時間は、16時に近い。
校庭の隅にある、古い桜。星桜の樹と呼ばれ、なんとなく生徒から親しまれている。その下で、まことはしきりに手を拭っていた。
浮ついている。大きく構えようと思うが、それ自体、地に足のついていない証拠のようなものだ。
いつも通りでいようとするほど、緊張が浮き彫りになる。汗をかいているのは、天気が良いせいではない。すでに陽は翳り、風は冷たいのだ。
こんなことで、本当に告白などできるのか。お茶を濁して、逃げ出すんじゃないか。いや、自分を信じろ。自分の、何を。
考えるだけ無駄だ。そう思うことにした。少しだけ、落ち着いた気がした。早く来てほしい。でないと、また堂々巡りがはじまる。
なにか、別のことを考えようとした。星桜の樹。学園のシンボルのように言われるが、花はつけないそうだ。
自分の恋も、同じだろうか。ああ、まただ。こんなものは、追い払え。
頭をかきむしろうとした時、声が聞こえた。
「まこと君」
心臓が、一度だけ鳴った。振り返ると、いた。
やわらかな茶色の、長い髪。あやのだ。やっぱり、可愛いな。それだけが浮かんだ。
「ごめんなさい。みさちゃんと話し込んじゃって」
「そんな。呼んだのは俺なんだし、気にすることじゃないよ」
「よかった。それで、お話ってなにかしら?」
いざとなれば、自分は落ち着いている。そう思えた。言葉も、詰まりはしない。
「疲れてるところに、ごめんね。その、こなたさんから聞いたんだけど」
「泉ちゃん?」
「うん。峰岸さん、彼氏がいるって、ほんと?」
あやのの表情が、少し強張った。それはそうだ。告白されようというのは、今のでわかったはずだ。
「ええ。いるわ」
自分も、緊張してきている。クッションを入れよう、と思った。
「変なこと、聞くかもしれないけど」
「…なに?」
何とか、言えそうだ。遠まわしでもいい。その方が、お互い傷つかない。好きってことを、ただ知ってもらえれば。
「峰岸さんは、その彼のことが好き?」
「まこと君、なにが言いたいの?」
はっきりとした返しに、まことは少し驚いた。こういうところも、あるのか。
気持ちが、一歩退がった。
「だから、言ったままだよ。その人が、好きなの?」
「それは、いけない?」
険しい声。終わった。そう思った。たった今、結果がでたのだ。
こんなものだ。予想した通りじゃないか。頭で軽くいなしても、じわじわと苦さがこみ上げてくる。
ただ、それも思ったほどではない。直接伝えなかったのが、やはりよかったのかもしれない。
しかし、この煮え切らない感じはなんなのか。
「ううん。ありがとう。おかしなこと言って、ごめん」
「…いいわ」
それで、どうしよう。自然な会話に引き戻してから、別れたい。ふられたが、丸く収まった。そういう形にしたい。
「それでさ、峰岸さん。全然違う話なんだけど」
返事がない。なにかを、言わないと。そうだ、昨日。
「昨日のことでさ。ちょっと」
「昨日?劇のこと、とか?」
「うん、そう。その…とりあえず、お疲れ様」
「うん、お疲れ様」
「本当に。そのことで、俺、ひとつ謝らなきゃいけなくて」
なにを喋ってるんだ。こんな話に、意味は無い。
「…どうして?」
「あのさ、ちょっと言い辛いんだけど、最後の…つまり、キスシーンで」
また、返事がない。なんなんだ。空気に、押しつぶされされる。こうならないために、遠回しな伝え方をしたはずだ。なのに。
嫌な汗が出る。喋ることしか、逃げ場が無い。
「キス、出来なかっでしょ?それで、脚本に反しちゃったから」
なぜ、それを謝るのか。キスをしなかったのは、なぜだ。あやのの為じゃなかったのか。
それすら、隠す。それは、自分を裏切ってはいないか。だからって、どうしたら。
あやのが、自分を見ている。どこか、哀れむような視線。
ふと、冷めたような気持ちになった。悔しさが、滲み出てくる。人を好きになって得るものが、こんな視線だけなのか。
適当に折り合って、自分を騙したまま、全て胸にしまい込むのか。一体、何のための告白だったのだ。
キスシーンを思い出す。あの時の自分。何も考えていなかった。それで、いいんじゃないか。心の底が、熱くなる。しかし、これを解き放ってもいいのか。
後悔しないこと。誰かが、そう言っていた。なら、自分は。
あやのが、黙って立ち去ろうとする。その瞬間、決めた。
待てよ。誰のせいだと思ってる。こんなに好きなのは、誰のせいだ。わからないなら、教えてやる。
「峰岸さん」
今から、話を戻す。こう言えば、戻せるのだ。
「話、戻すよ」
「え?」
驚いた表情。声が大きいのか。顔が怖いのか。どちらも、どうでもいい。考えるのは、辞めた。
「最初から、これだけを言うつもりだった。好きだ、峰岸さん。俺は、君のことが好きだ」
「あの」
「ここに、呼び出した。それは、峰岸さんが好きだからだ」
「…困るわ」
「困れよ。俺も、困った。どうして、泉さんと喧嘩したと思う?キスシーンの脚本を読むたびに、君の顔が浮かんできて、台詞どころじゃなかった。
本番でキスしなかったのも、峰岸さんに見られたくなかったからだ」
「待って」
「嫌だ。さっき峰岸さん、なにが言いたいの、って言ったよね。俺は、こう言いたかったんだよ」
「言ったら、怒るわ」
多分、本当だろう。それでも、気持ちは退かない。恥ずかしさもなにもない。体の芯が、ただ熱い。
「彼氏と別れて、俺と付き合って欲しい。彼氏より、俺を好きになって欲しい」
「やめて」
あやのの声が、荒い。それも、愛おしい。
「今の彼氏より、俺は君のことが好きだ」
「いい加減にして。あまり、勝手なことを言わないで頂戴」
「勝手さ。さっきまで、勝手じゃない言い方を考えてた。誰かが傷つくかも、って。でも、そんなんじゃ伝わらないんだよ。
なら、俺はどこまでも勝手になる。どうやったって、始めから勝手な気持ちなんだ。誰が傷つこうと、もう知ったことじゃない。
君が傷つくなら、俺が全部飲み込んでやる。ここで断られても、絶対あきらめない。俺は」
そう、俺は。
「俺は、峰岸さんが欲しい。君を、奪っていきたい」
あやのは、もう喋らない。顔が赤い。泣きたいからか。
知らずに、肩を掴んでいた。
「ずっと待ってる。でも、待たない。君の心に、居座り続ける。そしていつか」
いつか。いつまで、かけても。
「必ず、俺を好きでたまらなくさせる」
見つめる。青い瞳。潤んではいるが、涙は流れない。これほど近くで見るのは、初めてだ。
うん、綺麗だな。