翠×雛の『マターリ歳時記』
―睦月の頃 その1― 【1月1日 元日】
一年の計は元旦にあり。即ち、物事は出だしが肝心だから、
しっかりと計画を定めてから事に当たれという意味である。
――が、しかぁし。
柴崎夫妻が台所で、おせち料理や雑煮の準備をしていたところに、
寝癖だらけの髪を振り乱した翠星石が、どたどたと踏み込んできた。
「し、しし……しまったですっ! 寝坊したですぅ」
「あらまあ、大変。ヒナちゃんとは、何時の約束だったの?」
「……五時半ですぅ」
初日の出を見に行こうと、待ち合わせの時間を事前に決めていた訳だが、
時計は既に、六時近くなっている。年明け早々、とんでもない大失態だ。
こんな事では、今年一年が思いやられる。
取り敢えず、自室に戻って雛苺に電話で謝り、手っ取り早く身支度を整える。
部屋の中はかなり寒いが、構ってなどいられない。
パジャマを乱雑に脱ぎ捨て、適当な服を見繕った。
どうせ、御来光を眺めに行くだけだ。質素な色の服でも良い。
鏡台の前に座り、髪を梳る。なんだか……今朝は、櫛の通りが悪い。
ドライヤーと整髪料を使ったものの、思う様に寝癖が直らない。
「あ~もうっ! やめやめ! もう、これで良いですっ!」
翠星石は簡単に化粧を済ませると、照明を消して、部屋を飛び出した。
階段を降りて、台所の祖父母に声を掛けると、翠星石は玄関に向かった。
ジーンズのポケットをまさぐり、財布と、車のキーが有ることを確認。
見送りに来たお婆さんから、マフラーを受け取り、コートの上から襟に巻いた。
「それじゃ、行って来るですぅ」
「気を付けてね。いってらっしゃい」
祖母の笑顔に送り出されて、翠星石は玄関を潜り、ガレージへ向かった。
シャッターを開けて車に乗り込みキーを回すと、エンジンは一発で始動した。
現在時刻は、AM5:51。
約二十分の遅刻だけど、日の出の予定時刻には小一時間ほど余裕がある。
翠星石はアクセルを踏み込み、雛苺との待ち合わせ場所へと急いだ。
「もう! 翠ちゃん、遅いのー!」
開口一番、雛苺に叱られてしまった。
翠星石に非があるのだから、謝るしかない。
「寝坊したのは悪かったです。文句は車の中で聞くから、早く乗るですよ」
「うぃ。解ったなの。まだまだ言いたいコトは、沢山あるぜ……なの~」
「……なにげに怖いですぅ」
雛苺が助手席に乗り込み、シートベルトを着用したのを確認して、翠星石は、
「ちょっとばかり飛ばすですよ。しっかり掴まってやがれですぅ」
と告げて、やおらエンジンを唸らせた。
目的地に到着するまでの四十分間、翠星石の車は絶叫マシーンと化した。
雛苺は恐怖に青ざめ、文句を言うのも忘れて助手席で身を強張らせていた。
「よっしゃあ! 日の出の五分前に着けたですぅ」
翠星石の荒っぽい運転で訪れたのは、遠くに海を望む丘の上だった。
意外に知られていない、穴場スポットである。
実際、彼女たちの他には誰も居ない。
朱に染まりゆく東の空を眺めていた翠星石は、しゃがみ込んでいる雛苺を
見て、心配そうに声を掛けた。
「どうしたです?」
「…………酔ったぁ」
「はぁ? 乗り物酔いするほどの、乱暴な運転は――」
してた……かも知れない。
速度超過は朝飯前。山道では久々にドリフト走行も……。
翠星石は失笑を禁じ得なかったが、放っておく訳にもいかない。
隣に屈み込んで、雛苺の背中を優しく撫でてあげた。
「大丈夫ですか?」
「うぅ……気持ち悪いの~」
「なんだったら、少し車のシートで寝てると良いです。肩を貸してやるですよ」
雛苺の肩に手を添えて、立ち上がらせる。
雛苺は翠星石の胸元にしがみついて、弱々しく微笑んだ。
が、正にその直後、雛苺の喉がゴボッ! と嫌~な音を立てた。
振り解く暇など無い。
「うぉえぇぇーっ!」
「ひぃぎゃあぁぁぁ――っ!」
新年の朝日と雛苺の吐瀉物を浴びながら、翠星石の新年は幕を開けた。
「あ~もうっ! 新年早々、ゲロ浴びるわ御来光を見逃すわ……最低、最悪ですぅ」
被害がコートと足元だけに留まったのは、不幸中の幸いだったが、
心理的なショックは計り知れなかった。
しかし、雛苺に非は無い。いきなり具合が悪くなるのは、良くあることだ。
それに大元を辿れば、自分が寝坊したせいである。時間的な余裕を失って、
つい荒っぽい運転をしてしまい、結果的に、車酔いさせてしまった。
被害者は寧ろ、雛苺の方である。
信号待ちの合間に、助手席で寝息を立てている雛苺を一瞥して、
翠星石はポツリと呟いた。
「ゴメンです、雛苺。年明けから、酷いことしたです」
雛苺が眠っていたせいか、翠星石は素直に、想いを言葉に出来た。
普段だと、どうしても気恥ずかしさから、憎まれ口を叩いてしまう。
本当は…………そんな事、言いたくないのに。
往路とは打って変わって、復路は安全運転を心がけてハンドルを操る。
AT車なので、スタートダッシュもエンジンのアイドリングだけで事足りる。
この時間、まだ道は空いていたが、翠星石は必要以上にアクセルを
踏み込まなかった。
行きで40分の距離を、帰りは一時間半かけて走った。
その為か、雛苺は途中で一度も目を覚まさなかった。
彼女の家の前に停車して、翠星石は雛苺の右肩を、そっと揺さぶった。
「着いたですよ。起きるです」
「ふぁっ?!」
ビクンッ! と身体を震わせて、雛苺は瞼を開いた。
熟睡していたから、寝惚けているらしく、雛苺はポケ~っと前を見ていた。
そして、徐に眠りに落ちる。
翠星石は条件反射的に、雛苺の頭をペシっ! とひっぱたいた。
「バカタレ! 寝直して、どうするですっ!」
「あいたっ。ふぇぇ……翠ちゃん、乱暴なのぉ~」
「あ……悪かったですぅ。つい、蒼星石の時みたいに、やっちまったです」
「うゅ。やっちまったよ八街市なの?」
「そのダジャレは、千葉県民にしか解らないんじゃないかと……ですぅ」
雛苺は「えへへぇ……」と、はにかんだ。
だが、それで目が覚めたらしく、直ぐに真顔に戻って翠星石に訊ねた。
「そう言えば、蒼ちゃんも初詣に行くの? お正月だから帰ってきたでしょ」
「……ううん、帰ってきて……ないです」
翠星石の表情が、サッと翳るのが、雛苺には解った。
悪いことを訊いたらしい。
雛苺は申し訳なくなって「ゴメンなさいなの」と俯いてしまった。
そんな彼女に、翠星石が、ふっ……と微笑みかける。
「気にすんなです。蒼星石は、後期からの編入組ですからね。
履修日程の遅れを取り戻そうと、一生懸命、頑張ってるですよ」
「そうなの……久しぶりに会えるの楽しみにしてたのに」
「雛苺だけじゃないですよ、それは」
――私だって、会いたい。空を飛べるなら、今すぐにでも、会いに行きたい。
衝動的に吐き出したくなる一言を、翠星石はグッ……と呑み込み、堪えた。
言ってしまったら、募る想いを止められなくなる。きっと……泣いてしまう。
少しだけ硬さを増した空気の中で、彼女たちは、夕方から初詣に行く約束を交わした。