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s.d.7

 穏やかに、時は流れる。彼女は相変わらず、週に一回程度は店に紅茶を飲み
にきていたし。僕は僕で、いつもの『休憩』を、病院への見舞いへあてていた。
 他愛ない話を。きっとあの海に行ったときから僕らは恋人同士になったけれど、
二人に流れている時間の質は、きっと変わりなかった。
 同じ空間を、共有しているということ。だけどそれは、いつ終わりを迎えて
しまうかわからない。それを考えると何だか恐ろしくなるのだけれど、深く考
えないようにしていた。
 現実から眼を背けていると。誰かに指摘されてしまうのなら、確かにそれは
そうだったのかもしれない……

「めぐ、林檎食べる?」

「あ、ありがと」

 お見舞い用に買ってきた林檎の皮を剥く。秋は終わり、樹々の葉はすっかり
落ちてしまっていた。十二月、季節は冬。
 最近でこそ、林檎はスーパーなどに行けば年中手に入るものだったが、あれ
はもともと冬の果物である。とりもあえずいちいちそんな理由をつけて、それ
を手に取ったのだった。

「どうぞ」

「……器用だねえ、白崎君」

「取り柄ですから」

「そんなこと言って、それじゃ取り柄がいっぱいありすぎじゃない?」


「まあね」

微笑む彼女の手元にあるのは、兎を模した林檎の一切れ。何と言うか、皮むき
の基本だと思うのだが。

「じゃあ、私もやってみようかな」

半分に割った林檎の片割れを受け取り、彼女も皮を剥き始める。

「はい」

「どうも……って、これ普通に剥いただけじゃあ」

「共食いになっちゃうじゃない、兎にすると」

「……参りました」

 初めて病院を訪れたときは、確かに彼女は『病人らしい』と言えばそうだろ
うと言えた。パジャマにカーディガンを羽織って、点滴を打っている姿を見た
ときに少しもショックを受けなかったと言えば嘘になる。
 ただ、その笑顔だけはいつもの通りで。ひょっとしたら相当体調的に、辛
かったのかもしれない。だけどそんな素振りは、見受けられなかった。

「ごちそうさま、と」

 手を合わせる彼女。彼女が食した"兎"は一羽だけだった。



「なんか最近、食欲がねー……病院食は、本当に美味しくないし」

僕は入院したことが無いのでわからないが、そんなに不味いものなのだろうか。
ただ、その食事を思い出したのか、心底嫌そうな感じで眉をひそめる姿を見る
につけて、相当よろしくないものなのだろうと考える。

「冬だねえ、もう」

「そうだね。大分冷え込んできてるよ、外も」

なんとは無しに、窓の外を見る。心臓血管外科の病棟は七階にあって、見える
街並みはまるでジオラマを見ているように小さい。

「雪、降らないかなあ」

「この地方はあまり、降らないからね」

「うん、それでもね。積もらなくってもいいの、ちらちら舞い落ちるくらいで。
 ほら、雪って綺麗じゃない? 白い結晶が、空から落ちて来るんだよ」

子供のように眼を輝かせる彼女に、僕は『そうだね』と返す。

「舞い散る雪……地面に落ちたら、きっと消えちゃうんだろうけど。
 花に変わることは、無いからなあ……」



 季節的には、降ってもおかしくは無い。実際今日は、今年一番の冷え込みを
 見せていた。ただ、朝に見た天気予報によると、どうやら降る予定は無いようであった。

「そうだ、白崎君。あなたに紹介したい娘がいるんだあ」

「え?」

「今その娘は中学生なんだけどね。今もすごくかわいいけど、きっとすごく美
 人になると思うの」

「どうしたのさ、いきなり」

「うん、まあ……なんとなく、かな。あ、今はまだ手を出しちゃ駄目だよ?」

「言われなくても、出さないよ……」

「駄目。私が眠っちゃったら、白崎君寂しいじゃない。だから、一応」

「お生憎様。そういう心配より、まずは自分の身体のことを心配するように」

「ふふ、そっかあ。……うん、頑張る」



「……」

「白崎君、時間だいじょうぶ?」

「あ、もうこんな時間か……そろそろ戻ろうかな。また来るよ」

「うん、わかった。仕事頑張ってね」

「仰せの通りに……今度は、何か本を持ってくるから」

「本当に? ありがとう」


手を振って別れ、病室を出る。

 そのまま戻ってしまっても良かったのだが、何となく七階病棟のロビーにあ
る長椅子に腰掛け、ぼんやりとしていた。
 ロビーには窓があって、病室よりも大きく風景は切り取られている。雪が降
らないだろうか、と。少し願う。

 今度来るときは、何の本を持ってこようか。そんなことを、ぼんやりと考えていた。



『――……! ――――!』

 ロビーから少し離れたナースステーションが、何やら慌しくなっていた。
ばたばたとスタッフが走っている。


 僕は、その喧騒の中で聞こえた声を、


『――703号室の柿崎さん、容態急変です!――』


 何処か遠い世界のものであると、感じた。


 直ぐに立ち上がり、病室へ走る。
 そんな。――そんな、馬鹿な!


「すみません、中に居る患者さんは――」

「申し訳御座いません、今緊急の処置を行っていますので、部外者の方は中に
 入ることが出来ません」

 他人? 僕は……他人では、無い。


「僕は――僕は、彼女の恋人です!」

 暫く部屋の前で争っていたところで、中から医者らしい人物が一人出て来た。

「彼女は……めぐは……」

「ご家族の、方ですか?」

「いえ、違いますが、僕は――」

「そうですか……ですが、柿崎さんのご家族は、今日は見えられる日ではあり
 ませんから……」


「どういう、ことです?」

「曜日で、決まってるんですよ。最近では、ただ様子を見に来られるだけでし
 て……今しがた、連絡は入れたのですが」

「それで、彼女の容態はどうなんです!」

 食って掛かる僕に対し、医者の反応は冷静だった。ただ、首を。横に振るだけ。

「ああ、あなたは……ここ最近、毎日来てらっしゃった方ですね。
 最期になるかもしれませんが……中へ入ってください」


 医者に促され、病室へ入る。中では人工呼吸器をつけた彼女と何やら彼女に
処置を施しているらしいスタッフが三人ほど居た。

 僕は、何を見ているんだ?
 さっきまで、笑いながら話をしていたじゃないか。
 そんなに荒い息をして……
 夢ならば、覚めて欲しい――


 苦しそうに息をしている彼女に対する処置が、やがて止まった。

「何を――」

 病室の外で僕に話をした医者と同じように。
 中に居た彼らも、首を横に振った。

「そんな……! 諦めないで下さいよ!!」

 騒ぎ立てる僕が、強引に外へ追い出される。
 そして医者は、静かに言った。

「もともと、心臓移植をしなければならないほど、彼女の容態は悪いのです。
 正直、ここまでよくもったと――」

「……」




『私、もうすぐ死ぬんだ』


そんな風には見えなかった、彼女。辛い素振りなんてほとんど見せなかった、
彼女。君は――わかっていたんだ。
 現実から眼を背けた僕と違って。君はいつも向き合っていた。
 こうなることを、他の誰よりも、僕が受け止めてあげなければならなかった
と言うのに――

「……彼女と」

「え?」

「彼女と、二人きりにさせてくれませんか。――お願いします」

医者は少し逡巡の素振りを見せたあと、答えた。

「二人きり、というのは承諾出来ません。私が付き添いましょう」



――――――


「……めぐ?」

「しろさき、くん……あんなこといっちゃって、ちょっとはずかしいな」

苦しそうだ。呼吸が、荒い。

「いいじゃないか、恋人っていうのは本当だろ」

ちょっと、彼女の顔が微笑んでいるように見える。

「……おしごと、は?」

「いいんだ、それは。無理してしゃべらないで、いいから」

僕は彼女の手を握る。少しだけ、握り返してくれているのがわかる。
その力が、あまりにも弱い。

「だめ……じゃない、さぼっ……ちゃ……」

なんだって、君は。こんな時にまで、僕のことを気にかけるのか。

 泣いてはいけない。
 だけど、どうしようもなく溢れてくる涙を、止めることが出来ない。




「し……き、……」

口を動かしている彼女に、顔を近づけた。一言も、聞き漏らさないように。

「し……ろさき、くん、」

「わた……し、の……こと、わす、れ……て?」

 駄目だ。そんなことは出来ない。僕は、忘れない、絶対に!

 僕は首を横に振った。出来るだけ、穏やかな表情で。
 そんな僕を見た彼女の眼は今にも閉じてしまいそうで、
 それでいて、何だか微笑んでいるように見える。


「やさ、し、い……ね、しろ、さき……くん、は」

 眠っちゃ駄目だ、めぐ。そっちへ行っちゃ、駄目だ、

 彼女はゆっくりと首を窓の方に向けた。




「ゆ……き」

「え?」


「ゆき、……きれい、だ、……ね……」


 窓の外を見る。雪は……降っていない。

 けど。彼女の眼には、舞い散る雪が見えているんだ。


「ああ本当だ、めぐ。綺麗な雪だよ」


 手を握る力を込める。彼女はまたこちらを向いて、また口を動かす。

 もう、声は聞こえてこなくて。

 だけど。彼女は確かに、


『ごめんね、ありがとう』


 と。一筋涙を流し、言ったのだ。


――――――――――


 病室を出る。
 僕は、自分の両手を見た。
 最期に、握る力が失われた感触がまだ残っている、この両手を。

 めぐ、君は眠りについてしまった。
 僕だけがこうやって、目覚めている。
 僕は――


 ロビーにあるエレベーターへ向かっているところで、こちらの方へ走ってく
る少女にぶつかった。

「すっ、すみません……」

 僕に少し頭を下げたあと、また走っていった。

 今の娘――泣いてたな。僕の眼も今、兎のように真っ赤になっているに違いない。


 外へ出る。今年一番の冷え込みの筈が、ちっとも寒くなかった。
 少なくとも、今の僕にとっては。



 煙草を取り出す。君に『似合わない』と言われてしまった煙草を。
 火を点けて吸い込むと、喉の奥が冷たくなっていった。
 指に挟んだ煙草の先端から、煙が空へ昇っていく。

 ほとんど揺れることなく、真っ直ぐと空へ吸い込まれていく煙。
 それを追って、僕は空を見上げた。


「雪だ……」


 空一杯の灰色の雲から舞い落ちる、雪。
 地面に落ちては、消えていく。


 君のいのちは、手の平から零れ落ちるように。
 この雪のように、消えてしまった。


 この雪は、君が降らせたのか。

 僕はまた、涙を流して。

 そんなことを……ただ、思っていた。


――――――――――――――――――――――――――――


 車を走らせる。いつものように当ては無くて、適当に流している。君のことを、
思い出しながら。
 改めて考えると、本当に時間が経ったものだ。

 あれから七年。僕はいつも通り仕事をしながら過ごしてきたし、それはこれ
からも変わらないだろう。
 
 たまに今でも考えることと言ったら。君は僕と付き合っていたいくらかの時
間、本当に幸せだったのかということ。
 それを確かめる術は、この先僕がこの世界で目覚めている限り、在りはしないのだ。
 
 僕はあれから、あの白い世界の夢を見ていない。だから、夢の中で。彼女に
逢うことも無くなっていた。
 皮肉なものだ。この世界に彼女が居なくなった途端、彼女の姿そそのものが、
夢の世界ですら消えてしまったのだから。

「――海へ」

 海へ行こうと思った。ひとの少ない、秋の海へ。
 
『感傷的な気分になりすぎるのもよくない』と。めぐが亡くなった年の冬明け
に帰ってきた槐に、そう言われた。




 それは今でもたまに言われることだし、実際僕もそうだと思っている。この
先僕がどれほど想いを積み重ねていっても、それが報われないことは明らかだからだ。

 けど。こうやってたまに思い出さなければ、記憶は沈んでいく。僕はそんな
理由をつけている。
 これはひょっとしたら、ただの逃避なのかもしれないと。そんな考えを、頭
の隅っこの方へ追いやりながら。


 それは、僕の意識が見せたまやかしだったのかもしれない。
 ただ、車を運転する僕の横に広がっている海岸線の波打ち際に。


 小さく見える、二つの人影、
 その影が、あまりに君に似ているようで、


 僕は眼の前にあるカーブに対する、

 反応が、遅れた。

「――――――――――――!」

 間に合わない。
 時間が、止まる。
 いや、その瞬間、本当に時間は止まったように感じて、――


――――――――――――――――――――――――


―――真っ白な、世界だった。

 そうか、僕は――また、ここに来ることが出来たのか。
 七年ぶりの、感覚。夢の中の実感なんて、確かなものでは無いのだろうけど。
 ただ。所在無くこの空間を歩いている僕が、彼女の姿を確認することは無かった。
 そんなに、都合よくはいかないようだ。

 全く。夢というものは、自分が見ているものだというのに。その癖、何一つ
自分の思い通りになりはしない。

 何も無い世界で、僕は寝転んだ。何だか眠くなってきたからだ。

――夢の中でも、眠くなることがあるのか?

 よくわからない。ただ今は、頭を働かせること自体が、何だか億劫だった。

 曖昧となっていく思考の中で、君のことを思い出す。今になっても、君が幸
せだったのかという答えを出すことが出来ない。


『一言、難しいって言っちゃうと――』


 声が聴こえた、気がした。
 でも、君はここには居ない。それはわかってる。


 本当に、難しい問題だったのだろうか?
 僕は。僕という人間は、君と過ごした時間、確かに幸せだった。


 君もそうだったと――僕は、信じてもいいかい?


 気付くと、僕の身体が地面の白の中へと沈み始めていた。


――この白は、君の見ていた夢のように……白い花の花弁では、なかった。


 まるで、水の中へ身を沈めていくような感覚。でも、全然息苦しくない。
可笑しな話だ。僕は"夢の中"で、"はっきりと実感を持ちながら"、沈んでいる。
 この中も、やっぱり白い空間のままだったけれど、何だか薄暗い。多分光が
届いていないのだろう。

 丁度、僕が身を横たえていた"水"の表面。元は、確かに地面だったところに。
僕が沈むときに出来た、波紋が円を描いている。
 その波紋は、広がるだけ広がっていって。やがて消えてしまうだろう。
 その――軌跡。僕がこの世界に居た軌跡が、消える。

 沈み行く底の方に眼線を向けてみると、そこには漆黒の闇が広がりを見せて
いた。何だか怖い感じがしたけれど、沈む身体を止めることは出来ない。

「……」




 また、水際を見やる。すると――
 水面に誰かが、浮かんでいるのが見えた。


――めぐ。君なのか?


 その顔は、微笑んでいるような感じもしたけど、
 逆光のせいで、ちゃんと確かめることが出来ない。


  そうか。僕は、駄目だったんだ。
  その白い世界に、留まることは出来ない――


 沈みながら、僕は思う。


 水面に居る君は、新しい波紋を作らないから。


 少しだけ、寂しい――




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