※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

時は春先。
場所は、和室。
一目見て異国の人間と見て取れる少女が、机に向かい静かに瞑想をしていた。

少女の名は、雛苺。

彼女を知る者なら、誰もが目を疑っただろう。
今、雛苺の顔には、周囲を太陽のように照らす笑顔は浮かんではいない。
天真爛漫で愛嬌に満ちた彼女の姿は、この時ばかりは影を潜めていた。

やがて雛苺は、深くでもなく、浅くでもなく、ゆっくりと。
肺の中を酸素で満たすように呼吸をする。
そして繰り返す事、数回。
機は満ちたり。

雛苺は静かに目を開いた。

流麗な動作で、机の上に置かれた一冊のハードカバーの本を手に取る。
左手で本を持ち、右手で分厚い表紙を持ち上げる。
そのまま指先を、開いたページの上をなぞるように滑らせ左端に。
次のページをめくる。

……そこで、雛苺は一瞬、動きを止めた。

彼女の瞳に飛び込んでくるのは、果てのない大海のように広がる文字の羅列。
挿絵も無ければ漢字にルビも振ってない。

「……さっぱり分からないの」

雛苺は小さく呟くと、パタンと本を閉じた。


~~~


それは、数日前の事が発端だった。

「トーモーエー!遊んでー!」

いつもと同じよう元気いっぱい。
いつもと同じように満面の笑みで、雛苺は大好きな巴の部屋の扉をバーンと開けた。

『いらっしゃい、雛苺。今日は何して遊ぼうか?』
『お絵かき!ヒナがね、トモエの絵を描いてあげるの!』
『ふふ、雛苺は絵を描くのが好きだものね』
『うぃ!!トモエも大好きー!」』

と、そんなキャッキャウフフな光景を期待していた雛苺だったが、それは完全に空回りに終わってしまった。

「あら、雛苺。……ちょっと待ってね」

机に向かっていた巴は少し振り返ってそう言うと、再び机に向かい合い、読んでいた本にしおりを挟む。
それからようやく、改めて雛苺へと振り返った。

「ごめんね、雛苺。ちょうど本が良い所だったの」

巴は、少し照れたような笑みを浮べてそう言う。
時間にしても、ほんの数秒の事。
それでも、雛苺の注意をそらすには十分だった。

「うゆ?トモエ?……何をしてたの?」

雛苺はキョトンとした表情で首を傾げながら、巴にそう尋ねてみる。
すると巴は、机の上から先程まで読んでいた一冊の本を手に取った。

「ちょっと本を読んでたの」
「本?おもしろい?」
「ええ、面白いわよ」
「わーい!ならヒナも読むのー!」

再びテンションフルスロットルの雛苺は、駆け足で巴の膝の上に乗ると、ちょこんと座る。
巴も、そんな雛苺の髪を優しく撫でてから、読みかけだった本の最初のページを開いた。

雛苺は、驚愕した。

巴が読んでいた本には、絵が無かった。
遠近法もコマ割りも関係無いと言わんばかりに、それは活字ばかりだった。

「……マンガじゃ……ないの?」

期待が外れて早くも涙目になってきた雛苺は、震える声で小さく尋ねる。

「うん。小説。……雛苺にはちょっと早かったかな」

そう言う巴がほんの少し浮べた苦笑いが、雛苺を少しだけ刺激した。

「ヒナは子供じゃないもん!小説だってもう読めるのよ!」

雛苺は頬をぷーっと膨らませると、意地になって巴の膝の上で小説に向かい合う。
そして、ジッと活字の行列に視線を凝らした。

(……か、漢字がさっぱり分からないの……
 魑魅魍魎?……同じ字が4つ並んでるのよ……意味不明なの……難しいの……
 うぅ……レタスと牛蒡のサラダ?……レタスと……牛さんが入ってる、って事なの?
 それじゃあサラダじゃないの……でもサラダを自称してるのよ……これはサラダの定義が揺らぐ程の……)

考えれば考えるほど、頭が冷静な思考を失っていく。
まるでお腹が痛いのを我慢している時のように、嫌な汗が出てくる。
ギッシリと書き連ねられた文字が襲い掛かってくるような錯覚すら覚える。

「ひ、雛苺!?大丈夫!?」
「うぃ?昼食後は、Le presidentとune conference de……ハッ!?」

頭の上でヒヨコをピヨピヨさせ始めていた雛苺は、巴の言葉で我に返った。
思わず大きくのけぞって、後頭部で巴の顎にクリティカルな一撃をお見舞いしてしまった。

今度は巴がピヨピヨなっている。

雛苺は大慌てて巴をガクガク揺さぶって、必死に巴の魂が抜け出ちゃいそうなのを阻止。
その努力の成果か、はたまた巴の自己再生能力の賜物か。
巴はすぐに、目をパチパチさせて我に返った。

雛苺はふぅと息を吐きながら、色んな原因により噴き出してきた珠のような額の汗を拭う。
それを見て、巴は小説の本をパタンと閉じて雛苺の頭を優しく撫でた。

「やっぱり雛苺にはまだ難しかったかしら?」
「そ、そんな事ないの!スリリングな展開に、思わず我を忘れていただけなの!」
「ふふ、まだ1ページも読んでないのに?」
「うゅ……それは……」

応えに困って視線を泳がせる雛苺。
その仕草に、思わず笑みをこぼしてしまう巴。

そんな、ある種の硬直状態を解いたのは、やはりというのか、巴の一言だった。

「ねえ、雛苺。絵本でも一緒に読もうか?」

絵本。
その誘惑に、雛苺は一瞬にして目をキラキラと輝かせる。
しかし同時に、先程自分の言った言葉……
背伸びしたい年頃のやんちゃさから飛び出した見栄が、それを邪魔した。

「ヒナ、子供じゃないもん!ショーセツだって読むもん!」

本を開く前に告げた言葉を、雛苺は再び口にする。
今度は、流石にそれが子供の強がりだと理解したのか、巴も再び笑みを浮べた。

「ふふ。じゃあ、雛苺に本を貸してあげる。
 だから、いつになっても良いから、読んだら感想教えてね」

そう言い、巴が差し出したのは、一冊の分厚い本。

「いつか……感想、聞かせてね」

巴は少し、遠い目をしながらそう言ったが。
そんな事、雛苺にはドコ吹く風。

「うぃ!ヒナにお任せなの!すぐに読んじゃうのよ!」

来たとき同様のテンションフルパワーで、分厚い本を抱えて巴の部屋からタッタカターと出て行った。


~~~


と、ここで冒頭に至る。

大好きな巴がやっているのと同じように、畳の上で心を静かにし、針の先のように集中すれば、
いかに難しい文字いっぱいの本という強敵といえども立ち向かえるに違いない。
外国人が忍者に過剰な期待を寄せるのと同等に、雛苺は巴のしている集中法に過剰な期待を寄せていた。
そして、その結果が……

「大変な事になったの……」

分厚い本を、まるで魔物でも封じ込めるように両手で押さえて、雛苺は困ったように漏らした。

これが絵本だったなら、簡単に読めるだろう。
ルビが振ってあれば、容易ではないだろうが読める。

だが、巴の貸してくれた本は難しい漢字が満載な上に……
その上に、これが雛苺にとっては一番の問題だったのだが……
読んだ感想を求められている、という事だった。

『ごめんね、ヒナには難しくてサッパリだったの』
とか言いながら本を返されたら、巴はどんな表情をするだろう。
そう考えると、雛苺には、何とかしてこの本を読み、そして感想を伝えたい、という答えしか出てこない。

かといって、今の自分では1ページも読めない。

その葛藤の渦に、雛苺はあたかも洗濯機の中でグルグル回るハンカチーフのように翻弄されていた。

「とにかく……トモエと約束したし、読まなきゃいけないの……!」

雛苺は悲壮な決意を固めて、改めて分厚い本を掴む。
そして、机の上に置いてあった辞書を引っ張り出し開いた。
閉じた。

「マズイ事になったの……」

漢字がビッシリの上、さらの文字まで極小サイズの国語辞書。
そんなモノが読めるなら、最初から苦労してない。

根本的な問題にぶち当たり、雛苺は途方に暮れ……
る訳も無く、若さゆえのチャレンジ精神と無謀さとで、次の手段に乗り出した。

「こうなったら、トモエみたいにカチカチで調べ物するの!」

決意も新たに、パソコンの電源を入れる。
早速、検索ワードを打ち込もうとして……
そこで、根本的な問題に気付いた。いや、むしろ大前提だった。

「……何をどう調べればいいの……?」

ぼんやりと光るディスプレイに向かったまま、雛苺は呆然と呟く。
もはや、完全な手詰まり。
チェスや将棋で言う『チェックメイト』というヤツだった。

雛苺には遠い目をしながら「るーるー」と口ずさむしか道は無いのか。
巴から寄せられた期待には応える事が出来ないのか。

雛苺は、既に半分ほど現実逃避してメルヘンな幻想に逃げ出し始めている。
だが同時に、残された彼女の半分の理性は生きていた。

それは、斬新なアイディアの思えた。
天から降ってきた救いの糸のように思えた。

雛苺は二、三度頭をブンブンと振って意識をハッキリさせると、早速、そのアイディアを実行する事にした。




―――――――
  ―――――――― 




「柏葉さーん、お届け物でーす」

雛苺に本を貸した翌日。
巴は玄関先で、届けられた分厚い包みを手にしていた。
あて先は雛苺。

「雛苺ー、荷物が届いたわよー」

玄関先で、巴はそう声をかける。
程なくして、バタバタとひたすらに元気の良い足音をならして、雛苺が玄関先までやって来た。

「はい、コレ」
「うんっ!ありがとうトモエ!」

雛苺は満面の笑みで荷物を受け取ると、その場でバリバリと包みを剥がし始めた。

「何を買ったの?」

巴も、あまりに嬉しそうに包みを開けるその姿に釣られてか、笑みを浮かべながら雛苺に尋ねてみる。
そして。

「じゃーん!」

雛苺が取り出したのは、この前自分が貸した本。のフランス語版。

「これならヒナも読めるの!Est-ce que tu liras ensemble?トモエ、一緒に読むのー!」

全く訳の分からないフランス語がギッシリと書かれた書物。
それを手に、キラッキラの笑顔を向けてくる雛苺。
今度は、巴の額に珠のような冷や汗が流れ始めた。

|