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――堕ちる、堕ちる
私の体は、深く、暗い闇の底へ、ゆっくりと吸い込まれて行く。
上下の感覚が消えて行く中で、何か生暖かいものがぬるりと首筋をつたって行く。
これは――血?
わからない。自分が何をしているのか。自分の身に何が起ったのか。何も分からない。
ただ、朦朧とする意識の中で、生家の大銀杏が、村の鎮守様のお社が、
村の家々が、次々浮かんでは消えて行く。
人が死ぬ時、魂だけは故郷に帰る、というのは、お母さんのお話だったか知ら。
――そっか、私、死んじゃったんだな。ああ、これが死ぬ、という事か。
痛みも苦痛も無く、不思議と穏やかな気分だ。
このまま自分が融けて行けるのなら、其れも良いかも知れない。
私が小さい頃に亡くなった母の、悲しそうな顔が一瞬浮かんだが、其れも直に消えた。
――ごめんね、お母さん。私、疲れちゃった。頑張って、生きて来たけど、何も良い事、無かったもの。
混血故の宿命か、白髪紅眼に生まれついたお蔭で、何も良い想い出の無い少女時代。
其れは大人になってからも変わらなかった。
私を見た途端にギョッとしたような顔や、私にだけ余所余所しい態度をとる人を目にする度に、
自分は普通とは違う。其の事を思い知らされ続けて来た。
――わたしは、ジャンク。こわれた、娘。
心に抱いて逝くような想い出は何一つないのに。走馬灯のような光景は、まだ止まらない。

始めて飛行機乗った日、学校を主席で卒業した日、軍に入った日、あの人の笑顔――

――あの人の、笑顔?
そうだ。私は、まだ、死ねない。いやだ。死にたく、無い!!!
押し寄せる闇にのまれ、ともすれば消えてしまいそうな意識の底で、
彼女は頭上に見える一筋の光明に向かって足掻き、浮かび上がろうと必死にもがいた。
衝動とも言える生への渇望が沸き起こり、
それは体を突き動かして、彼女は無意識の内に、操縦桿をグーーッと引き付けていた。



「おかあさん、おはなししてほしいの。」
布団に潜り込んだ娘が頭だけだして、こちらを見上げてくる。
私は取り組んでいた繕い物に、最後の玉止めをすると、針をおいて娘に尋ねた。
「そうねぇ、ひなちゃんはどんなお話が良いのかな?」
「ひなね、うさぎさんと、くまさんのおはなしがいいの。」
私の仕事が終わったので、一緒に寝られる事が分かったらしく、娘は目をキラキラさせながらそう言った。
娘のお気に入りの白兎と熊の話と言うのは、私が作ったオリジナルで、
一緒に寝る時にはいつも聞かせてやっている物だ。
かわいらしい笑顔に思わず口元が綻ぶ。
同じ布団に入り、小さな体を抱き寄せながら、お話を始めようと思ったが、
ふと、気が変わった。
「ひなちゃん、今日はねぇ、別のお話をしようと思うの。」
「べつの、おはなし?」
「そう。とても怖くて、辛いお話。」
「う~~~。ひな、こわいのやなの……。」
「そうねぇ。でも、いつかは話さないといけない事なの。そして、其の後どう考えるかは貴女次第。」
そういいながら娘の澄んだ目をじっと見つめる。
うーーー、と暫く考え込んでいた娘は、やがて一大決心をしたように顔を上げると、
きっぱりとした口調で言った。
「わかったの。ひな、もうおおきいから、だいじょうぶなの。ちゃんと、さいごまで、きくの。」
良い子ね、と頭を撫でてやりながら、ふと、娘に話すには早すぎるかも知れない、とも思ったが、
やはりいつか語るべき事、と思い直した。
「これは、貴女が生まれるずっと前のお話よ。」
そう言いながらどこか遠くを見つめるような眼をして、彼女は語りはじめた――



南国の、突き抜けるような青空に、ガラス細工の様に白く透き通る機影が二十一。
彼等は敵基地空襲に出向いて来た、メイメイ基地の戦闘機群である。
もう15分も前から、予想される敵の迎撃を警戒する為、高度を5000に取って哨戒を続けている。
 最初に敵を視認したのは隊唯一の女性パイロットだった。
常人の視力ならば、空の蒼さに溶け込む迷彩を施された機体を、この距離で見つけ出すのはまず無理だろう。
だが、彼女の研ぎ澄まされた眼と、培われた戦士のカンは、
太陽光を弾いた敵機の翼端がキラリと光るのを見逃さなかった。
増槽を捨て、小刻みな連続バンクを振って敵機発見を知らせる。
敵は上空。高度差は約1000m。
彼女は味方編隊を率いて変針すると、上昇姿勢に移る。
やがて彼我の距離は詰まり、敵の機影が覆いかぶさるように大きくなった。
――単縦陣。ト・ツ・レ(突撃体勢、作れ)。
後ろに控える列機に手信号で合図すると、彼女は敵の死角からまっしぐらに襲い掛かっていった。
上空を飛ぶ編隊に下からの編隊が突き上げるようにして交差し、
交わった線と線が離れた刹那、上空を飛んでいた編隊の内の何機かが、
紅蓮の炎をまき散らしながら黒煙を引いて墜落していった。
最初の一撃に不意をつかれて狼狽した敵は、予想され得る第二撃をさける為、
各機思い思いの方向に切り返し、急降下で逃れていったが、
直ぐに体勢を立て直すと、猛然と反転して立ち向かって来た。
戦闘は予想以上に激しいものになった。



撃ち落とした敵機のなごりが、蒼天に幾筋もの黒煙となって浮き出ている。
暫くすると、空のそこかしこから僚機が姿を現しはじめた。
激しい戦闘は終わりを告げ、今は敵味方とも編隊を組んで引き上げにかかっている。
実際に戦った時間は十~十五分程度だろうが、彼女はもう何時間も戦っていたように疲れていた。
彼女は列機の無事を確認すると、本隊に合流するべく愛機の零式艦戦に拍車をかける。
敵撃墜数は戦闘機、爆撃機あわせて十三機以上。対して味方は今の所損害は皆無だった。
彼女も敵戦闘機を二機、屠った。
今回の戦いは、戦術的にも戦略的にも、こちらの完全勝利と言って良いだろう。
初戦のころに比べて受け太刀なって来たとは言え、この空を奴等の好きにはさせない。

其の時である。
油断なく周囲に見回していた彼女の鋭い目は、
右斜後方を、キラリと透き通る腹を見せて、離脱しようとする敵の八機編隊を捕らえた。
機種は――多分、グラマン。敵の艦上戦闘機。
おそらく、今回の空戦で生き残れたことに安堵とし、油断しているのであろう、
彼等の組む編隊の形は密集しており、実戦隊形には程遠いものだった。
――帰りがけの駄賃に、もう何機か喰ってやるのも悪く無いわねぇ。
そう呟いて、彼女は後ろに付き従う列機を振り返り、
先に本隊に合流するように指示すると、単機身を翻して追撃を開始した。


敵はペアになった二機がぴたりと編隊を組み、四機四機の非常にまとまった形をしている。
まとめてたたき落としてやるには、正にお誂え向き。
彼女はエンジンを最大出力にして追っているので距離はどんどん詰まって行く。
もう2000mを切った。
敵編隊の形は全然崩れない。
――もしかしたら、罠かも知れない。
そんな疑惑に捕われつつ、彼女は敵が気付いて切り返して来たら
いつでも応じられるよう身構えながら、慎重に距離を詰めて行く。
あと600m……400m……200m……
ここまで接近しても、彼等は後ろから忍び寄る敵に気付いた様子も無く、
編隊を保ったまま、悠然と飛んでいる。
これで分かった。こいつら、ただの馬鹿だ。後ろから撃たれる事を全く警戒していない。
――ならば、私のするべき事は、ただ一つ。
今自分達が飛んでいるのが戦場だという事も忘れたこの愚かな敵に、
後方警戒と言う、最も重要な基本事項を怠ったツケを払わせてやるのみ。
其の為に必要なのは、絶対優位の射距離からの一弾の無駄も無い一撃。
そして、ここまで肉薄した以上、最早外しようがない。
彼等には地獄で自分達の甘さを悔いてもらうとしよう。


あと90m……80m……70m……
――自分の運命も知らないで。ほんとうにおバカさん。
彼女の唇に我知らず残虐な笑みが宿る。
照準器に敵の最後尾をとらえ、発射把柄を握ろうとして――

瞬間、時間が凍った。
顔から血の気がすっと引き、張り詰めていた背筋に冷たいものが走る。
彼女は自分が致命的なミスを犯した事に気が付いた。
眼前に迫る敵機。あれは戦闘機などでは無い。
彼女は呻いた。


――ドーントレス艦上爆撃機……!!

彼女は敵を嘗めてかかった自分の迂闊さを呪った。
罠に陥ったのはこちらの方だったのだ。
後部銃座の八機計十六門、冷たい銃口が、ヒタリと彼女の胸に突き付けられていた。



後ろに付かれたら振り切る以外手のない戦闘機とは違い、攻撃機、爆撃機などには
敵戦闘機に対抗する為、往々にして後部銃座が設けられ、自衛用の旋回機銃に射手が張り付いている。
戦闘機ほどの機動性を持たない艦上爆撃機が、戦闘機に襲われた際、
密集隊形を組んで濃密な防御砲火網を築いて応じるのは常套手段であった。
艦上爆撃機などの後部銃座に搭載された旋回機銃は、戦闘機の持つ固定機銃に比べて命中率が悪く、
飽く迄防御用、牽制用としての効果しか持っていない。
後ろから忍び寄る戦闘機の存在を察知している以上、
普通ならばとにかく撃ちまくって、こちらが射点に付くのを妨害するはずなのに――

彼等はまだ一発も発砲してはいなかった。
おそらく、必中の間合いに入る迄、息を殺して待っているのだろう。
奴等、刺し違えてでもこちらを撃墜するつもりだ。
今回の敵が、容易ならざる相手であるのを、彼女は即座に理解した。
だが、攻撃を中止しようにも、ここまで接近してしまっては最早回避もままならない。
機速の付いた機体は、彼女の意志に反して、敵機との差をじりじりと摘めつつあった。
もはや取るべき道は唯一つ。


――殺られる前に、殺る!




彼我の距離はもう40mをきった。
照準器一杯広がった敵機を睨み付け、彼女は祈るような気持ちで発射把柄を握りしめると、
20mm、7.7mmの全機銃弾を撃ち放しに撃ち込みながら突っ込んでいった。
強い反動。光の尾を引いて奔った弾丸は、幾筋もの帯となって敵機の群れに吸い込まれて行く。
それが合図だったかのように、敵機の後部銃座が、一斉に火を吐き出した。
砂を握って投げ付けてくるような、凄まじい防御砲火。
無数の曳光弾がたちまちの内に彼女の機体を取り囲む。
敵の照準は正確だった。

直撃弾が風防を砕き、フレームを抉る。
弾丸と破片の幾つかが頬を掠めるのが分かった。
其れでも彼女は顔を伏せない。目を見開き、弾丸の行く末を見守る。
零戦の両翼に搭載された20mm機関砲は、この時も其の凄まじい威力を遺憾なく発揮し、
放たれた光の束の直撃を受けた最後尾の二機が、パアっと明るい炎に包まれるのが分かった。
たちまちの内にその機体がバラバラに分解し、二機はもつれあう火の玉となって、
黒い煙を引きながら真っ逆さまに堕ちて行く。
が。
其れでも敵は怯まなかった。
撃ち出される機銃弾は、増々正確に、そして猛烈に、彼女の行く手を阻む。
それの内の幾つかは無気味な音を立てて機体を貫通し、着弾の度に鈍い振動が伝わってくる。
最早状況は逃れがたい。
彼女は死が自分を捕らえているのを知った。




――あーあ、私だって、普通の女の子みたいな事、したかったな。


この身は戦いしか知らず、戦いに朽ちる。おそらく、それが私の運命なのだろうけど。
ただ、それだけが心残り。

恐ろしくゆっくりと時間が流れて行く。
前方から撃ち出される弾丸は、目の前迄来るとすっ、すっ、と前後左右に別れ、
彼女の機を取り包む様にして流れて行く。
そのうちの何発かは当たるらしく、着弾の鈍い衝撃の度、機体がぐらり、ぐらりとゆれた。
激しい砲火に伴う橙色の弾光が、黒い雲をバックに敵機の姿を浮き彫りにしている。
撃墜されるのは多分、分秒の内であろう。
死を前にして、自分がこれほど迄に冷静で居られる事が、彼女には何処か可笑しかった。
また一つ、銃弾が機体を掠め、剥がれ飛んだ外板がキャノピーに当って鋭い音を立てる。
砲火は、止まない。

――私はもう十分戦ったもの。最期の最期くらい、他の事考えたって、罰は当らないよね。

貴方なら、何と言うか知ら。
野暮ったい四角眼鏡をかけた海軍将校に、心の中で問いかけてみる。



感情を知らなかった私に、人の心の温もりを教えてくれた不思議な人。
そして、白髪紅眼に生まれた異形の私を、一人の女性として扱ってくれた、始めてのヒト。
”貴女の銀髪は流れる様で、とてもとても綺麗だと思いますよ。”
私の髪をそっと梳いて、お世辞でも同情でも無く、心の底からそう言ってくれた。
切っ掛けはふとした出来事。
近所の公園で、引っ掛けて破いてしまった私の服を、たまたま通りかかった貴方が繕ってくれた。
其の指の紡ぎ出す旋律はまるで魔法のようで。
私は思わず見愡れてしまったのを覚えている。
”手芸は趣味ですから。いつも持ち歩いてるんです。”
お礼を言う私に、貴方はそう言って照れくさそうに笑っていたっけ。
私的な用で会ったことは一度もなかったけれど。貴方が基地に滞在している間、
自分でも気付かない内に貴方に会うのが一つの楽しみになっていた。
軍人の癖して、其の身に纏う雰囲気はどこか柔らかく、精悍とは程遠くて。
男の癖にどちらかと言えば貧弱で、恥ずかしがり屋で。
でも、嘘のつけない誠実さと、時折覗く芯の強さに、きっと私は惹かれていた。
脳裏に浮かんだ愛しい人は、泣いている様だった。

――私の為に、泣いてくれるの?

答えは無かった。
幻影に身を委ね、一切の思考を放棄してしまいたい衝動にかられたが、
鍛え上げられた戦闘機乗りとしての本能は、容易にそれを許してはくれない。
冷徹な戦士としてのもう一人の自分が、眼前に迫る死を冷ややかに見つめている。


束の間の幕間劇はこれでお終い。

終わりの時が近付いているもの。

神様、ありがとう。

最期に素敵な夢を見させてくれて。

でも、願わくは、あと一度。もう一目だけ――


「櫻田中尉、もう一目だけ、貴方に――」

最早叶うはずもない願い。
それでも、そう願わずにはいられなかった。
次の瞬間、頭を殴られたような衝撃が走り、彼女の意識はそこで途切れた。


「うーーーーー。」
胸にしがみついた娘が、半分涙目になりながら上目遣いに見上げてくる。
やはり、こんな小さい子に今の話は少し刺激が強すぎたか。
「ごめんなさいねぇ。いつかは話そうと思ってた事だけど、貴女には少し早すぎたかしら。」
よしよし、と頭を撫でてやりながらそう言うと、
娘がぷう、と頬を膨らませながらもぞもぞと顔を出して来た。
「ひな、子供じゃないもん。
 だから、おとなのおはなしだって、わかるもん。でも……。」
「でも?」
「そのひと、しんじゃったんでしょ?
 たくさんうたれて、しんじゃったんでしょ?」
半泣きになりながら必死に尋ねてくる。
――ああそうか、娘に私の話だって言うの、忘れてたっけ。
苦笑しつつ、違うわぁ、と否定しようとした時、娘は何か大きな発見でもしたように
「あ」と叫び、たちまち顔色がパッと明るくなった。
「おかあさんが、そんなによくしってるの。だからたぶん、そのひと、いきてるのよ。」
何か良く分からないが、彼女なりの理論で納得したらしい。
そうねぇ、と答えつつ、はみ出した肩に再び布団をかけてやる。
それが私の事だと話してやるのは、もう少し後でもいいだろう。



そんな事を考えながら指の腹で娘の髪を梳いてやる。
流れるように綺麗な髪。
あの人が誉めてくれた私の髪を、きっと受け継いでいるのだろう。
娘は、暫く心地よさそうに身を任せていたが、ふと思い付いたように
あ、でも、と言って、と再び顔を曇らせた。
「のってたひと、しんじゃったんでしょ?」
娘の言う『のってたひと』が、私が撃墜した敵の二機の事を指すのだと気付くのに、少し時間が掛かった。
この優しさと心遣いは、あの人に似たのだろうか。
「そうね。」
そう答えた後、そっと娘を抱き寄せ、誰に言うとも無しに呟く。
「喰うか喰われるかの極限状態で、私が銃口を向け、殺して来たものは、
 ”敵”であり、”敵機”であって、そこに『人間』という意識は存在しようがなかったわ。
 ただ、燃え上がる敵愾心に突き動かされるように引き金を引き、
 ただ、生き残る為に、此の手を血に染めて、我武者羅に戦って来た……。」
でも、此の子には人を思い遣る心を忘れないで欲しい。
「そうね、貴女はとても優しい子。」
そう言いながらそっと頭を撫でてやると、娘は嬉しそうに、えへへ、と笑った。
「さあ、お話の続きはまた明日。今日はもう寝ましょうね。」

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