例えば私は本が好きで、それは自身に様々な知識を与えてくれた。


  私は学校の知り合いにも思う様話しかけられない性格だったし、本来は友達付き合いで
学んでいけるようなことだって、本を読めばある程度は理解出来ていたつもりだったのだ
と思う。
  そこには物語があったし、それが人と人との関係の全てと言い切ってしまえば……その
辺りは言いすぎであるかもしれない。けれどどんなジャンルのお話であれ、一冊の本を読
めば一冊分の情報と知識は積み重なっていくものなのだと信じていたのだ。


  あとは、大好きな姉の存在。私はお姉ちゃんにべったりだった。年が離れている訳では
ないけれど、先に生まれたという事実だけで、私よりも数倍大人びていると感じられる。

  いつでも、姉についていけば間違い無かった。幼い頃に自分に特別な力があるのだと気
付いてしまった姉と私。姉はまず、みだりにこの力を使わないようにしようと教えてくれ
た。必要最低限、自分達の身を守る為に使っていけば、それで良いと。本は私に、力につ
いての知識だけは与えてくれなかったから、そういった部分は姉に教えて貰った。もっと
も其処だけは、姉自身も模索しながらのことだったけれども。


  身を守る為の闘いの最中、姉は右眼の視力を失った。それは、明らかな私のミスによる
もの。滅し切れなかった"異なるもの"の存在の終わりに、巻き込まれたせい。
  『どうか気にしないでちょうだい』と姉は言う。貴女が無事であったのならば、それで
良いのだと。だけどそのことは、私にとって精神的に耐えられるものでは無かった。多分
そのことが原因だったのかははっきりしないけれど、眼帯をつける姉の姿を眼の当たりに
した次の日の朝、私の左眼は光を映さなくなった。

「……」

  自分でも不思議になるくらい絶望的なところは何も無く、むしろ私の眼が見えなくなっ
たこと自体は至極当然であるように感じられた。だって、私達は"鏡の姉妹"。鏡に映る姿
のように、正確に姉の姿をなぞるもの。
  姉は私の状況を見て泣いた。その姿を見て、私も悲しくなって泣いた。自分の為の涙は、
多分私達は流さない。だけど、多分大切な半身とも呼ぶべき存在の為ならば、いくらでも
泣くことが出来る。私は、とある姉妹愛を描いた小説の物語を思い出したりしていた。



  彼はそんな私達とは、更に一線を画する存在なのではないかと、初めて逢ったときに思
った。優しそうな眼や、声。そんな表面に見える印象だけではなくて、何処かしら彼自身
の存在の雰囲気そのものに、何処か『悟っている』ような印象を受けた。


  そのときに彼が言っていた通り、私達は間もなく彼と『再会』した。私達はそれからす
ぐに、"異なるもの"と闘う組織的なグループに拾われて所属したけど、彼はそうしなかっ
た。"時"が来るまでは独りで闘うと言っていたから。たまに逢って連絡をとったりする程
度。それでも、初めて自分の姉以外に、信頼のおける存在が出来たと思って私は喜んだ。



  そして今は夜、ある病院の一室に居る。彼は肺の病気で、余命幾許も無いことは、元々
本人の口から聞かされていた。

「……頼む、薔薇水晶」

「……でも、ジュン……」

「いいんだ。別にお前のせいで僕は死ぬ訳じゃない。終わったらまたここに戻ってくるさ。
  ま、賭けになるっていったらそうだけど、ある程度勝算はあるよ。魔術師の"知"も、
  伊達じゃないってことかな」

「……」

「ちょっと辛い役かもしれない……それは本当に申し訳なく思うよ。だけど、お前にしか
  頼めないからさ……失敗したらしたで、それは僕の寿命だよ」

  そう言ってジュンは苦笑いを浮かべた。彼は何を考えているのだろう。名も知らぬひと
の為に、どうして彼は命を投げ出すような真似が出来るのか。私も姉も、組織に属してか
らは、自分達の力をひとの為に使っていく道を選んだことになる。だけど……

「桜田君、何度も言うようだが……君自身は"魔術師"では無い。だから君が、そこまで責
  任を負おうとする必要は無いのではありませんか?」

「そうですね、白崎さん。でも、"だからこそ"なんです。"だからこそ"、僕がこうやって
  考えること自体は、それは僕の意志によるものなんですから」

「……」

  命をある天秤にかけて、それが釣り合って然るべきものは何なのだろう。それはやはり
命か、またはそれに等しいもの。今彼の中で、己がまさに救いたいと願う存在が、自分の
それよりも重くなっているような気がしてならない。だけど、そんなことは在るのだろう
か……?

  私は、病室内に"虚ろなる街"の空間を展開した。明かりは元々点けていなかったものの、
白く清潔的な病室が、廃墟のイメージに塗りつぶされる。


「薔薇水晶……」

  姉が心配そうな顔をして私を見ている。だけど、ジュンの頼みをやすやすと断る訳には
いかない。それに考える時間が多いと……自分自身の決意が、鈍る。

  ジュンは眼を瞑った。皮肉なものだと思う。彼の寿命が近いが故に、もうその魂は実体
を離れかけ……それだけに、存在の"解放"がしやすいだなんて。



『……"鏡の姉妹"が一人が命じる……観念の終わりを示す、"虚ろなる街"にて……

  汝の観念は……その実の肉体から、ひと時の"解放"を得る……』



     ザクン



  小さな小さな、音だった。だけどそれは、この"虚ろなる街"の中に、よく響いて……

  この音が魂を身体から切り離すものなのだとしたら、……それはあまりにも小さすぎると。
  そんなことを、私は思った。




【ゆめまぼろし】第九話 命の天秤





  私が"虚ろなる街"の展開を終えて、元の病室の空間になった後。ジュンの胸に突き刺さ
さっていた一本の紫水晶は、今は無い。全く『力』を持たない者がこの有様を見ても、た
だ意識不明になったいるようにしか見えない筈。

  その横には、宙を浮いているジュンの姿がある。

「……これで、まずは第一歩だな。ありがとう、薔薇水晶」

「……」

「しかし変な感じだな。こうやって眠ってる自分の姿を見るってのも」


  私の解放の"アメジスト"は、彼の観念の存在を実体から"解放"した。そして肉体の方は、
……言わば仮止め。一つの解放は、一つの存在が"囚われる"ことによって為されるイメー
ジだと彼は言った。夢の"世界"で磔にされた身体は、現実の世界で終わることが出来ない。
"世界"の観念に、囚われてしまうから。

  多分このままにしておけば、今眼の前で眠っているジュンの肉体は老いることすらしな
いだろう。何しろ眼の前にある身体は、ジュンであってジュンでは無い。人形のようなも
のだ。本当の肉体は、"虚ろなる街"の建物の中に在る。ここでベッドで横になっているの
は、それに付随したイメージ。それを仮の器として、白崎さんの力によってここへ持って
きた。何年も経てば周りは違和感を抱くかもしれないが、彼自身『そんなに時間はかから
ない筈』と言っている。 彼の身体は今、『永遠に生きながら、同時に死んでいる』こと
になる。

  だけど、やっぱり彼が言っていた通り、何もかもが賭け。私がちょっと加減を間違えて、
実体の存在そのものを『殺して』しまったらどうするつもりだったのか。


「その辺は心配してないよ。信用してるし」

「……心の中、読まないでよ……」

「あ、悪い。まだちょっと勝手がわからないな」

「それにしても桜田君。君も無茶なことを考えるものですね……」

「ああ、まあ。"虚ろなる街"は、観念の終わりの街でしょう? 実体の存在の方は多分
  あそこで"終わらせて"おきさえすれば、多分かたちはそのまま残ります。むしろあの場所
  じゃないと駄目なんでしょうけど。実空間でやったら多分僕は普通に死んで終わりです。
  言ったでしょう、勝算はあるって」

「いや、それにしてもですね」

「……完全に生きてる状態じゃ、駄目なんですよ。だけど僕が死ぬまでにはまだ時間がある
  ようだから。最初雪華綺晶の"鏡"で映してもらって、観念だけ取り出すのもアリかなと思
  ったんですけど……それだと生きてる身体の方にすぐ引っ張られちゃいますし。

  薔薇水晶の"アメジスト"が刺さっている内は、僕は戻れません」


  ……白崎さんの言ってることはもっともだ、と思った。常人の考えることでは無い。これ
も彼は"運命"のひとことで片付けてしまうつもりなのか。

「……仕方ありません。あなたに託しましょう。もっと時間をかけて他の方法を模索してい
  る時間は無さそうですからね……薔薇屋敷の件については、我々もフォローさせて頂きま
  す。それでもいいですね?」


「お願いします、白崎さん。ありがとう」

「では、今から君を薔薇屋敷の中へ送りましょう。今は"庭師"が担当になってますが……
  先代の"庭師"が張った結界が残っていますからね。外から入るのは容易ではありません」

  そう言って白崎さんは、くらい"兎の穴"を開く。

「この先が目的地に通じています。……しかし、君の存在は"指輪"にとってイレギュラーと
  なる。"指輪"の存在によって因果律は乱されましたが、その乱れた状態で今という時は
  存在し、流れているのです。君のこれからとる方法で……不測の事態が起きても、しょう
  がないですよ」

「それでも、僕はやらないと。"魔術師"が……あと水銀燈が、それを伝えてくれた。そして
  自分の意志を以て僕は動く。自分が確かに救える存在は、スルーするわけにいかないじゃ
  ないですか。……言ってて恥ずかしいですけど……それに」

  ジュンは、"兎の穴"を見つめながら言う。

「それに。全てを救える存在なんて、無い。多分そういうのは神様の役目なんだろうけど、
  そんな神様はとうの昔に死んじゃったんですよ。……前も言いましたけどね」


――――――


  ジュンが"兎の穴"に飛び込んでから、私達三人も別な穴を通って病院を後にする。

「……今日はゆっくり休んでください、お二人とも。明日すぐに、という訳にもいきませんが。
  そのうち一日くらいはゆっくり休暇でもとって下さい」

「有難うございます、白崎さん」

「……」

  手を振って、別れる。私と姉は、暗い空の下、家へ向かって歩き出した。
  ふと空を見上げてみると、雲に隠れていた月が私達を照らしている。満月には足りず、少し
形が欠けていた。


「……お姉ちゃん……月、綺麗だね」

「そうね、薔薇水晶」

「……」

「……」

  それきり、無言。姉は私が元来無口な性格であると知っているので、無理に話しかけてこよ
うとはしない。
  お姉ちゃん、という存在。私の、半身。姉が居なくなったら、私はどうなってしまうだろう。
その存在の終わりと同時に、私もやっぱり居なくなってしまうのが正しいのだろうか……?


『運命、ってやつかもしれないな―――――』


  ひょっとしたら、私とジュンは似ているのかもしれないなどと思った。私は姉の為なら命を
投げ出すことだって出来るに違いない。だけど、それは自分自身も守った上のことで。もし私
が居なくなってしまったら、姉はきっと悲しむ。だから、もし本当に自分の命と引き換えに姉
が助かるのだという状況ならば躊躇いはないだろうけど、なるべくならどちらも一緒に居られ
る道を模索したい。

  彼は、私が"解放"の紫水晶を解除して……もとの身体に魂を戻したとしても、きっとすぐに
死んでしまう。それくらい彼はぼろぼろなのだと、……身体こそ元気に見えたけれども、ちっ
とも健康では無いこと位はわかった。あんなに存在が虚ろになる程に、彼は病んでいる。

  ジュンの運命。ジュンの意志。それを考慮に入れたって、彼自身家族だっているのに……ど
うして彼が、その運命に飛び込まなくてはいけないのか。

  さっきも考えていたこと。――命の重さを、量る天秤。一つの命は、別な命か、またはそれ
に等しいものでしか購えない……いや、それすらも等価ではないのかもしれなかった。
  彼には、"魔術師"の犯した責任が、負荷として加わってしまっていたから……

  もっと、ジュンと色々な話がしたかった。彼がたまに逢ったときにしてくれる話は、今まで
私が見たどんな本よりも興味深かった。哀しい話をしたあとは、それを補ってくれるかのよう
に優しい話をしてくれた。私は――


「っ…………」

「――薔薇水晶……」


  涙が零れる。泣くのは、きっと哀しいからだ。お姉ちゃんの右眼が見えなくなった時だって、
哀しかった。お姉ちゃんが泣いてるときも、やっぱり私は哀しかった。

「薔薇水晶……泣か、ないで……」

  お姉ちゃんも、ぽろぽろと涙を零している。――私が泣いちゃ、駄目なんだ。

「……ごめんなさい、お姉ちゃん。私達は私達で、闘わなきゃいけないものね……」

「――そう。私達は、足掻く者ですから……ジュン様も、それはきっと同じなのです。

  それに運命は、決まりきった状態であるからこそ。その舞台で輝くには……きっと努力が必要。
  今は、願いましょう。

  そして私達は、自分達を必要としてくれる人たちの為に……闘いましょう」



  月は何時の間にか、また雲に覆われて隠れてしまった。この辺りには街灯が少ないから、
一気に道が暗くなったような感じがする。

  手を、握った。お姉ちゃんも握り返してくれる。私達は手を取り合って――たとえどんなに
暗い道でも、歩き続けなければならない……




――――――――――――――




「ふぅん……流石は"策士"ってところかな。だけどまあ、殆ど意味はないと思うぞ。
  それがわかったところで」


  眼の前に居る幽霊は、そんなことを飄々と言ってのける。……何を、考えている?
でも、私がどんなに考えを巡らせたところで、彼の心の内を読むまでには至らない。

「……何の為に。貴方はこの屋敷へやってきたのかしら」

「"何の為に"?」

  ちっとも可笑しくなさそうな乾いた笑みを浮かべながら、彼は言う。むしろその眼は、
表情とは裏腹に酷く寂しいそうな色を浮かべていた。

「……僕の意志を、叶える為にだ」

「意志、とは何のことかしら」

「金糸雀。お前にも仕事を手伝って貰ってる以上、話さない訳にもいかないんだろうな。
  ――それにお前に限っては、誤魔化しがあまり通じそうにもない」

  ふぅ、と。溜息をつきながら、彼はぽつりぽつりと話し始めた。

「僕は、真紅がつけている指輪を作った"魔術師"の血を引いてる。そして今、僕の観念の中に、
  "魔術師"の魂も含まれている」

「――――――!?」

「存在が"濃すぎる"って言ってたよな。今僕は、二つ分の魂が含まれてるから、そのせいだろ。
  身体の方も、確かに生きてるよ。まあ殆ど半死だけど」


  それで、か。彼の幽霊である状態にあった、特徴。それは完全に身体から魂が離れたので
は無く、この世に存在を残している――所謂『幽体離脱』している時に見られるもの。

「殆ど見えないけど……その糸のようなもの。それが貴方の本体に繋がっているというのね」

「――そこまで"視える"のか。これは僕が紡いだ"旋律"の糸――全てを終えた後は、身体に
  戻るつもりだしな。あ、この糸を追おうと思っても多分無理だぞ。現実世界には繋がって
  いない」

「……」

  彼には彼の考えがあって、今の状態を選択したということには間違いないだろう。それを
組織の上層部は知っていて、黙認した。
  何故、止めなかったのか。私がその場にいたら、きっとそうしたに違いない。いくら指輪
の宿主を守る為とは言えど、自分の命――またはそれに近いものを。こんな風に使うことが
倫理的に許されるものか。

「――許されるかどうか、って基準は、所詮は感情でしかないだろ」

「っ!」

「心の中を覗くのは好きじゃないんだけどな。僕は今こういう状態になっている以上、
  真紅は必ず救う。その思想だけは邪魔される訳にはいかないんでね。

  言うだろ? 『思想の価値は、勇気の量で決まる』」

  ……ウィトゲンシュタインの言葉か。確かに彼は、勇気ある者かもしれない。でも……


「……でも。貴方がその哲人の言葉を借りるなら、私もそれに倣うかしら。

  貴方の思想……その意思が、例え"善き"ものにしろ"悪しき"ものにしろ。それが"世界"の
  『事象』を変えうることとだとして、その『事実』を変えることは出来ない。

  貴方のやっていることが――報われるとは、限らないのよ?」

  ……だけど、だからこそ私達は足掻くのだけれど。一つ、救える存在を救う為に。
だから私自身、この言葉を発すること自体が矛盾であることは感じている。そう言った
意味でウィトゲンシュタインの思想自体は偉大かもしれないが、この部分だけは賛同
するには足りない。

「現代哲学の談義じゃあ、お前には敵わないな。昔のものであれば僕も色々語れるん
  だけど。何しろ頭の中に誰かさんの"知"が共有されてるんでね。

  まあちょっと補足するなら……お前はその後に続く言葉も知ってるんだろ?
  だけどそれを言わないだけだ」


「『世界は、意思によって全く別の世界に成り得る』……」


「そう。ある運命によって決まっている状態に、僕はこうやって飛び込んだ。
  変えられるさ。真紅をこのまま死なせたりはしない」

「……死ぬ!? このまま悪夢と闘っていけば、少なくとも宿主は無事な筈じゃあ……!」


「指輪の存在の終わりが、近いんだよ。それに僕がこうやって指輪に関わっていることも――
  少なからず影響してるみたいだな。"異なるもの"は多分明確な意志を持ってそれを
  邪魔しようとしてるのかもしれない。

  指輪の存在の終わりと一緒に――多分宿主も道連れだ」

  馬鹿な。そんなことって……

「だから僕が居る。あの観念から作られた指輪……僕がその存在を真紅と共有して、いずれは
  全て僕が請け負う。それは観念の存在――幽霊だからこそ出来ることだ。

  真紅からちょこちょこ力を貰ってるけど、一気にやると多分真紅の身体が保たないからな。
  お前達が派遣されてきたのはそれに関連してだろ。あいつが"異なるもの"にやられちゃって
  も良くないし、かと言って僕が現実世界で闘い続けるのもまずい」

「貴方の存在そのものが、磨り減っていってしまうから?」

「そう。指輪もある程度宿主を守ってくれるみたいだけど……それは"魔術師"に感謝しないとな。
  最悪"世界"の中での戦闘は"庭師"に任せられるけど。
  僕が消耗しすぎると、結果的に真紅からまた力を分け与えてもらうことになる。

  度を過ぎると。真紅の身体も危ない」


  最初に逢った時の違和感が解けていくような感じがする。だが、……納得したわけでは、無い。


「どの辺から怪しいと思ってたんだ?」

「初めて逢ったときかしら。何だか貴方、私を知っているような素振りだったから」

「ああ……そうだっけか? あの絵みたいな"異なるもの"と闘った時か。全く聡いというか……
  あれは大したこと無い。僕がお前を知ってただけだよ。白崎さんから組織のメンバーの写真は
  見せてもらってたから」

「でも、みっちゃんのことは知らなかったんじゃないのかしら」

「"観察者"か。あいつの写真は無かったんだ。だって、撮影した本人なんだろ?
 顔は知らなかったんだよ。それだけ」

「……そう。とりあえず疑問はまだあるけど、もういいかしら。でも貴方、それを真紅には――」

「言うつもりは、無い。『知らない方が良い事もある』って、かっこつければそういう言い方になる。

  ……けど結局は、」


  言いかけて。其処で私は初めて、廊下の影に居た人物の気配に気付く。
  話に集中しすぎていた。その人物に予想がついてしまって、それが外れていることを私は願う――

「……」

「……真紅」

  そして、その願いは叶わない。一番聞かれてはいけないひとに聞かれてしまった。明らかに
私のミスだ――――

「……本当なの?」

「……」

「ジュン、答えて頂戴。……貴方に今、指輪を作った"魔術師"の魂が入っているの?」

「……真紅、これは」

「……どうして言ってくれなかったの? 貴方はまだ生きているの? どうして私の為にそんなことを……」


「――――私は、どうすればいいのっ!」


  その時、薔薇屋敷全体が、酷い揺れを見せる。

「あ、―――――――――」

  頭を両腕で抱えて、膝から崩れ落ちる真紅。

「真紅っ!?」

  その姿が、見る間に異質なものに変わっていく。
  身体が黒く、黒く――ただの影になってしまうかのように――――


「真紅、自分を否定するなっ! いいんだ、お前は生きていても―――
  お前は生きて……自由になってくれ……!」

  響く、叫び声。真紅は光を失った瞳でこちらを向いているけれども、返事をす
ることが無い。そして、どんどんその姿はくらくなっていって……

「這い寄る絶望―――これが"存在の終わり"か……」

  ジュンが苦渋の表情を浮かべる。

「絶望……」

  私は己の失策を呪った。指輪は宿主を、ともすれば喰らってしまおうとしてい
るのかもしれない。宿主の不安と自己否定につけこんで、呑みこもうとしているのか。

「なっちまったもんは仕方ないぞ、金糸雀。自分を責めるな」

「でも……」

「僕がさっき言いかけたこと。僕は結局怖かったんだよ――真紅に、本当のことを
  伝えるのが。だって、僕が今はこの呪いの元凶みたいなもんだからな」

「……―――」

「でも、いずれは伝えなくてはならなかった。真紅の意志が、最終的に必要になるから……
  遅かれ早かれ、こういう状況になっていたよ」

  私はそれに対し、返す言葉が何も浮かばない……


  光の糸が真紅の指輪から紡ぎだされて、それが彼女の身体を取り囲んだ。すると
影の進行は食い止められたようで、辛うじて彼女の身体の色を残した状態になる。
  ただ彼女は完全に倒れてしまった。まだその眼は開かれている――何も其処には、
映っていないだろう。意識は、覚醒しているのか……?
  抱きかかえて、廊下の隅に横たえさせる。

「――来るぞ」

  屋敷全体を覆うプレッシャー。――酷い。この場に立っているだけで、心臓を握り
潰されてしまいそうだ。

  すると、彼女の身体の上に、夢の"世界"への扉が開いた。……でも。


「なんで、いくつも扉が開くの……!?」

  一人の人間が持ちうる"世界"への扉は、一つの筈。どうしてこんな……!

  私とジュンは、思う様に動くことが出来ない。固唾を飲んで見守っていると、
その扉はやがて融合していき……一つの大きなくらい穴になった。

「……指輪に纏わる者達の意識……」

「どういう、ことかしらっ……?」

「代々受け継がれてきた指輪……その全ての宿主とその関係者を、守りきれた訳じゃないってことだろ」


  怨念、という言葉が頭を過ぎる。真紅の父親も、彼女を襲ったという。だが、こんなこ
とは今までは無かった筈。もしこれが、『イレギュラー』であるジュンの存在の影響に因
るものだとしたら――

「――だな。予定には早いけど、ここで決着をつけた方が良さそうだ……

  "異なるもの"が、溢れ出るぞ。全て、潰す……真紅を、守るんだ……!」


  空間が、歪む。現実である筈のこの空間は、"世界"に飲み込まれてしまったかの様。


「カナ、……ちょっと、これって……!」

「金糸雀っ!」

「どうなってるですっ! 結界がぶち破れそうですよっ!!」


  駆けつけてきた三人。屋敷の様子にもそうだが、更に真紅の姿を見て驚いている。

  こうなることも、運命だったのか……? このまま真紅は"存在の終わり"に巻き込まれる。
私達も多分、無事では済まない。

  私はジュンと眼を合わせた。彼は静かに頷く。


  そう……運命という自然状態が、例えそう『決まっている』ものだったとしても。
  それに抗うのが、私達だ。

  ここに居るということすら、決められたことだとしても。


  そして出来ることなら、ジュンという存在も救いたい。彼もまた、巻き込まれた者の一人。


「……仕事ってわけね? カナ。私達は……やるしか、ないよ!」

「――わかったかしら、みっちゃん!」


  困難な状況を、打開せよ。私はいつだってそうしてきたじゃないか。
  納得出来ていなくったって。
  何時だって闘いになれば、全力を尽くしてきた――――!


「私が指揮を執らせてもらうわ。目的は――今眼の前にある扉から通じる"世界"と、
  館の敷地内に居る"異なるもの"の殲滅かしら」

  頷く。今度は、全員。


  屋敷が、虚ろな空気で満たされていく。私とみっちゃんは眼鏡を外し、"実眼"を解放した。



  ――薔薇水晶が以前ぽつりと零していた、命の天秤。


  人の命を量る天秤が、もし存在するとしたのなら。
  命と『運命』が、釣り合っているとしたのなら。


  その天秤とやらを、――均衡を、崩す。


  そして。指輪を巡り廻り続けた、運命の歯車。
  その終焉を肌に感じながら、



  ――――――闘いは、始まった。

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最終更新:2006年06月03日 00:53