「薔薇水晶ぉッ!」
未だに絡まる残りの糸を巻き付けたまま、大地を蹴る。身体が軽い。
まるでピンボールをロケットエンジンで押し飛ばしているかのよう。
薔薇水晶の脇を抜ける。その擦れ違いざまに、鋏を横一線に振り抜いた。
回避される、だけど本当の狙いは彼女じゃない。
僕はそのまま足を止めず、ジュン君を捕らえている水晶柱に、その勢いを乗せた鋏を叩き付けた。
粉々に砕け散る水晶、解放されたジュン君の身体は、その場にゆっくりと崩れ落ち――
いや、立った、自分の足で。そして左手で、自分を貫く水晶の槍を掴み、折り砕く。
薔薇水晶はここでようやく、僅かな変化だったけど……驚きの顔を見せた。
「どうして、紫倒針封<スタンスパイク>が……そうか。
蒼星石の一撃で、それにも亀裂が入ったのね……」
「ふ、ぐ……え、結魂繋契<エンゲージプロミス>……!」
―― ジュン君の指輪が輝き、生まれ出た糸が彼の傷口を塞ぐ。
これが彼の力……アーティーファクト……? くっ、まだ記憶が混乱しているのか……。
覚えがあるようで覚えがない、知らない筈なのに知識がある……頭がはっきりとしない。
とにかく、僕の鋏と似たような物なのだろう。今はその程度の認識だけで十分の筈だ。
……しかしこの力が、僕の与えた傷を癒していたのだろうか……凄い。
穴だらけだった彼の身体は、あっという間に元の無傷な状態へと復元されていく。
何処も彼処も血に染まったまま……それが現実感を漂わせつつも、眼前の魔法に感服してしまう。
と、僕はここで初めて気付いた。彼の『形』がおかしい―― その右腕が、無い事に。
辺りに目を配れば、彼に足りない物は、すぐ足元に転がっていた……
生理的な嫌悪感から吐き気を催すが、堪える。駄目だ。薔薇水晶の行動に遅れを取る訳にはいかない。
するとジュン君の光の糸は、その右腕に伸びて彼の身体と縫い付けた。
あんな怪我さえ治せるのか……これほどの奇跡となれば、畏怖すら禁じえない。
しかし一度は接合された右腕は、力無くぶら下がったままで―――― 再びすぐに、本体と別たれた。
その事に、誰よりも驚いていたのは……僕の見た限り、ジュン君自身だった。
もう一度、光の糸が彼と右腕を繋ぐ。
だけどやっぱり同じ。右腕は動かず、熟れ過ぎた果実のように、ぼとりと地面へ落ちるだけ。
「……何度試した所で、その右腕は多分治らないよ、ジュン……」
「どうして……これもお前の力なのか、薔薇水晶……」
「ううん……そうじゃないからこそ、なんだよ……。
あの状況下にあった貴方は、あまりの痛みの連続で気付かなかったのだろうけど、
私は、貴方の右腕を狙ってはいない―――― その怪我は、私の所為じゃない」
「な……ッ!」
言い切る薔薇水晶。どういう事だと無言で問うように、ジュン君は目を見開いて彼女を見る。
それは僕も同じだ。だって記憶が確かなら、僕との決着が着くまで右腕は健在だったのだから。
なのに、薔薇水晶に捕まったあの状態で、他の誰の攻撃を受けていたとでもいうのだろうか。
……それとも、もしかして僕が原因だと言うつもりなのか。
そんな、僕が何も出来ずに無力化されたのは、薔薇水晶だって知っているだろうに。
「……ヒント……蒼星石は、どうして貴方を助ける事が出来たのかな……?」
「……!!」
「得物は鋏、戦闘スタイルは近接型……だけど、運動能力は私達と同等程度……
真紅のように使い勝手の良い力でなければ、私のようなバリエーションに富んだ力も使っていない。
そんな彼女が、薔薇乙女<ローゼンメイデン>の名を語るに足る理由は……?
今まで一度たりとも発揮されず、貴方の縛めを脱した、彼女のアーティーファクトの力とは……?」
ジュン君は―――― 僕を見た。真っ暗な瞳で。呑み込まれてしまいそうな、奈落を思わせる瞳で。
……本当に、僕の所為なのか?
どうやらジュン君も何かに思い至ったみたいだけど、やっぱり僕は何もしていない筈だ。
何度記憶を辿ったって、僕は、彼を助ける為に、身を縛っていた糸を切って飛び出して……
まさか、水晶を砕いた時に? あの一撃で、彼の右腕も吹き飛ばしてしまっていたのか?
なんて事だ、助けたいと思って、その通りに行動しただけなのに、そんな……待て。
それは何だかおかしくはないか? だってこの鋏は、今までに何度もジュン君を傷つけているのに、
なのに、今回に限って治らないというのは……別に変な使い方だってしていないし……。
「……なぁ、蒼星石」
「―――― え?」
「お前……どうやって、あの糸を切ったんだ?」
それこそが、この事態を信じられない最大の疑問である。正にそう言いたげな雰囲気だった。
「ぼ、僕を縛っていた糸の事だよね…………この鋏で、ばちん、って……」
僕は答える。ジェスチャーを交えて正直に。
きっと今の彼は、嘘を許さないだろうという確信を持って。
「……それで、切れたのか?」
「……うん」
「そんなので……そんな事で、切れた、切られたのか……!
僕の糸を、あの糸を! そんな簡単な方法で断ち切った……お前は、切ったんだな!?」
ジュン君は震えながら蹲る。
僕にはそれが、自分のしでかした事の重大さをそのまま指し示しているように思えて、心が痛んだ。
「……薔薇水晶」
「…………」
「僕は本当に馬鹿だよな……この鈍感さには、自分でも腹が立つ思いだよ。
すぐに気付かなければいけなかったのに。誰よりも早く気付かなければいけなかったのに。
ははは……くそ、なにやってるんだかな……はは、はははは……ははははははははははははっ!」
左腕で地面を殴り、彼は顔を上げる―――― 信じられないぐらいに輝く、満面の笑みで。
「―― やった」
聞き間違いではない。その時、桜田ジュンは、確かにそう言った。
「やったやったやったぞ―― 真紅! 僕達は遂にここまで辿り着いたんだ!
長かった……なんて長かったんだ……ようやくだ、ようやく現れた、見つけ出した……!」
「……ジュン」
「どうしたんだ真紅、お前も笑えよ、笑う所だぜここは。
今までどれだけの時間を費やしたと思ってるんだ、二年間だぞ?
でも、今日、これまでの戦いは全部無駄じゃなかったと証明されたんだ。
喜ばなくてどうするんだよ、僕達には喜ぶ理由がある筈だ!
あはっ、はは、はははははははははははははははははははははははははははっっ!!」
雄叫びと呼んでも差し支えない狂笑が響き渡る。
ジュン君はたった一人、周りの全てを置き去りにして、感極まったように笑い続けた。
だけど僕は、酷いようだけど僕は、その発端が僕に関わる何かだという事に、恐怖していた。
彼の目に留まり、この狂気を呼び起こした事実に、僕は恐れを抱くしかなかった。
そうして一心不乱に、彼から逃げる方法だけを考えていた僕は、
当然、薔薇水晶の急襲に反応する余裕も無くて――――
「―――― え?」
そして僕が、遅れに遅れてようやく彼女の気配を察した時、全ての決着は着いていた。
眼前数センチにまで迫っていた、濃い紫色の刃先、それを止めたのは、自分が恐れ慄く青年。
彼は左腕を薔薇水晶の首元に押し付けている――
たったそれだけしかしていないのに、薔薇水晶の動きは完全に止まっていた。
「悪いな、薔薇水晶」
「…………」
「お前と戦いたくなかった。それは嘘じゃないけど―― でも、今更希望を失う訳にはいかないんだ」
そう言った瞬間、指輪が今まで見たものとは違う色の輝きを放つ。
同時に、頭の中に浮き出てくる言葉の羅列、何かの呪文に僕は支配された。
「薔薇乙女第五番が真紅の忠実なる従者、桜田ジュンの名の下に――――
今宵この時この場を以って、我が前に平伏す者の敗北を宣言し、その力の封印を乞い願う……」
……僕は知っている。ジュン君が呟く呪文の意味を。
それは勝者が行使し得る、戦いの終わりを告げる鐘の音。
「彼の者に仮初めの日常を、彼の者に安らぎの日常を……深く眠れ、二度と剣を持てぬ淵まで!」
「―――― は、あああああ……!」
言い終えると、薔薇水晶の身体もまた発光し、その光は彼女の内側へと収束するように静まっていく。
彼女は最後まで―――― 僕に向けて微笑んだまま、その場に力無く倒れ込む。
その身体に腕を伸ばし、支えてゆっくりと地面に横たえるジュン君。
まさか彼女を……思わず予想してしまった最悪の事態は、
彼の背中越しに聞こえた寝息から、杞憂に過ぎないと分かった。
「……お休み。薔薇水晶」
小さく呟くと、ジュン君は振り向いた。僕の方へと。
ああ、恐ろしい。その口元の歪みはなんだ、引き攣っているのか、それともやっぱり笑っているのか。
僕に向けて、彼は笑う、そこに読み取れるのは、僕が持つ何かに対する、喜びだ。
一体僕の何が、彼にこんな顔をさせると、あんな高笑いを上げさせるというんだ。
僕にそんな価値は無い、僕達の間にそんな繋がりは無い、その筈なのに……
「蒼星石」
一歩、彼が歩み寄る。逆に僕は一歩下がる。
また一歩、彼が近付く。僕もまた、彼から離れる。
そうしてまた一歩、彼は迫り、僕も同じだけ、距離を空けようとする。
だけど、正面への一歩と背後への一歩では歩幅が違い過ぎて、
彼は最後の一歩で間を詰めて、僕はもうこれ以上逃げられないと悟った。
「ジュン……君……?」
「……やっと、見つけたんだ」
桜田ジュンは、さっきも聞いた言葉を繰り返す。
真っ赤で、隻腕で、それでも笑顔の青年は、僕だけを真っ直ぐに見つめて、ただ事実だけを述べて、
そして、そしてそしてそして―――― 抱き締めた、僕を、抱き締められた、僕は。
「な、い、え、ええええええええええ……!!??」
「……もうすぐ、もうすぐだから、かしわば――――」
しかし僕の驚愕も意に介さず、いや、この様子では気付いていなかったのかもしれないけど、
ジュン君は、耳元で、消え入りそうな小さな声で、そんな言葉を呟いて――――
「―――― 落ち着きなさい、ジュン」
めり。そんな音を頬から立てて、真横に吹き飛んでいった、真紅の正拳突きを受けて。
絶句。こんな時に呟くべき言葉なんてあるのだろうか? 無い、なら今の僕はそうおかしくはない。
まぁ、拳を払って一息吐く真紅、墜落した場所で動かないジュン君、今尚夢の住人らしい薔薇水晶、
こんな状況の中、僕如きが少しおかしな真似をした所で、きっと誰だって見向きもしないだろうけど。
だからじゃないけど僕は、一言も漏らさず一動も忘れて、ただただ目を丸くするだけに尽きた。
この不条理な世界に置き去りにされている、哀れな僕の存在を示す為に、とにかく気付いて貰う為に。
それで誰かに気付いて貰ったとしても、所詮それまでの詮無い事ではあるんだけど。
―――― その一部始終を見つめていた何者かに、僕達は最後まで気付かないまま――――
これが、始まりの終わりだった。
思い起こせば短くて、だけど一生忘れたりはしないだろう、涙を流す蒼空のお話の。
第一章 ”薔薇水晶と蒼星石” 完
第二章 ”真紅と蒼星石” に続く……