~第二十二章~
 
 
どのくらい、蹲って泣き続けていたか判らない。
泣き疲れて、水銀燈は喉の乾きを覚えていた。これでは嗚咽すら掠れて、絞り出せない。

 (この近くに、井戸はないのかしら?)

そんな考えが胸をよぎった矢先、側で、さくさくと草を踏む音が聞こえた。
小走りな足音。蹲っている姿を目にして、通行人が様子を見に来たのだろう。

 「うゅ? お姉ちゃん、どこか痛いの?」

舌足らずではないが、あどけなさの残る口調で話しかけられ、水銀燈は顔を上げた。
腰を屈め、両の膝に手を当てて水銀燈の様子を窺っていたのは、
口振りから想像していたより、ずっと成長した娘だった。
歳は、自分と同じくらい。神職に就いているのか、巫女装束に身を包んでいた。
短く切り揃えた萌葱色の髪の先には、くるくるとクセが付いている。
頭のてっぺんで髪を束ねている桃色の布が、可愛らしかった。

頬を濡らし、目を泣き腫らした水銀燈の顔を見て、彼女は心配そうに眉を顰めた。
なんだか彼女までが、つられて泣き出しそうな雰囲気だ。
水銀燈は無理矢理、笑顔を作った。

 「別にぃ、大した事じゃないのよ。心配かけて、ゴメンねぇ」
 「……じゃあ、どうして泣いてたの?」
 「ちょっと、ね。泣きたくなっただけなの」
 「うぃ? ヒナは、泣きたくないの~。泣いたら、もっと悲しくなるのよ」

なるほど、そういう単純で、前向きな発想もあるのね。
目元の涙を指先で拭って、水銀燈は、くすっ……と笑みを漏らした。

 「貴女、元気な娘ねぇ。名前は、なんて言うのかしらぁ?」
 「ヒナのお名前はね、雛苺って言うの。貴女のお名前も、教えてなの」
 「私は、水銀燈。好きなように呼んで良いわよぉ」
 「じゃあ、銀ちゃんって呼ぶのー。銀ちゃんも、ヒナって呼んでなのっ」

やっぱり、銀ちゃんって呼ばれるんだ……などと、妙な事で感心してしまった。
それにしても、この娘は、なんなのだろう?
普通に話しているだけで、不思議と、ささくれていた気持ちが落ち着いてくる。
さっきまで、涙が止まらないほど悲しかったのに――
今では、微笑みを浮かべる余裕すらあった。

 「おーい、雛苺。どうかしたのかね?」
 「あ、お父さまなのー」

土手の上の道から名前を呼ばれて、雛苺は笑顔で振り向いた。
つられて、水銀燈も顔を向け「お父さまぁ?」と、素っ頓狂な声を上げた。
そこには穏やかな眼差しで雛苺を見詰める、神主姿の老人が立っていた。
見るからに歳が離れすぎているし、面差しも似ていない。
きっと、養父とか、そんな関係なのだろうと、水銀燈は当たりを付けた。

雛苺は土手に走りかけて、ふと立ち止まり、水銀燈の元に引き返してきた。
そして、座り込んだままの水銀燈に、右腕を差し出す。
が、水銀燈が右肩を負傷しているのに気付き、慌てて左腕を差し伸べた。

 「銀ちゃんも、一緒に行くのっ!」
 「えぇ? でもぉ、私は――」

言いかけて、考え直した。どうせ、独りになったら悶々と腐るに決まっている。
だったら、少しの間、雛苺に付き合うのも悪くなさそうだった。
差し伸べられた雛苺の手に、水銀燈の左手が伸ばされる。
その時になって初めて、水銀燈は雛苺の左手に布が巻かれている事に気づいた。

 (怪我してるのかしらぁ? だったら、強く握らない方が良いわねぇ)

なるべく、そっと柔らかく握……ろうと掌を重ねた瞬間――
左腕にビリッと痺れが走り、二人は小さな悲鳴を上げて、腕を引っ込めた。
この感触は、以前にも味わったことがある。
でも、まさか……こんな所で、偶然に出会えるなんてウソみたい。

 「ヒナちゃん、貴女……もしかして、こんな痣があるんじゃなぁい?」
 「うゅ?」

水銀燈は、掌を保護する為に巻いていた包帯を解いて、左手の甲を露わにした。
青黒い痣に【仁】の文字が浮かび上がっている。
それを目にした雛苺は、驚愕に目を見張りながらも、布きれを解いて痣を晒した。
雛苺の痣には【孝】の文字……父母や祖先によく仕える心、孝行を表す御魂だ。
神主の老人を父と慕っているのは、御魂の影響も有るのだろう。

 「何をしているのかね、雛苺?」

呼んでいるのに、いつまでも戻って来ない娘を心配したらしく、老人が近づいてきた。
そして、雛苺と水銀燈の左手の甲を一瞥して、驚嘆の声を発した。

 「!? そ、その痣……その文字は、一体、何なのだ?」
 「私たちが同志である証よぉ。房姫の御魂で結ばれた姉妹、と言っても良いわぁ」
 「同志? 姉妹? ヒナ、よく分かんないのよ~」

雛苺は無邪気に頸を傾げながら、左手の痣を撫でさすっていた。
確かに、こんな突拍子もない話、俄に信じられる筈もない。
が、老人は房姫という存在を知っていたらしく、ううむ……と唸った。

 「房姫という名は、以前に聞いた憶えがある。
  会った事はないが、類い希な退魔の能力だったとか」
 「らしいわねぇ。実を言うと、私も大して詳しくないわ。
  なにしろ、房姫の御魂が八つに分かれた後に産まれたからねぇ」
 「じゃあじゃあっ! 銀ちゃんは、ヒナのお姉さんなの?」
 「まあ、そうねぇ。ホントのところ、どっちが姉さんか判らないけれどぉ」
 「……ふぅむ。なんとも不思議な縁だな」

老人の言葉に、水銀燈は「ホントにねぇ」と相槌を打って、立ち上がった。
ともかく、こんな所で出会えたのも、御魂の導きに違いない。
薔薇水晶の話に出てきた『不浄を清める聖女』と言うのが、雛苺の事だったとしたら、
是か非でも、真紅たちと引き合わせなければならない。
気恥ずかしいとか、ちっぽけな体面を気にしている場合では無かった。

 「あの……神主さん。私、水銀燈っていうの」
 「儂は結菱一葉。結菱で構わん。それで、何か相談でも?」

これが年の功というものだろうか、話が早い。
水銀燈は「いろいろ都合があると思うけどぉ」と前置いて、本題を切り出した。

 「一度で良いから、私の仲間と会っては貰えないかしらぁ?」
 「勿論、異存などない。寧ろ、こちらから願い出たいくらいなのだよ」
 「本当に? それなら是非にでも、お願いするわぁ」
 「じゃあ、銀ちゃんもヒナたちと一緒に、旅してくれるの?」
 「ええ。よろしくねぇ、ヒナちゃん」

心底、嬉しそうにはしゃぐ雛苺を、水銀燈と一葉は微笑みながら眺めていた。
 
 
 
 
川に沿って、土手の上を歩いて行く三人。
行き先である狼漸藩の上空には、真っ黒な雲が引きも切らず、立ちこめていた。
禍々しい気配が、ひしひしと伝わってくる。
動物もそれを敏感に感じ取っているらしく、犬や猫、鳥の姿を見かけなかった。

先頭を元気良く歩く雛苺に遅れること、数歩。
水銀燈は結菱老人と並んで歩きながら、旅の目的などを聞き込んでいた。

 「すると、貴方たちも藩の要請で、狼漸藩に向かう途中だったのねぇ?」
 「まったく……偶然が重なりすぎて、怖いくらいだ。
  これも因果応報というものかな」
 「へぇ。神主さんでも、仏教用語って使うのねぇ」
 「そんな事をいちいち気にしていたら、まともに会話など出来んよ」
 「二人とも、遅いの~っ! のんびり歩いてたら、日が暮れちゃうのよ」

雛苺は振り返ると、水銀燈と一葉に向けて、陽気に手を振って見せた。
元気なものだ……と、水銀燈は半ば感心し、半ば呆れた。
この重苦しい気配の中で、あんなにも笑えるなんて、普通では考えられない。
どういう神経をしているのだろう?

でも、それこそが雛苺の長所であり、持って産まれた能力なのかも知れない。
あの娘の側に居ると、水銀燈は何故か、元気になれた。
辛く悲しいことがあっても、彼女の笑顔に癒され、微笑みを取り戻せた。
そして今も、仄かに穢れの臭いが漂う雰囲気を打ち消し、護ってくれている。

 (ヒナちゃんが不浄を祓う聖女って噂は、本当のことみたいねぇ)

穢れの本拠地に殴り込む場面で、これほど心強い存在は無いだろう。
なにしろ、居てくれるだけで、微弱な穢れくらい祓ってくれるのだから。
これは……ひょっとして、呪術的な障害も取り除けるのでは?
水銀燈は雛苺の側に駆け寄って、真横に並んだ。

 「ところで、ヒナちゃん。ひとつ、聞いてもいいかしらぁ?」
 「うゅ? なあに、銀ちゃん?」
 「貴女、今までに呪いを解いた事って、あるぅ?」
 「あるの~。でも、お父さまに手伝ってもらったの」
 「それでも、経験があるなら頼もしいわぁ。イザって時は、お願いね」

もしかしたら、これで真紅にかけられた蠱毒を祓えるかも知れない。
真紅たちと合流する迄は、何としても、この二人を護りきらなければ。

とは言え、右肩を負傷している上に、太刀がなく、精霊もなく――
こんな状態では、まともな戦いなど出来る筈がない。
悔しいけれど、今は敵の襲撃を受けない様にと祈ることしか出来なかった。


――ふと、辺りに、息が詰まるほどの腐臭が流れ込んできた。
それまで良く晴れていた空が、瞬く間に暗い雲に覆われていく。

 「まったく……こう言う時に限ってぇ」

狙いすましたように、穢れの者どもは襲ってくるから始末に負えない。
水銀燈は舌打ちすると、雛苺と結菱老人を、後ろに下がらせた。
雛苺が水銀燈の背にしがみついて、狼狽えた声を上げている。
そんな彼女に、結菱老人は力強い言葉を掛けて、勇気づけていた。

前方から、地響きが聞こえてくる。それは徐々に、けれど確実に近付いていた。
低く垂れ込めた靄の向こうで、馬の蹄が大地を噛む音が轟いている。
やがて、靄を突き破って、白骨の騎馬に跨った穢れの鎧武者どもが姿を現した。

 「ひいぃっ! おお、お、お化けなの~っ!?」
 「お……お化けって言わないでよぉ。力が抜けるでしょぉ」
 「かなりの数の穢れだな。どうするつもりだ?」
 「どうも、こうも……神主さんなんだから祝詞くらい唱えてよねぇ。
  それと、ヒナちゃん……背中、放して欲しいんだけどぉ」

祝詞や念仏を唱えたところで、引き下がる連中じゃない事は承知している。
早い話が気休め、というヤツだ。
それで雛苺や結菱老人が恐慌状態に陥らずに済むなら、寧ろ助かる。
下手に狼狽えられて、足を引っ張られる方が、よっぽど面倒で、厄介だった。

先鋒の鎧武者が、水銀燈めがけて槍を突き出してきた。
斬り払いと異なり、突きだったら、大きく避ける必要は無い。
左手で柄を掴み、小脇に挟み込むと、水銀燈は並外れた膂力で槍を引き寄せた。
体勢を崩した鎧武者が、彼女の足元に落馬する。
水銀燈は穢れの者の頭蓋骨を踏み潰して、奪い取った槍を構えた。

槍だったら、両腕で構えるため、右肩だけに負担を掛けずに済む。
更に、間合いの長さを利用して、攻め寄せる敵を牽制することも可能だ。

 「槍を使うのなんて、ホントに久しぶりねぇ」

水銀燈は頭上で槍を振り回し、雛苺と結菱老人に襲いかかろうとした数騎の騎馬武者を、
骨馬から叩き落とした。
落馬した穢れの者が立ち上がる前に、穂先と石突きで、効率よく頭蓋を砕いていく。
しかし、水銀燈がどれだけ孤軍奮闘しようと、穢れの方が圧倒的に数が多い。
あっと言う間に、三人は骸骨騎馬の軍勢に取り囲まれてしまった。

 「ひぐっ……うぇ……うえぇぇん。怖いよぅ……怖いよぅ」
 「泣いてたって助からないわよ! しっかりしなさい!」
 「そうは言っても、これでは……もう、保たないぞ!」
 「だったら、勝手に諦めてなさいっ! 私は……最後まで、諦めないわ!」

穢れの者の攻撃が、雛苺と結菱老人に集中し始めた。
水銀燈が助けに行こうとするも、他の騎馬が執拗に邪魔をしてくる。
何らかの目的をもって行われる、連携の取れた攻め方だった。

 (まさか、ヒナちゃんこそが本当の狙いだって言うのぉ?!)

結菱老人は手にした杖で槍の穂先を弾き返しているが、それも長くは続くまい。
水銀燈の方も、雛苺と結菱老人を庇うので手一杯となり、敵を斃す暇がなかった。

 「闘いなさい、雛苺っ! 貴女にも、精霊の加護が付いている筈よ」
 「で、でも……ヒナ、分かんないのっ」
 「分からないんじゃなくて、解ろうとしていないだけよ、貴女は。
  甘ったれないで! 貴女を救えるのは、他でもない、貴女自身なのよ!」
 「う、うゅ……ぎ、銀ちゃん……」
 「まずは、落ち着いて。それから、心の中で精霊の名前を訊ねてみなさい」
 「……解ったの。やってみるのっ!」

雛苺は袖で涙を拭うと、瞼を閉じて、精神を集中し始めた。
やがて、戦闘の音すら耳に入らなくなり、雛苺は無我の境地へと辿り着いた。



無我の境地に居ながら、雛苺は誰かの声を耳にしていた。
とても優しそうな、女の人の囁き声――
そんな事は、初めてだった。

 「だ、誰……なの?」

恐る恐る、瞼を開く……と、目の前に、凄く綺麗な女性が立っていた。
金色の髪に、紺碧の瞳。自分と同じく、巫女装束に身を包んでいる。
彼女は、雛苺に向かって穏やかに微笑み、静かに語り始めた。

 「私は、房姫。こうして貴女と会うのは、初めてですね」
 「うぃ……あっ、そうそう!」

驚きのあまり言葉を失っていたものの、水銀燈に教わった事を思い出して、
雛苺は房姫に訊ねていた。

 「あのね、あのねっ! ヒナ、精霊さんの名前を教えて欲しいのっ」
 「貴女を護る精霊の名は、縁辺流。穢れを祓う清き輝きを放つ者です」
 「その精霊さんは、ヒナのお願いを聞いてくれるの?」
 「貴女が望むなら、精霊は助力を惜しみません」
 「ヒナが…………望んだとおりに?」

本当に、望むだけで、精霊が言う事を聞いてくれるのだろうか?
今まで一度として精霊の力を感じなかっただけに、雛苺は半信半疑だった。

 「さあ、早く戻りなさい。貴女の大切な人たちを、助けに行くのです」

精霊について、詳しく聞きたい。
だが、雛苺の願いが届いているにも拘わらず、房姫は何も語らずに姿を消した。



現実に戻ると、水銀燈と結菱老人が、必死になって雛苺を庇い続けていた。
二人とも、満身創痍だ。これ以上は、無理をさせられない。させては、ならない。
雛苺は胸の前で、両手を合わせて指を組み、瞑想した。

 「お願い、精霊さん。ヒナに、力を貸してなの。
  みんなを苛める、怖いお化けを追い払って……お願いっ! 縁辺流ぅ!」

突如、雛苺の首筋から眩い光球が飛び立ち、三人の頭上を旋回した。
そして次の瞬間、ピタリと止まって、太陽の如き白い輝きを放ち始めた。
柔らかく、温かな、癒しの光――
その光を浴びた穢れの者どもは、悉く、ぼろぼろと崩れ落ちてしまった。

 「こ、これが…………ヒナちゃんの……縁辺流の能力?!」
 「なんという、慈愛に満ちた輝きだ。これが……精霊の力なのか」
 「うゅ?」

何が起こったのか――
訳が解らず頚を傾げた雛苺を、水銀燈は嬉々として抱擁した。

 「あははっ! 凄ぉい! 凄いわよぅ、ヒナちゃぁん!」
 「はにゃ! え、えへへ……苦しいよ、銀ちゃん」

言葉とは裏腹に、雛苺も水銀燈の背に腕を回して、ぎゅっ! としがみついた。
そうすることが……。
そうされることが……。
とても嬉しくて、大切な事の様に感じられたから。


だが――
二人は未だ、崖の上から忌々しげに自分達を見下ろしてる雪華綺晶の存在に、
気付いていなかった。
 
 
 
 =第二十三章につづく=
 
 

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最終更新:2006年05月14日 04:02