眼鏡編
「…すごいな。俺ら、ホントに会ってるよ」「なに言ってるのよ、そっちが言い出したくせに」「いや、そうなんだけど。実際に2日連続で会ってみると、なんか違和感というか」「わかる気もするけど…」「やまとに会うのは、たまの楽しみって感じだったからさ。贅沢ってあんまり続くとバチが当たりそうじゃない?」「そう。じゃあ、やめにする?」「…まあ、2連チャンくらいならセーフでしょ」「はいはい」 つとめて冷静な言葉を使いながら、やまとは先にたって歩き出した。 ただ、顔が赤くなっているのは自分でもわかる。 こうが主催した祝賀会から、一晩しか経っていない。 カラオケでさんざん盛り上がり、その後の食事会の席で、まことからふたりで会いたいと切り出されたのだ。 半ば冗談なのはわかっていたが、別にいいけど、と口からこぼれていた。 本当は、別にいいどころではない。そこからは一日中、顔がにやつくのをこらえていた。「映画でよかった?一晩じゃなにも浮かばなくてさ」「全然いいよ。こうがね、お勧めの映画があるって言うの。ほら、あれ」「小神あきら初主演」「それじゃなくて、隣」「…時代劇?」「うん。昨夜電話したら、絶対に観ろって言うから」「渋い趣味をしてらっしゃる」「でも、感動するんだって。悲恋ものらしいんだけど、こうってその辺りは見る目があるから」「先に俺と観ちゃって、八坂さん怒らないの?」 怒るわけがない。まことと観るように言ってきたのも、こうなのだ。 なにか企んでいる気もしたが、せいぜい恋愛映画で盛り上げてやろうという程度だろう。 それくらい大したことではないし、正直にいえば望む所でもあった。 好きなだけでは、我慢できなくなっている。 電話だけで満足していたのが嘘のように、まことを強く求めていた。 もっと近く、そしてもっと長く。 日増しに欲張りになっていく自分を、やまとは信じられないような気持ちで見つめていた。 なにかのきっかけで、告白したい。そういう時、まことが映画に誘ってきた。 なにかが背中を押しているような気がする。打ち明けるなら今日だろうと、やまとは密かに決心していた。「あ、意外とおいしい。最近はポップコーンにも色々あるんだね」「もう、食べながら歩かないの」「この辺でいい?あんま前だと観づらいし」「うん、いいと思うけど」「それにしても、キャラメル味もいけるもんだ」「それって、かなり定番だと思うけど」「食わず嫌いっていうか、塩しか認めたくない意地があってね…」「ふうん。男の子って、意地とかそういうの好きよね。全然理解できない」「だけど、ずいぶん変なのもあったね。お雑煮パスタ味だっけ。あんなの誰が頼むんだか」「食べた人、知ってるけど」「…八坂さん?」「じゃなくて、ひよりちゃん。二人で賭けをして、こうが勝ったそうよ」「…女の子同士でなにやってんだか。で、味はどうだったの?」「訊かないでほしいッス、だって」「やっぱり?」 会話に、ふと間が入った。まことの方を見ると、携帯電話の電源を切っている。 やまとも自分の鞄を探り、眼鏡を取り出した。「…あれ、メガネ?」「うん。時々使うの。知らなかった?」「知らない。ねえ、かけてみてよ」「言われなくってもかけるけど」「こっち見て」「…別に面白くはないよ?」「…うわ、うわぁ」「な、なによ、失礼ねそんなに変?」「いや、なんというか。…うわぁ」「もっ、もういいよ。今日は使わない」「待って、そのまま。えっと、写メ、写メ。電源入れなきゃ」「やだ、撮らないでよ」「ダメ?じゃあ、もっとよく見せてよ」「ねえ、少し落ち着いて。一体なんなの?」 そうは言ったものの、落ち着いていないのはむしろこちらだった。 ぶつぶつと漏らしながら、まことは一心にこちらを見据えている。 それどころか、眼鏡を外すのを止められたはずみで、手まで掴まれてしまった。 汗が出てくる。うまく、ものが考えられない。ひどく息苦しいが、その息苦しさを心が求めている。 まことがいる。その眼が、自分を見ている。手を、握られている。頭の中が、次第にそれだけに染まっていく。 言いたい。あなたが好きだと、言ってしまいたい。言わないと、窒息してしまう。 そう思い口を開いたが、なぜか声が出ない。まるで、心臓を強く握られているようだった。 なにもかも、よくわからなくなっている。わかるのは、自分がまことに見られているということだけだ。 その眼が、不意に逸れた。どうして、と思った次の瞬間には、ブザーの音が聞こえていた。「…始まるみたいね」「そ、そっか」「ごめん。その、あんまり似合ってたもんだから、つい。なにか言わないと、わけわかんないよね」「…少し、びっくりしたかも」「いや、ホントにごめん」 照れ隠しなのか、まことはすぐにスクリーンに向き直ってしまった。 仕方なく、こちらも正面に視線を移す。それで動揺がおさまるはずもなく、 冒頭の宣伝などはまるで頭に入らなかったが、本編が始まるとさすがに意識は移った。 こうが勧めるままに選んだから、物語の筋などは全く知らない。 時代劇などまるで興味がないが、実際に見ているとなかなかに面白かった。 しかし、物語が中盤に差し掛かると、なにやら雲行きが怪しくなってきた。 まこととの間に流れる空気が、目に見えて重苦しくなってしまったのだ。 確かに、恋愛ものではある。台詞も演技も、心に響く。 ただ、あまりにラブシーンが多い。というより、あからさまな絡み合いが、そこかしこに挿入されている。 その辺りの描写は、はっきり言ってポルノに近かった。 本当のポルノなど観たことはないが、目の前のそれはポルノと呼んでもいいものだろう。 まことが唾を飲む音が聞こえた。反射的に横を見ると、なんと眼が合ってしまった。 お互いすぐさま前に向き直ったが、そこで行われているのはポルノだ。 どこにも逃げ場がない。下を向いて耳を隠せばなんとかなるだろうが、どこかでこのまま観たがっている自分もいる。 隣には、当然のようにまことが座っている。 まこともいま、自分を意識しているのか。それを考えた瞬間、鼓動が一気に速まった。 顔を覆いたくなる。それでも、眼はスクリーンから離せない。 結局、エンドロールが流れカーテンが閉じるまで、やまとは固まったように前を見つづけていた。「お、終わったねぇ、やまと」「…うん」「とりあえず、出ようか。…えっと、ポップコーン残っちゃったね」「…うん」「もったいないけど捨てちゃおうか。それと、どっかでお茶でも飲もうよ。なんか死ぬほどノド渇いた」「…うん」「うん、じゃわかんないかもなぁ…」 完全に、空気を持て余していた。 まことの必死のフォローが有難い気もするし、かえって恥ずかしいだけとも思える。 喫茶店に入ってからも、まともな会話は出来なかった。 こうは、一体なにがしたくてあんなものを見せたのか。 あの通りにしろ、などと言うなら、冗談もはなはだしい。結局、タチの悪いいたずらだったのか。 自分の恋をそんな風に扱うなら、いくらこうでも許せなかった。 まことは、さっきからなにか考え込んでいる。彼も、きっとこうに対して怒っているのだろう。 泣きたかった。さっきから、自分のことが馬鹿みたく思えて仕方がない。―――――――――――――――――――――――――――― まことには、こうの言わんとしていることが如実にわかった。 結論からいえば、さっさとつきあってしまえ、ということなのだ。ずいぶん過激なものを見せられたが、 映画の内容はどうでもよくて、とにかくこちらの背中を蹴っ飛ばしたかったのだろう。 少し荒療治すぎる気もする。いまの雰囲気は、ひどいものだ。 あれだけの絡みをさんざん見せ付けられたのだから、当然だろう。 喫茶店にいるが、やまとはさっきからストローをくわえてうつむいたままだ。 気分を盛り上げるつもりでも、逆の効果にしかなっていない。 仮にいま告白しても、やまとはそんな気分ではないだろう。 それでも、こうはあの映画を勧めた。観終わったときの気まずい雰囲気など関係なく、 自分にさえハッパをかけられればよかったのだ。 つまり、たとえどんな空気になっていようと、告白すればうまくいくと思っている。 まこと自身、脈はあるな、と思うことはあった。ただ、自分の中に妙な引っかかりがある。 自分には大切な人がいて、他の女の子を好きになってはいけない気がするのだ。 こうにとっては、そういう足踏みがたまらなくもどかしかいのだろう。だからこそ、 押すのではなく蹴っ飛ばす方法を選んだ。 ここで言わなければ、もうデートなど出来ないかもしれない。 それほど、いまの雰囲気は重苦しかった。それも、こうの計算の内なのか。 本気でないなら私の親友に近づくなと、そう言いたいのか。 俺は、本気だ。口の中で、まことはそう呟いた。「やまと」「えっ?な、なにっ?」「俺は八坂さんに同情するよ」「…どうして?」「あとで、俺とやまとの両方に絞られるだろうから」「…そうね。…その、ごめんなさい」「なんで」「あんな内容だなんて、知らなかったから。私、こうがあんなもの見せるなんて、思わなかったの。もうなに考えてるのかわかんないよ…」「…なんでやまとが泣くの」 首を横に振って、やまとは顔を覆ってしまった。泣いている気持ちは、わかる。 楽しいはずの時間を、自分の不注意が壊してしまったと思っているのだろう。 誰が悪いかと言うなら、こうが悪い。しかし、そんなことにもう意味はなかった。 ほら、言えよ。そう囁かれた気がする。八坂さんは、黙っててよ。頭の中で言い返す。「あのさ、やまと。泣いてないで、こっち向いてくれないかな」「…ごめんなさい」「それはいいから。俺さ、あの子がなに考えてるのか、わかる気がするんだよね」「…どういうこと?」「俺たちをからかうつもりは無い、ってこと」「…全然わかんない」「昨日、歩きながら八坂さんに訊かれたんだ。俺はやまとが好きなのか、って」「えっ…」「そんとき、なんか曖昧な返し方しちゃってさ。それがもどかしくて、あんなもの見せたんだと思う。なんでもいいからはっきりしろって、八坂さんに耳元で言われたような感じだよ」「…あの…」「だから、はっきりする。俺はね、やまと」「まって」 聞こえていた。でも、無視した。一度止まったら、もう続けられない。「やまとが、欲しいんだ。どう言ったらいいかわからないけど、やまとが愛おしい。ひとりになると、いつもやまとのことを考える。電話を切るとき、デートでお別れを言うとき、どうしようもなく切なくなるんだ。もっと長く、出来れば、ずっとやまとと過ごしたい」「まこと、くん…」「いつから、って聞かれたら、正直わからない。はじめて声をかけたときかもしれないし、八坂さんに引き合わされたときかも。自分でも気がつかないうちに、すごく気になってた。でも、恋愛ってそういうものじゃない?だから、なんというか…俺、なにが言いたいのかな」「…なに?」「だめだな。本当は、ひと言でいいんだよね。ねえ、いままでのはナシでいいから、次だけ聞いてくれない?」「…うん」「…やまと」「うん」「好きだ、やまと。やまとがどう思ってるかは知らないけど、俺は君が好きだよ」「…うん」「ねえ。やまとは、俺のことどう思ってる?」「…うん」「うん、じゃわかんないかも」「………うんっ」 やまとが、また泣き始めた。拭ってやるにはテーブルが邪魔だ。それでも、手を延べてみる。 やまとはそれを、大切そうに両手で包み込んだ。「…ちゃんと返事してくれないと、俺、勝手に勘違いしちゃうよ?」「すこし…まって…」「いいよ」 返事は、はじめからわかっていた気がする。だから、いつまででも待てる。 両手で包まれた手を、そっと握り返す。やまとの手は、自分よりずっと小さかった。
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