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  五月に入って、ここ数日は晴れ渡った空も顔を潜めている様子だ
った。少し早い梅雨入りという訳ではないのだろうけど、まだ暫く
はこの天気も続きそうな雰囲気。

  何処までも広がる曇天に、霧のような小雨粒が宙を舞っている。
ひとによっては、雨そのものを憂鬱の象徴のように捉えてしまうら
しいが、私はそれほど嫌いでは無い。
  靄のように空間を満たす雨は静けさを増してくれるような気がし
たし、庭の薔薇も潤してくれるから。

  ジムノペディをかけた。ボリュームは大きくしない。屋根をうち
つける雨粒が響く音と同じくらいか、ほんの少しだけそれを上回る
程度にしておく。
  サティのピアノの旋律が、静かに踊る。こんな穏やかな午後には、
香りたつ紅茶がよく似合うものだ。


「ジュン、紅茶を淹れて頂戴」

「ん……そろそろ三時か。お茶請けもいるか?」

「お願いするわ」

「了解」

彼が部屋を出て行った。なかなか気が利くではないか。なんという
か、私も一応女の子だ。甘いものもたまには食べたくなる。

「女の"子"っていう程、可愛らしくもないだろ」

「ちょ、ちょっと! いきなり現れて思考を読まないで頂戴!
 もう準備は出来たの!?」

「もうちょい。すぐ持ってくるから」

「全く……」

  また部屋を出て行く彼。さっきは壁から出て行ったが、今は床を
直接すり抜けていった。
  最近向こうにも余裕が出てきたのか、たまにこうやって私をから
かうような場面も見られるようになってきた。館の主としては甚だ
不本意ではあるのだけれど。


  暫くして、彼が紅茶を持ってきた。

「菓子の方は適当に見繕ったからな」

「構わないわ」

  うん。適当とか言っておきながら、結構よく考えているものだと
思う。何故なら、彼が持ってきた御菓子はフィナンシェで。それに
合わせられた紅茶はアッサムティーだったから。
  フィナンシェは香りが強い御菓子だから、紅茶もそれに負けない
程に香り立つものを選ぶべきなのだ。彼が今回選んできたものや、
あるいはアールグレイといったものが望ましい。
  もっとも、それを教えたのは私だったのだが。なかなか飲み込み
は早いようだ。

「ん、美味しい……ありがとう、ジュン」

「どういたしまして」

「あなたもお茶に付き合えれば良いのだけれど」

「ま、それは言いっこ無しということで」

「そうね……ごめんなさい」

「お前が謝ることじゃないだろ」


  こんな風にして二人で過ごす午後は、やっぱり静かだった。もう
私もこんな状況には慣れたもので、彼とお茶を飲みながら談笑する
のは一つの楽しみになってきている。

「雨、やまないな」

「そうね」

「僕は雨は嫌いじゃないけど」

「そうね、私もよ」

  フィナンシェを一口食べると、蜂蜜の甘さが口に広がっていった。


「僕はそろそろ行くよ。今日はあまり気配がしない」

「そう。ところで、ジュン。まだ力は足りているの?」

「そんなに使ってないから、まだ大丈夫だと思うけど」

「ま、いいわ。あって困る訳でも無いでしょう。手を出しなさい」

「まあ、僕としては有難いけど」

「私にとって必要だからよ。余計なことは考えないで頂戴」

  彼が苦笑気味の表情を浮かべる。私も私で素直ではないと思うの
だけど。なんといっても、彼が私の頭の中を覗こうとすれば造作も
無い訳で。

  もっとも、彼のいいところは。私をからかおうとする目的以外の
時は、滅多なことで心を読もうとはしないことであるのだけれど。

  私は、彼の左手に付けられている薔薇の紋様があしらわれた指輪
に口付けた。それに呼応するようにして、私の左手の指輪も熱くな
る。

「ん……」

  少しだけ、力が抜けていく感覚。部屋の中に小さな光が広がって、
暫くすると消えていった。

「……」

  ちょっとふらつき、深くソファに座り込んだ。

「大丈夫か?」

「心配には及ばないのだわ」

「……そうか」

彼が少し、心配そうな顔をしてこちらを見ている。それこそ余計な
心遣いと言うものだ。この場合は、彼はやさしい"ひと"として認知
しても良いものなのだろうか?

「心配しなくても。とりあえずまた、紅茶を淹れて貰うこともある
  んだから。ずっとここに居ればいいじゃない。私はここから出る
  ことは出来ないし、話し相手がいると退屈しないで済むのだわ」


「お前はそれでもいいのか?」

「あら。あなたこそ、それでもいいの?」


「「……」」


  暫し、無言。私達は、ともすれば確かな関係など何も無い。この
指輪の繋がりだって、そう。
  私達は、虚ろだ。私だって彼だって、存在そのものが虚ろなのだ。
だから私達は深い話をしない。正しい答えなんて、いくら考えても
この状況下で出るとは思えない。

「正常の基準なんて、誰も計ることなんて出来ないのだわ」

「ま、確かに。しょうがないから居てやるかあ」

「何ですって?」

「たっ、いたたたたたた! わかった、悪かった真紅! 悪かった
  から耳引っ張るな!」

  私は左手を彼の耳から離す。

「まったく、どんだけ非常識な」

「あなたに言われたくないのだわ」

「……くそう」


  普段通りのやりとりだ。普通なら、これは痴話喧嘩とも呼んで
良いものなのだろうか?
  まあ。普通のひとが"私達"のやりとりを見た場合、私が"一人
芝居"をしているようにしか見えない筈なのだ。あるいは、頭が
おかしくなったと見られるか。

「んじゃ、とりあえず僕は休む」

「ええ、それじゃ」

  そういい残して彼は居なくなる。私は独り、部屋に残されて。
もう温くなってしまっていた紅茶に改めて口をつけた。

  サティのピアノはまだ部屋に響いている。私自身、こんな状況
が果たして正しいのかどうかはわからない。
  でも。さっき自分が言った通り、正常の基準など誰が保証して
くれる訳でもないし、それならば自分が居心地の良い方向に流れ
ていくのも悪くないと考えている。
  勿論犯罪に走るだとか、一般的な倫理に悖る行為をするつもり
は更々ないのだけれど。

「倫理、ねえ」

  自分で言ってて、これまた笑ってしまう。世の中、自分の信じ
ている世界は狭く、そして崩れやすい。この場合の"世界"は、頭
の中にある観念により形成されているものである。

  状況に対応する能力が、大事だと思う。どれだけ受け入れられ
るか、ということ。それだけで、心の余裕が大分違ってくる。

  私が何故、ここまでうだうだと考えているのか。そもそも、そ
ういう風な思考自体が、私らしくないというのに。その原因は、
現在私に降りかかっている"運命"とかいうもののせいかもしれな
いし、先程までこの部屋に居た"彼"の存在もそれに一役買ってい
る。


  先程からいきなり現れたり、壁だの床だのすり抜けたりしてい
る彼、桜田ジュンは。
  ここ最近私の住んでいる屋敷が"幽霊屋敷"などとこれまた不本意
な名前を冠せられる原因となっている男である。


  その。つまり。彼そのものが、幽霊だ、と言う訳で。
  幽霊と言ってしまうと語弊があるかもしれないが、その
  在り方を見る限り、それ以外の言い方が見当たらない。

  強いて表すなら。
  彼は私を守ってくれる、守護的な存在。



【ゆめまぼろし】  第一話 真紅



  雨は相変らず降り続いていた。時折晴れ間も見られるものの、基
本的に灰色の雲が空を覆っている。そんな状態が、もう一週間は続
いている。

「そういえば、庭師の二人はどうした?」

「あの二人には休んで貰ってるのだわ。世間的にはゴールデンウィ
  ークでしょう。働いてもらってばかりでも悪いし。
  ここ一ヶ月は、本当に忙しかったでしょう」

  いきなり話しかけられても、特に動じなくなってしまった。全く
以て、慣れとは恐ろしい感覚だと思う。

「確かにね。じゃあ、今は実家に帰ってるのか」

「そうね。まあ、実家といってもすぐ近くなのだけど」

「不健康な空間だからなあ、ここも」

「あなたに言われたくはないのだわ」

「生憎だね。僕は健康とは別に関係ない」

「そうね。こんな生き生きとした幽霊だなんて、聞いたことがな
  いのだわ」

  お陰様で、退屈はしていない。相手の存在がどうであろうと、
まともに(?)話が出来るというのは有難いものだ。私も随分と図
太い神経の持ち主のいうことか。
  庭師の姉妹ははじめ当惑していたようだが、今となっては慣れ
たものである。姉妹の姉の方に至っては、よく彼を追い掛け回し
て如雨露で叩いたりしている始末。
  ……幽霊って、実は立場が弱いのだろうか?

『僕は肉体を持たない。それだけの話』

  能天気というか、何というか。そんなことをのほほんと語る彼
は、自分が幽霊になる前の記憶を全く持っていないという。

『ただ、今こうなってるってことは。これが僕の運命だったんだ
  と思う』

  その辺りを疑わないでいるというのも、私はひとがいいのかも
しれない。
  けれど、彼の過去そのものは今の私達の関係に何か影響を及ぼ
すという訳でもないし。仮に彼が話したがらないだけだったとし
ても、それは彼の意志なのだからそれで良いと思う。


  現実の世界が正常な流れと言うのなら、私は異常ということか。
夢か幻を見ているのかもしれない。
  ただ。現に彼はここに居て、話をしている。それだけは確かな
ことであり、また事実だ。
  私は読んでいた本を閉じた。

「"経験や感覚が、私を騙そうとする"……」

  私がそう呟いたところで、彼は私の閉じた本を覗き込んだ。

「デカルトね。哲学が好きなんだな」

「哲学そのものは、役に立つものではないのだわ。特に昨今の
  時代においては」

「ふうん。その割にこないだ僕に読ませたじゃないか……
  それにしても哲学ってのは、必要に迫られたから作られたも
  のなんじゃないのか」

  そういう彼の言葉は、多分正しいのだと思う。もともと遥か
太古の時代、人類がある巨大なコミュニティを形成するために
は共通の思想が必要だった。所謂"神話"というものだ。

  法を持たず、何の共通認識も無しにひとは集まることが出来
ない。要は、社会そのものが形成されない。
  もっとも、それほど昔の時代ならば。言葉で解く思想よりも、
視覚で思想を認識出来るものの方がわかりやすい。
  そういったものが現在文化遺産として残っている建造物やモ
ニュメントなのであるが。

「昔の思想を、今の時代に当てはめることは出来ないもの」

「なるほどね、じゃあこれはお前の趣味ってところか。
  お前だったら、カントなんか好きそうだと思ったんだけど」

「あら。認識論もいずれは観念論に継承されていくのだわ。
  それにね。役に立たないから学ばないのでは無くて、こう
  いった考えが私には必要なの。

  私が、私自身をかたちづくるために。必要なものなのだわ」


「というかさ。霊界とか四次元とか、そういったものは表象
  出来ないんじゃなかったか」


  『じゃあ僕はどうなるんだ』と少し抗議してくる彼。その
通り。私は私自身の感覚に騙されているだけなのかもしれない。

  私が、"感覚を疑え"というデカルトの言葉に従うとしたら。
私が今彼と話しているということ自体、正しいとは言えない。

  こう言った言葉に反応を返してくれるのは、私にとっては
好ましいことだ。件の姉妹の妹の方は、私の話に付き合って
くれることもあるけど。姉の方はどうも即物的と言うか、こ
の類の話があまり好きではないようなので。


「あら。ちゃんと読んだのかしら?
  私はあなたがここに居るということを、自分で"判断"して
  いるじゃない。

  そう判断している私が……私がそう思う故に、私はここに
  居るの。そしてそこに付随して、あなたもここに居るのだわ」

私がそう返すと。『小難しい話は、好きじゃないよ』と。そう
言って彼は苦笑いを浮かべるのだった。


「なら、それで良いのだわ。私はあなたと話をするのが、嫌い
  じゃないのだから」

「ふん。変わってるな、お前も」

「お互い様ね」


  私は、左手の薬指につけてある指輪を見つめる。
  私が、私という人間そのものが判断した結果に、現状は成り
立っている。
  いつ崩れるかわからない繋がり。別に世を儚んでいる訳でも
ないし、外の世界にも繋がりはある。
  ただ、現在私の周りで形成されている最小のコミュニティは、
私と彼の二人だけ。私自身からは、能動的に外界に接すること
が出来ないから。

  庭師の姉妹とも勿論繋がりは深いけれども、彼女達は私の様
にこの屋敷に縛られて居ないし、私のようにはなって欲しくは
ない。


  いささか、楽観にすぎるのかもしれなかった。このまま、こ
の薔薇屋敷――幽霊屋敷にとらわれたまま。一生を終えてしま
う可能性だってある。
  でも、それが真紅という人間の運命なのならば。それはそれ
だけのこと。

「――辛くないのか?」

ジュンが、こちらを向いて言う。

「本来なら、辛いのかもしれないのだわ。退屈はひとを殺すと
  いうしね。
  でも、読書は楽しいし、紅茶は美味しいし、流れる音楽の旋
  律が美しい。いずれはこの戒めから解放されるかもしれない
  し。

  ――それにあなたが、居て。私を守ってくれるでしょう?」

  微笑みながら私が言うと、彼はそっぽを向いてしまった。
幽霊でも赤面するものなのかと考えると、少し可笑しかった。

  すると、彼がこちらを向きなおして、少し真剣味を帯びた
言葉を発した。


「また、来たみたいだな。大したことは無さそうだけど」

「……そう。気をつけていってらっしゃい」

「まあ、本来はあの双子のフォローがなくても十分なんだ。
  あいつらは本業だけど……
  僕もそんなにやわじゃない。……お陰様で」

  彼は静かに微笑みながら、彼が左手の指輪をこちらに向けて
言った。

「終わったら、そのまま今日は消えることにするよ。
  ――じゃあ、良い夢を」

「ええ。また紅茶を淹れてね」

「了解」


  そんなことを言い残して、彼は天井をすり抜けていった。
彼が消えている間は何をしているかはわからないが、また
ひょっこり現れるに違いない。私との契約を、続けている
限り。


  私はCDプレイヤーの音源を入れた。ジムノペディをおよそ
聴こえるか聴こえないか位までボリュームを下げつつかけて、
そのままソファに横になった。


  指輪に篭もる熱を感じながら、私は眠り。

  そしてそのまま、夢を見る。




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