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  『堂々巡り』
 
 
それは、下校していた途中のことだった。
夕食前の買い物客で賑わう商店街は、ひどく混んでいる。
それでも普段なら、何も気にせず突っ切っていくのだが、今日はそんな気分になれなかった。


  彼にフラれた――――


そのショックが、今も心の底に鉛のごとく沈み込んで、足取りまで重くしている。
告白すると決めてから一週間……思い詰めるあまり寝不足にすらなって、漸く決心したのに!
放課後の、誰もいなくなった教室で告白したとき彼の口から発せられたのは、
最も聞きたくなかった返事だった。


  ごめん。そんな気にはなれないんだ。


冗談じゃない。こんな言葉を聞くために、一週間も悩み続けた訳じゃないのに。
自分に魅力が無いことぐらい分かってる。だけど、僅かな可能性に賭けたって良いじゃない?
なのに……おそらくは今までの人生において最も大きかった決断が、
こんなにもアッサリ砕かれるなんて。

もう、笑うしかなかった。

 「はぁ…………なんて憂鬱なのかしら。明日、学校いけないかも」

気付けば、商店街の雑踏は近くまで迫っていた。
今は、まだ歩いていたい。
家に帰るのは、もう少しだけ気持ちを落ち着けてからにしたかった。
金糸雀は脇道に逸れて、人気のない路地裏を独り歩き続けた。何処をどう歩いたのか判らない。
ふと我に返った時、彼女の前に突如として現れたのは、看板のない古書店だった。
外見はとても見窄らしく、シャッターは上がっているものの開店休業に近い状態だった。

 「あれ? こんな所に、古本屋なんて在ったかしら?」

記憶にない。そもそも、此処はどこら辺だろう?
中学校の頃に越してきた街だけれど、土地勘は有るつもりだった。
しかし、目の前に広がる光景は全く見覚えのない世界。

 「迷ったのかしら。高校生にもなって、こんな所で迷子だなんて、みっともない」

もう日暮れが近い。辺りには夜の帳が、静かに降り始めていた。
傷心は簡単に癒えないけれど、取り敢えず家に帰ろうと思った。
今夜一晩、ぐっすり眠れば気分が変わるかも知れないし。
もっとも、こんな気持ちで眠れるかは甚だ疑わしいけれど。

 「恥ずかしいけど、そこの店で道を訊くかしら」

金糸雀は開店休業の古書店に足を踏み入れた。
店内は、とても薄暗かった。切れかけた蛍光灯が不規則に瞬き、気分を逆撫でする。
なんだか、静まりかけていた胸の疼きを掘り返そうとしているかの様な悪意を感じた。
こんな店、早く出たい。金糸雀は用事を済ませるべく、店主の姿を探した。

 「すみません。どなたか、いらっしゃらないかしらー?」

店の奥に控えめな声で呼びかけると、僅かな呻き声が返ってきた。
大方、暇を持て余した店主が居眠りでもしていたのだろう。
商売する気なんて、微塵も無いようだ。

 「あ、あの……ちょっと、道を窺いたいんですけど。構わないかしら?」

また、奥からくぐもった声が木霊のように返ってくる。
その声は、確かにこう言っていた。
 ――こっちへ来なさい。


奥まで入ってこいと言われても、正直、こんな小汚く暗い店の奥に進むのは躊躇われた。
心の中に、じわりと恐怖心が広がり出す。
けれど、その一方でフラれた腹いせに自暴自棄となる自分が語りかけた。
どうなったって良いじゃん。今の生活にしがみつく必要なんて無いわ。
だって――もう、昨日までの日常は壊れてしまったのだから。

 「あ、はい。お邪魔するのかしら」

闇の声に突き動かされて、金糸雀は店の奥へと向かった。
そして、カウンターの前で腕組みをする店主に出会った。店主の鋭い眼差しが、金糸雀を射抜く。

 「いらっしゃい。日常の非現実を求めしお嬢さん」
 「は? あの……なんの事かしら?」

なにか心を覗かれたみたいで、金糸雀は背筋を走った悪寒に身体を震わせた。
この、どこかウサギに似た顔のオジサンは、何を言っているのだろう?
妄想癖でもあるのか。

 「あのね。あたしが求めているのは、道のことよ。
  迷ってしまったものだから、商店街までの道を教えてもらえないかしら?」
 「ほぅ。それならば……」

店主は徐に立ち上がると、金糸雀の脇を抜けて、とある本棚から一冊の本を抜き出した。
それを、ずいっ……と金糸雀に差し出す。

 「? あ、あのぅ。これは?」
 「アナタの求める『道』ですよ」


  あたしの求める道? こんな本が?

まず浮かんだのは戸惑い、次に浮かんだのは失笑だった。
訊きたいのは帰り道であって、本の話ではない。
多分、この本は『道』という題名の小説か何かなのだろう。
このオジサン、暇すぎて耄碌し始めてるみたい。

 「あのね。ふざけないで欲しいのかしら。あたしが知りたいのは、か・え・り・道!」
 「勿論、解っていますよ。そして、その本こそアナタの帰り道なのです」
 (ああ、もうダメ。堂々巡りなのかしら)

これ以上は訊くだけ無駄だろう。でもまあ折角だからと、金糸雀は分厚い本の堅い表紙を開いた。
ところが、不思議と何か抗えない魅力に惹かれ、気付けば頻りに飛ばし読みしていた。
その時に、ある単語だけが紙面から浮かび上がって、金糸雀の眼から脳へと飛び込んできた。


  恋愛を成就する魔法


占いや魔法に心をトキメかせた事はあれど、本気で信じたことなど一度もなかった。
しかし、失恋の痛みを紛らす術を求めていた金糸雀にとって、
それはとても興味をそそられる呪文だった。
どうせ、壊れてしまった日常だもの。金糸雀の脳裏に、先程の声が聞こえた。

 「解ったわ。この本、買います。いくらなのかしら?」
 「ふふ……別に、お代など頂きませんよ。見ての通り、潰れかけたボロ屋なのでね」
 「だったら、尚更――」
 「構いませんよ。アナタが迷いを振り切って、元の笑顔を取り戻せるのであれば、
  喜んでプレゼントさせてもらいます」

店主は、頑として代金を受け取らない様子だった。




金糸雀の心は、さっきまでの意気消沈が嘘のように躍っていた。
いい物を手に入れたかも知れない。どうせ泣き喚く以外に心を慰める術を知らなかったのだ。
この本の内容を試すことで、明日からの新しい日常に立ち向かう活力を得られるなら、
是非、そうすべきだろう。無為に泣き明かすよりは、よほど建設的だと思えた。

本のことを考えている内に、いつの間にか駅前に辿り着いていた。まあ、結果オーライ。
いつもより少し遅いが、此処からなら目を瞑っていても帰れる。
早く帰って、この本を読んでみよう。
もしかしたら更に有用な魔法が記述されているかも知れない。
たとえば、運命的な出会い――とか。
白馬の王子様なんて信じてる訳ではないが、金糸雀だってお年頃の娘。
そういう人知を越えた強い力に憧れる気持ちが、無いわけではなかった。




――翌日の放課後

内側から施錠した化学室に蠢く、ひとつの人影。
金糸雀は独り、分厚い本を傍らに置いて実験を行っていた。
別に、補習とか部活の類ではない。
どうしても試したいことがあって、極秘に忍び込んでいたのだ。
ちなみに、施錠されていたドアはピッキングで開けた。

 「ふむふむ……ここで、これを混ぜる……のかしら?」

手元には薬包紙に盛られた粉末や、植物の幹や葉、生物の干物みたいな物から、
鉱物などが広げられている。
昨日、材料を集めるために徹夜で東奔西走して、ここまで準備を整えたのだ。
金糸雀は本の記述を辿りながら、順序正しく材料を混ぜ合わせていった。
ビーカーの中身は最早、何が原型だったのか判らないくらい、ドロリと変成している。
それに、なにやら妙な臭いも……。




金糸雀は、今にも踊りだしたいくらいに舞い上がっていた。
完成した薬を詰めた小瓶は、しっかりと封をして鞄の中にしまってある。
相手に恋心を抱かせるクスリだと、あの本には書いてあった。

でも、本当だろうか?
これを使えば、本当に期待通りの、めくるめく幸福の世界が広がるのか。
それとも――

 「……そう。やはり臨床試験は必要かしらね」

本番一発勝負なんて冒険はしたくない。では、被験者は誰が良いだろう。
自分とそれほど親しくない方が、効果は分かりやすい。
いっそ、その辺の通行人にでも使ってみようかとも考えたが、
それでストーカーになられても困るので止めた。
金糸雀は暫し悩み、やはりクラスメートから被験者を選ぶことにした。
それも、色香に惑わされやすい男子では駄目。同性の娘でなければ。




――翌朝

 「おっはよう。ねえ……柏葉さん、ちょっといいかしら」

金糸雀が白羽の矢を立てたのは、巴だった。実際、彼女とはそれほど親しくない。
ジュンとの繋がりで言葉を交わす程度だ。条件は申し分なかった。

 「これ、あげるわ」
 「ヤクルト300V? あ、ありがとう。でも、どうして?」 
 「元気なさそうに見えたから。乳酸菌、摂った方がいいかしら」

飲みなさい、巴! 早く薬の効果を見たくて、金糸雀は心の中で叫んでいた。
知らず、拳をグッと握り締めていた。

 「うん。じゃあ、もらうね。いただきます」

巴の細い指がヤクルトの蓋を剥がし終えるまでの時間が、金糸雀には永遠にも思えた。
だが、巧くいった。
注射器で開けてしまった微少な穴からヤクルトが漏れて、計画が発覚
してしまわないか心配だったのだ。
ここまで来れば、後は飲むのみ!

巴の可愛らしい唇が、ヤクルトの容器に近付いていく。いけ! そのままグイッと!
固唾を呑んで見守っていた金糸雀の前で、巴の動きが止まった。

 「あの……なんか、ジッと見られてると飲みにくいんだけど」
 「気にしちゃダメかしら。それより……早く飲まないとHRが始まるのかしら」
 「え、あ……うん」

巴が再びヤクルトを口元に運んだ矢先、彼女達の後ろから気のない挨拶が飛んできた。

 「おはよぉ~。ふぁ……眠ぃ……」
 「あ、銀ちゃん。おはようかしら」
 「おはよ、銀ちゃん。あっ、そうだ。銀ちゃん、ヤクルト飲む?」
 「ん? あらぁ。気が利くのねぇ、巴。ありがと~」
 「なっ……ちょっ!」

これは想定外の展開だ。
金糸雀が止める間もなく、水銀燈は巴から渡されたヤクルトを、
ごくごくとイッキ飲みして艶めかしい吐息を漏らした。


 「はぁ…………おいし。ん……あれ? なんか、胸の辺りが――」

水銀燈の身体が、ぐらりと前のめりになった。


水銀燈は、巴の肩にしなだれた。顔色も上気している。
どうやら薬が効き始めたらしい。

 「銀ちゃん! 具合悪いの? 保健室に連れていってあげる」
 「そうねぇ。巴ぇ、お願いぃ」
 「いいよ。ほら、肩を貸してあげるから、しっかり立って」
 「んふ……ありがとねぇ、巴ぇ。大好き~♥」

このまま保健室で二人きりにさせても良いのだろうか。
水銀燈の眼は、既に正気を失っている。
不慮の事故とはいえ原因は自分にあるのだから、やはり、自分も付いていくべきだろう。
何か、不測の事態に発展した時、直ぐにでも水銀燈を殴り倒せるように。
しかし、同行しようとする金糸雀を、水銀燈の冷たい眼差しが射抜いた。

 「貴女は来なくて良いわぁ。いい子だからぁ、教室に戻ってなさぁい」
 「で、でも、銀ち――――!!」

言いかけて、金糸雀は言葉を失い、身を竦めた。
水銀燈の紅い瞳の奥に、妖しい炎の揺らめきを垣間見たからだ。
それは、深い情念の炎。
いつもの水銀燈ならば決して見せない視線が、金糸雀に語りかけていた。


 『貴女は邪魔よ、お馬鹿さぁん』


嘘でしょお! まさか、こんな展開になるなんて!
巴にベタベタとくっつきながら遠ざかる水銀燈。どう見ても下心が見え見えだった。
二人の後ろ姿を、金糸雀は茫然と見送ることしか出来なかった。


 (あたし、知~らないっと)




だが、これで効能は分かった。
これは服用後、初めて見た相手を好きになるクスリなのだ。
意外に即効性だったのは、おそらく投薬量の問題だろう。
ヤクルト80mlに対して5mgの投与は、流石に多すぎたらしい。

 「となると……次は持続時間の問題ね。どのくらい、効き目が続くのかしら」

水銀燈と巴は保健室に行ってしまったから計測しようがない。
今から見に行くのも気が引けた。
こうなれば、もう一人くらい被験者になってもらおう。
金糸雀は偶然、近くを通りかかった薔薇水晶に目を付けた。
彼女なら、条件的に問題ない。

 (獲物発見。うしししし……)

机の中で手早く仕込みを済ませた金糸雀は、薔薇水晶の肩を軽く叩いた。

 「おはよ、薔薇しぃ。どうしたの、キョロキョロして」
 「あ……カナ。銀ちゃん見なかった?」
 「見たかしら。う~んと……何処だっけ。すぐ思い出すから、ヤクルト飲んで待ってて」
 「…………解った」(グビグビグビ……)
 「おおっ! 豪快なイッキ飲みなのかしら。まったく、おたくシブイぜ」

調子よく煽てながら、薬効が現れるのを待つ。
程なくして、薔薇水晶の頬が朱に染まった。
ここから計測スタート。一体、どのくらい続くのだろう。
三十分? それとも一時間?

がしっ!

腕時計のストップウォッチを起動させたところで両肩を掴まれ、金糸雀はビクッと身体を震わせた。
言わずもがな、薔薇水晶が掴んでいるのだ。
しかも、骨も砕けよといわんばかりの怪力で。

金糸雀を見詰める彼女の金眼は、爛々と異様な光を放っていた。
一線を越えた人間の眼差しほど恐ろしいものはないと、金糸雀は今更ながら思い知った。

 「あのぅ、薔薇しぃ。そんなに力を込めたら痛いんだけど?」
 「カナ……リア……私、もう――」
 「は? あの、ぐっ! 痛いっ! 放して欲しい……かしら」
 「Here we go――っ!!」
 「うひいいぃぃー!!」

薔薇水晶は頭上に金糸雀を持ち上げたまま、教室を飛び出して屋上まで駆け上がった。
なんという膂力。なんという脚力。
一体、この華奢な体躯の何処に、こんな怪力が秘められていたのか。
金糸雀は抵抗を許されず、給水塔の脚に鎖で縛り付けられてしまった。

 「ふふふ…………可哀想。身動き出来ない貴女は、とても可哀想」
 「そそ……そう思うなら鎖を解いて欲しいのかしら」
 「うふふふふふ♥」

どこから取り出したのか、薔薇水晶はムチを持っていた。

 「私が苛めてあげましょう」
 「ひっ! ひぃぎゃああぁぁー!」

一限目のチャイムが鳴るのと時を同じくして、金糸雀の断末魔が校舎の屋上に響いた。




それからジャスト一時間。薔薇水晶に投与した薬の効果が切れたのか、金糸雀は解放された。
とんだ目に遭わされたものだ。まあ、半分は自業自得かも知れないけれど。
だが! これで薬効と持続時間は分かった。後は、いつ、どうやって使うかだ。

 (うふふふふ…………これで! これで彼の心を鷲掴みにできるかしらっ!)

ボロボロのヨレヨレになりながらも、金糸雀は自分の計画が一歩、
最終目的に近づいた歓びに哄笑した。心さえ掴んでしまえば、こちらのもの。
一時間の内に既成事実を作って、二度と逃げられないようにするのだ!

 (何はともあれ、もう一度あのクスリを取りに行かないとね)

教室に戻ると、普段通りの休み時間が広がっていた。
薔薇水晶に至っては先程のことなどまるで覚えていないのか、ケロッとしている。

 (あれ? 銀ちゃんと巴……まだ帰ってないのかしら)

薔薇水晶に投与した分の五倍を飲ませたのだから、当然だろう。単純計算で五時間。
あの二人、今日はもう戻ってこないかも知れない。
金糸雀は自分の席に着きながら、胸中で密かに呟いた。

 (ゴメンね、巴。あたし、巴の分も幸せになるから。くくくっ……)




昼休みの間に、金糸雀は知人を通して、放課後に彼と会う約束を取り付けていた。
包囲網は徐々に狭まっていく。勿論、端から逃がすつもりなんて無かった。

 (あたしの告白を拒絶するなんて、許されざる罪よ。必ずモノにしてやるのかしら)

五限目の授業が終わり、いよいよ最後の六限目。
金糸雀はもう、放課後が待ち遠しくて仕方なかった。
こんなにも授業が早く終わらないかと祈ったのは、実に小学校以来だろうか。
最終目標までのカウントダウンは、もう一時間を切っている。

 (うう……なに、この胸の苦しさは。心臓バクバクしてきたかしら~!)

独り、ほくそ笑む金糸雀の肩を、誰かがポン! と叩いた。
誰だろう? ひとが折角、wktkな心地よさに浸っているところを邪魔するなんて、
無粋にも程がある。
不機嫌さも露わに振り返った金糸雀が見たのは、瞳に妖しい炎を宿した薔薇水晶の姿だった。
頬を朱に染めて、熱っぽい眼差しを自分に向けている。


 「放課後…………楽しみね♥」
 「――っ!!」

ぺろり……と舌なめずりした薔薇水晶を見て、金糸雀は漸く、自分の間違いに気付いた。
一時間なんかじゃない! 
このクスリの効果は、まだ続いているのだ。
現に、もう五時間が過ぎているにも拘わらず、水銀燈と巴は戻ってこないではないか。

もしかしたら、この先もずっと――?




どうしよう? どうすれば良い?
授業中、そればかり考えていた。
これ以上、薔薇水晶に付き纏われては、彼にクスリを盛るどころの話ではない。

結局のところ、あの本を読んでクスリを中和する術を探す他ない。
終業のチャイムが鳴るや、金糸雀はHRすら受けずに荷物を持ち、一目散に帰宅した。
あの本のどこかに、中和薬の製法も書いてある筈だ。そうでなければ片手落ちである。
ところが、自室の本棚を見た途端、金糸雀は目の前が真っ暗になった。

 「無い! 無いわ! あの本……あの本はどこっ!! 昨日、確かに、ここにっ!」

本棚にしまったのを、ハッキリと覚えている。
なのに、あの本は跡形もなく消え去っていた。
ご丁寧にも、あの本を抜き取った空白には、別の本が収めてある。

 「お母さんっ! あたしの部屋の本棚、掃除したかしら?」

慌てて階下に駆け下りて問い質したが、母も知らないと答えた。
掃除なんてしてない、と。
では、誰があの本だけを持ち去ったのか? いや、今は、そんな事どうでもいい。

 (どうしよう…………あれが無いと、銀ちゃんや巴、薔薇しぃを元に戻せない)

狼狽と不安で混乱した思考の中に、あの古書店が浮かんできた。
そうだ、あの店の主人なら、なにか解決法を知っているかも知れない。
いや、きっと知っている。
何故なら、あの本を自分に勧めたのは、あのウサギに似た顔の主人だからだ。

とにかく、もう一度、あの古書店に行ってみるしかない。 
金糸雀は慌ただしく靴を履くと、駅に向かって走り出した。




確か、こっちの方だった筈だ。
そう思って走り続けていたが、金糸雀はあの古書店を見付ける事が出来なかった。
あの時は俯きがちに歩いていたから、周りの景色もあまり見ていなかったけれど、
商店街から少し路地裏に入った所に間違いない……筈だった。

 (ああ……また、ここに出てしまったかしら)

何度目かの堂々巡り。金糸雀は疲労のあまり、その場にへたり込んでしまった。
どうして、辿り着けないの? 一昨日は、あんなにも簡単に行けたというのに。
もう、駄目なのだろうか。絶望感が思考を支配しかけた時、不意に背中をさすられた。
誰か親切な人が、路面に座り込んだ自分を心配して、さすってくれているのかしら?

 「あ……どうも、すみま――っ!!」
 「大丈夫?」

振り向いた金糸雀を見つめていたのは、瞳を妖しく濡らした薔薇水晶だった。
金糸雀の背筋を、冷たい汗が流れて落ちた。薔薇水晶の腕が、金糸雀の肩を抱き寄せる。

 「独りで帰っちゃうから、罰が当たったのよぉ。悪い子には、お仕置きしないとねぇ」
 「ひっ! や……やだっ!」
 「うふふ。こっちへ……いらっしゃい♥」
 「イヤぁっ! だ、誰かっ!」

必死に助けを求めたが、周りの人には、友達同士が肩を組んで、
ふざけあっている様に見えたのだろう。
誰一人として、金糸雀と薔薇水晶を呼び止める者は居なかった。
金糸雀は、人気のない路地裏に連れ込まれた。

 「ここなら、誰も邪魔しに来ないわ」

にたり……。
薔薇水晶の不気味な笑みに、金糸雀はただ、腕を抱いて震える事しか出来なかった。
何故、こんな事になってしまったの? あたしはただ、彼と付き合いたかっただけなのに。
あたしの心が弱くて、あんな本に頼るなんて安易な『道』を選んでしまったから?
金糸雀の頬を、悔恨の涙が伝い落ちた。

 「うふふふ…………泣くほど嬉しい? 可愛いのねぇ」

薔薇水晶の温かな掌が金糸雀の頬を撫で、涙を拭った。
金色に燃え立つ瞳に射竦められ、もう走って逃げ出すことも叶わなかった。
ただ、じりじりと後ずさるだけ。
そして……金糸雀の背中が、民家の壁にぶつかった。

 「はい、おしまい。もう逃がさないわよぉ」
 「あ……あう…………あ」
 「すっかり怯えちゃって。可哀相にねぇ、私の子猫ちゃん♥」

薔薇水晶の顔が、徐々に近づいてきた。しかし、金眼の輝きが顔を背けることを許さない。
あと、十センチ――――ああ、もうダメ。
あと、五センチ――――ダメなのに。ファーストキスなのに!
あと、一センチ――――イヤだ! こんなのイヤ! 誰か、助けて!

金糸雀はギュッと目を閉じた。瞳に溜まっていた涙が押し出されて、零れた。
もう何も見たくない。こんな現実なんか闇に閉ざして、心を捨ててやる!

 (こんな人生が未来永劫、続いていくのなら…………死んだって構わない)

闇の中で、金糸雀は聞き慣れない音を聞いた。続いて、薔薇水晶の呻き声。
頬に触れていた薔薇水晶の手が、徐に下がって、完全に離れた。

 (なに……が?)

目を開けるのが怖かった。でも、薔薇水晶がキスを寸前で止めた理由も知りたかった。
おそるおそる、ゆっくりと……瞼を上げる。

 「やれやれ。最近の若い者は、白昼堂々と道端でこんな事を……。
  実に嘆かわしい」
 「あっ! 貴方は、あの店の――」

目の前にのんびりと立っていたのは、紛れもなく、あの古書店の主人だった。
彼の足下には、薔薇水晶がグッタリとしている。主人が彼女を気絶させたらしい。

 「あっ、あのっ! 助けてくれた……のかしら?」
 「ええ、まあ。アナタが泣いている様に見えたもので。余計なお節介でしたか?」
 「いえいえいえ! 助かりましたっ。ホントに、助かっ……」

金糸雀の眼から、堰を切ったように止めどなく涙が溢れた。
怖かった。本当に怖かった。

 「おやおや。随分と怖い目に遭ったようですね。店に来なさい。お茶を御馳走しよう」
 「は……はい。あ……りがと……うなのかしら」

しゃくり上げながら、金糸雀は両手で涙を拭い続けた。




主人に案内されると、古書店は呆気ないほど簡単に見つかった。
さっきは、あれだけ走り回っても全く見つけられなかったのに。

 「何があったんだね? 良ければ、話してみなさい。それだけでも気が楽になる」
 「ええ。実は、先日の――」

金糸雀は一昨日に購入した本の事から、今日までの推移を事細かに語って聞かせた。
主人はただ黙って金糸雀の話に耳を傾け、時折、頷いたりもした。

 「――という訳なんです。あたし、もうどうして良いのか分からなくて」
 「なるほど。選ぶべき『道』を間違った……ですか。それで、今はどうしたいのです?」
 「虫のいい話ですけど、あたしは……叶うことなら、やり直したいんです。彼への告白から」
 「たとえ、やり直したとしても、答えは変わらないかも知れませんよ?」
 「それでも良い。フラれたって、もう挫けない。あんな本には、絶対に頼ったりしない!」
 「……ふむ。人の心は傷付く事で成長する。倒れてもなお起きあがろうとするから強くなる。
  アナタもまた、ひと回り心が強くなった様ですね」
    
店主は、スッと立ち上がった。
古書店の室内に一陣の風が吹き抜け、金糸雀は思わず手で目元を覆った。

今の風は、いったい何だったのかしら?
あれだけの突風だったにも拘わらず、本は全く散らばっていない。
訳が分からず、金糸雀は手を下ろして店主の姿を探した。

 「オジサン。あれ? 居ないかしら……」

カウンターの椅子に座っていた店主は、いつの間にか姿を消していた。

 「アナタの後ろに居ますよ、お嬢さん」
 「えっ?」

そう話しかけられて振り返った金糸雀が目にしたのは、
タキシードを着てシルクハットを被ったウサギの紳士だった。

 「この姿でお会いするのは、これが初めてですね」
 「なっ……だ、誰かしらっ、貴方は!」
 「日常と非現実を渡り歩く道化に、名など有りませんよ。ワタシはただ、お嬢さんの要求を
  知って、お節介を焼きに来ただけです」
 「お節介?」
 「ええ。ですから、アナタに本を渡し……回収もしたのです」

道化ウサギの手には、いつの間にかあの本が携えられていた。
行方不明になった、あの本が。

 「そんなっ! アナタが――。でも、どうしてっ?」
 「試したのですよ。この本の力に頼り切って堕落するなら、それまでのこと。幸か不幸か、
  アナタは失敗して過ちに気付き、再び立ち上がる強い心を得た訳です」
 「そんなの……あまりに意地悪すぎないかしら?」
 「教育とは、そういうものです。甘やかしすぎても駄目。厳しすぎても駄目。
  善行に対しては大いに褒め称え、人の道に外れた行いには毅然とした態度で叱責する。
  人の成長過程で必要な教育など、本来たったこれだけの事なのですよ」
 「じゃあ、あたしも間違いに気付いていなかったら――」
 
道化ウサギは持っていた本を投げ捨て、にっこりと微笑んだ。   

 「当然、おしおきの時間でしたよ」


道化ウサギは懐中時計を取り出して、目を細めた。

 「さて……長話が過ぎましたが、そろそろ時間のようですね」
 「時間って、何のことかしら?」
 「勿論、アナタが帰る時間ですよ。人生という一人芝居の舞台に――ね」 
 「えっ? あの――」
 「暫しのお別れですよ、お嬢さん。縁が有れば、また相見えるでしょう。
  もっとも、その時アナタは、ワタシの事など憶えていないでしょうけどね」
 「そんなっ! あたし、絶対に忘れないっ」
 「いいえ。憶えていませんよ。ワタシはこれから、時間を巻き戻すのですから。
  アナタがワタシと出会う、ずっと以前の時間までね」
 「やだ! そんなのイヤかしら! あたしはっ――」
 「聞き分けなさい、金糸雀」

道化ウサギの言葉は、まるで幼子を諭す父親のように穏やかで、
力強い腕に包み込まれるような安堵を金糸雀に与えてくれた。
こんなにも安らいだ心地になったのは、何年ぶりだろう。
道化ウサギは懐中時計の蓋を開けると、時を刻み続ける長針に指を当て、
ぐるぐると左巻きに回し始めた。

金糸雀は急激な眠気に襲われて、がくん……と膝を折った。
立っていられない。何よりも、考えることが出来ない。
どうしようもなく瞼が重い。次第に、起きているのか眠っているのかも分からなくなった。
朦朧とする意識の中で、金糸雀は最後の気力を振り絞り、道化ウサギを見つめた。
道化ウサギは長針を回す手を休めることなく、金糸雀に優しい微笑みを向けていた。

 (忘れないかしら、あたし――――絶対に)




金糸雀はベッドの中で、気持ちのいい朝を迎えた。
勢いよく半身を起こして、両手で頬をペチッと叩く。よし! 気合充分かしらっ!
今まで一週間、ウジウジと悩んできたけれど、もう覚悟を決めた。

  今日は、いよいよ彼に告白する。

フラれたって構わない。最悪の選択肢は、失恋を怖れて何も伝えないことだと知っているから。
金糸雀は朝食を摂りに部屋を後にした。
クローゼットの上に、見慣れないウサギのぬいぐるみが置かれていた事にも気付かずに――

 「時を戻し、記憶を失っても、魂の放つ光の強さが衰える事は絶対にないのです」

部屋に戻ってきた金糸雀は、制服に着替えて、クローゼットの鏡を覗き込む。
今日は髪を降ろして、登校してみよう。告白するんだもの。イメチェンも重要よね。
いつもと違うヘアピンを髪に通して、鏡の中の自分に微笑みかける。

うん……可愛いかしら?
出発前に鞄の中を確認。今日の授業は……と? なぁに、この小瓶。
なにかドロッとしてる。
蓋を開けて臭いを嗅いだ金糸雀は、次の瞬間、鼻に皺を寄せた。
正露丸みたいな臭いがする。
金糸雀は小瓶を机の上に置き、鞄を閉じた。


 「よーしっ! 今日も一日、頑張るのかしらっ!」

颯爽と吹く風のように、金糸雀は背中に降ろした髪をなびかせて部屋を飛び出した。

 「強い心を得たアナタなら、今度こそ幸せを掴めるかも知れませんね。
  ワタシとしたことが、お節介を焼きすぎたようです。
  くれぐれも、堂々巡りだけはしないように――」

室内に一陣の風が吹く。クローゼット上のぬいぐるみと、机の上の小瓶は、跡形もなく消えた。

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