~第七章~
 
 
渓流の冷たい水の中を、翠星石は漂っていた。
呼吸が出来なくても苦しくなかったし、もう痛みも感じない。
なんとも安らかな気持ちだった。

 (死ぬって、こんなに楽なことだったですね……)

今まで、がむしゃらに生きてきたのが、馬鹿らしく思えた。
こうと解っていたなら、辛い目に遭ったり、苦しい思いをすることもなく、死を選んでいたのに。
蒼星石と、一緒に――

多分、蒼星石は必死になって引き留めるだろう。
そして、姉の気持ちが揺るがないと確信したとき、笑いながら共に逝ってくれる筈だ。

――しょうがないな、姉さんは。

最愛の妹の顔を思い浮かべた時、翠星石の胸が、ちくりと痛んだ。
死の間際に、なんて下らない事を考えているのだろう。
蒼星石はジュンと幸せに暮らしていけば良い。そう言ったのは、他ならぬ自分自身ではないか。

 (私は、最後まで蒼星石を守り通したです。だから……きっと、これで良かったです)

この世には、未練も執着もない。
いや……ひとつだけ有った。それは、蒼星石とジュンの晴れ姿を見られなかったこと。

 (情けねぇです……最後まで、こんな気持ちを引きずるなんて)
 (そう思うなら、生き長らえてみたら?)
 (!? だ、誰ですっ?)

突如として頭の中に響いた見知らぬ女の声に、翠星石は驚きの声を上げていた。
翠星石の動揺を気にも留めず、声は語り続ける。

 (そんなに未練があるなら、甦ればいい。貴女が願うなら、わたしが叶えてあげよう)
 (必要ねぇです。諦めは付いてるですから、もう構うなです!)
 (ふふふ……もの分かりの良いフリなんかして。強がったって無駄よ。
  わたしには、貴女の心の闇が見えているのだから)
 (う、うるせえですっ! もう黙れですっ!)
 (本当は、蒼星石が羨ましいくせにね。自分が掴めない幸福を、彼女は手にしようとしている。
  それが妬ましくて、仕方が無いのでしょう? だって……貴女も彼のことが好きなのだから。
  二人を応援すると言いながら、さりげなく邪魔をしたことも――)
 (やめるですうっ!)

叫ぶ翠星石をあざ笑うように、とどめの一言が放たれる。
それは、彼女の心に深々と突き刺さり、塞がっていた古傷を抉った。

 (蒼星石がジュンから離れたとき、悲しむフリをしながら、心の奥底では歓んでいたでしょう?)

もう聞きたくない。
しかし、心の声に耳を塞ぐことは出来なかった。確かに、その通りだったから。
双子の姉妹が同じ男性を好きになる事は、世間でよくある話らしい。
いつも一緒に居て、以心伝心と呼べるまでの意志疎通を繰り返していれば、
趣味や好みが共通するのも当然の帰結なのだろう。

翠星石は、ジュンに恋をしていた。それは、紛れもない事実。
けれど、蒼星石から彼を奪い取ろうなんて思わなかったのも、れっきとした事実だった。

 (何も迷わず、黒い欲望に身を任せれば良い。とても簡単な事よ。
  嫉妬と憎悪の炎を、心に宿すだけ。たったそれだけで、貴女の魂は救われる)
 (ゴチャゴチャうるせぇです! 
  そんな戯れ言で、私が動揺すると思ってるですか? 見くびるなですっ!)
 (これは威勢が良い。気に入ったわ。是が非でも、わたしの配下に加えてやる)
 (な、なに? お前は、何者ですっ!)
 (わたしの正体が知りたければ、我らの仲間になれば良い。幾らでも教えてあげるから)

心の中に、邪悪な哄笑が轟く。
続いて、恐ろしい宣言が下された。

 (望もうが、望むまいが関係ない。無理矢理にでも、その身体を奪うのみ)
 (なぁっ!!)

一呼吸する暇もなく、翠星石の心に墨汁の如き黒々としたものが流れ込んできた。
それは信じられない早さで、翠星石の心身を侵食し始めていた。

 (お前の感情は疎か、記憶すらも、憎しみに彩られた物語に書き換えてあげよう)
 (イヤっ! やめるですっ! 入ってくるなですっ!)

このままでは、本当に記憶まで操られてしまう。
蒼星石への親愛も、ジュンに抱いた恋心も、全てが闇の者に玩ばれてしまう。
闇の者に身をやつし、穢れた姿を、蒼星石やジュンの前に晒す苦痛よりも、
かけがえのない思い出を闇に汚される事の方が、我慢ならなかった。


翠星石は心を閉ざし、一切の思考を絶った。
それが、彼女に出来る、精一杯の抵抗だった。
 
 
 
 
湯治場に逗留して、早二日目。
巴は、よくジュンに尽くしてくれた。元々、献身的な性格なのかも知れない。
蒼星石に面差しが似ている事もあってか、ジュンは少しずつ、巴に惹かれ始めていた。

 「ジュン、夕餉の支度、手伝ってくれない?」
 「いいよ、勿論」

教育係の梅岡に料理の腕まで鍛えられたのが、まさか、こんな場面で役立つとは。
縁は異なもの……とは、よく言ったものだ。
湯治場にある簡素な炊事場で、ジュンと巴は並んで料理をする。
時折、何か言葉を交わしては愉しげに笑い合う様子は、若い夫婦を思わせた。

温かな味噌汁に、粟と麦の雑炊。
材料の多くは、巴が路銀をはたいて、近くの農家から譲り受けたものだ。
あとは周辺の野草や、山菜を使っていた。

 「巴には、本当に感謝してるよ。それに、すまないとも思ってる」

食後のひととき。ジュンは白湯を一口飲むと、そう言って項垂れた。
何の因果か、妙な事に巻き込んでしまった。
彼女だって旅の途中だと言うのに、食料を買うため、無一文にさせてしまった。
けれど、ジュンが謝る度に、巴はこう告げて、微笑むのだった。

 「気にしなくても良いの。困っている人が居たら助けるようにと、育てられてきたから」

聞けば、巴はとある地方の、武家の娘だという。道理で刀の扱いが、様になっていた筈である。
あれだけ剣術に熟達しているにも拘わらず、何故、巴は修行の旅になど出ているのだろう。
私的な事に口出しをすべきではないと思いつつ、気付けば、ジュンは訊ねていた。
巴は怒るでもなく、と言って微笑むでもなく……真っ直ぐに、ジュンを見詰めている。
気分を害してしまっただろうか。

ジュンが詫びを入れようとした矢先、巴は静かに瞼を閉じた。
そして、一呼吸。

 「わたしは、夫となるに相応しい方を探しているんです」

再び瞼を開いた彼女の眼差しは、力強い光を放っている。
何かを決意した者のみが見せる真剣な目つき。それは、揺るぎない意志に満ち溢れていた。

 「ジュン…………わたしを、妻にして貰えませんか?」
 「巴……それは……いきなり過ぎるよ」
 「確かに、こんな事を急に言われても、信じてもらえないと思う。
  でも、決して、いい加減な気持ちじゃあないの」
 「それは、巴の目を見れば判るよ。人を斬れそうなくらい、真剣な目をしてるから」

ただ、どうして巴が自分を選んだのかが、ジュンには解らなかった。
人より抜きん出た才が、ある訳でもない。容姿に恵まれた訳でもない。
情けないけれど、剣術なら、巴の足元にも及ばないだろう。
そもそも全国修行の旅を続けていたのは、自分より強い男性に出会うためではないのか?

ジュンの疑問を見透かしたように、巴は思いの丈を打ち明けた。

 「貴方に、ひと目惚れでした。こんな事、産まれて初めてです」

袖摺り合うも他生の縁、という。
或いは、巴とジュンも過去に――生まれ変わる以前に――出会っていたのかも知れない。
そして再び、互いの波長を憶えていた魂に導かれて、巡り会えたのだとしたら……。

 「ひと目惚れ、か。そう言うの……あるよな、確かに」

かく言うジュンも、蒼星石にひと目惚れだった。
でも、考えてみれば、なぜ彼女に惹かれたのだろう?
そう考えたとき、ジュンの脳裏に信じられないような仮定が浮かんできた。
もしかしたら、本当は蒼星石に、巴の影を重ねて見ていたのではないか……と。

最初から抱いていたのは巴への想いで、それが故に、
巴に似た蒼星石を好きになったのだとしたら?

考えたところで、答えなど解らない。
何故なら、転生したという確かな記憶が無いのだから。
唯一、断言できる事は、いまジュンが思慕しているのが、蒼星石だということ。
彼の心を占めているのは、巴ではなかった。

 「僕なんかを、そこまで慕ってくれて嬉しいよ」
 「それじゃあ――」
 「……ゴメン、巴。僕も、巴のことは好きだよ。でも、蒼星石じゃないとダメなんだ」
 「その人に、操を立てているの?」
 「そういうつもりではないけど……結果的に、そうなるのかな」
 「でも、その人は、ジュンの前から消えてしまったのよ?
  もう貴方を、愛していないかも知れないのよ?」
 「それでも――」

ジュンは有無を言わせぬ勢いで、巴に告げた。「僕は、蒼星石を愛し続けているんだ」
 
 
 
 
同じ頃、四人の犬士たちも湯治場に向かっていた。
水銀燈の背負われた真紅は、恥ずかしげに「ごめんなさい」と囁く。
休憩しても疲労が抜け切らず、どんどん遅れてしまうので、見かねた水銀燈が背を貸したのだ。
水銀燈の太刀は薔薇水晶が持っているが、どうにも、足取りがフラフラしている。

 「割と、重いのかしらね」
 「んん? 寧ろ、軽すぎるわねぇ。もっと食べなきゃダメよ、真紅ぅ」
 「は? 私は、貴女の太刀の重量について訊いただけよ」
 「なぁんだ、そうだったの。てっきり体重の話かと思ったわぁ」

自分が他の娘に比べて、痩せ気味であることくらい承知している。
ばかりか、神経過敏とも言えるほど気にしていた。
特に、胸の大きさを――

 「まあ、これからの成長に期待ってトコよねぇ」
 「……余計なお世話なのだわ」

ぐさりと刺さる言葉に、真紅は頬を引きつらせた。
いつもならば、首根っこを両手で掴んで、ガクガクと揺さぶってやるところだ。
しかし今は、そんな気分になれなかった。

先頭を歩く蒼星石の背中が、重苦しい雰囲気を放っている。
とても軽口を叩ける状況ではない。真紅と水銀燈の会話も、直ぐに途切れた。
目の前で姉を失った彼女に、どう声を掛けて、慰めれば良いのだろう。
話すきっかけも見出せないまま、四人は重いを引きずりながら進んだ。

それでも、この空気は払拭しなければならない。
真紅は意を決して、蒼星石の背に問い掛けた。

 「蒼星石、あと、どのくらいなの?」

振り向いた蒼星石は、あと少しだよ、と明るく応じた。
重苦しい雰囲気を纏いつかせている割に、意外と悲愴感がない。
少しは気分が落ち着いた、と言うところか。
ともかく、暫くは様子を見守った方が良いかも知れない。
蒼星石が、短気を起こさないように……。

 「そんなに、心配しなくても良いよ。真紅」

真紅の僅かな仕種から、意図を見抜いたのだろう。
蒼星石は、水銀燈に背負われた真紅を見詰めて、屈託のない笑顔を見せた。

 「姉さんが護ってくれた命だからね。粗末にしたら、罰が当たるよ」
 「そう……。だったら、何も言うことは無いわ」

それにね、と蒼星石は続けた。

 「ボクには、姉さんが死んだなんて思えないんだ。その辺から、ひょっこり顔を覗かせて、
  ビックリしたですか? なんて言うんじゃないか……って。
  そんな気がして、ならないんだよ」

あはは……と笑う蒼星石の頬に、一粒の雫。

 「あれ? おかしいな。泣いたりするつもりは、無かったのに」

指先で頻りに拭うけれど、蒼星石の頬を、ぽろぽろと涙が零れ続けた。

こんな時まで、強がらなくてもいいのに。
水銀燈は真紅を降ろし、蒼星石の肩を優しく包み込んだ。

 「おばかさぁん。泣きたい時は、思いっきり泣けば良いのよ」
 「その通りよ、蒼星石。貴女は周囲の眼を気にしすぎるのだわ」


――普段から、そうやって本音をさらけ出せば良いです。
――世間体だの周囲の眼だの、気にする事ないです。


水銀燈と真紅の言葉が、別れ際に聞いた翠星石の言葉と重なる。

 「みんな、同じ事を言うんだね。
  でも、それは裏を返せば、ボクに対する印象が一致しているってコト。
  姉さん……ボクはホントに、今まで素直じゃなかったんだね」

蒼星石は、そのから少しの間、水銀燈の胸で泣きじゃくった。
 
 
  
 「ゴメン、みんな。なんだか、いろいろと迷惑かけちゃったね」

蒼星石は、ジュンのことも含めて、みんなに話して聞かせた。
湯治場に向かうのも、本当は自分の目的を果たすための口実だったことも。
それに対する、みんなの答えは、真紅の一言に集約されていた。

 「余計な事は言わないで良いから、早く道案内しなさい」
 
 
 
 
休めるときに休み、鋭気を養うこと。それもまた、戦士の義務である。
蒼星石に連れられて訪れた湯治場は、小さな庵があるだけの、感じのいい所だった。
ここなら、じっくり骨休め出来そうだ。

蒼星石は、率先して庵に向かった。
ここに、ジュンが逗留しているかも知れない。
その期待を胸に歩いていると、彼女の足音を聞き付けたのか、庵の中から人影が現れた。
それは正しく、蒼星石が会いたいと思っていた若き侍――ジュンだった。

 「ジュンっ!」
 「え!? そ、蒼星石っ!」

言葉と同時に、走り出していた。どんなに、この時を待ち望んでいたことか。
一秒でも早く彼の胸に飛び込んで、抱き締めて欲しかった。

けれど、ジュンは蒼星石の元へ駆け寄らなかった。
正確には、走り出す直前、庵の中から伸びた白い腕に、引き留められたのだ。

 「どうしたの、ジュン……お客さん?」

ジュンを背後から抱き締めた娘は、蒼星石を見て、微かに笑った。蒼星石の足が、止まる。
なんなの、その勝ち誇った様な笑みは。二人の視線がぶつかり、一瞬、火花が散った。

 「誰なの、キミは?」
 「誰、貴女?」

二人が冷ややかな声で詰問したのは、殆ど同時だった。
 
 
 
 =第八章につづく=
 
 

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最終更新:2006年05月01日 01:27