まことの不安編
「黒井先生」「何や?」黒井先生には、陵桜を卒業してからもずっとお世話になった。陵桜に戻ってこれたのも先生のお蔭、指導の仕方や生徒との接し方を教えてもらい、教師として成長できたのも先生のお蔭。ネトゲ……は置いといて、教諭になれるのも、先生が推薦してくれたからだろう。その気持ちを言葉に込める。「ありがとうございます。先生がいなかったら、もっと時間がかかっていたと思います。なんて感謝したらいいか……」「そんなに感謝しとるんか、なら、そやな……。自分は、確か小早川と付き合うとるんやったな」ちなみに、黒井先生はゆたかのクラス担任になったことがある。「はい、そうです」「やったら、小早川を幸せにしたってや。それで勘弁したる。ほんまは、息子をマリーンズにって言いたいとこやけどな」豪快に笑う黒井先生。この人には適わないな、なんて思った。尊敬してる、本当に。「当たり前ですよ、俺はゆたかを愛しているんですから」「おっ、言うやないか。その気持ち、忘れたらあかんで」「わかってます」
その日の放課後、俺は未だ職員室に残っていた……。あんな事を言ったものの、俺の気持ちが一方通行の可能性は0ではない。八年間も付き合っていて、何を言うのかと思うけれど、やはり不安がある。0でなければ、それは不可能ではないのだ。以前、色々な人にへたれと言われた気がするが、それは間違いではないようだ。思わず溜息をつく。「よう! まことせーんせっ!」予想外の背後からの奇襲。風船が破裂したかのような大きな音と背中に痛み。こんなことをするのは同期に陵桜に帰ってきたあの人しかいない。「痛いよ、日下部さん」振り返れば、いつもの頭の後ろで腕を組むポーズで、笑っている日下部さん。スーツ姿が凛々しく、似合っている。「あんだよ、何か落ち込んでるから、活を入れてやったのに」「度を越えてるよ……」
日下部さんは俺と同じく、教師として陵桜に帰ってきた。ただし、高校・大学と、陸上部で上位の成績を残している日下部さんは、陸上部の顧問を引き受け、早々に結果を残し、その功績を認められ、既に教諭となっていた。あの日下部さんが、まさか指導力が高いとは思っていなかった。しかも、生徒とも友達感覚な日下部さんは、部員だけでなく、多くの生徒から親しみ易いと人気らしい。 どことなく、黒井先生の姿と重なる。「細かいこと気にすんなって。それで、どーしたのさ?」「うん、実は――」「チキン」「うわ、またへこむことを、あっさりと……」「私は、回りくどいの嫌いなんだよ」日下部さんは、俺なんかよりもよほど男らしい。だから、あんなにもスーツ姿が凛々しいのだろうか?「大体、私に言わせりゃ、贅沢な悩みだ!」「どこがどう贅沢なのか、俺にはわからないよ。不安なのに、贅沢だなんて」告白とは違う。断られれば、今までの楽しかった日々も、辛かった日々も、ゆたかを思うこの感情も意味を失ってしまう。それを恐れることが、贅沢とは思えない。
「まこと、それは、彼氏がいない私への当て付けか?」「あ――、ごめん」「謝んな! そこフォローするとこだから!!」「フォローって……、俺が言っても、嫌味にしか聞こえないだろ?」「それでも、フォローしてくれって。ちっとは気が紛れるだろ?」「そんなものかな?」「ああ、もう! 空気読めよ!」「ごめん」「いいよいいよ、どーせ私は、売れ残りが決まったクリスマスケーキだよ!」「……」いつかの黒井先生と同じような事を言っている。本当に姿が重なる。でも、さすがに売れ残ることはないだろう。人として魅力的でなければ、あんなに生徒に好かれはしない。ただ、黒井先生の例があるから、確実とは言えないけれど。
「何にせよ、私が言えることは一つ。自信を持て」「え?」「あのな、普通に考えて、好きじゃなけりゃ、八年も付き合えないっての」「それもそうだけど……」「もっと堂々としろよ! おまえがそんなんじゃ、彼女の方が不安になるっつーの」それは以前、岩崎さんから言われた事と同じ事だった。俺はあの時から、何も進歩していないじゃないか。何故、こんなにも大切な事を、忘れていたのだろう。「……そう……だよね。ありがとう、日下部さん。大切な事、思い出したよ」「大切な事なら忘れないようにしとけっての」「うん、もう忘れないよ」二度も忘れるわけにはいかない。もう、不安には負けない。ゆたかが安心できるように。
「しっかし、あやのといい、まことといい、私の周りのやつはみんな幸せそーだよな」「俺はこれから、だけどね」「うむ、まあまあかな。少なくとも、チキンよりはマシだな」「赤点は回避か、良かった。それにしても、峰岸さんは、もう二人子供がいるんだっけ?」「そうそう、五歳の息子と二歳の娘。高校卒業と同時に結婚ってのも含めて、手が早いよな、兄貴」「でも、幸せそうだよね」「そりゃそーだ、あやのを不幸にしたら、兄貴といえどもぶっとばす!」「優しいね、日下部さん」「ううううっさい、おまえもだぞ!」「え?」「私は、ハッピーエンドが大好きなんだ! だから、彼女を幸せにしないとぶっとばすからなっ!」「わかってるよ。俺だって、ハッピーエンドがいいしね」まったく、黒井先生といい、日下部さんといい、最近はプレッシャーをかけるのが流行っているのだろうか?
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