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 およそ半月前のこと。
 
 
 夜もすっかり更け、人通りも絶えて久しい刻限。ビルの谷間に街灯は届かず、漆黒ばかりが満ちていた。ライトなしでは足元が覚束ない。
 畢竟、こんな場所に好んで足を踏み入れる人種は限られる。衆目を嫌う輩――大別すれば、コンプレックスの塊のような人間か、臑に傷持つ者か、だ。
 そこに、いかにも胡散臭い黒塗りのメルセデスEクラスが、ひっそりと停車していた。
 
 不意に、夜の静けさを貫く金属音ひとつ。次いで、控えめな摩擦音と、微かな閃き。それが幾度か繰り返され、車内にオレンジ色の光が生まれた。
 ZIPPOと思しい大ぶりなライターの炎は、朧気に揺らめきながら、夜闇に溶け込んでいた人影を浮かび上がらせる。その数、三。
 炎は生まれたとき同様、唐突に姿を消し、蛍を彷彿させる儚げな深紅の輝きだけが残された。
 
 ――ふぅ。聞こえよがしな吐息が、紫煙と共に放たれる。誰に聞き咎められたところで、さしたる支障もないと確信し切っているらしい。
 それを皮切りに、暗がりの中、押し殺した声の往来が始まった。
 
「例の件は、事実なのかね?」
 
 リアシートから、過度の疲労を窺わせる男性の声が、重々しく問いかける。低く嗄れた声は、老人のようである。
 すると、声のした辺りの隣りで、深紅の光点が微妙に振れた。横着にも、タバコを銜えたまま喋っているのだろう。些か、傲岸不遜だ。
 
「うちの家内も、連絡を受けたときは目を丸くしていたよ。幾らなんでも早すぎる……とね」
 
 唯一、喫煙している者の声もまた、男性のものだ。タバコの影響か、渋味のあるハスキーボイスだった。
 妻帯者と言うからには、それなりの年齢なのだろう。中年から壮年と評すれば、ほぼ間違いなさそうに思える。
 
 束の間の沈黙があって、くっくっ……と喉を鳴らして含み笑う声。第一の男とも、第二の男とも違う。ドライバーシートが発声源だ。
 
「ウソだ、と言ったら?」
 
 嘲るように告げた声は凛とした響きで、明らかに他の二人より若かった。声質だけで判ずるなら、親子――いや、祖父と孫ほどの隔たりがあろうか。
 年齢は疎か性別さえも明確に区別し難い若い声の主は、またぞろ得意げに鼻を鳴らし、噴出しそうになる笑みを堪えている様子だった。
 
 けれど、タバコの火が不機嫌そうに明滅するのを見るに付けて、それも止む。「冗談です。アレを入手して、まだ気が昂っているもので」
 決まり悪そうに言い淀んだものの、若者の声は秘やかに続ける。
 
「性急にすぎたのは認めます。しかし、こちらから持ちかけた話ですから。速さも誠意の内と思ってください」
「まあ、結果として目的が果たせるならば委細は問わんさ」第一の男が年長者らしい貫禄を見せた。「我々にも、時間の猶予はないからな」
 
 第二の男も首肯したようで、タバコの火が縦に軌跡を描いた。「むしろ、嬉しい誤算だ。大きな一歩であることは疑いない」
 若者の声が、そこに和する。「そう言ってもらえると救われますね。たとえ、社交辞令のお愛想であっても」
 けれども、和やかなムードになったのも瞬刻。若者の声が緊張の色を帯びた。
 
「さて、ここからは貴方たちの迅速な助力を要します。アレが持ち出されたことは、明日にでも発覚するでしょうから」
「君の所行だとは、まだ突き止められていないのだな?」
「あからさまな手懸かりを残すほど、ボクは間抜けじゃないのでね」
 
 低く呻る第一の男へと、若者は、さも当然とばかりに答える。「だけど、油断はできない。真紅と、彼女の組織は優秀ですから」
 これを、と。暗がりの中、ドライバーシートの若者が身を捩って、第二の男に小振りなトランクケースを押し付けた。
 
「彼女たちは執拗に、これを奪取しに来るでしょう。でも、ボクと貴方たちとの繋がりは、真紅たちもまだ知らないはずだ」
「君は、どうするのかね?」
「巧く立ち回って、時間を稼ぎますよ。その隙に、貴方たちは手筈どおり、アレを送り届けてください」
「ああ、勿論だ。解っているとも」
 
 言って、第二の男は携帯灰皿に吸いさしを捻り込み、トランクケースを抱え直した。「君の誠意に、全力で応えよう。我々の夢のためにも」
 ドアが開かれ、車内に流れんだ冷ややかな夜気が、紫煙の臭いを薄めた。「では、これで失礼」
 
「私も、彼のバックアップに回ろう。ここで奪い返されるわけには、いかんからな。君も、無理はするな。焦りは禁物だぞ」
 第一の男も車外に出た。車椅子にでも乗り換えたのか、キィキィと金属の擦れる音に混じって、車輪が小石を弾く音も聞こえた。
 
 独り残された若者は、ハンドルに身体を預けながら、寂しげな笑みを漏らす。「できない相談だね、それは。あの子のためにも急――っ」
 
 そこから先は、激しい咳によって遮られた。口を覆った手の隙間から漏れだした雫は、闇を溶かし込んだ忌まわしき漆黒。
 先刻の会合において気の昂りと告げたのは、実のところ、咳を堪えていたことの詐りにすぎなかった。
 
 ――ボクに残された時間は、あと、どれだけ?
 喀血に汚れた手で固めた拳は、見苦しく戦慄いている。今更ながら、遠からず訪れるに違いない『死』の概念に恐怖し、震えた。
 そして、若者は己の不甲斐なさを悔やみ、不治の病に蝕まれた身体を嗟歎し、無情な運命を呪わずにいられなかった。
 こんなにも早く、大切な存在を置き去りにしなければならないことが口惜しくて、目頭が熱を帯びる。
 
「まだ……終わるわけには、いかない」
 
 咳が小康状態になり、束の間の深い呼吸を繰り返す中で、低く声を絞りだす。「夢のためにも」
 最善を尽くすのだ。悔いだけは残さないように。若者はエンジンを始動させると、愛車を夜闇の中へと滑り込ませた。
 
 
       §
 
 
 明後日から、と薔薇水晶には約束したものの、ジュンはどうにも逸るココロを抑えきれずにいた。
 徹夜明けの異常なテンションも、多分に影響していただろう。しかし、最たる理由は、学習机に広げられたスケッチブックにこそある。
 
「どうせ見せるなら、早めにアドバイス欲しいな。そうしたら、今日のうちに手直し入れられる」
 
 元々、ジュンは徹夜するつもりなどなかった。前日からの疲れも蓄積していたし、本格始動は今日からのつもりだった。
 ところが、手を動かしている内にイメージがどんどん膨らんできて、思いがけず夢中になってしまったのだ。
 作業の傍ら飲んでいた濃いめの紅茶や、小腹を満たすためのチョコレートやクラッカーなども、少年の覚醒を促したのだろう。
 晩秋の夜の冷え込みも手伝い、そこそこ頻繁にトイレにも立っていたため、睡魔は寄りつく暇もなかったわけだ。
 
 そして気づけば、カーテンで覆った窓の外から、眩い光が射すようになっていた――と。
 
「電話で、訊くだけ訊いてみるか。都合が悪いって言われたなら、いっそ諦めもつくし」
 
 眠っていない割には、思考が冴え冴えしい。あるいは、そう錯覚しているだけなのか。どちらにせよ、いつも以上にポジティブだった。
 しかし、電話をかけるには早すぎる。時計の針は、やっと午前七時を過ぎたところ。薔薇水晶は起きた直後か、まだ寝ているかも。
 と言って、いまから仮眠と称して朝寝をする気も、ジュンにはなかった。中途半端に寝れば却って疲れると、経験的に知っていたからだ。
 
「九時くらいに電話すれば、薔薇水晶にも迷惑かからないよな。とりあえず、待つ間に朝飯っと」
 
 それにつけても、こんなに早い時間に朝食を摂るなんて、何ヶ月ぶりだろうか。
 らしくない真似をしていると、ジュン自身、奇異なものを感じずにいられない。
 
 調子の狂いを修正できないまま、食事を済ませ、どうせならばとシャワーまで浴びた。
 朝シャンの習慣がなかっただけに、ますます違和感が募る。
 けれど、人間は理性によって速やかな順応を掴める動物だ。そこに若さ故の柔軟さが手伝えば、この生活リズムが普通となるまでに一週間と要すまい。
 実際、ジュンは戸惑いこそすれ、不安を抱くには至っていなかった。より以上、期待が上回っていたのだろう。
 
 インターネットで適当に時間を潰し、頃合いよしと、ジュンは薔薇水晶の携帯電話にダイヤルした。鼓動が速まり、顔が熱を帯びる。
 けれど、その熱は吐き気を催すような不快感など伴っておらず、むしろジュンに経験したことのない昂揚をもたらした。平たく言えば、舞い上がっていた。
 周囲の視線に戦々恐々とするばかりだった少年が、僅か数日で急激に心境を変化させたのも、やはり周囲からの追い風を受けてのことだろう。
 人は環境によって創られるのだ。
 
「はい、もしもし?」
 
 三コール目で通話が繋がった。
 ジュンの心臓が、どきりと縮こまる。その収縮は彼の声帯ばかりか頭にまで駆け登ってきて、思考を遮断した。
 咄嗟に切り返しの言葉が浮かばない。意気込みが空回りしているのか。それとも、徹夜明けの頭が、いよいよ朦朧としてきたのか。
 
 とにもかくにも、黙ったままではバツが悪い。
 ジュンの電話からの発信であることは、薔薇水晶も着信表示で解っているはずだが、イタズラ電話と取り違えられては心外だ。
 上擦った声を出さないように、充分な間を取って呼吸を整え、彼が絞り出した声は――
 
「おひゃっ、よ」
「はぁ?」
 
 やはり裏返っていた。しかも呂律が回らなかったとくれば、恥ずかしさもボリュームアップ。みっともない。
 誰しも濃淡様々な恥の重ね塗りによって面の皮が厚くなるものだが、ジュンの仮面はまだ突けば容易く破れるほど脆弱なままで、彼の平常心を保護するには役立たずだった。
 
「いや、ご、ごめん……も、もしもし。ジュンだけど」
 
 耳まで真っ赤に染めて狼狽えながらも、どうにか二の句を継げたのは、電話だったからだろう。
 ジュンの性格からして、面と向かっての会話だったなら、いたたまれなくて逃げ出していたに相違ない。
 
「お、おはよう、薔薇水晶。いま、話してても平気? なんだったら、かけ直すけど」
「平気。どうかしたの?」
「これから、薔薇水晶の家にお邪魔してもいいか、訊きたかったんだ」
 
 まずは端的に目的を告げて、ジュンは理由を付け加えた。「三面図ができたから、ダメ出ししてもらいたくて」
 
 一応、ジュンもビスクドールの構造をインターネットで調べながらデザインを描いていたが、詳細となればプロの眼を頼るのが正解だ。
 めぐに対して抜け駆けするような所行だが、納得できるものを創りたいからこそ、多少の後ろめたさも切り捨てねばなるまい。
 ましてや、自分だけの天使を創造するなどと究極的な利己主義を貫くのならば。
 
「都合が悪いなら、断ってくれていいから。いきなりだもんな。元々は明日からの予定だったし」
「いいえ、特に急用はないわ。ただ、お掃除やお洗濯をしないと……。午後でもよければ、いらっしゃい」
「勿論、薔薇水晶の予定に合わせるよ。じゃあ、そうだな。午後の一時に行くよ」
「待ってる。それじゃ、またあとで」
 
 拍子抜けするほどアッサリと、来訪のアポイントが取れた。順風満帆なときは、勢いだけで万事が巧く運べてしまうのだろう。
 ジュンは通話を切ると、椅子の背もたれに体重を預けて天井を仰いだ。
 一応の目的を遂げたことで急激に興奮が冷めたらしく、電話する前の紅潮は、すっかり彼の表情から消え失せていた。
 
「このまま、僕は勢いに乗ってもいいんだよな?」
 
 誰にともなく伺ってしまうのは、屈辱と嘲弄に打ちひしがれたが故の防禦本能にすぎない。
 言わば、ジュンは打たれて深い亀裂の生じた杭だった。あと一度でも叩かれたら、呆気なく砕け散りそうな壊れかけの杭。
 
 自分を変えたい。意志を自由に解き放ちたい。人として自然な願望は、ジュンの中にも強く息づいている。極度に畏縮してはいるが。
 しかし、それらは少年の自尊心を粉砕しかねない暴力に対し、あまりに無防備かつ脆弱だった。
 つまらないプライドに固執して痛めつけられるくらいなら、矮小な小物となる運命に恭順する道さえ選ばせるほどに。
 
 ジュンは徐に、スケッチブックを抱き寄せた。そして、天使の息づかいを探るかのように、強張る頬を寄せた。
 これは、ささやかな反抗。意地と誇りを賭けた最後の闘いと題しても、ジュンにとって過言ではない。
 漫然と掻き集めた砂を、間に合わせに凝縮しただけの楼閣……そんな少年の不安定な意志が、石の硬さを得るには、まだ早かろう。
 だが、脆くも崩れ去るだけだとしても、カタチを拡張し続け、維持する努力を惜しむべきではなかった。
 
 
       §
 
 
 なにかに集中しているときほど、時間の経過は速い。ジュンもスケッチの手直しに没頭するあまり、時刻の確認が遅れて慌てる始末だった。
 デイパックに必要最低限のものだけ詰め込んで、窓の戸締まりも完璧。靴を履き、振り返れば、荒らされていた痕跡など微塵も窺えない。
 ジュンは満足げに頷くと、「じゃあ、いってくるから」とだけ独りごちて、外に走り出た。
 
 だが、彼の脚は門を出た直後にギクリと停止した。原因は、視界の隅に紛れ込んできた、プライバシーガラスの黒いセダン。
 車に興味の薄いジュンには、車種の違いなど判らない。所有者も車体も、昨日と同じ位置に停まっているだけで、本当は別物なのかも知れない。
 よく確かめようにも、車内に乗っている人物がこちらを見ていたらと思うと怖くて、ジュンは近づくことは疎か、顔も向けられなかった。
 
「なんだってんだよ、気持ち悪いな」
 
 胸が形容し難い不快感に満たされ、呼吸までが不規則にリズムを歪める。まるで他人が乗り移ったかのように、意識的な調節ができない。
 監視されている確証すらないのに、ジュンの中で固まっていた過剰な自意識と被害妄想が、憶測という暗い淵に渦を描き始める。
 それと前後して、またひとつ疑惑が生まれた。
 
 もしかして、携帯電話での会話も盗聴されていた?
 冷静に考えてみれば、突拍子もない発想だ。それを馬鹿げた発想と一笑に付せたのならば、この場にジュンは存在し得なかっただろう。
 しかし、彼は鼻で笑い飛ばす素振りさえ満足にできないまま、不安要素に背を向けて、逃げ出してしまった。
 
 
 いかにも胡乱な少年の様子を、車中から観察する娘が、二人。
 ドライバーシートの陰に、窮屈そうに屈んで瞼を細めているのは蒼星石。
 同じくアシストシートの裏側に陣取った雛苺が、遠ざかるジュンから目を逸らすことなく、小声で訊ねる。
 
「あの男の子が……もしかしたら、もしかするなの?」
「可能性の模索にすぎないよ。いまのところは、ね」
 
 ジュンの姿が物陰に消えると、蒼星石は緊張を解いて、手持ち無沙汰な雛苺に、思慮深そうな緋翠の瞳を投げかけた。
「無駄骨かも知れないし、ビンゴかも知れない。彼が主役かはともかく、その逐一を調べて報告するのがボクらの仕事さ」
 
 とは言え、翠星石たちが集めた情報は極めて確度が高く、それを元に動くのだから、蒼星石らの努力が徒労に終わることは稀だった。
 リーダーである真紅の超人的に優れた判断力も加味すれば、失敗を懸念するのが愚かしくも思えてくる。
 
「いつ、接触するの?」
「アレの所在が判明しない以上、迂闊に近づいて逃げられるのは面白くない。明日から、もう少し距離を置いて観察しよう」
「ヒナの『視索』なら、ちょっと離れてても届くのよ。2メートルくらいまで近づければ」
「焦っちゃダメだよ、雛苺。窮鼠、猫を噛む……ってね。急に追い詰めすぎれば、こっちも相応の覚悟をしなきゃならない」
「でもぉ……」
「いい子だからさ、聞き分けてよ。ボクはね、大切なパートナーのキミを、死の危険に曝したくないんだ」
 
 そんな言葉を、真剣な眼差しで告げられてもまだ反駁できる人間は少ない。まして、親愛の情を抱いている相手に言われたなら尚更だ。
 素直に従うのも、蒼星石の役に立つこと。雛苺は、自身の裡に燻る焦りを、ムリヤリに納得させた。
 
「……うぃ。ヒナ、言うとおりにするのよ」
「解ってくれて嬉しいよ」
「その代わり、蒼星石もヒナのお願い、聞いてね」
「いいよ。どんなこと?」
 
 雛苺は決然と、姉のように慕う乙女に言った。「今後は、単独行動しないで。お仕事中は、いつもヒナと一緒にいなきゃダメなのよ」
 揺るぎなく注がれるライム色の双眸を、まっすぐに瞳で受け止めて、蒼星石は微笑みながら雛苺の髪を優しく撫ぜた。「約束するよ。キミと一緒にいる」
 
 
       §
 
 
 異常なまでの疑念と警戒心から延々と回り道をしたため、待ち合わせ時間に大きく遅刻したジュンを、薔薇水晶は怒るどころか理由さえ訊かずに迎えた。
 それはそれで彼を気後れさせたが、薔薇水晶も心得たもの。ジュンが恐悚のあまり口を閉ざしてしまう暇など与えず、機先を制した。
 出逢って間もないと言うのに、少年の性格を的確に見抜いている。
 
「それじゃあ早速、見せてくれる?」
「あ、ああ……」
 
 作業用のプレハブ小屋に、椅子を並べて二人きり。今更ながら、この特殊な環境を意識して、ジュンの身体に緊張が走った。
 薔薇水晶から漂ってくる得も言われぬ薫りに、若い筋肉がキュンと強ばり、一挙手一投足がぎこちなくなる。
 まるで工場の生産ラインで稼働する工業用ロボットを連想させる仕種で、ジュンは机上にスケッチブックを広げた。
 
「こんな風にイメージしてみたけど、どうかな?」
 
 几帳面に描かれた三面図を見るや、薔薇水晶は「あら――」と驚いたように呟き、首を傾げた。「私に、似てるのね」
 ジュンは頬を朱に染めながら首肯して、照れ隠しに頭を掻いた。
  
「僕自身、どうしてか解らないんだ。天使を想像しようとすると何故か、薔薇水晶の姿が重なっちゃって」
「それはつまり、私に惚れたと言うこと?」
「え……い、いや、それは違う……と思う、よ? たぶん、だけど」
 
 途端にオロオロして歯切れが悪くなるジュンに、琥珀色の隻眼をひたと据えながら、薔薇水晶は肩を竦めて見せた。「からかってみただけ。真に受けないで」
 うまうまと乗せられた気恥ずかしさと腹立たしさから、ジュンは頬ばかりか耳まで紅くして、口をへの字に歪める。
 目論見どおりのリアクションを引き出せたことで、気をよくしたのだろう。神妙な面持ちから一転、薔薇水晶は婉然と笑った。
 
「ところで……この娘の名前は?」
「――実は、未定なんだ。だからと言って、ナナシーとかじゃあ適当すぎるよね。投げ遣りなのは嫌いだし」
 
 ジュンの本音を曝け出せば、薔薇水晶やめぐにも、一緒に考えて欲しいと思っていた。三人寄れば文殊の知恵、である。
 それに、女の子の感性に頼るほうが、少女人形にピッタリな、可愛らしい名前をつけてくれそうな期待もあった。
 薔薇水晶から切り出してくれたのを幸いと、ジュンは真意を伝えた。
 
「君から見て、この天使に相応しそうだって思えるのは、どんな名前?」
「ジュンが最も大切にしたいイメージは、なぁに?」
「やっぱり天使ってことで、聖的なイメージ重視かな」
「……エロエロえっちな感じ?」
「そっちの性的じゃないよっ! 神聖の聖だってば!」
「ああ、よかった。一瞬、どう答えたらいいのか真剣に悩んだわ」
「驚かされたのは僕のほうだよ、まったく――」
 
 ジュンは「とにかく」と、強引に話を元に戻した。
 
「聖って字から発展させようとするとさ、どうしても条件反射でロサ・ギガンティアって単語を連想したところで、思考停止しちゃうんだ」
「白薔薇さま、ね。解る解る。『マリア様がみてる』は、私のバイブル」
「でもさ、マンガそのままに聖って名前を当て嵌めるのは安直だし、白薔薇だけじゃ人形とは言え可哀相に思えて」
 
 薔薇水晶は、ふむと物思わしげに呻って、頬に人差し指を当てた。
 
「それなら、私の名前から一字をあげる。朝露をまとって可憐に咲き誇る白薔薇のイメージで、輝く水晶の『輝晶』は、どう?」
「悪くないな。だけど、同じ読みなら綺麗な薔薇水晶で『綺晶』のほうが、字面が僕の好みかも」
「……さりげなく口説き文句が巧いのね、この女たらし。まあ、それはともかく、綺晶だけでは名前として響きが悪くないかしら?」
「だったら、白薔薇綺晶――は、無駄に長いな。薔薇綺晶……だと、なんか薔薇水晶のパクリっぽいか」
「白から連想して、雪やミルクとか接頭語にしてみるとか」
「雪綺晶で『ゆききしょう』は野暮ったい。乳綺晶で『にゅーきしょう』……は伊達じゃない。なにか違うだろ。もっと、こう――」
 
 言った折りもおり、ジュンは手を打ち鳴らして頷いた。
 
「そうか、解ったぞ! 可憐さが足りないんだ。野に咲き、そよ風に揺れる花みたいな、可憐な響きが」
「じゃあ、雪の花と書いて、雪花。雪花綺晶」
「どうせなら花を華の字に置き換えて、雪華綺晶がいいかも。けど、『せつかきしょう』って読みは格好悪いかな?」
「雪花菜と書いて『きらず』と読んだりするわ。お豆腐を作るときに出る、おからのことだけど」
 
 説明しながら、薔薇水晶がスケッチブックの端に綴った文字を目にするなり、ジュンは耳を聾するほどの雷鳴を聞いた。
 脳天を直撃したソレは一瞬にして脳を沸騰させ、脊髄にかけて電気が走り、大袈裟ではなく総毛立たせた。興奮しすぎて、過呼吸になったほどだ。
 
「グレイトだよ薔薇水晶! 雪花で『きら』として、雪華綺晶は『きらきしょう』だ」
「きらきしょう……。いいわね。暁色に白く光り輝く氷柱のような、美しい響き」
「よし、決めた! 君は、きらきしょう。僕の天使は、雪華綺晶だ」
 
 小さくガッツポーズをして、はしゃぐジュンの様子は、どこにでもいる普通の少年そのもの。これまで鬱ぎ込んでいたとは、到底思えない。
 そんな彼に姉の如き鷹揚な笑みを向けながら、薔薇水晶は更に、雪華綺晶の性格や習癖などについて質問を重ねた。
 より詳細なデータを丁寧に積み上げてゆくことで、一個の物体にすぎない人形に、高度な人間性を付与する目的なのだろう。
 
 薔薇水晶の巧みな話術は触媒にも似た作用をもたらし、少年の小さな身中で不可思議な化学反応を促進させる。
 それまで想像だにしなかったアイデアが尽きず噴出してくる様子は、ジュンにとって時間ばかりか身体の感覚すら忘れるほど愉しい体験だった。
 
 
       §
 
 
「今日は、いきなり押し掛けちゃってゴメンな」
「別に……構わないわ」
 
 夕刻、帰り際になって殊勝な顔をしたジュンに、隻眼の美少女は素っ気なく首を横に振って見せた。
「普段も、あまり外出してないから」と、こともなげに言いながら、左眼を覆う眼帯をトントンと人差し指で叩く。
 妙齢の乙女なら、男以上に他人の目を気にするもの。特に、顔や体型などの見える部分は、病的なまでに意識して優劣を競いがちだ。
 薔薇水晶も、その些細な容貌の瑕疵によって、少なからず辛酸を嘗めさせられてきたに違いない。
 
 重ね重ねの無思慮を、ジュンは深く恥じた。どれほど背伸びしようと、物理的にも精神的にも未発達。それを痛感させられた。
 過去の忌まわしい記憶から目を背け、他者との必要以上の交流を嫌厭して『怖れ』の如き幼い人格の跋扈を許してきた結果が、これだ。
 
 夕陽の下、あどけなさを残すジュンの面差しが歪む。黄昏の醸す不安な気配に惑わされたように、卑屈な一面が見え隠れしている。
 そんな彼の苦しみを、わずかながらも和らげ癒したのは、薔薇水晶の屈託ない笑顔だった。
 
「明日から早速、原型の製作に入りましょう。正直に言って、期待以上に楽しませてもらっているわ」
 
 この講座は薔薇水晶にとって、実利も兼ねた退屈しのぎでしかない? いまの一言を、そんな意味合いにとるのは穿ちすぎだろうか。
 だとしても、ギブアンドテイク。躍起になって問い質すことでもなかった。彼女の真意がどうであれ、ジュンの決意は翻らないのだから。
 
「僕も、明日が待ち遠しいよ。柿崎さんの描いた天使にも、興味あるしさ」
「めぐも、いい感性をしているから……ジュンに負けず劣らず、きっと素敵な天使を連れてくるわ」
「見てのお楽しみだね、それは。じゃあ、またな」
 
 薔薇水晶に見送られ、意気揚々と駆け出すジュン。けれど、彼の足が向かっていたのは、自宅ではなく有栖川大学病院だった。
 なんとなく、行きがけに見た黒いセダンのことが脳裏を離れてくれなくて、まっすぐ帰宅する気になれなかったのだ。
 姉の容態も確かに気懸かりではあったが、見舞いをだしに逃げたのも、また明らかだった。
 
 
       §
 
 
「具合、どう?」
 
 訪れるなり無愛想に訊いたジュンに、姉、桜田のりは嫌な顔どころか穏やかな笑顔で応じた。「昨日の今日で、急に治ったりしないわよぅ」
 至極もっともな回答だ。間抜けを曝した気まずさから、ジュンは姉の手元に広げられている週刊誌に目を転じた。
 白いゴシック体で綴られた大文字が、嫌でも少年の眼底に突き刺さる。読者受けしそうなショッキングな文言が、愚者を嘲笑う悪魔のように躍っていた。
 
「それって、最近やたらと噂になってる事件の?」
 ジュンは胸中の不安を悟られないよう細心の注意を払いながら、訊ねた。治療に専念してもらうためにも、姉には余計な心配をさせられない。
 勿論、キーワードから察する限り、のりの返事を待つまでもなかった。近所を騒がせている失踪事件に間違いない。
 警察の捜査が実を結んで、解決の糸口を掴んだのだろうか? ジュンの期待は、しかし、姉によって否定される。
 
「また失踪者ですって。今度は新卒のOLさんらしいのよぅ。こう続くと、なんだか気味が悪いわねぇ」
「社会人なのか。ストレスで頭おかしくなって、衝動的に家出しちゃっただけじゃないの? 失踪事件とは関連なさそうだけどな」
「うーん……まあ私にも、なにが事実かなんて判らないけどぉ」
「だいたいさ、週刊誌の記事なんて売れればいいってレベルの、適当なもんだっての。深読みするだけ時間と労力の無駄だ」
「でも、ジュン君も外出するときは気をつけてね。甘い言葉に唆されて、ホイホイ着いてったらダメよぅ」
「アホか! なんだよそれ、幼稚園児じゃあるまいし。子供扱いするなっての」
 
 悪態を吐きながらも、ジュンは安堵を覚えていた。相変わらずのボケボケぶりだ。いつもの姉らしさが戻っていた。
 正体不明の暴漢に襲われたショックは残っているだろうが、多くの患者と一緒にいることの安心は、それを上回っているらしい。
 加えて、精神科のカウンセリングも受けてみたのだと、のりは楽しげに語った。意外に効果があるそうだ。
 
「カウンセラーのお医者さんね、カナちゃんって人なんだけど、とても陽気な女の子なのよぅ。草笛先生の親戚なんですって」
「……ふぅん。そんなに効果覿面なら、話ぐらいは聞いてやってもいいかな」
 
 その後、少しばかり話をする内に夜食の時間となったので、ジュンは「明日は来られないかも」とだけ告げて病室を出た。
 いよいよ始まる人形の原型製作に、どれほどの手間がかかるのか……自分の余力を残せるのかが、皆目見当も付かなかったからだ。
 
 
       §
 
 
 けたたましい暴力が、少年を打ちのめし、厚ぼったく腫れた瞼をこじ開けた。
 時計のアラームで叩き起こされるや、ジュンは双眸をしょぼしょぼさせつつ、カーテンの隙間から外の様子を盗み見た。
 
「……今朝は、いないのか」
 
 案に反し、例の不審車両は見つけられなかった。けれど、ジュンの裡に根付いた不安は消えるどころか、見えないことで余計に強まった。
 いまも、虎視眈々と狙っているに違いない。こっちが油断した途端、神出鬼没に現れるだろう。そんな疑心暗鬼に苛まれる。
 ジュンは寝起きの鬱々とした気分を引きずり、階下に降りていった。いっそ、面倒くさいすべての事象が杞憂であれば、どれほど楽だろう。
 
「おはよ」
 
 ダイニングルームを覗いて呼びかけても、返ってくるのは物悲しい静寂だけ。
 ほんの数日前ならば、姉が間延びした声で挨拶してくれたのに……いまは家中に満ちた孤独感が、少年を圧迫してくる。
 
 洗面所で顔を洗った後、ジュンはリビングに行って、テレビのスイッチを入れた。
 チャンネルなど、どこだって構わない。見たい番組があったのではなく、誰かの声を聴きたくて堪らなかったからだ。
 呆然とテレビのチャンネルをリモコンでザッピングしながら、ボール皿に装ったチョコ風味のコーンフレークを侘びしく食す。
 ――が、漫然とボタンを押していた指が、ギクリと固まった。
 
 スプーンを銜えたまま、テレビ画面を凝視するジュン。
 朝のニュース番組だ。そこに映し出されているのは、どこか見慣れた景色。よくよく思い出すまでもなく、ジュンの家の近所だった。
 画面左上には不安を煽る目論見か『家出? 蒸発? 誘拐? またもや謎の失踪』などと、ショッキングなテロップが赤文字で記されている。
 
「昨日、姉ちゃんが読んでた週刊誌のやつだな。女性会社員だったっけ、確か」
 
 食事を再開しながらも、ジュンはリポーターの言動に意識を傾けていた。
 もしかしたら、あの不審車両とも関連があるのではないか。脈絡のない疑心が無責任な動揺を生んで、ジュンを惑わせる。
 じっと聞き入るニュースの内容は、彼に安堵と肩透かしをくらわせる一方、新たな驚愕をも与えた。
 
「消えたのは、女子高生? 最初に失踪したのとは違う子なのか」
 
 第一の失踪者は、隣りの市にある公立高校に通う女生徒。偏差値で見れば中堅クラスで、家出ごっこをする迷惑生徒も、普通にいそうだ。
 ところが、今回は市内――ジュンの家からそう遠くない、お嬢様学校として名高い有名私立の生徒である。県下有数の知名度を誇る進学校だ。
 そんな品行方正を旨とするような学校の生徒が、理由もなく忽然と行方を眩ませてしまったのだから、騒動になるのも頷けよう。
 
「それにしたって、神隠しだとか大袈裟すぎだよ。消息を絶ってまだ一日じゃないか」
 
 十代後半くらいの年齢は、ふとした弾みで情緒不安定になる。世情に疎いお嬢様が羽を伸ばしたら、愉しさに我を忘れてしまったとも考えられる。
 最近、立て続けに失踪事件が起きていたため、短絡的にこじつけた……と言った感じか。真相なんて、判ってしまうと大概くだらないものだ。
 どのみち、これだけの騒ぎになれば失踪少女の知れるところとなり、大慌てで連絡してくるだろう。
 
 どうでもいいさ。ジュンはボール皿に残るシリアルを勢いよく掻き込み、椅子を蹴立てた。
 彼にすれば、赤の他人の失踪報道などよりも、人形創作のほうが遙かに優先度の高い関心事だった。
 
 
       §
 
 
「あぁ、きたわね。おはよ、桜田くん」
 
 プレハブの工房に立ち入るや、鈴の音を思わす朗らかな声が少年を迎えた。や! と気易く片手を挙げるほど、柿崎めぐは上機嫌だ。
 彼女に遅れること数秒、めぐと作業机を挟んで向かい合わせに座っていた薔薇水晶も、淡い唇にうっすら笑みを浮かべる。
 
「ジュン、遅い。めぐは30分も前にきてるのに」
「柿崎さんが早すぎるんだよっ。見てくれよ、ほら」
 
 心外だとばかりにジュンは唇を突きだし、腕時計を翳して見せた。「開始時間の10分前なんだから、僕だって遅刻じゃないって」
 
 そんな彼の反応を、薔薇水晶が鼻で笑う。「可愛いね、ジュンは」
 思春期を過ぎた殆どの男子にとって、その形容詞は褒め言葉に入らない。ばかりか、愚弄に近い評価と言えよう。
 ジュンも多分に漏れず、憮然と渋面をつくり、めぐの隣りに座った。
 
「なんなんだよ、ワケ解らない」
「まあまあ、そうカリカリしないの。要するに、桜田くんは子供みたいに純真で、実直だってコトよ」
「……どうせ子供だし。はいはい、悪かったね」
「すぐに拗ねて憎まれ口を叩くところが、また可愛いわね。でも、その性格は早めに直したほうがいいわよ」
「めぐだって、ジュンと大差ないけどね」
「あら、心外だわ。私の癇癪持ちは生まれながらの性分であって、癖なんて後天的なものじゃないのよ」
 
 薔薇水晶の指摘を柳に風と受け流し、めぐは嘯く。性根に関する限り、華奢な容姿に合わぬ図太さであるのは確からしい。
 どういう生活環境だと、こんな風に育つんだろう? ジュンは、めぐの奔放さを、わずかばかり羨ましく思った。
 もし、その半分でも自分に備わっていたなら、不登校になっていなかったかも知れない。そんな妄想を逞しくせずにいられなかった。
 
「まあ、冗談もほどほどに」
 
 なんとなく口を開き辛くなった空気を、さらりと薔薇水晶が押し退ける。「少し早いけれど、始めましょう」
 メンバーが揃ったのだから、異存などあろうはずもない。講義のスケジュールを詰めて欲しいと頼んだ手前もある。
 ジュンはそれまでの渋面を消して、デイパックからスケッチブックを抜き出し、恥ずかしそうに広げた。
 
「柿崎さんには、これが初めての御披露目だね。これが僕の天使なんだけどさ……どう、かな?」
「どれどれ?」
 
 めぐが脇から少年の手元を覗き込む。そして、「へぇ……」と明らかな感嘆を示した。
 ジュンはジュンで、不用心に近づいた乙女の髪の匂いに、陶然と吐息せずにいられなかった。
 不登校になってからと言うもの、うら若い娘の匂いなど姉以外に嗅ぐこともないのだから、その反応もむべなるかな、である。
 
「桜田くんって、絵が上手いね。素直に驚いたわ。これだけ描けるんだもの、学校じゃあヒーローでしょ」
 
 言った後で、めぐは小首を傾げた。「あれ? 今日って平日よね」
 普通の中学生なら、学校に通っている時間だ。今更ながらの疑問を訝しげな眼差しに変えて、めぐは少年の顔を窺おうとする。
 ジュンは条件反射的に顔を背け、言葉を濁した。
 
「学校なんか、行かなくたって困ることないよ」
「……なーるほど。ワケありなのか」
 
 めぐは面白そうに言うばかりで、それ以上の詮索はしなかった。
 理由は訊かないのか? 視線で問うジュンに対する答えは、簡潔そのもの。「重要なのは現在と未来だけよ。私にとってはね」
 要約すれば、『貴方の過去は問わないから、私の過去も訊かないで』と言ったところか。
 その解釈に誤りがあるかは、ともかく。ジュンは無言の頷きをもって、了承の証とした。
 
「よろしい。じゃあ、ご褒美に、私の天使も見せてあげるわ」
 
 改めて、ジュンはめぐのスケッチブックに眼を落とした。
 そして、久しく忘れていた感情が、突風のように胸を吹き抜けたのに驚いた。純粋な嫉妬である。
 他者との競争から逃げた彼にとって、誰かを妬む気持ちなど、もはや旧時代の遺物に等しかった。自分には関係のない瑣末事だ、と。
 けれども、いま確かにジュンのココロで滾っているのは、めぐと彼女の描いた天使に黒々とした羨みだった。
 
「ん? どうかした、桜田くん?」
「いや、なんて言ったらいいのか。すごいなってさ……陳腐な表現しかできないのが、恥ずかしいんだけど」
「隣の芝は青く見えるものよ。変な気は回さないでね。御世辞とかは嫌いだから」
「そんなんじゃないよ! ホントに見とれたんだ。僕だけじゃなく、薔薇水晶だって感心しただろ、これ」
「ええ、ジュンの言葉は事実だわ。めぐの天使、とても素敵よ。ジュンの雪華綺晶もね」
 
 聞き慣れない単語に、めぐがキョトンとする。「きらきしょう?」
 しかし、すぐにジュンの天使の名前だと察したらしく、雪華綺晶のイラストを眩しげに見つめ直した。
 
「なんだか、爽やかな響きね。身体を風が吹き抜けるような、不思議な感じがするわ」
 
「柿崎さんの天使は、どんな名前?」
「水銀燈。闇色のドレスに身を包んで、皓々と輝く月の光を浴びながら、夜空を優雅に踊る天使のイメージよ」
「ふーん……。天使なのに夜って、また随分と奇抜だね」
「つまらない先入観に毒されているからよ、そう思えるのはね。夜の世界にだって、天使はいるわ」
 
 言われてみれば、そのとおり。天使が光と共にあらねばならないとは、偏ったヒロイズムによる先入観にすぎない。
 よく見れば、水銀燈のデザインには、御仕着せの天使像への痛烈な批判が込められていた。
 漆黒のドレス然り、上下を逆様にした十字架も然り。極めつけは、ラフに描かれた黒い翼だった。
 無論、天使の羽根が白でなければいけない理由はない。だが、先入観を揶揄しておきながら、天使に翼とは安直な取り合わせではないか。
 
「実はこれ……付けようかどうか、迷ってるのよね」
 
 ジュンの視線を辿って推し量ったらしく、めぐは問わず語りに続けた。「人間サイズだと、翼があったら嵩張るもの」
 真意からは大きくズレている。しかし、ジュンは敢えて訂正しなかった。めぐにとっての天使のイメージを、大切にしたかったのだ。
 それより、飾るとなれば、部屋の広さにもよるだろうが、横に幅を取るのは好ましくあるまい。
 
「翼だけ着脱式にしたら、どうだろう? なあ、薔薇水晶。そういうのって可能かな」
「……論理的にはね。元絵のボリュームから判断すると、翼はどうしても、それなりの重量になってしまうはず」
「保持力が足りないって意味か?」
「それにビスクのボディだと、強度に不安が残るからでしょ」
 
 横から、めぐが口を挟んだ。「妥協するしかないわね。翼を作る時間も、あるかどうか判らないし」
 さばさばした口調ながら、それが彼女の本意でないことは、誰の目にも明らかだった。
 当然だろう。自分だけの人形を作りたい――そんなエゴを優先させたからこそ、彼らはこの場にいるのだ。
 そう簡単に諦められるものなら、そもそも受講さえしなかっただろう。適当な理由を並べて、敬遠していたはずだ。
 
「めぐが中途半端な天使で満足できるのなら、私が口を挟む理由はないけれど」
 翳った顔を俯けて押し黙るめぐを、薔薇水晶が諭す。「どうしたら実現できるのか……模索し続けることが大切よ」
 
 なにかを生みだす上で、制約は常にある。予算や材料、技術的な問題、等々……。
 だが、それらを優先してしまうと、どんなに素晴らしいアイディアも発育不良で実を結べなくなる。
 納得のいく物を作りたければ、多少の無理を押し通さねばならないのが世の道理だ。それが新たな摂理となる。
 
「じゃあ、ボディーの補強は必須だな。その他にも、支点を増して重量を分散させたり、翼の素材を選んで軽量化してみたら?」
 
 こういった工作には、ジュンが強みを見せた。幼少の頃から蓄積してきた創作経験は、やはり伊達ではない。
 男性的な頭脳の働きと言ったら語弊があるかも知れないが、機敏に発想の転換ができるのも、彼だからこそだろう。
 そして大本の着想さえ用意されてしまえば、そこからの発展は容易だった。
 
「製作は、着脱式で進めることにするわ。折角だものね」
「オミットするのは、いつでも可能さ。素材についてなら、僕でもアドバイスできるよ」
「技術的には、私が相談に乗ってあげる。それが、講師としての勤めですから」
「ありがと、二人とも。アドバイス、よろしくね」
「では、話がまとまったところで、先に進みましょう。ジュン、ちょっと手を貸して」
 
 薔薇水晶は少年を手招きすると踵を返し、そそくさと工房の裏口から出ていく。
 男手を頼むのだから、力仕事なのだろう。これからの作業に必要な大道具でも、新たに運び込むのだろうか。
 ジュンは深く考えもせず、後に続いた。ドアを潜った先では、薔薇水晶が物置の施錠を解いて、引き戸を開いているところだった。
 
「その中に、なにがあるんだ?」
「お人形の原型を製作するのに、不可欠なアイテム」
 
 言って、彼女が取り出したものを見るや、ジュンの心臓はギクリと一拍した。
 紛うことなき人体の一部だった。正確には、膝から下を模したマネキン人形である。
 どうしてマネキンなのか? 訊ねるジュンの腕にホイホイとマネキンを積みながら、薔薇水晶は、さもありなんと頷いた。

「全部のパーツの原型を、木とファンドで作ったら時間が足りないでしょう? だから、マネキンを原型の芯材にするのよ」
「ああ、なるほど。つまり、これに石粉粘土を盛りつけて、イラストのプロポーションに近づけるわけだな」
 
 ジュンの理解は早かった。と言うのも、インターネットで工程の下調べをしてあったからだ。
 ビスクの人形を作るためには、まず原型を作る。等身大の原型製作となれば、どれだけの時間と労力を要することか。
 その点、課程の簡略化として、マネキンの利用は極めて有効だ。空いた時間を縫成に振り分けたら、手の込んだドレスも縫えるだろう。
 
 工房と物置を、どれほど往復しただろうか。疲労のあまりジュンが朦朧としてしまうほど、運び出す部品点数は多かった。
 なにしろ、指の関節まで細分化されていたのである。それが2セットも用意するのだから、当然と言えよう。
 だが、安堵の息を吐いたのも束の間、ショッキングな出来事が少年を襲う。
 
「こ、これ……って。結構……リアルなんだな。その……で、出っ張ってるし」
「えー、なになに?」
 
 口ごもるから、余計に興味を惹いてしまう。しかし、ジュンはそんな人情の機微さえ失念するほど狼狽えていた。
 赤面する彼の横顔を、いやらしい笑みを浮かべて、めぐが覗き込んだ。
 
「あぁ、バスト。なぁに? まさか、マネキンの乳首を見て照れちゃってるの、桜田くん」
「わ、悪いかよ」
「は~ん……顔紅くしちゃって、ウブなんだぁ。おっぱいなんて、初めて見るわけでもないでしょうに」
「回数の問題じゃないと思うんだけど」
「慣れの問題でしょ。だったら、回数と同じよ。ふふ……ねぇ、経験値を稼がせてあげよっか? 私か薔薇水晶のナマを、見たい?」
「……見たいの? ジュンのスケベ」
「だーもうっ! 僕は、なにも言ってないだろ! 薔薇水晶まで一緒になって、からかうなっての。頼むから、作業に集中させてくれよ」
 
 シッシッ! と野良犬を追っ払うように、ジュンが手首を翻すけれど、乙女たちにとっては柳に風。
 遠ざけるはずが、むしろ余計に、彼女らの嗜虐的な薄ら笑いを招き寄せただけだった。
 
「はいはい。それじゃあ石粉粘土で、マネキンを豊満な肢体にボリュームアップしていきましょ。愛撫したくなるくらいが目安ね」
「……わざとらしく欲情をそそるのも禁止な」
「真面目な話、腰のパーツは重要。特に、お尻の曲線とか、脚の付け根の――」
「だからっ! 薔薇水晶も講義に託けた悪ノリはやめろっての!」
 
 その後も、和気藹々と軽口の応酬をしながら作業は続いた。端から見る分には、フレンドリーな空気そのもの。
 けれど、ジュンは悶々とするばかりで、作業にも会話にも集中できずにいた。
 一旦でも意識してしまった煩悩は鎮め難く――と言うか、年頃で健康な男子とくれば、考えるなと言うほうが無理な注文である。
 めぐや薔薇水晶のような、見目麗しい乙女に囲まれているのなら、尚更。
 
 もしかして、僕は侮られているのだろうか? ふと、ジュンは気持ちを切り替えるはずが、ネガティブ思考を始めてしまった。
 襲うほどの度胸はないと思われているのか。仮に襲ってきても、容易に撃退できると見なされているのか。
 どちらにせよ、男性的な力強さを認められていないのは確からしい。身長も、残念ながら薔薇水晶たちより劣っている。
 口惜しさが募った。所詮、僕は陰々滅々と二次元キャラで異性への欲望を誤魔化すしかない、矮小な存在なのか……と。
 
 不意に、とある単語が少年の脳裏を掠めた。ラブドール、の五文字が。
 いま製作しているのは、等身大の人形。それも、天使と称して自分の理想を反映させた、女の子の人形だ。
 自らの行いを冷静に見つめ返した途端、ジュンの裡から猛烈な羞恥心が噴出してきた。
 
 愛玩用の人形が欲しくて受講したのではない。暇つぶしの腕試しくらいの認識だった。
 しかし、他人の目には、どう映っているのだろう? 男が人形を欲する様子を。
 表向きは理解を示しつつも、おそらくは奇矯な行状と嘲っているのではないか。気持ち悪いと、思われているのではないか。
 めぐや薔薇水晶の挑発だって、その辺りに端を発していないとも限らない。
 
(――いや、よそう。悪く考えすぎだ)
 
 部屋に閉じこもっていた頃なら、ネガティブ思考が暴走して過敏反応を見せただろう。膨れあがった強迫観念に、吐き気を催したはずだ。
 だが、いまやその兆候は殆どない。主観が原形を留めないほど歪められてしまう前に、理性で思考を保護していた。
 
(質の悪い冗談だと、笑って受け流せばいいんだ。それか、話題を変えてしまえば)
 
 わずかばかりの切望が、衝動を生んだ。
 ジュンは次の瞬間、意地悪な魔女にも思えていた乙女たちに話題を振っていた。
 
「ところでさ、最近のニュース見てる?」
「ニュース?」
 
 おうむ返しに首を傾げためぐに、ジュンはここぞとばかり畳みかける。
 
「この近所で、奇妙な失踪者が続発してるんだってさ。今朝、テレビで見たんだ」
「ただの家出とかじゃなくて?」
「詳しいことは、僕も知らないんだけどさ。動機は不明らしいよ。誘拐事件の可能性も視野に入れて、警察の捜査が続いてるって」
「やぁね、気持ち悪い。どこかの国の工作員に拉致されてたりして」
「あるいは――」
 
 このタイミングで、眉間に皺を寄せた薔薇水晶が会話に割り込んだ。「狡猾で残忍な通り魔による、連続殺人かも」
 可能性は、なきにしもあらず。しかし、冗談にしても不穏当な発言だった。めぐとジュンの作業する手も、ギクリと止まる。
 
「いやいや、薔薇水晶。だったら、遺体とか遺留品が見つかりそうなものだろ。それが、まったく見つかってないんだぞ」
「車で連れ去って、人気のない山中で殺してたとしたら? それも、バラバラに切り刻んで埋めていたら……」
「ちょっとちょっとぉ! この状況で、そんなこと言うかなぁ普通」
 
 めぐが不愉快そうに眉を顰める。そうせずにはいられない心境だったのだろう。
 なにしろ、作業机の上にあるのは、バラバラのマネキン人形。想像力を逞しくすれば、遺体損壊の真っ最中とも見える。
 大袈裟だと一笑に付すのは簡単だが、それでもやはり、人体を模した物の一部が眼前に転がっていれば、内心穏やかでない。
 
「そうね。思慮が足りなかったわ。ごめんなさい」
 
 薔薇水晶が詫びることで、その場に漂い始めていた険悪な空気は払拭された。
 しかし、その日の作業を終えるまで、なんとなく気まずさを引きずったままだった。
 
 
       §
 
 
 原型の製作は翌日にかけて行われ、三日目には石膏でモールドと呼ばれる型を取る作業に入った。
 それぞれのパーツは大きく数も多いため、薔薇水晶が手伝っても、この型取りだけで二日を要した。
 だが、まだ序の口。モールドに石膏粘土を流し込んでは、慎重に型抜きをしてゆく。その作業で、さらに二日。
 早くも一週間が経った頃には、ジュンもめぐも忙しさに目を回し、無駄口を叩けるほどの余力を失っていた。
 
「正直、こんなに大変だとは予想もしてなかったよ」
「私もよ。でも、だからこそ完成までは頑張るつもり。きっと、生涯忘れられない充足感を得られると思うから」
「だね。僕も体験してみたいんだ、それを」
 
 ――夢が叶った瞬間、自分がなにを想うのか。
 その後……夢のあとには、なにを求めるのか。
 
「一緒に頑張ろうね、桜田くん」
「うん。型抜きした石膏粘土の焼成は、夜中に薔薇水晶が面倒見てくれるって言うし、そろそろ衣装も製作し始めるのかな」
「あれだけの部品点数だものね。全部を焼くのに、最低でも三日くらいかかるんじゃない?」
「完成までは、まだ半分も進んでないんだろうなぁ。なんか憂鬱」
「しゃんとしなさいよ、男の子でしょ。さぁっ! 休憩はおーしまい」
「……うぇーい」
 
 
       §
 
 
 それからの日々も、概ね順調だった。あまりに平穏すぎて、ジュンが不安を覚えるくらいに。
 姉、のりは入院から八日で退院し、通学を始めている。
 さすがに傷は癒えていないため、ラクロス部の活動は休んでいるが、それ以外の日常生活に差し支えはなさそうだった。
 
「ん? なぁに」
 
 夕食の席で、まじまじと見つめすぎていたのだろう。視線に気づいて、のりは弟に微笑みかけた。
 ジュンは決まり悪そうに目を伏せるけれど、しかし本人も奇異に思うほど、素直な想いが唇から零れていた。ただ一言「ありがとう」と。
 
 食後、ジュンは趣味のネット通販もほどほどに切り上げ、神経質な作業でくたびれた身体をベッドに投げ出した。
 ぼぅっと天井を眺めていても、脳裏に浮かぶのは雪華綺晶のことばかり。ネット通販への関心は日毎に薄らいでいた。
 それに不思議と、他人の視線に対して鈍感にもなっていた。感性のほうは、逆にどんどん研ぎ澄まされているのに……。
 
 独り、この部屋で世を拗ねていた頃とは比べものにならないほどに、ジュンを取り巻く時間の推移は速く、そして濃密だった。
 かつてのように『怖れ』が台頭してきて気息奄々になる場面は減り、挙動不審になることも少なくなった。
 澱のごとく分厚く胸に堆積していた孤独の重さも、いまでは殆ど感じられない。
 端的に言うなら、ストレスをそれと意識しないほどに、つまらない発想をする暇もないくらいに生活が充実していたのである。
 
 現今の状況は、むしろ輪をかけて内向的になったはずだ。
 プレハブ小屋に籠もり、自分の理想をカタチにしているだなんて、うら寂しい自慰行為そのものではないか。
 にも拘わらず、ジュンは周囲から切り離されていくような孤立感を忘れていた。何故か? 自覚しないうちに居直っていたとでも?
 仮にそうだとして、そうなるべく彼を促したのは、めぐや薔薇水晶の人柄に他ならない。
 彼女たちはジュンが思う以上に理知的かつ大胆で、敢えて言うなら、姉くらいの距離感で付き合える存在だったのである。
 テンションに馴染めず振り回されもするが、目まぐるしい日常はジュンを愉しませ、夢中にさせた。
 
(つまらない発想……か。そう言えば、あの黒い車も見かけなくなったっけ。自意識過剰だったのかな、やっぱり)
 
 見張られているなどと本気で危惧していたのが、いまにして思えばあまりに馬鹿げていて、ジュンは自嘲した。
 姉が強盗に襲われた直後だったから、動揺のあまり被害妄想を膨らませすぎていた嫌いもある。
 あれから不審人物が近隣を彷徨くこともなく、空き巣の噂も聞かない。姉弟の不安も日毎に薄らいでいる。これで犯人が逮捕されれば御の字だ。
 
 ここ最近、巷を騒がせていた連続失踪事件についても、有名私立女子高生の失踪を機に、続報が少なくなった。
 失踪者の足取りは杳として掴めないし、事件解決に繋がりそうな手懸かりも、依然として発見されていないのに――である。
 あるいは、捜査本部がいよいよ誘拐事件と判断して、犯人を刺激しないよう報道管制を布いたのか。
 
 しかし、人の口には戸が立てられない。ジュンが調べたインターネットの匿名掲示板では、そこそこの話題になっていた。
 神隠しなんてオカルトめいた意見から、失踪女性らを誹謗する書き込みや、ミステリー小説さながらに独自の推理を展開する者もいた。
 スネークと称して現場に足を運んでは、携帯電話やデジカメで撮影した画像をアップロードする輩も後を絶たない。
 
 時を経ずして情報は錯綜し、こじつけと捏造が幅を利かせ始めた。
 痕跡を殆ど残さず、警察を翻弄し続けている架空の犯人を『ファントム』と呼んで英雄視するに至っては、ジュンも辟易させられた。
 所詮、他人事。多くの人間にとって、誰かの不幸は憂さ晴らしを兼ねた、歪んだ娯楽でしかないのだ。それを思い知らされた。
 いつ自分が当事者になるか――生け贄の羊にされるかなど、夢にも思っていないのだろう。かつて、ジュンを貶めた同級生たちのように。
 
 まあ、真相はどうであれ、インターネットで話題にし続けることは必要悪ではなかろうか。
 少なくとも、無関心でいるよりは、行動が伴う分だけ前向きである。人口に膾炙する機会も増すし、事件を風化させない効果もある。
 モラルの面で疑問も残るが、当事者を憐れみ慰撫して終わりの自称善人よりは、己が好奇心や義憤に素直なだけ人間味に溢れていよう。
 
「本当に、誘拐事件なのかな」
 
 偶然に時期が重なっただけで、それぞれ別個の蒸発とも考えられる。
 ただ、すべての件で一切の手懸かりが失われていることを思えば、共通の事件と捉えられなくもない。むしろ容疑は濃厚だ。
 
 ――もし誘拐だったら?
 ジュンは仰向けのまま、天井に向けて呟く。
 彼もまた、自分の好奇心に率直であろうとして、ファントムなどという架空の人物像に自身を投影していた。
 
「犯人も、自分だけの天使を手に入れたかったのかもな」
 
 失踪者は、すべてが若い女性だ。年齢層も十代から二十代前半に偏っている。状況を鑑みれば、若い男の仕業と見るのが定石だろう。
 ファントムは、自分の理想に叶った乙女を探しては拐かし、ヒミツの隠れ家に軟禁しているのかも知れない。
 子供が昆虫採集するように、好みの女の子をコレクションして悦に入っているのだ。
 ひょっとしたら、のりを襲った輩こそがファントムだったのでは? ジュンの帰りが、あと少し遅かったら……。
 
 百万歩譲って、オスの本能としては、割と正常にも思える。ジュンも、そんな不埒な妄想をしたことはあった。
 人の世界では倫理に悖る行為でも、動物の世界ではハーレムの習性が当然のようにあるのだから。
 ただし、それは種の保存のため、必要不可避の営みであるべきで、個人の性癖や欲望を擁護肯定するものではない。
 ましてや、理性も教養もある文明人の行為などでは断じてない。
 
「ファントムは手段を間違ったんだ。賢すぎて横着をした」
 
 痕跡を残さない辺り、犯人が狡猾で博識なのは疑いない。普段から小賢しい言動の目立つ人間なのかも知れない。
 そして、自分の智慧と能力を過信するあまり、唯我独尊の境地に至った。平然と他者を蔑み、踏みつけにしてもココロが痛まなくなった。
 顧みれば、それは数日前のジュンにも多くが当て嵌まる姿だ。ファントムとは、ジュンの分身……醜い鏡像なのだ。
 
「僕は、手抜きなんてするもんか。それが、僕の矜持だから」
 
 雪華綺晶は人形である。乙女を象ってはいるが、無機質の紛い物――つまりは不自然な存在だ。普通の女の子ではない。
 しかし、それがどうした、とジュンは思う。有機だろうと無機だろうと、究極理想の存在には変わりない。
 自らの裡にある純粋無垢な情熱と閃きを惜しみなく注いで、産みの苦しみをも甘受する……ただ、それだけのこと。
 究極とは、突き詰めれば閉鎖的かつ先鋭的な試行の産物。我欲の象徴だからだ。欲が深いほど、より究極へと近づける。人の業である。
 
「夢を……見たい」
 身体の怠さによって意識が朦朧とする中、ジュンは呂律の回りきらない呟きを漏らす。「僕だ……けの……ゆ、め」
 
 虫の声も疎らになった晩秋の夜更けに、少年はひっそりと深い眠りに落ちた。
 健やかな寝息を繰り返しながら、時折、思い出したように半開きの唇を微かに綻ばせる。愉しそうに。幸せそうに。
 いつもの不機嫌そうな顰めっ面からは想像できないほどの、実にあどけない寝顔だった。
 
 
 
 
 ふと気がつけば、ジュンは燦然とライトが降り注ぐステージ上で、容貌艶麗な乙女と向かい合っていた。
 彼が狂おしいまでに渇望した、究極にして純白の天使――雪華綺晶。
 たおやかに佇む雪華綺晶は、どこから見ても普通の女の子。彼女は温かく柔らかい手で、少年の手を包み込み、嬉しそうに囁く。
 
「あぁ……ずぅっと待ち侘びておりました。この、どうにも胸焦がす想いを伝えられる、その日の訪れを。ああ……私の恋しい人」
 
 言って、徐に引き寄せたジュンの指を、雪華綺晶は甘える仔猫ように軽く噛んだ。前歯で挟まれた指先を、ねとり……と舌が這う。
 見えない手で撫でられているかのごとく、ぞわぞわと背中が総毛立つのを感じて、ジュンは情けない声を喉から絞りだした。
 こんな状況を妄想し、自分で噛んでみたことはあった。けれど、彼女が与えてくる刺激は、少年の妄想を遙かに凌駕している。
 
 満足そうに細められる、雪華綺晶の挑発的な上目遣い。
 ジュンの指に浅く刻まれた歯形を、愛おしげにひと舐めすると、雪華綺晶は身を乗り出して、互いの額を触れ合わせた。
 近い。気まずい。咄嗟に目のやり場を求めたが見つけられず、ジュンは唯一の逃げ道とばかりに、ギュッと瞼を閉ざした。
 
「貴方が私を必要としたように、私は、貴方のすべてが欲しいのです」
 
 ジュンの狼狽など構わず、恋人同士がキスをする直前そうするように、雪華綺晶は鼻先を擦り合わせてきた。
 そして、臆面もなく、妖しく耳に絡みついてくる声で囁いた。
 
「それを私にくれるなら、引き替えに、私のすべてを貴方に捧げましょう」
 
 


 
 第六回 「Masquerade」に続きます。
 
 
 【三行予告】
 
 静かな夜 続け……。
 やっと見つけた安らぎの空間で、少年は饗宴に溺れる。
 それが一夜の夢幻にすぎなくても、天使とのダンスは終わらない。
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