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「7時か…つかさ、起こしに行かないと」
 そう思い、私は立ち上がる。
――っ!
 目の前の世界が回転している。数歩で見えるはずの扉が私の視界から逃げるように消えていく。
 起き上がって気づいた。体が重い。鉛を背負っているような感覚。体の制御がきかない。まるで、私の体がのっとられかけているような――これは、私? 幾度となく目にしたはずの自室は、一種のゲシュタルト崩壊を起こしているのか無機質な、自室によく似た別部屋とすりかえられたような錯覚に陥る。
 確かにいつもの私の部屋だ。違うことは単にぐるぐると私の世界が回転しているだけ。でもそれって、「いつも」と言えるのか? そうであるのに私は冷静でいる。あるいは、狂った平静。狂気を正気と思える、そんな壊れた理性だ。
――ーあ。
「てゆーか、単に熱なだけよね」
 頭が覚醒してくる。同時に私は常識的な判断を下せるまでになった。

 私、なんか変なことを考えていなかったか? いけないいけない。こなたと同類になったら、人として問題があるじゃないか! って、いくらなんでもこなたに失礼か。
 とはいえ本当に、現実と妄想の区別をきちんとしないと――

 小さいころに間違ってお酒を飲んで経験した二日酔いのような、不思議な感覚がある。とにかく、つかさを起こしにいこう。回転している、狂っているのは自室ではなく、私のほうだ。頭の回転をさせないと…とにかく、まっすぐ歩けば扉まではたどり着けるはず。
 やっとの思いで私は扉を開けた。つかさの部屋まで、一歩一歩、歩く。健康の喜びを実感するのは、病気のとき。換言すれば、人間、失ってはじめて気づくのだ。後悔は先にたたないものだけど。
 あとちょっと。あと一歩。
「おーい、つか――」
 ばたっ
 あ、れ……?
 視界が暗転する。照明が突然消されたかのように、ぷっつりと。連続的であるはずの時間は、今この時点において、確実に切断された。
 そんな思考も、数秒のうちに消えうせる。
 最後に私が考えたことは、今日学校行けるかな、ということと、何よりも――誠君に会えるかな、ということだった。
 もう一度、誠君に。



「あれー、外で大きな音がしたような…
 ふわああっ…眠いよう。でももう7時過ぎてるし、起きないと。
 あれ?
 いつもならお姉ちゃんが起こしにくる時間なんだけど、もしかしたらお姉ちゃん、寝坊かな?
――もう、仕方ないなあお姉ちゃんは。
 もし本当に私がお姉ちゃんだったら――ほらきょうちゃん、朝だよお。ねえ、起きてよう――わあ、すごいことになってるよう!」
 つかさは、眠たい眼をごしごしと手でぬぐいながら、扉をあけた。
 そこで立ち尽くす。
「え、えええええええええええ?」
 つかさは目をぱちくりして、そこで倒れているかがみをみかけた。
「お、お姉ちゃん?」
 よく事情を飲み込めないつかさは、ためしに話しかけてみた。当然ことながら、かがみからの反応はない。
―――お、お姉ちゃん?
 頭の中で反芻した後、つかさは事態を飲み込む。次にすべきことは。!
「お、お母さああん!
 お姉ちゃんが、お姉ちゃんがあ!」
 間違いなく、非日常。
 つかさはばたばたと階段を駆け下りて、母であるみきのもとへ急いだ
。 階段で数回蹴躓いたことは、殊更話題にすることでもなかった。



「――38度4分! お姉ちゃん、大丈夫?」

 かがみの熱っぽい顔を見て、つかさは心配そうに尋ねる。体温計は平時とは比べものならない体温を示した。体温計が四十二度までということは、それ以上はたんぱく質に異変をおこし、生命維持が極めて困難になるからである。
 最初はおろおろと、どうすればいいかわからなかったつかさも、かがみが単に熱をだしただけだとわかると、幾分落ち着きを取り戻し、他の姉に協力してもらい、かがみをベッドに寝かしたのが30分ほど前。
 学校には完全に遅刻だ。
「つかさ、後は私がやっとくから」というみきの言葉に、珍しくも強情に「お姉ちゃんが起きるまでは、そばにいるもん!」と否定した。みきもすぐに折れた。仕方ないわね…と苦笑した後、「黒井先生と桜庭先生に、かがみの欠席と、つかさの遅刻を連絡しておくわね――起きるまで、かがみのことよろしくね」とつかさに頼み、かがみの部屋からでた。
 母親として、つかさとかがみが特別仲がいいことも理解していたし、つかさの心配そうな顔を見たら、どうせ学校の勉強も身にはいらないだろう…と思った。みきは、時々はかがみの様子を確認しようとは思ったけど、できるかぎりつかさに任せようと思った。かがみもそれを望んでいると、どことなくみきは思うのだ。

――ちなみに、柊家の電話は黒電話である。

 かがみが目を覚ましたのは、それから二時間もたった10時ごろであった。
「…なんだ、38度か」
 計測完了の音を確認したかがみは、脇から体温計を取り出して、見た。
「なんだって、なんだじゃないよお姉ちゃん! 38度だよ!? 普通より2度も高いんだよ!」
「大丈夫よつかさ、それほど辛くはないわ」
 そういって無理やりかがみは立ち上がろうとする。しかし、一歩歩く前に足はふらつき、倒れそうになる。それをつかさが「お姉ちゃん、危ない!」といってかがみが倒れる前に支え、半ば強引にベッドに寝かした。
 普段のつかさからは想像できないような、必死の思いでつかさは叫んだ。
「もうお姉ちゃん! 今日は寝てなきゃだめだよ! それにもう先生は欠席の連絡したから! お姉ちゃんが倒れたら、私…、わたし!」
「――ごめん、強情だった」
 38度4分が普通でないことくらい、かがみだってわかっていた。それでも、学校に行きたかった。それでも、誠君に会いたかった。
 そうした感情が、つい自己中心的な行動を起こしてしまったのだ。
 そんな感情も、つかさの目を見て、気持ちを感じて、すぐに萎えた。そして、次に湧き上がってきた感情は、どうしようもない罪悪感だった。
 絶対にかがみを学校に行かせない、という毅然とした態度よりかは、懇願に近い感情でつかさは訴えた。その瞳から、涙が洪水のように流れていた。
「うう…嫌だよう。お姉ちゃんがいなくなったら、嫌だよう」
 大粒の涙がかがみの寝具にこぼれた。
「…ごめん。
――つかさの言うとおりにする。心配かけて、ごめん」
「ううん。私こそごめんね。泣いちゃって」
 その言葉が痛い。小さいころから、「つかさを泣かすのは許さない!」とできるかぎりお姉ちゃんでいようと勤めてきたのに、その私が――私のせいで――つかさを泣かしてしまった。そしてつかさに「泣いちゃってごめん」なんていわせるなんて、私、どうかしてる。
「本当にごめんね、つかさ。もう大丈夫だから、心配しないで。
 今日は休むわ」
「うん…それがいいよお姉ちゃん」
「ほら、涙、拭いて」
 そういってかがみは自分の指先をつかさの目じりまでよせる。そうしてつかさの涙をぬぐった。
「えへへ…なんか不思議な気持ち」
 ぬぐった涙をかがみは、舌で舐めた。
 涙の成分は水やたんぱく質であるが、感情が高まったときに流す涙にはたんぱく質が多く含まれているという。科学的にはそうであるが、精神的な意味で涙の成分は優しさと、思いやり。きっと誰かが思う心である。
――しょっぱい。この痛みは、忘れないようにしよう、とかがみは深く思うのだった。