※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

 あの騒がしく、幸せな結婚式から二年が経った。
 今日は、ゆたかと病院に来ている。なぜ、病院なのか? それはもちろん……。
「おめでとうございます」
「みゆきさん、それって……」
「ええ、ゆたかさんは妊娠しています」
「高良先輩、ホントですか?」
「本当のことですよ、安心してください」
 微笑みながら、そう答えるみゆきさん。
 俺はゆたかと二人で喜び合う。――幸せだ。

 最近、調子が悪いとゆたかは言っていた。
 けれど、それが妊娠の兆候ではないかと気付いたので、こうしてこの病院に来ている。
 なぜこの病院なのかというと、みゆきさんが勤めているからだ。
 新しい命が産まれるのを助ける仕事、ということに感銘を受けたみゆきさんは、現在産婦人科で働いている。
 けれど、知り合いだからという理由で、この病院を選んだわけではない。みゆきさんだからだ。
 みゆきさんは、文系から医学部に進学した。それは、とても凄いことだ。
 受験期、学校で誰よりも勉強していたのは、みゆきさんだということを、俺は知っている。
 天才と思われがちなみゆきさんだが、その実、かがみさんと同じ努力家なのだ。
 だから、みゆきさんを選んだ。これほど、誠実で信頼できる医師は、他に岩崎さんくらいしか知らない。

「ですが、一つだけ問題があります」
「え!?」
「ゆたかさんが、……出産に耐えられない可能性があります」
「……」
 俯くゆたか。
「今すぐ答える、という必要はありません。それに、可能性の一つにすぎませんし。ですから、お二人でよく話し合って
から決めてください」
「……わかったよ、みゆきさん」
「……ありがとうございました」
 みゆきさんに一礼し、病院を出る。
 ゆたかは俯いたままだ。予てから、自分の体が弱いことを、気にかけていたのだから、当然だ。
 ゆたかにとっても、俺にとっても、大事な決断になる……。
 けれど、そんなこと考えるまでもない。ただの可能性でしかないのなら、答えなんて決まってる。
 ……でも、なぜかそのことを、ゆたかに伝えることができない……。
 前に、考えたことがある。可能性が0でないなら、それは不可能ではないと。
 俺は……、ゆたかを失うことを恐れていた。
 ゆたかがいない生活なんて……、考えられない。考えたくない……。
 けれど、わかっていた。例え、どんなに困難であろうと、ゆたかは出産を選ぶだろうと。


「まー君、ごめんね……」
 家に着いて、ゆたかが突然切り出した。
「ゆたか? 急にどうしたんだ?」
「やっぱり、私はまー君に……迷惑を……」
 ゆたかは泣いている。俺への気遣いや、不安といったものに、耐えられなくなったのだろう。
 ……何をしているんだ。俺は……、ゆたかを不安にさせないようにがんばると、決意したハズじゃないのか!?
 ――俺は、不安も恐怖も、無理矢理どこかに押し込める。
「ゆたか、大丈夫。可能性の話だからさ」
「で、でも……」
「大丈夫だって、俺がついてる。……俺が、絶対に守るから!」
 ゆたかが目を丸くする。
 しばしの沈黙の後、ゆたかが口を開く。
「私が出産に耐えられるかどうかだから、まー君はどうしようもないよ?」
 皮肉を言っているが、その顔は、恥ずかしそうに笑顔を浮かべている。
「ゆたかー、そんなこと言うなよ。せっかく俺が、元気づけようと思ったのに」
 つられて、俺も笑顔になる。まったく、ゆたかの笑顔には適わないな。
「うん、わかってるよ。……ありがとう、まー君」
 ゆたかが俺を抱きしめる。
「また不安になったら、俺に言ってくれよ? ゆたかが不安になったら、お腹の子まで不安になっちゃうしね」
 俺もゆたかを優しく抱きしめる。
「うん」


「あ、そうだ。ゆたか、他に決めておきたいことがあるんだけど」
「え?」
「たぶん、出産はもっと大きな病院でした方がいいって、みゆきさんは言うと思うんだ」
 みゆきさんの性格上、自分が一番安全だと思う方法を薦める可能性が高い。
 けれど、みゆきさんは、自分を過小評価している節がある。
 俺としては、みゆきさんが一番信頼できるんだけれど、これは俺一人で決めることではない。
「だから、その時どうするか、決めておきたいんだ」
「そうだね。……でも、それを聞く時点で、まー君がどうしたいか、わかるよ?」
「あ」
 言われてみればそうだ。普通だったら、その提案を受け入れる。安全な方を推薦してくれるのだから、当然だ。
 つまり、わざわざそれをゆたかに聞く時点で、俺の答えはわかってしまうというわけだ。ゆたか、鋭いな……。
「でも、私も同じ答えだよ。高良先輩が、一番信頼できると思う」
「そっか。よし、それじゃあみゆきさんを、驚かせてあげますか」
「うん!」
 答えは決まった。後は、俺がしっかりゆたかを支えてあげるだけだ。


「今のところ、順調です。そろそろ、入院の準備を始めてくださいね」
「わかりました」
「それと、一つお話しておきたいことがあります」
「……どんな話?」
「お恥ずかしながら、私の腕はまだまだ未熟ですので、優秀な方の病院を推薦しようかと思っています」
 やっぱり、予想通りの展開だ。
 けれど、俺たちはみゆきさんのことを信頼している。人としても、医師としても……。
「実は、みゆきさんがそう言うと思って、もう答えを決めてきてるんだ」
「え!? そ、そうなんですか?」
「うん。俺たち夫婦は、みゆきさんにお願いするよ」
「ええ!? で、ですが、私の腕はあまりに未熟でして……、その……ゆたかさんを危険な目に……」
「大丈夫ですよ、高良先輩の腕は未熟なんかじゃありません。私は、高良先輩なら安心できます」
「そ、そうでしょうか……?」
「そうだよ、みゆきさんが一番信頼できるんだ。だから、お願いできないかな?」
「……わかりました……。死力を尽くして、絶対に成功させます」
 心強い言葉ではあるけれど、死力を尽くすって……、みゆきさん無理しすぎて、倒れたりしてしまわないだろうか。
 逆に心配になってしまう。
「ありがとう、みゆきさん。でも、がんばりすぎて、自分の体を壊したりしないようにね」
「お気遣いありがとうございます。ですが、今はゆたかさんの心配だけをしてあげてください」
「う、うん……」
 余計な心配だったのかもしれない。みゆきさんの言うとおりだ、今はゆたかの心配を最優先しなければ。
「高良先輩、よろしくお願いしますね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 さて、これからが大変な時期だ。


「出産予定日は、このようになりました」
「えっ!?」
 俺は目を丸くする。
 何てことだ! その日は試験前で、ただでさえ大変なのに、授業が多く一番忙しい曜日じゃないか!
 これでは、休めない……。けれど……。
「まー君、どうしたの?」
「その日は……、試験前の大事な時期だから、休めないかもしれない……」
 胃の辺りが落ち着かない。俺は、どうするべきなんだ?
 いや、迷うくらいなら、俺はゆたかの傍に――。
「先生が、生徒を放っておくなんて、ダメだよ」
「え?」
「私は大丈夫だから、まー君は学校に行って」
「で、でも、ゆたかも放っておけないよ」
「大切な時期に、生徒を放っておくなんて教師失格だよ。もし、そんなことしたら、口利いてあげないよ」
 やや膨れるゆたか。間違いない、ゆたかは俺を気遣ってくれている。自分だって、不安なのに……。
 こんな風に迷っていたら、教師としても、夫としても失格だ。
 だから、覚悟を決める。俺にできることは、ゆたかを信じることだけだ。
「困ったな、ゆたかに口利いてもらえないなんて、俺耐えられないよ」
「だったら、ちゃんと学校に行かなきゃだよ」
「わかった。――ありがとうな、ゆたか」
「うん」
「俺は、ゆたかを信じてるから」
「うん……」
 やや頬を染め、嬉しそうに笑うゆたか。結婚から二年経っても、こういう可愛いところは変わらない。
「学校に行くことは、素晴らしいことだと思いますが、終わったら寄り道せずに、ゆたかさんとお子さんのところへ来て
くださいね」
「みゆきさん、そんなの当たり前じゃないか」
 優しく笑うみゆきさん。これは、みゆきさんなりの励ましなのだろうか?
 それはそれとして、今回の試験はいつもより、早めに作るべきかもしれない。
 やはり、ゆたかと子供と一緒にいたいから……。
 今回は大変な試験になりそうだ。


 現在、出産予定日当日の昼、あと少しで予定の時間だ……。
「うーん……」
 今日は、いつも以上に時間を気にしている。
「まことせんせー、さっきから時間気にしすぎー。やっぱヘタレじゃないですか、俺は信じてるから大丈夫、なんて言っ
てたくせにー」
 生徒の一人が俺に突っ込む。この生徒は、俺に絡んでくることが多い。
 雰囲気がこなたさんに似てるからか、俺もよく雑談をしたりする。
「そこ、伊藤先生を茶化さない! まったく、すみませんね」
 この生徒は、主にこなたさん似の生徒の突っ込み役、兼委員長だ。
 かがみさんと雰囲気が似ている。
「いや、本当のことだから、気にしてないよ」
「……伊藤先生、認めるんですか?」
 やや呆れ顔の委員長。
「俺は、高校生の頃から、ヘタレって言われてたからなぁ」
「伊藤先生がそんなじゃ、奥さんもお子さんも、不安になっちゃいますよ?」
「それは二年前に言われたな」
 というか、教え子に心配されるのは、嬉しくもおかしな話だ。なにか、こそばゆい感じがする。
「なんかもう、ヘタレ道極めたりって感じですねー」
「そんなもの極めてたら、先生はまだ結婚できてないから!」
「毎度毎度突っ込みご苦労様、委員長」
 突っ込みのできる委員長は重宝する。
「そんなことより、もっと堂々としてください! 関係ない私たちまで不安になっちゃいますよ!」
「大丈夫、不安にはもう負けないって決めたんだ。だから、死んでも不安には負けないよ」


「うわっ、ヘタレじゃない! 熱いけど、少しつまんなーい」
「こら! 素直に喜びなさいよ! それに、伊藤先生もそれを最初に言ってくださいよ、心配するだけ無駄だったじゃな
いですか」
「いやいや、無駄でもないよ。話をしてたら、不安が和らいだしね。ありがとうな、委員長」
「そ、そうですか。無駄でなかったなら、良かったです」
 照れ笑いをする委員長。素直なところが、かがみさんとは少し違う。
「ダメだよー、いいんちょ。そこは、別に先生のことを心配してるわけじゃないんだからね! くらい言ってくれないと
ー」
「あんた、まだそんなこと言ってるの?」
「当たり前じゃん、いいんちょツンデレ化計画は永久不滅なのだよ!」
「頭痛くなってきたわ」
 二人のやりとりに、どこか懐かしさを感じ、思わず笑ってしまう。
「せんせー、試験終わったら、子供の写真見せてくださいねー」
「あっ、それ私も見たいです」
「わかったよ、でも、そのかわり試験をがんばること」
「はい」
「はーい」
 教え子から元気をもらい、俺は授業のあるクラスへと向かう。
 不安ではあるけれど、俺にできることは、ゆたかとみゆきさんを信じることだけだ。
 それに、しっかりと授業をしないと、ゆたかに口を利いてもらえなくなってしまう。だから、今は授業に集中しなけれ
ば。


「はぁ、はぁ……」
 バス停から、全力疾走で病院に向かったので、息が切れている。
 はやる気持ちも重なり、心臓の鼓動が激しい。破裂してしまいかねない。

 成功です。
 出産は無事終了しました。母子共に健康です。
 ゆたかさんも娘さんも待っているので、全ての授業が終わり次第、至急病院に向かってくださいね。

 そんな内容のメールが、みゆきさんから送られてきたのは、五時限が終わった後の休み時間のことだった。
 その後、はやる気持ちを抑え、六時限終了と同時に学校を飛び出し、今に至る。
 そして、ゆたかの病室へ向かう途中、みゆきさんに出会った。
「あ、みゆきさん」
「まことさん、随分と急いできたんですね。汗だくですよ」
「そう言うみゆきさんこそ、目にクマができてるよ」
 通常勤務に加えて、ゆたかのために、色々と調べてくれたのだ。睡眠時間はほとんど取れなかっただろう。
「……ありがとう。ゆたかも娘も無事なのは、みゆきさんのお蔭だよ」
「いえ、医師として、最善を尽くしたまでですよ」
「みゆきさんに頼んで良かったよ。本当に……ありがとう」
「そこまで感謝してくださるのなら、娘さんも幸せにしてあげてくださいね。私もそれを一番望んでいますから」
「うん、がんばるよ」
 みゆきさんに別れを告げ、再びゆたかの病室へと向かう。


「ゆたか! 遅くなってごめん」
「まー君、お疲れ様。……待ってたよ」
 ゆたかはすやすやと寝ている娘を腕に抱き、幸せそうに俺に微笑む。
 やばい、涙腺にくる……。
「ゆたかもお疲れ様、よくがんばったな」
「うん、この子が私とまー君の子だよ。抱っこしてあげて」
 俺とゆたかの子を抱っこする。そして、ようやく父親になったという実感が湧いてくる。
「きっと……、ゆたかみたいに可愛くなるんだろうな」
 親バカなのかもしれないけれど、確信がある。
「そうかな? 目は凄くまー君に似てると思うんだけど」
「いやいや、この寝顔なんかゆたかにそっくりじゃないか」
「え? そうかな?」
「そうだよ。そもそも、二人の子なんだから、似るのは当然じゃないか」
「でも、成長は私たちとは違ってほしいな。背は大きくて、健康で、収集癖がなくて」
「うっ……、気をつけます」
 トレカに始まり、俺には収集癖がある。
 かがみさんに薦められて、読書が趣味になったのだけれど、好きな作家の作品は高価でも手を出してしまう。
 これは、高校時代から俺の財布事情を苦しめていた。もちろん、今でも我が家の経済事情のネックだ。
 けれど、これからは娘のことも考え、本代を抑えて貯蓄に回さなければ。


「そういえば、まだ名前決めてなかったな」
 大切なことを見落としていた。というよりは、いい名前が浮かばなかっただけなのだけれど。
「その、名前のことなんだけど……」
「何か案があるの?」
「うん、まゆみって名前にしたいなって思ってるんだけど、どうかな?」
「まゆみ?」
「そう、大切な人たちから一文字ずつもらったんだ。この子にも大切な人が、たくさんできますようにって」
「大切な人っていうと……」
「旦那さんと、お姉ちゃんと、親友だよ。本当はみんなからもらいたかったんだけど、それだと名前が長すぎちゃって」
「確かに、それだと長すぎるね」
 むしろ、名前というより、文字の列にしか見えない可能性がある。
「けど、まゆみ……か。いい名前だ、きっとこの子にも大切な人が、たくさんできるよ」
「よかった、嫌だって言われなくて」
「言うわけないだろ。俺じゃ思いつかない、凄くいい名前だよ」
 けれど、娘の名前に、俺の名前から一文字、なんて少し照れてしまう。
 きっと、岩崎さんも凄く照れるんだろうな。ゆいさんはもの凄く喜びそうだけど。

 娘をこの手に抱き、名前に込められた願いを、俺も願いながら呟く。
「これからよろしくな、まゆみ」
 この子にも、多くの幸が訪れますように――。