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  "幸福"。……それを追い求めた男の、――昔話。



  男は、思索を好む人間だった。哲学の本を貪る様に読んでは、"幸せ"とは、
一体何なのであろうか? ということを考えた。
  自分の周りに置かれた環境は特に何の変哲も無く、それなりに幸せといえ
ば幸せだったのかもしれなかったが、それを自覚することが出来ず、そして苦
悩した。
  辺りを見渡せば、まともな職にもつけず、日々食べるのも困るような貧し
さに苦しむ人はあまりにも多すぎた。

  世の中すべての人々が、幸せになることを神は許してはくれない。いつし
か男は、そんなことを考えるようになる。世界はもっと幸せに満ちてもよいの
ではないか? だが、実際にそれが実現されることは無い。それはゆめやまぼ
ろしの類だから。

  男は勤勉で、しかも普通のひとには無い不思議な力があった。血統として
受け継がれてきた、魔術師としての力。神話の時代、魔術や呪術の類は世界の
観念として受け入れられていたから、大手を振って自分の存在を誇示すること
が出来た。

  しかし男が生きていた時代にはそれがもう通用しない。魔術が出来るなど
と嘯こうものならば、あっという間に異端扱いされ、差別を受けることになる
だろう。男の一族は隠れるように時代を生き、しかしその血だけは脈々と受け
継がれていた。

  夢の中に入り込む、力。時代の裏で、男の血族は人々を助けることもあっ
た。自分達の力を必要としてくれる者達の力になる――それが一族の訓示だっ
た。


  悪夢というものは不安定に、しかし確実に人々の"中"――すなわち中にあ
る"世界"に存在するのであり、それはこころを蝕む。

  通称、『祟り』とされる不吉な出来事には、霊媒師やそういった類の者達
がそれに立ち向かう。いんちきな商売でそれを成り立たせる輩も多かったが、
実際に力を持つ者達も勿論居た。

  現実の世界で、そういった不吉なものに抗う者達とは違い、男の一族は、
夢の中に入り込み、悪夢と直接闘う術を持っている。
  そうやって悪夢に抗い、闘うということ。それを繰り返すうちに、男は希
望に満ちた夢を欲するようになる。幸せな夢を、もし自分の"世界"の中だけで
はなく――実際の空間に反映することが出来たなら。それは人々が幸せになる
ための足がかりになるのではないだろうかと。

  魔術を操れる者達は、それが神に近づくためのものであると思う者は多か
った。世界の中で、ある実現を果たすために……奇跡に至る業。その男に関し
て言えば、それを明確に意識していた訳ではなかったけれども。


  そして男は研究に没頭する。幸福、の観念。それを実現させる魔法を作るために。


  だが、男は気付かない。哲学そのものは他人の思想であり、それを重ねて
学ぶことによって時に眼の前にある事象を蒙昧させる可能性を孕む。
  結局はその行為も、自分の知的欲求を実現させるという目的のもとで、行
われているのだということに。
 また、例えその男自身が、神になるつもりは無かったのだを言っても。観念
を実世界に体現する――この世の因果律を無視した上でそれを実現させようと
する男の行為が、神そのものに逆らうものであるということにも。


  ……その時点では、気付かない。



【ゆめまぼろし】第五話 魔術師



  夢に入り込む力そのものを、他所で体現するにはどうすればよいか。ただ
徒に思考を繰り返すだけではいけない――理論と実践は、ひとつに統合される
べきだと、過去の哲人も言っている。
  道具を用いようと、男は考えた。自らに与えられた力――これを実世界へ
体現させるための媒体。それを作れば、きっと自分の魔術は奇跡に至る。
  そもそも、そんな道具が実現出来たなら、それそのものが奇跡と呼んで差
し支えないほどの代物。それでも彼は諦めない。最早彼の眼には、自らに課し
た目的しかなかった。一工程の考察と生成を繰り返しては失敗し、また次の考
察サイクルへ移っていった。

  それは人里離れた山奥で行われた。自分は一族の末裔だったけど、悪夢と
闘うことと平行しながら自らの考察を進めていくのは煩わしかった。――悪夢
と闘うこと自体は、何も自分だけが為せることではない。魔術師は、時代に隠
れるようにして必ず何処かに潜んでいるもの。そういった仕事は彼らに任せ――
自分にしか出来ないことを、為さなければならない。

  何時の間にかひとと接することを辞めたものの、こと悪夢と闘うことに関
しては突出した力を持っていた彼を、一族は放っておこうとはしない。まして
彼は一族の後継者に位置する人物だった。その一族の末裔たる、最後の、一人。

  だからこそ彼は逃げた。そして逃げながら、研究を続けた。目的を、果たす為に。


  そして、それから二十余年。若々しかった身体も、四十路を過ぎるまでに
なっていた。一族からは神の業を成す者、と言われていた自分。それは闘いの
最中にいつしか呼ばれるようになった言葉。その業の全てを結集し、彼はつい
に一つの"奇跡"に辿りついた。

  ひとの夢を、この現世(うつしよ)に現す指輪。有体に言えば、ひとの願望
を叶えることが出来るような道具。これがあれば……人々はもう、夢の中の虚
像に苦しめられることは無い。何故なら、目覚めてさえいれば。そこには幸せ
に満ちた世界が広がっているのだから。


  作られた指輪はひとつだけ。彼は本当に久しぶりに街へと向かった。

  街は相変わらず貧富の差に喘いでいたし、華やかな表通りを抜けてちょっ
と路地裏に入れば、それは明らかに眼でみてとれるような有様だった。

  その路地裏に入ったときに、彼はそこで倒れていた一人の浮浪者らしき人
物を見つける。とりあえず、倒れていた男に彼は食べ物を分け与えた。

  その浮浪者曰く、自身はもとはある事業で栄えた財閥の当主だった。だが、
世の中の移り変わりは斯くも激しい。時代の波に揉まれ、結果的にその事業は
他の者に奪われてしまい。自身はこのような姿まで身をやつしてしまったのだと。


  魔術師は考えた。長い年月をかけて実現した魔法も、たったひとつだけだっ
た。二十年余りでそれを達成しただけでも、それは大層なことであったかもしれ
ない。けれど、これひとつ作るのに費やした工程だけでも十年以上はかかってい
るという事実。新たに生成を始めてしまえば、研究の成果をこの眼で確かめるこ
とは出来ないかもしれない。

  ならば、この眼の前で。落ちぶれているひとりの浮浪者に、この指輪をあげ
よう。そうして、彼が幸せになる様を確かめられればそれで良い。

  自らが取り組んだことに対して、彼はその成果が欲しかった。それが、彼の
中の矛盾。いくら崇高な理念を持っていたとして、年月は何時の間にかその目的
をすり替えていた。


  彼は指輪を浮浪者に託し――街に住むことにした。隠遁の生活では、その成
果を実感することは出来ないから。


  その時代を見るにつけて、彼は遂にことを成し遂げたと言える。あの落ちぶ
れた浮浪者は再び自分の夢を実現し、大きな事業を成して繁栄を極めていたよう
だった。


  何故、彼が自身に指輪をつけなかったのか。その理由は、彼が"幸せ"とは何
か、という疑問が研究の発端になったことに帰する。彼自身は、例え自分に幸せ
が実現したとしても、それがもし実感出来なかったらと思うと恐ろしかったのだ。
そして、それもまた……どうしようもない矛盾だった。
  ただ、己の研究の成果を求めて、それを他に向ける。そこを考えると、彼は
ある種狂人の域に達していたのかもしれない。


  彼はその出来に満足だった。自分の成したことは、無駄ではなかったと――
そうして今度は、自らの平穏を求めることにした。

  そして間もなくある女性と出会い、一人の子をもうけ……悪夢とは無縁の生
活を送る。彼は妻と子供を愛したが、自分が研究を始める前と同じように――生
活そのものは、何の変哲もないものだった。
  だが今自分が研究の為に姿をくらましたら、それこそ妻と子供は悲しむのか
もしれない。そう考えると彼は、自分の生活を崩すような真似は出来なかった。


  時は流れ、移り変わる。さらに十余年の月日が経った。年の離れた妻はまだ
若いものの、彼自身は更に年をとった。子供も将来は美しい女性になるだろうと
思わせるような成長ぶりで。家族を見守りながら……平々凡々とした毎日を送っ
ていた。


  その頃から、何やら不穏な話を耳にするようになる。
  この辺りで財産を築いていた財閥に、不可解なことが起きているのだという噂。

  その時、男はその情報に関して特に気にすることがなかった。少し齧った情報
によると、その財閥はかつて自分が指輪を託した浮浪者のもののことであったが……
心配することなど無い。
  何しろ、自分が至った奇跡を実現しているのが、その当主だからだ。自分の夢
を実現する指輪の魔法を以て、彼がまた落ちぶれてしまうことなど有り得ない。

  だが、それも次第に無視できないものになってくる。不可解な出来事は、
やがて不幸と呼んでよい程のものとなっていた様子だったから。
  そして更に追い討ちをかけるように。その財閥に所縁のある者達から、全
く関係の無い者達――ただ、その周辺に住んでいるだけ、と言ったような。そ
んな所から、"悪夢"の話を聞くことになる。夢で見た不吉な出来事が実際に起
きてしまうのだと。一人二人が言っていたのなら戯言で済んだことが、そうは
いかない状況にまでなっていた。

  男には、悪夢が出てくる大元の"世界"へ通じる入り口を開くことが出来た
し、またそれが発生するときの気配を察知することが出来る力があった。
  その気配が――もはや尋常な数ではない。

  馬鹿な。どうして。自分はもう長いこと悪夢とは無縁の生活を送ってきた。
――どうして、今になってそれが広がる?


  そんな話から避けるように、彼は家族を連れてその街を遠く離れることに
した。彼は……逃げたのだ。最早悪夢とは関わりたくはない。街は暮らす分に
は豊かだったけれど、そんな豊かさももういらない。ただ家族と、平穏に暮ら
していたい――。


  そんなことを考えたときに、彼はやっと気づく。『家族と平穏に暮らした
い』ということは、それが自らが望んでいる……しかし、自分の為と同時に、
自分以外の者の為にも望んでいること。

  送られていた平穏な日々は何の変哲もないものだったけれど、今それを
失いたくないと思った。これこそが、自分の求めていた幸せなのではないか――?

  そして彼は、自分がどれほど愚かだったのかを知る。何も変わらないと
いう日常そのものが、実は幸せと呼んで然るべき奇跡だったのだと……そん
なことに気づくのに、自分はどれほどの時をかけたのだろう。
  自分の夢を、容易く実現させることも、勿論"奇跡"の業だ。だが、それ
は因果の流れに逆らうものだったのだろうか……街から遠く遠く離れた村で、
彼は考えるのだった。

  それは、少し……いや、もう手遅れであったけれども。


  ある日。顔色の優れない娘に彼は話しかけた。娘もその年で十三歳にな
るというところだった。

  この頃、よく夢を見るのだと。それは何だかとても怖い夢で。真っ白で
何も無い世界が、ぼろぼろになった街になり……何かひとのようなものが、
ある場所へ向かってふらふらと歩いていくのだ……そんな内容だった。

  "悪夢"という言葉が脳裏をよぎる。娘は勿論、妻にも自分の魔術師とし
ての力を明かしたことは無い。だが、娘がもしそれで苦しむと言うのなら……
また闘うことも辞さない。そう考えた。


  娘は続ける。そしてその言葉は、彼を驚かせるのに十分だった。

「お母様の、夢の中に入り込む夢……ちょっと、おかしいかなあ?」

「夢の中に……そして、どうしたんだい?」

「お父様は、笑わないの? お母様にお話したら、『それは面白い夢ね』って
 言ってちゃんと聞いてくれなかったのに」

「笑わないさ。お父さんは、そのお話が聞きたいなあ。聞かせてくれるかい?」

「うん!」

  娘は、父親のその言葉が嬉しかったのか。零れるような笑顔を見せた。

  そして娘は、語り始めた。まず、その『夢の中に入り込む夢』を見たのは、
三日ほど前の出来事。夜に物音がしたので、何か怖くなり……自分の部屋を出て、
両親が眠る寝室へやってきたと言う。

「お母様の寝ているベッドの上に、くらいくらい穴があいているの。あれはきっ
  と、お母様の夢に通じる入り口なんだわ」

  そして、それに吸い寄せられるように……その穴の中へ飛び込んだ。

  朝が来ると、自分はちゃんと自分のベッドの上で目覚めたから……きっと
その時のことも夢だと思った、ということだった。

  娘が、あの時"世界"の中に居た? ――確かに三日前、彼は妻から悪夢の
気配を察し、その中へ飛び込み戦闘していた。だが、娘が居るなどとは、まさ
に夢にも思わなかったのである。
  娘は夢を見ていたのではない。彼女は、確かに母親の"世界"へ入り込んだ。

「夢の中で、何かあったのかい?」

「そこは真っ白なの。本当に真っ白よ。

  お父様も居たのよ。私がそこを歩いているとね、お父様が変な……私がいつ
  も見ている夢に出てくる、ひとのかたちみたいなのと一生懸命闘っているの
  が見えた。私はそれを遠くから見てるの。お父様、かっこよかったよ。

  けど、……また新しいやつらがわらわら出てきて、私がお母様の夢の中に
  入ってきた入り口に向かって、ゆっくり歩いていくの」


  同じ。自分が闘っていた"世界"――光景も、状況も、同じ。

「……そして?」

「なんとなく、『ここからこの人達を出しちゃいけない』って思って、私闘うの。
  お父様もそうしているように見えたから。

  私、すごく強かったんだよ?

  空を飛ぼうと思うと、翼が生えてね……黒い黒い翼よ。ほんとは白が良かった
  んだけど。――それでね、羽根を飛ばして、それを全部やっつけちゃったんだあ」

  娘が見ていたもの――悪夢の観念、"異なるもの"。それがひとのかたちを模
し、"世界"の外へ出てくるのを、容易く片付けたということか。娘には、自分の
一族の――魔術師の血が、確実に受け継がれている。妻はもちろん普通の人間で……
しかし、何の修行もすることなく、戦闘相手としては最も厄介とされる人間型の
"異なるもの"を屠るほどの力を、娘は持っている。

  あどけない表情を浮かべる娘の眼を見て、彼は言った。


「水銀燈――お前は、神様が遣わせた……天使なのかもしれない」


  男の作った指輪は、――確かに幸福の観念を実現したのかもしれない。だが、
それは不完全だった。そもそも、人間という存在がそれを成そうとした時点で、
『不完全にならざるを得なかった』と言える。
  無理矢理に、あるひとりの幸福を実現していった結果。因果律は乱され、
幸福な夢の跡に悪夢が増幅されていっているのだと、男は悟る。そうでなければ、
あの街で起こっていたような悪夢の増幅は考え辛かったし。平々凡々と暮らし、
特に目立った欲も無く暮らしている自分達の家の中で、"世界"へ通じる入り口が
開くなど……あってはならないこと。


  天罰だ、と思った。いくら自分が優秀な魔術師で。神の業をもったとしても……
自分は神では無いのだから。
  古来より、神に近づこうとした魔術師は、様々な"奇跡"と呼ばれる所業を
成してきた。しかし。魔術師がそうやって起こす"奇跡"には、必ず代償を必要とする。
  その代償は、物だったり。時にはひとの命だったりする。魔術師としては
当然の――知っていて然るべき原理を、男は忘れていた。……いや、本当は気
づいていたのかもしれない。だけどそこから、眼を逸らしていた。

  自分の目的を、果たすためだけに生きていた頃。
  ……その目的とは、一体何だったのだろうか? 
    自分の才能に、酔っていただけではないのか? 

  彼は自嘲した。

  よって、男が成した"奇跡"は『結果的に』奇跡ではない。奇跡は、代償を
発生させずに実現するが故の呼び名であって、彼のした研究は――所詮、神に
近い"業"でしかなかった。

  その代償が今、返ってきた。至極正当な、因果の流れとして。
  それは、その男と。娘が辿るであろう――運命。

  今、妻の夢の中に悪夢が発生しているのは……自身が乱した因果律が、そ
れを呼び寄せているためだと思った。では、自分が指輪をもたらした一族は、
一体どうなってしまっているのだろう……


  彼は後日、指輪を渡した男が住んでいる街へ赴いた。悪夢の増幅は杞憂で
も何でもなく、実際に起こっていることなのだと、自覚せざるを得なかった。

  財閥の当主が住んでいた屋敷は、無人だった。一年ほど前に、引っ越した
という。
  この屋敷の近くに住むものと、あとは内部での反抗。次々と起こる不幸な
事件、事故に……いつしかその屋敷の風評は、『呪われた一族』とまで呼ばれ
るようにまでなっていた。

  指輪の力を使ったとはいえ、他を追い落とすように成長していった一族。
その中に孕んでいた妬みや恨み。そして、彼らの幸福の影で不幸せになって
いった者達の無念。
  もし彼らがまだここに住んでいたとしたら、そういったもの達の気配が
渦巻いていたことだろう。

  彼は最早、完全に自分の過ちを呪った。魔術の成果を見たかった、ただ
それだけのことで。自分はどれだけのことを仕出かしてしまったのか。

  近くを通りすがったひとに聞いてみた。この屋敷の当主はどうなったのかと。

「屋敷の主人? お館さまですか、引っ越す直前に亡くなりましたよ。私
  はあの屋敷の使用人でしたから。まあ、引っ越すのを機に辞めさせてもら
  いましたよ……もう関わりたくないですねえ」

  ……死んだ。ならば、あの指輪はどうなったのだろうか。なんとか探し
出して、破棄してしまわなければならない。

「指輪? ああ、あの薔薇の指輪。お館さまがつけていたものでしょう」

「そうです。どうなったか知りませんか」

「あなた、その指輪の噂、何処から聞いたんですか?」

「……まあ、風の噂で」

「そうですか。……大変でしたよ。お館さまがお亡くなりになる暫く前でした
  ねえ、あの方の息子様の指に指輪がうつっちゃったんですから。今はその息
  子様が当主な筈です。

  魔法の指輪だって、お館様は仰ってたんですけどねえ。……よくわかりませんが」

「引越し先が何処かわかりませんか?」

「遠くないですね。まあ何か事業経営も不振になってきてたんで、この屋敷を売
  り払って……それで向こうの隣町に、新しい屋敷を買ったと聞いてます。余裕
  があるんだか無いんだか、本当にわかりませんよ……」

「そうですか、ありがとうございます」

  指輪の存在の観念が……次代のにおいを嗅ぎ取って、継承されたということ
か。つまり、自分の乱した因果律は――指輪の主の死を以てしても、繕われない。
指輪の力が、独り歩きしてしまっている。

  とにかく彼は、その隣町に行ってみることにした。一年程前に引っ越してき
た、それなりに大きな事業を持つ一族がいるかということで、聞き込みを始めた。
  それは思ったよりも長くかからずに済んだ。引っ越してきた当初、何やら不
吉な噂が漂う屋敷として人々の記憶に残っていたからだった。

「最近は、そういう話は聞かないけどねえ。けれどこの間また新しい事業が失敗
  したみたいだし。旗色はよくないみたいだよ」

  彼はその屋敷へと向かう。指輪を持つ者に会えれば……今の自分に出来るこ
とと言ったら、悪夢と闘い、そして果てる程度。

  屋敷へ踏み入れようとした瞬間、そこに奇妙な違和感を感じた。

「これは……結界?」

  かつては自分も扱っていた……自身の一族の様式とは異なるものの、見慣れ
たそれが屋敷に張り巡らされている。
  これは、悪夢が。"異なるもの"が、外へ出ないようにするための処置。それ
は屋敷の中へ続くほどに、厳重になっている様子だった。屋敷を戒める、薔薇の
茨の結界。これだけ強いものを施せるということは、請け負った人物は相当の使
い手であるのだろうと考える。

「……"世界"へ入り込む魔術師を、見つけたということか」

  男は屋敷から、踵を返した。既に守られているこの屋敷ではなく、まずは家
族に――そして娘に、伝えなければならないことがある。



――――――



「水銀燈、こっちに来なさい。大事なお話があるんだ」

「どうしたのお? お父様」

「水銀燈。――前にお前は、お母さんの夢の中に入り込む夢、を見たと言ったね?」

「うん、話したよぉ」

「それは、夢ではない。お前は、他のひとの夢の中に入り込む力を持っている。
  そして――その中に現れる、変なものたち。"異なるもの"と言うんだ――
  それらと、闘う力も」

「"異なるもの"?」

「そう。それは、悪い奴らなんだよ」

「へえ……」

  娘は半信半疑な様子だった。成長したと言っても、娘はまだまだ子供。こんな
突拍子も無い話をしたとして、どれだけ信用されるかわかったものではない。それ
でも彼は話を続ける。

「水銀燈。これはお前に定められた――お父さんの一族の血を引くお前にも、課せ
  られてしまったこと。これから、その"異なるもの"と闘っていくことが必要にな
  るだろう。お前は、そのために……今よりももっと、強くなりなさい。その方法
  は、お父さんがこれから教えよう。

  いずれ、悪夢に苦しむ人々を助けてあげなさい……そしてまずは、お母さんを
  守るんだ。いいね」


  そして、……指輪を渡した一族や、家族を巻き込んでしまった自分も。相応な
責任を取る。
  一生をかけて間に合うものでは無かった。ひょっとしたら娘の代、そしてその
次の代と、受け継がれてしまうことなのかもしれない。

  そして、もしそうなるのならば――娘は『正しく』因果の流れに巻き込まれ、
指輪の呪いに関わる闘いにも加わることになるだろう。


  自らの、使命。夢の中に入り込み、悪夢と闘うということ。一度悪夢が街の
中に氾濫した時、彼は逃げた。自らの幸せを保つ為に。
  そう、それを守る為だけに他を犠牲にしたのは、何も指輪の主だけでは無かった。

「お父様……? なんでお母様だけを守るの?」

  男の寂しげな表情を察して、娘は話しかけた。

「……お父様、居なくなったりしないよね?」

  涙目になっている娘の頭に手を置いて、彼は言った。

「大丈夫。お父さんはまだやることがあるんだ……お父さんは、自分でも闘え
  るからね。そして、……水銀燈。お前も、勿論お母さんも。お父さんは守るよ」


  娘は、自分に黒い翼が生えたと言っていた。通常、翼と言えば白を思い浮
かべるもの。
  白い翼の天使は、神の遣い。だが、娘の黒い翼は――因果律を乱した自分
に下された天罰の象徴のようにも感じると、男は思った。

  神に、近づきすぎた報い。――それを告げる、"黒き天使"であると――

  一度生み出してしまった指輪――その存在を、容易に消すことは出来ない。
だが、いくら指輪の力が独り歩きしているといっても、それを生み出した親は
彼自身。ならばその存在を戒める方法も、……思い当たる節が彼にはあった。

  それが成功するかはわからない。けれど、やらなければならない。それが
自分が果たすことが出来る、魔術師――異名、"神業級の職人"としての、最後
の責任。

『自分達の力を必要としてくれる者達の力になる』。あの時、悪夢が氾濫して
いたあの街から逃げ出して。いや、もっと前から逃げていたのか――

  その、自分の一族の訓示を破った――罰。



  運命の歯車が廻り始める。
  男は生きる限り闘いながら、ある施術を自らに施しておいた。


  少しでも、"世界"で闘う者達の助けになるように。
  指輪の主に課してしまった呪いに、抗う為に。


  そして――死して尚。妻や娘を、……守る為に。
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