ金さえ手に入れば、テレビも、ネットも支配できる。 大衆の上に君臨する王となれる。 人間は誰しも欲望の奴隷だ。 その欲望を、思うがままに飼いならしてやる。 世界を覆うプロパガンダで五感を塗りつぶしてやる。 たとえ目をつむっても無駄だ。 瞼の裏、闇の奥には漆黒の夢が待ちかまえているのだから。}}}
#divid(SS_area){{{*安道 ハル子プロローグ 見飽きた路地裏は、まるで極彩色のペイント弾を数十発もばらまいたかのようだった。 【《超》過激《超》濃厚サービス】【*あの*スターも愛用している!?】【安心!安全!】【アフター5の素敵な高収入♥】【即日即決!どなたにでも御融資できます】【素人がお好き?】 その光景に彼は言葉を失った。 十数年も苦楽を共にした仕事場が、退廃的ポスター広告で埋め尽くされた堕落の有様へと変わり果てていたのだ。 しかしこれは、こと彼にとってはもう少し複雑な状況だ。 売春、賭博、闇金融、脱法薬物。 すなわちこれは彼の生業のパイを横あいからかっさらわんとする、明確な挑発行為である。 それをやったのが、怯えた目で袋小路に背を預ける、この安っぽいチンピラ女であることは疑いようがなかった。 「あはは……お兄さん、ここンちの人?」 間の抜けた調子で女は言った。 厚手のダッフルコートにぼろぼろのジーンズ、小脇のバッグは偽ブランド品。 外見の年齢に見合わない、酒と煙草に焼けて干からびた声だった。 「ああ、そうだ。そんならついでに、人様のお庭で好き勝手いたずらする小娘がどんな仕置を受けるかも、わかってくれるな」 「いや! あたし……ほら、言われただけ……この場所にって、上の人に、さ!」 「ナメるな。魔人だろうが、貴様も」 女の三白眼が所在なげに泳いだ。 そしておそるおそる右手を伸ばしコンクリート壁を押さえた。 その手に青白いパルスのような火花が生じると、壁には真新しい【今のジョブはこれ】の文面が鮮やかに踊っていた。 だが、彼はそれに一瞥もくれない。 正確には、意識的に、つとめて目を逸らすことができていた。 「えーと……わかってほしいなぁ。あたし、これしかできないんだよ。魔人ていってもさ。ホント、ただの雇われ……」 「だから見逃せってェか?」 哀れを乞う態度を見せながらも、この女の持つ危険性は明らかだった。 四方八方を取り囲む低俗な誘惑の幻想。 それは本来一握りでも良識があれば誰であれ存在ごと無視して立ち去るに違いない類のものだ。 だが現実に――挑発的な文言、鮮烈な色彩――それは老練の魔人ヤクザである彼をもってしても何か抗いようのない蠱惑的な魔力を放っていたのだ。 その様子を見て、女は覚悟を決めたような顔を作った。 「……ね、お兄さん、アイダって知ってる?」 「あぁ?」 「広告のAIDAだよ。A・I・D・A。まずは、ほら、こうさ……Attention。顧客の注意を引く」 言いながら、女はバッグに手を入れた。 「動くな! テメェ!」 「で次に、Interest。興味を抱かせる」 と取り出したものは、ただのペットボトル飲料だった。 彼がその手首を掴んだときには、女は既に蓋を外しその口を咥えていた。 次の瞬間彼が見た、 【えっちな人以外は絶対見ないでください♥】 それは水滴だった。 口から吹きつけられた清涼飲料水の飛沫が霧のディスプレイとなり、空中に刹那のサブリミナル広告を映し出していた。 情欲を煽る女性の肢体が、彼の網膜に確かに刻み込まれた。 そして彼はえっちだった。 否、えっちでない人間がこの世にいるはずもない。 大脳皮質から湧き上げられた彼の獣欲は、理性的思考を数秒ほども消し去った。 「Desire。欲望を引き出す! そんで――」 それは魔人同士の戦闘においては永劫の時と言ってよいほどの間隙である。 硬直した彼の股間に、スニーカーを履いた女の足先が食い込んでいた。 声にならない叫びの口をつくって、彼は路地裏の地にくずおれた。 「これがActionだよ、クソったれ! 死ね、この野郎! 死んじまえバーカ! バァーカ!」 女は飲みかけのボトルを投げつけ、程度の低い捨台詞を残しながら足早に逃げていった。 すぐにあたり一面、退廃の色彩が音もなく消え去ると、あとには灰色の路地裏にうずくまる男だけが残された。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 「ふざッけんなよ! 畜生! 会田テメェ!」 「お疲れ様です、安道さん。仕事は無事に終えられたようで、何よりです」 女の名は安道ハル子。 法の規制や業界ガイドラインを意図的に無視した反社会的な広告配信を生業とする。 いわゆる、スパム業者である。 「聞いてねえぞ! 夜魔口のシマだったなんて……おいこら!!」 「はは、まあ、知らせていたら嫌がられるかと思いましたので」 「はァ!?」 ハル子が逃げ込んだのはカラオケ店の個室だった。 二台の携帯電話を用い、憤怒の通話の片手間に別の画面を操作する。 表示されているのは複数の偽名で登録されたオンライン銀行口座である。 ひとつひとつ確認していくたび、彼女の顔に一層の歪みが生じていった。 「……残高0。予算が15万円分、全部消化されてる。これも……こっちのもだ」 「ええ。すなわち、先程の広告がもうそれだけ多くの人々にリーチしたということですね。迅速な効果発揮は流石のクリエイティブが為せる賜物です」 「バカにすんな。誰も寄り付かないヤクザの路地裏にポスター撒いたところで、こんなに早く使い果たすはず無いだろ」 彼女はしばしの暗算の後、一つの答えを出した。 「……どっかから撮影してただろ、さっきの。で、動画をネットに流してた」 「ほう……よくおわかりで。別件ですので詳しくはお話できませんが、彼ら夜魔口に恨みを持つ方は多いのですよ」 「ああ、そうかよ、糞……で、そいつらはあのヤクザが無様に女にヤラれるのを、喜んで見てたってわけ」 「その類の嗜好を持つ方々は広告コンバージョン率も非常に高いですからね。ヌシ様からも喜びの声を承っております。先程から売上が右肩上がり、業務が追いつかないほどと」 「ヌシ様……ははっ、広告主様ね」 ハル子は手元の端末を捨て、ソファの背に身を投げだした。 固いクッションがハル子の肉体を癒すことはなかった。 「あたしはボコボコにされてりゃよかったか? ヌシ様のためにさ。で、よってたかって犯されて。そっちの中継した方が閲覧稼げるだろ」 「いやいや、まさか。あなたは、我がPP社の大切な広告商品ですから」 ハル子はうなだれ、額に手を当てると、長い溜息をついた。 口では反抗しながらも、彼女が電話口の向こうにいる相手に本気で逆らうことは決してない。 彼女はまっとうに生きていく術を持たない。 魔人でありながら、その能力で自ら道を切り開くこともできない。 傍若無人の圧倒的な広告掲載能力は、それ相応の無慈悲な対価を要求するからだ。 無一文では何一つできない。 生きるための金を彼女に提供するのが、会田と、彼が興したパブリック・プレジャー株式会社、そして彼がどこからともなく集めてくる魑魅魍魎じみた広告主たちである。 ハル子はヌシの奴隷であった。 「ところで早速で申しわけないのですが、次の仕事の話をさせていただきたく思いまして。新商品の開発に関わるのですが、安道さん、お時間いただけるでしょうか」 彼女は半ば夢の中にいる心地でそれを聞いていた。 「いいよ……どうせ拒否権は無いんだろ? 何が新商品だって?」 「夢です」 「……は? ……夢?」 ハル子は耳を疑った。しかし会田は続けた。 「弊社とDMネットワーク様との協業が正式に決まりました。我々は新たな広告商品を開発し彼らに提供します。そのテストの第一段階。まずは貴女に『ドリームマッチ』への出場をお願いしたい」 「ドリーム……ちょ、ちょっと待て。なんだって?」 「いつもと同じですよ。貴女は現場に赴き、存分にその力を発揮してください。勝敗は問いません。ただただ、あなたの魔人能力を使ってください。当日分の受注も既に決定しておりまして、広告主様としてデジ産業様から300万、パラケルススワークス様から120万、KPIグループ様から100万……」 「お、おい。テスト運用って言ったろ? テストフェーズでそんなに!?」 「それだけ、ヌシ様方も期待してらっしゃるのです」 会田は電話口の奥で熱に浮かされたように語り始めた。 「街角の片隅。新聞、雑誌、ラジオにテレビ放送、そしてインターネット。我々は古今東西ありとあらゆる時空の隙間を広告ビジネスに活用してきました。すなわちコンテンツあるところに広告あり。我々は光に常に寄り添う影なのです。そしてようやく今、準備が整いました。手つかずのブルーオーシャン……実に人の一生、その三分の一をも占める、広大な空白領域を運用する時が」 「それが『夢』」 「その通りです」 ハル子は笑った。 諦念に少しの嘲笑が混じった乾いた笑いだった。 この男は、狂っている。 真の安らぎの時間である夜の眠りに。 そこにバカげた広告を差し込むつもりなのだ。 文字通り、人の夢を食い物にする気だ。 そして紛れもなく、今の自分はこの狂人の手先、奉仕する先兵だった。 「夢、ね」 口から思わず言葉がついて出た。 夢。かつては確かにそんなものがあった。 きっかけは、手描きのチラシを父親に褒められただとか、そんな些細な事だ。 それからはただがむしゃらだった。 自分の仕事が、どこぞの外資のスーパーマーケットを大いに成長させたときには、いくばくかの喜びはあった。 それが巡り巡って商店街が一つシャッター街に変わり、気前のいいパン屋のおやじがただのアル中に成り果てたときには、もはや何の感慨も抱かなかった。 いつからそうなっていたのかは、よくわからない。 「じきにあなたも『無色の夢』をご覧になることでしょう。それが合図ですので、準備をお願いいたします。では」 それだけ言って、会田は一方的に通話を切った。 ハル子は一人ぼんやりと考えた。 もしあの男の言うことが本当なら。 もし、全世界の人々の夢に手を触れることができたなら。 「ああ、そうだな……見せてやる……とびきりの夢を……二度と忘れられないやつを」 夢といったのは、ただただ、自分の描いた絵を皆に見てもらいたかっただけだ。 金だ。金さえあれば、それが実現する。 だから今はこれでいい。 いずれ金さえ手に入れば、テレビも、ネットも支配できる。 大衆の上に君臨する王となれる。 人間は誰しも欲望の奴隷だ。 その欲望を、思うがままに飼いならしてやる。 世界を覆うプロパガンダで五感を塗りつぶしてやる。 たとえ目をつむっても無駄だ。 瞼の裏、闇の奥には漆黒の夢が待ちかまえているのだから。}}}

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