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s.d.2



  店に戻り、とりもあえず営業再開とする。今日休憩をとっていた
のには自分なりに目算があって、月曜日は比較的客がこないことを
僕は知っていた。
  客の多寡について、僕は常連客が足を運んでくるかどうかで判断
している。そんなことを言っているから、いつまで経っても新規の
客が増えないだろうかとも思うのだが、あまり大きな問題では無い。
  忙しさよりも、流れる時間を大切に。それがこの店のモットーだ
と考えているから。

  とは言っても、夜の部になればそれほど悠長に構えてはいられな
い。今から一年ほど前に雇ったバイトの娘の評判がとても良いから
だ。なので、バーでの売り上げは上々と言える。昼間とはうって変
わった喧騒に包まれる時間はそれなりに充実していると感じるあた
り、自分の考え方も少しは変わってきたのかもしれない。
  今日はそのバイトの娘が来る日だから、きっと忙しくなるだろう。
その時が来るまでは、まだ少しだけ時間がある。
  カウンターの下に置いてあった本を取り出して、読み始めた。時
計の針は、午後四時を刺している。

  やっぱり、秋は時間の流れが遅い。ならばそこに身を任せてみる
のは悪くない。うん、全く以て悪くない。


  ドアの外側にあるプレートが、風で揺れている。外の空気が僅か
に肌寒くなってきていた。
  そろそろ暖かいフードメニューを用意するべきかな、などと考え
ながら。もう何度も読み返してぼろぼろになっている本を、開いた。


  裏口の扉が開く音がする。おや、もうそんな時間か。本を読み初
めてから、約二時間程経っていた。勿論その間に客がくることは無
かったし、恙無く読書の時間を楽しむことが出来た。

「こんばんはぁ」

店内へ入り込んで来る、銀髪の女性。

「水銀燈さん……今日も早いですね。もう少し遅くても大丈夫なの
  ですが」

「あらぁ、白崎さん。別に今に始まったことじゃ、ないでしょお?
  それに私が来ないと、あなたさぼってばっかりでしょう」

しまった。くどくどと口上が始まってしまった。彼女は一度話し始
めると結構長い。
  それに気付いたのは、彼女がここで働き初めてからちょっと経っ
た後の話。

  水銀燈と言う名に相応しく、銀髪が煌き容姿も美しいこの娘と対
峙すると、どうも調子が狂う。週の頭二日と週末にここのシフトを
入れている彼女は、夜の部のオープンが午後七時からだと伝えてい
るにもかかわらず、いつも大体一時間以上前にやってくる。そう、
丁度今くらいの時間に。
  たまに料理の下ごしらえとか、具材を買ってくるための準備時間
として過ごすこともあるのだが。大概は特に何もしていない。

『最終限の授業いれてないから、暇なのよぅ』

と言うのが彼女の弁だったが、果たして。
  もっとも、調子が狂うと言っても、それほど悪い気はしていない。
独りでいても二人でいても、店内の時間の流れは変わらないから。

「ちょっと、聞いてるぅ?」

「……はい、畏まりました、お嬢さん。ところで時間はまだありま
  すから、紅茶など如何です?」

また誤魔化してぇ、と言いながらも。カウンターの席についてしま
う辺り、彼女は素直だ。

  カップとポットをお湯で温めてから、この店特製独特にブレンド
した茶葉で紅茶を淹れる。出来上がったものに、ブランデーを一匙
加えておいた。こうすると紅茶の香りが花開き、この季節ならば身
体も温まる。ブランデーを入れすぎるのは具合が悪い、香りを殺し
てしまうから。茶葉は茶葉で、プランデーの香りと衝突しないよう
なものを選ばなくてはならない。

「お待たせ致しました」

カップを差し出した。『ありがとぉ』と言いながら、彼女は紅茶に
口をつける。

「ん……いい香りねぇ。ちょっとお酒入ってるの?」

「ええ、ブランデーを少々」

「こういうのって、ロシアンティーって言うんだったかしらぁ」

「そうですね。ジャムを入れるという飲み方も有名ですが、ロシア
  の人々はそういう風には飲まないのですよ」

  ジャムやお酒を紅茶に入れて飲むのは日本だけの習慣なのだ。だ
けど何故だか、こういった飲み方が『ロシアンティー』と呼ばれて
いるので、名前先行になっている感がある。
  実際ロシアだと、ジャムは紅茶と一緒に出される付け合せとい
う位置になっている。

「へぇ……でもお酒を入れて飲むっていうのも、中々お洒落な感じ
  がするわよねぇ」

「それはあなたが酒好きだからじゃないですか?」

「あぁん。それは言いっこなしよぉ」


  そんなことを言っている彼女は、恐ろしく酒に強い。彼女は、こ
こで働き始める前はこの店の常連だったので、このことについては
誰よりもよくわかっているつもりである。
  およそ、酔っ払っているという状態を見たことがない。

  ちなみに、酔わないのをいいことに仕事中もちょこちょこ呑みな
がら過ごしている。店のものに勝手に手をつけるのならば文句の一
つでも言えるのだろうが、彼女の場合はこの店にボトルを自分用に
キープしてあるのだった。
  加えて、彼女の仕事振りは素晴らしい。バーに客が増えたのも、
ひとえに彼女のおかげであるし。フードメニューも豊富になって評
判も上々なのだ。
  よって、僕から言えることは殆ど無い。

「ごちそうさまぁ。お代は給料から引いておいてくれれば……
  じゃ、ちょっと着替えてきまぁす」

そういった所はやたら律儀。仕事着に着替えるために、彼女は奥の
部屋へ入っていった。
  ちなみに僕がその代金を給料から天引きしたことは無いし、サー
ビスみたいなものである。

  カップを片付けてから、カウンターとテーブルを拭き始める。店
の内装は古めだが、こういったところで清潔感を保つことはやはり
大事なことだ。

  オブジェのひとつとして、店内には本棚が置かれている。中に収
められている本は、大体は僕自身が読んだものだ。
  その本棚の端っこに佇んでいる、僕が普段読んでいる文庫に負け
ず劣らずくたびれている一冊の本。棚を拭き終わったあとに、ふと
取り出してみた。

『Alice in Wonderland』。

不思議の国のアリス。哲学の本やら小説の中に混ざっているには、
半ば異色な本。

「……」

多少違和感があると言っても、僕はこの本をずっとここに置いてお
くことだろう。

  これは鍵だと思う。僕の記憶の引き出しにかかっている、鍵。こ
れを無くさない限り、引き出しがどんなに下へ沈んでいっても手を
かけることが出来るに違いなかった。
  僕は、思い出に引きずられている?
  しかし。そのこと自体に善し悪しをつけることなど、多分誰にも
出来はしないのではないか?


『難しい、かあ。でも、一言難しいって、言っちゃうと……』


  君の声が聞こえる。引き出しが開いたせいだ。
  答えの無い問い。曖昧にしたまま、もう大分時は経ってしまった。
ゆっくりと、しかし確実に。そして時々思い出しながら、僕はこれ
からも過ごしていくだろう、緩慢な時の流れの中で。

  そっと表紙を撫ぜたあと、棚へ本を戻した。


「さて、今日も忙しくなるかしらねぇ」

  奥の部屋から出てきた彼女が言う。バーテンダー宜しく、ブラッ
クスーツのパンツにベスト、コントラストを際立たせる白のシャツ。
流石に一年も着ていると、なんとも様になっている。

「水銀燈さんも、バーテンダーのイメージが固まってきましたねぇ」

「あら、ありがとぉ」

  髪を掻き揚げながら、照れ笑い。絹糸のような銀髪が、ふわりと
舞う。実際、凛々しい表情でシェイカーを振る彼女の姿に見惚れて
しまうのは、男性だけでなく女性客にも多かった。

「まあ、バーテンダーのフニフォームみたいなものですからね。
  もっと違った感じの服でも良いのかもしれませんが」

「これはこれで気に入ってるから、大丈夫よぉ」

「いやいや。その観念を覆して、水銀燈さんの新しい一面を開拓す
  るのも良いじゃないですか。名付けて水銀燈改造計画」

「例えばぁ?」

「そうですね……フリルのついた、黒色でゴシック調のドレスなど
  如何でしょう」

「なぁに、それぇ。白崎さんの趣味なのぉ?」

趣味と言われればそうでもないのだが、何となくこの店の雰囲気に
合うと思った。あと、そういったドレスが彼女にはとても似合いそ
うな気がする。何故だろう。

「ただの思いつきですよ」

「ふーん……他には何かあるのぉ?」

「僕の趣味から言えば、魅惑のボンテ……ごほんごほん!
  いや、いいんです、忘れてください」

まずいまずい。別な意味で目覚めてしまいそうだ。

「ま、いいわぁ。それにしても、ドレスは仕事しづらそうだから、
  だぁめ!」

二人して、笑う。随分とこういった軽口も言い合えるようになって
きた。

  彼女がここで働き始めた時は。仕事振りと言えば、それは最初か
ら見事なものだったが。何処かその笑顔に無理があるように見えた。

  彼女の学生時代からの知り合いである男の子との、失恋。その出
来事があったのが一年程前。
  当の彼は今でもちょくちょくこの店へやってくるし、彼の恋人も
彼女とは知り合いだった。
  僕は彼らの恋愛事情に一枚噛んでいたので、他人事では無かった。
彼女の失恋に際して、随分と酒に付き合ったこともあったけれど。
今、彼ら三人の仲はうまくいっているようだ。

  やさしさの中に、強さを秘める。それが水銀燈という女性の姿だ
と思っている。勿論弱いところはあるのだが、それを乗り越えた先
にあるのが、今の彼女だ。


  彼女は魅力的な女性だから、きっとこれから自分に合ったパート
ナーを見つけることだろう。それは僕自身もそう願ってやまない。

「さて、頑張りましょうかぁ……あ、いらっしゃいませぇ」

『準備中』のプレートを外して程なく、お客様第一号のご登場。
  今日も忙しくなるだろう。秋色の空間の中でも、この店内の旋律
は、少しだけそのテンポを速めることになるかもしれなかった。

  だけど。片隅に設置されている古時計の振り子は、相変わらず
ゆっくりと腕を振りながら、時を刻んでいる。



『不思議の国のアリスに出てくる兎は、やたら時間を気にして
 いるんだ』



  僕のつまらない話を、君はよく聞いてくれていた。
  そんなことをぼんやりと考えながら、僕はグラスを磨き始める。




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