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 始業どころか、夜が明けるにも早すぎる時間ながら、オフィス街には疎らな人の流れが生まれ始めている。老若男女、道ゆく顔ぶれは様々だ。共通しているのは疲労感だけ。
「この国の人たちって、すごく働き者なのね」と、これまた早暁に似つかわしくない少女が感嘆と賞賛を口にしながら、コンビニエンスストアに小柄な体躯を滑り込ませる。
 彼女が真っ先に向かった食料品の棚は、ぎっしりと豊富な品数で埋もれている。ほんの少し前に搬入された物を、深夜シフトのアルバイトが大慌てで並べたのだろう。
 おにぎりを取り、ラベルの記載を確かめると、製造はほんの数時間前。なんとなく、まだ作りたての温かさが残っているかのように、少女は錯覚した。
 
「うーっと。あれと、これと……あ、これも美味しそうなの!」
 
 手にした買い物かごに、およそ一人で食べるには多すぎるほどの飲み物や食料品、デザートまで放り込むと、少女は重さに蹌踉めきながらレジに向かった。
 レジ係が一人しかいないところに客は多いため、意外にも列ができている。日の浅いアルバイト店員らしく、レジを打つ手がたどたどしい。それが混雑に拍車をかけていた。
 額に冷や汗を浮かべて懸命の応対を続けるアルバイト店員を、少女は暫し眺めていたが、やがて興味が失せたらしく、くりくりとしたライム色の瞳を転じた。
 
 次に彼女が興味を示したのは、すぐ前に並んでいる、草臥れたスーツを着たサラリーマン風の中年男性だ。彼の手には、缶コーヒーとカップ麺に、おにぎりが数個。
 早すぎる朝食だろうか。そもそも、こんな時間まで勤務だとは、どういった仕事なのだろう? 全身から放たれる気配も、どこか普通ではない。
 もしかしたら……。少女が天に向けて立てた人差し指に意識を集中するや、細い指先から髪の毛ほどの糸が速やかに伸びて、先端が男性の首筋に突き刺さった。
 とは言え、彼女が『視索』と呼ぶこの糸が見えるのは、彼女だけ。男性も、そんな怪しげなモノが首に食い込んでいるにも拘わらず、痛痒いずれも感じていないらしい。
 
 じわり、じわり。少女の脳裏に、ビデオ録画を再生したかのように鮮明な映像が浮かんでくる。
 他人の過去を、ほんの少し遡って追体験できる、ちょっと不思議な能力。これこそ、少女が弱冠十四歳にしてエージェントに抜擢された最大の理由だ。
 予想どおり、この中年男性は特殊な稼業の人間だった。少女が自らの能力の標的とすべく、密かに接触を図ろうとしていた人種でもある。
 警察関係者――肩書きは警部補。治安を守るためとは言え、市民の知らぬところで日夜こうした生活を強いられるのは、心身ともに辛かろう。
 
(おじさんも、ヒナたちと一緒ね。本当に、ご苦労様なのよ)
 
 もう少し、いろいろと情報を探ろうとした矢先、レジの順番が男性に回ってきて、少女は作業を中断せざるを得なくなった。
 惜しいとは思ったものの、焦りは禁物。子供ながらも、不測の事態は起こり得るものと悟っていた。それに、いま優先されるべきは食料の調達である。
 
 更に待つ間、彼女は苺わだちの如く周囲に『視索』を張り巡らせ、他の客にも探りを入れた。彼女のような職業の人間は、警戒心が過剰なくらいで丁度いい。
 幸い、害を及ぼしそうな者はいないと判り、安堵の息を吐いたところで少女の順番となった。その会計も滞りなく済ませると、彼女は足早に店を出る。
 そうして、潜むように停車しているプライバシーガラスの黒いセダンへと向かい、躊躇なく助手席に乗り込んだ。
 
「お帰り。欲しいものは買えたかい?」 
「うぃ! なんか美味しそうなのが売ってたから、つい買いすぎちゃったぁ。24時間営業のお店って、すっごく便利なのよ~」
 
 言って、満面の笑みを浮かべる少女に、運転席の人物――栗色の髪の、パッと見は美少年のような麗人が、いつもながらの苦笑を向ける。「そんなに食べると太るよ、雛苺」
 しかし雛苺と呼ばれた娘も、臆面もなく切り返す。「ヒナは成長期の食べ盛りだから、平気だもん。縦には伸びても、横には広がらないのよ」
 
「それは羨ましいね」必ずしも縦にだけ成長するワケはない。しかし、運転席に深く身を沈める乙女はさらりと流して、雛苺の手にあるレジ袋に手を伸ばした。
「缶コーヒーだけもらうよ。それほど、お腹は空いてないんだ。ボクに遠慮はいらないから、雛苺は先に食べなよ。食事が済んだら、少し眠るといい」
「ういー。ごっはんー♪ ごっはんー♪」
 
 なんとも幸せそうに口ずさみながら、おにぎりを頬張る雛苺を見て、運転席の乙女は眩しげに目元を弛めた。
 しかし、それも一瞬。矢庭に整った顔を曇らせ、まだ夜闇に眠る暗い街を睨む。彼女の様子が変わったのを受けて、雛苺が物思わしげな声をかけた。
 
「ねえ、蒼星石。ちょっと訊きたいんだけど…………昨日、ヒナがお昼寝してる間、どこ行ってたの?」
「どうしたのさ、いきなり」
 
 蒼星石は意外そうに振り返り、笑顔を作る。「周辺の見回りをしていたんだよ。勝手に動いたのは謝る。でも、雛苺の寝顔が気持ちよさそうで、起こすに忍びなくてね」
 本当だろうか? 最近、蒼星石が雛苺の睡眠中にちょくちょく単独行動しているのを、雛苺は知っている。それは容認し難い、致命的な結果を招きかねない行為だ。
 このことがリーダーの真紅に知れれば、大目玉を食うのは勿論、コンビ再編の事態もあり得る。真紅は、自分なりのやり方に拘る人間だ。独断専行に甘い顔はするまい。
 しかし、だからと言って雛苺は『視索』を用いることも、蒼星石を難詰する気も、そして真紅に逐一報告するつもりも更々なかった。
 
 パートナーである自分のために、蒼星石は細やかな配慮をしてくれる。それも雛苺は承知していた。蒼星石は、特異な能力を持つ雛苺を、普通の女の子として扱ってくれる。
 元より人情の機微には鋭敏で、洞察力もあり、しかも多感な年齢とくれば、『視索』を繰るまでもなく智覚できたのだろう。
 
「ううん。別に、怒ってないのよ。ただ……あんまり無理はしないで欲しいの。ヒナが言いたかったのは、それだけ」
 
 いまや雛苺は、この怜悧な相棒に全幅の信頼を寄せていたし、仕事だけに留まらず、実の姉のようにすら慕っていた。失う場面を思うだけで、胸が張り裂けそうになるほどに。
 だからこそ、どんな些細なことであれ、蒼星石を疑いたくない。二人の間に亀裂が入ることが……この夢のような時間にピリオドを打たれるのが、雛苺は怖ろしかった。
 無理矢理に貼り付けた笑顔を前へと背けて、雛苺は菓子パンにかぶりついた。いつだって、ヒナは蒼星石の味方なのよ――と、小さな胸の裡で囁きながら。
 
 
       §
 
 
 淡い月明かりが射し込むだけの世界で、ジュンは独り、複雑怪奇にして神妙不可思議な運命の皮肉を感じていた。
 よりにもよって、ほんの数時間前、なにやら薄気味悪い印象を抱いた病院を訪れる羽目になるだなんて、どうして想像できようか。
 ましてや若く健康優良な中学生なら、病院などほぼ無縁。通院を余儀なくされるのは歯科医くらいのものだが、それとて、数年に一度くらいの頻度だ。
 
「なにがあったんだよ、姉ちゃん」
 
 ベッドの脇に寄せたスツールに座って、ジュンが姉の桜田のりに問いたいことは、それだけ。All I Ask of You。
 けれど、彼がどれほど耳をそばだてようとも、答える声はない。苦悶の表情で頭を抱える弟を余所に、横たわる姉は、規則正しい寝息を繰り返すばかりだった。
 
 姉の頭部に、幾重にも巻かれた包帯が痛々しい。よほど精神的なショックを受けたのか、のりは時折、微かに眉を顰め、呻いた。
 治療に当たった医師の話では、後頭部に大きな裂傷があるとのことだ。背後から殴られたのは間違いなかった。凶器は不明だが、鈍器の類と思われる。
 幸いにして脳挫傷の心配はないとのことだが、患部が患部だけに容態の急変もありうるため、意識の回復を待って精密検査を行うと教えられていた。
 
 ついさっきまで立ち会っていた現場検証の様子を、ジュンは回想する。
 事情聴取に訪れた刑事は、現段階での見解を渋っていた。一階、二階とも荒らされているが金目の物は盗まれておらず、姉にも性的暴行を加えられた形跡がなかったのだ。
 しかも、犯人と思しい指紋や遺留品はまったく発見されず、あらゆる角度から検証した結果、侵入経路も玄関だけと断定された。
 物色中の空き巣と鉢合わせた姉が、ダイニングルームまで逃げたところで追いつかれ、昏倒させられた? その可能性を、ジュンは考える。
 だが、それなら姉も必死に抵抗しただろうし、犯人の遺留品――たとえば肌の角質や毟られた髪が残っているのが普通ではないか。
 
 状況から見て、姉が夕飯の支度をしている最中に、背後から一撃されたのは疑いない。犯人が火の気を処理したらしいことも、鑑識の結果から判明していた。
 侵入者は姉を気絶させ、ご丁寧にも火の元を止めてから、ジュンが戻ってくるまで悠然と家捜ししていたのだ。そして、指紋のひとつ、髪の毛の一本も残さずに消えた。
 何故? なんのために? ジュンは額に手を当てて呻った。けれど、記憶を辿ったところで心当たりなどない。所詮、行きずりの犯行なのだろうか。
 
「どうしてこうなった……」
 独りごちた科白が、インターネットで目にしたアスキーアートを記憶から呼び覚ます。ジュンは唇だけを三日月型にして思った。
 あのアスキーアートみたいに起きあがって、踊りだしてくれよ姉ちゃん――と。いまならば、そんな悪い冗談でも笑って許せそうだったから。
 
 けれど、彼の願いは叶えられない。姉は、ただ、そこにあるだけ。まるで、呼吸の真似事をする発条じかけの人形にでもなってしまったかのように。
 もしも、もしも、自分が家にさえいたなら……こんな事態には陥っていなかったかも知れない。姉が襲われる前に、暴漢を撃退できたかも知れない。
 そう思うと悔しくて、やるせなくて。作り笑いは歯ぎしりに変わる。ジュンは髪を掻き乱しながら、ベッドに額を沈めて、掠れた声を絞りだした。
 
「姉ちゃん、ごめん」
 
 呟いて、ジュンは顔をベッドにきつく押し付けた。そして、月明かりが払暁の光芒に変わるまで、憔悴しきった矮躯を震わせ続けた。
 
 
       §
 
 
 病棟が俄に騒がしくなる頃、ジュンは外来患者の診察が始まる前に、姉の担当医と引き合わされた。
 はたして、姉の容態は回復するのだろうか? ジュンにとって、それだけが訊ねたいことのすべてだ。
 
「どーもー、初めましてぇー。草笛みつでーっす。みっちゃんって呼んでねっ!」
「……は?」
 
 ジュンの肩を気易く叩きながら、あっけらかんと告げたのは、驚いたことに若い女性だった。
 つっかけた白衣の胸に、『草笛』のネームプレートが眩しい。近くに寄ると、白衣の清潔そうな匂いと、彼女が使っているだろう化粧品の甘い匂いがした。
 なんとなく馴れ馴れしく軽々しい雰囲気に、彼が閉口していると、若い女医はニッと、艶やかな色調のルージュを引いた唇の端を吊り上げた。
 
「大丈夫かコイツって顔してるわねー。でも、心配ご無用。カルテには目を通してあるし、夜勤の医師からも詳細は聞いてるからー」
「は、はあ。それはどうも」
 
 少年の生返事が気に入らなかったか、やおら草笛医師は身を乗り出して、彼の顔を覗き込んでくる。
 
「んー。弟くん、表情が暗いわねぇ」
「悪かったね。生まれたときから、こういう顔だし」
「それに、目の下が微妙に赤い。ふふーん……もしかして、泣いてたのかなぁ?」
「いっ!? 違っ! これ、寝不足で腫れてるだけだからっ」
 
 どうにも手玉に取られている感覚。すっかりペースを乱され、しどろもどろになりながら手で顔を覆うジュンの肩を、草笛医師はまたもやポンポンと叩いた。
 
「まーまー、思い詰めないことよ。きっと大丈夫だから、キミも一度、家に戻って休みなさい」
「でも、先生。精密検査は――」
「午前中は外来で手一杯になっちゃうから、午後になったらね。その頃には、お姉さんも目を醒ましてるんじゃないかなー、あはは」
  
 本当だろうか? 疑えばキリがないのは、ジュンも承知している。疑ったところで、自分にはなにもできないことも。
 ならば、ここは草笛医師の言葉に従うべきなのだろう。何日か検査入院するとなれば、着替えも用意しなければならない。
 
「解りました。ひとまず帰りますんで、よろしくお願いします」
「おっけー。みっちゃん、聞き分けのいい子は好きよー」
「……それじゃ、また」
 
 ジュンは急激な倦怠感を覚えて、すげない返事をした。昨日からの急変と、それに伴う心労を思えば、宜なるかなと言ったところだろう。
 そこまで見抜いてのことか、草笛医師はへらへらと笑い、ひらひらと手を振って、悩める少年を送り出そうとしている。緊迫感など欠片もない。
 けれど、そんな彼女の奇妙に和やかなムードは、不思議な癒しをジュンにもたらしてくれた。ナーバスになりがちな入院患者も、かなり救われていることだろう。
 
「なんだったら、弟くんも精神科のカウンセリング受けておく? 今回のショックがトラウマになると生き地獄でしょうし」
「いえ。折角だけど、遠慮しときます。変なトラウマ掘り返されても嫌だから」
 
 引きつった笑みを草笛医師に返して、ジュンは帰宅の途に就くべく病室を出た。
 精神科に罹るのを怖れたのではない。むしろ自責と苦悩を忘れる免罪符を得たいがために、他者の擁護を欲してさえいた。草笛医師の申し出は、渡りに船に相違ない。
 だが、彼は敢えて自虐を続ける道を選んだ。いかんともし難い贖罪の念に判断力が狂わされて、それ以外の選択肢を探れなかったのかも知れない……。
 
 
       §
 
 
 住み慣れた我が家で少年を待っていたのは、壮絶なまでの惨状だった。昨晩は鑑識チームが詳細に検証していたから、家具が散乱したままなのは当然だ。
 しかし、そうと分かっていても一人で片づけねばならないと思えば、彼でなくとも虚脱と憂鬱のダブルパンチでKO寸前になるのも、やむを得ないだろう。
 姉の容態もはっきりせず、気分の晴れる材料が微塵もない。いっそベッドに潜り込んで、現実逃避してしまおうか……とさえ、ジュンは腐った。
 
 これまでの彼ならば、後ろ髪を引かれながらも、迷った末に不貞寝していたはずだ。ひと眠りすれば気も紛れるさ、と。
 ところが、ジュンの足が向かったのは二階へと昇る階段ではなく、姉が倒れていたダイニングルームだった。床に点々と残る血痕は、すっかり変色している。
 
「この有様を見て、退院してきた早々卒倒して病院に逆戻りじゃ、かなわないからな」
 
 などと言うのは、お為ごかし。常軌を逸した散らかり様が、ジュンの気に障ったのは明白である。
 睡眠不足は否めないし、猛烈な空腹感で眩暈さえ起こしているのだが、この汚らしい状況を放置したままなのは、どうにも我慢がならなかった。
 どうせ二階も荒らされ放題。寝るのさえ躊躇われる。と言って、ゴミ溜めの如く散らかった中で暢気に朝食を摂るだなどと――悪夢に等しい。
 考えるだけで、ジュンの繊細なココロが発する吐き気のパルスは、徐々に振幅を大きくして胃を刺激し始めていた。
 
「うっぷ……。やっぱ、片づけが最優先だな。終わる頃には、ちょうど昼飯になるだろうし」
 
 食事を作ってくれる人が不在。これは少々、由々しき事態かも知れない。育ち盛りの男子がインスタント食品だけでは、栄養学的になにかと問題があろう。
 しかしながら、当の少年はまだ、それほど危機感を抱いてない様子だ。
 シリアルは買い置きがあるし、冷蔵庫に牛乳も残っている。普段どおりの朝食が可能で、必要充分な栄養を摂取できればいい、と考えていた。
 神経質で潔癖な一方で、食に対する姿勢はがさつなのだから、独り暮らしをしようものなら数ヶ月で栄養失調になりそうである。
 
 とにもかくにも、ダイニングルームの惨状は視覚的な不快感となって、容赦なくジュンを苛立たせる。
 やると決めたら即実行。単独行動であれば、ジュンは意外な積極性を見せた。唯我独尊の少年にとっては、気兼ねこそ最悪のストレス源なのだろう。
 一旦、身体を動かし始めると、彼をどんより包んでいた眠気は、どこかに失せた。胸に重く澱んでいた不安も、知らず知らずに薄れている。
 これ幸いと、ジュンは更に作業に没入した。忘れたいことが多すぎる現実から、束の間でも逃避したかったに違いない。
 
 
       §
 
 
 片づけを始めて、早三時間――あれやこれや、一階だけでもすっかり綺麗になった頃には、少年の額に汗が滲んでいた。
 いい加減、空腹を堪えきれなくなっている。身体中が、疲労回復のための栄養素を求めていた。それも大至急で。
 
「キリもいいし、今度こそ飯にしよ。二階の片づけは、その後だな。まったく……どうして僕が、こんなコトを――」
 
 言ったところで始まらないのは、ジュンも承知している。でも、言わずにいられない。
 自分が暴れて散らかしたのならまだしも、非のないことの後始末をさせられれば、誰しも不平のひとつも口にしたくなるだろう。
 
「ふざけた真似しやがって。どこの誰なんだよ」
 
 小ぶりのボール皿にコーンフレークを流し込み、じゃぶじゃぶと牛乳を注ぐ間も、ジュンの悪態は留まることを知らない。
 それが止むのは、いい按配にふやけたフレークをスプーンで掬い、口に含んだときだけ。もっとも、胸中で正体不明の犯人を罵り続けていたのだけれど。
 空腹が満たされていくにつれ、彼の怒りは段々と勢いを弱めていった。
 
「やっぱり……僕が家に残っていたなら、空き巣なんか入らなかったのかな」
 
 そして、結局は自責へと帰結する。言っても詮ないことと頭で解っていても、身に染み着いたネガティブ思考は、常にズブズブの泥沼を落着地点に選ぶ。
 口にした本人でさえイラッとくるほど、お約束どおりの推移。現実は……世界はいつだって、こんなはずじゃないことばっかりだと言うのに!
 ジュンは「ちくしょう」と吐き捨てるや、自棄食いとばかりにコーンフレークを掻き込んだ。そして、フレークの破片に器官を直撃され、噎せる。
 
 家の電話がけたたましく鳴ったのは、ますます惨めな気分で周囲にブチ撒けた牛乳を拭き取っているときだった。
 
「誰だよ。病院からか?」
 
 あるいは、警察? けれども、ジュンはあり得ないな、と即座に思い直す。警察の聞き込みなら、電話でなんて横着はしないはずだ。
 ならば、きっと病院に違いない。草笛医師か、彼女に近い病院関係者が、姉の覚醒を報せてくれたのだろう。テーブルの片づけもそっちのけで、受話器に飛びつくと――
 
「はろはろ~」
 
 ジュンが名乗るより先に、気抜けする挨拶が受話器から零れてきた。なんとも馴れ馴れしい。その声に、ジュンは記憶を刺激された。
 
「あんた、もしかして……」
「法条まりな、で~す」
「バーストエラーかよ! なら、僕は天城小次郎――じゃなくて! なんの用だ、薔薇水晶」
 
 つい、空気を読みすぎて悪ノリしてしまったのは、中学生にありがちな酔狂ということで仕切り直し。
 薔薇水晶が電話をしてくる理由に思案を巡らせつつ、ジュンは咳払いで間を整え、水を向けた。「いきなり電話してくるなんて、なにかあったの?」
 
 人形製作講座を続ける上で、不都合でも生じたのか。薔薇水晶との関わりから考えても、そのくらいしか思い当たらない。
 受話器から、薔薇水晶の淡々とした口振りが返ってくる。
 
「めぐに聞いたわ。お姉さん、大変なことになってるんですってね」
「なんだって? おいおい、随分と話の伝わりが早いな。それで、わざわざ?」
「ジュンが気落ちしてるんじゃないかと、心配になったから」
「そりゃ凹むよ。独りでいると悪い方ばかりに考えがいっちゃって……どうしたらいいのか、さっぱりなんだ」
 
 人形のように横たわる姉の姿を思い出して、ジュンの声が湿り気を帯びる。涙もろくなっているのは、疲れているせいなのか。薔薇水晶の優しさが胸に染みた。
 いま、彼女が目の前にいて慰めてくれたなら、堪えきれずに抱きつき、号泣してしまったかも知れない。
 それでも、空腹が抑えられた分だけ、気持ちにも余裕が生まれたのだろう。ジュンは鼻を啜りあげて、渇いた笑みを漏らした。
 
「ごめんな。みっともなく狼狽えちゃったりして」
「いきなりだもの、動揺するのも無理ないわ。でも、これは日を改めたほうがよさそう」
 
 やはり、薔薇水晶はジュンを気遣う以外にも、なにか目的があって電話をかけてきたらしい。
 日を改めてと言うからには、それなりにショッキングな話だと思われる。たとえば、急に人形製作講座を中止せざるを得なくなったとか。
 それならそれで、ジュンは諒解するつもりだった。自分の不在が姉を負傷させた――自責と後悔の念に囚われた彼は、辞めることも考え始めていたのだから。
 
「別に、いまでも構わないよ。話があるなら聞かせてくれ。喋ってるほうが気も紛れるし」
「じゃあ、話すね。これは、めぐの提案でもあるのだけど」
「柿崎さんの?」
「私には、特に異存はないし……めぐの頼みを聞き入れようと思っているわ」
 
 いったい、もう一人の受講生は、なにを上申したのだろうか。沈思黙考するジュンに構わず、薔薇水晶は続ける。
 
「講座の期間を、もっと短縮して欲しいって。早い話がペースアップ。詳細は訊かなかったけど、とても焦っている感じだった」
「柿崎さんが焦ってたって? そんな風には見えなかったけどな」
 
 昨日、夕暮れの下で近い再会を約束し合ったことが思い出される。この一週間を大切にしよう――そう告げたジュンに、めぐは賛意を示してくれた。
 急いてはコトをし損じる。それを理解しての反応だったと、ジュンは確信していた。故に、解らなくなった。めぐにとっては、違ったのだろうか?
 
「どうしても急がなきゃならない理由が、できたのかもね。お父さまの仕事の都合で、海外に移り住まなきゃいけなくなった……とか」
「なるほど。勤め人の全員が全員、単身赴任するわけじゃないもんな」
 
 ウチの両親は、子供をほったらかしにして好き勝手に飛び回ってるけどさ。そんな鬱屈したフラストレーションは、胸に留めておく。
 姉になら憮然として言っただろうが、他人に語るのは憚られる。子供っぽさが暴発しがちなジュンと言えども、そのくらいの分別はあった。
 
「それで……ジュンは、どうする?」
「どう、って?」
「これまでの予定どおり、毎週土曜日で続けるか。めぐの予定に合わせて短期集中にするか。私は、どっちでも構わない。ジュンに任せるわ」
「えぇっと」
 
 辞める、と言う第三の選択肢を、どう切り出すべきか。薔薇水晶は、ジュンが辞めるなど微塵も思っていないのだろう。
 ジュンは悩んだ。睡眠不足で働きの鈍い頭を、更に酷使して考えた。そうして導き出した答えは――
 
「悪いんだけど、もうちょっとだけ待ってくれないかな。姉ちゃんのこともあるし……いまは、なんとも」
 
 その場しのぎの逃げ口上。のりを引き合いに出すところに、彼の未練が如実に表れている。
 しかし、のりを独りにすることを憂えていたのも事実だ。昏倒した姉の姿を思い出すだけで、ジュンは不安に駆られた。次は、怪我だけで済まないかも知れない。
 ならば、もし長期入院なんて事態になったら……どうだろう。ジュンは、そんな可能性も模索していた。
 姉の重傷を、ことあれかしと願うなんて不謹慎この上ないが、病院ならば空き巣や暴漢に襲われる不安も薄れ、姉も却って安心するのではないか。
 
「そう、解ったわ。ジュンの気持ちが落ち着いたら、連絡してくれればいい」
「本当に、ごめん。なるべく早くに返事するよ」
「待ってる。あ、ちなみに、めぐは明後日から続きを始めるわ。毎日、朝から」
 
 平日でも朝から受講できるとは、どういう身の上なのだろうか。ジュンの見た限り、めぐは彼よりやや年上くらいの、至って普通の少女。つまりは未成年に思えた。
 それなのに、学校に通っていないとは……彼女もまた、ヒキコモリがちな子供なのかも知れない。中卒なんてことも、なきにしもあらず。
 昨日、話していて親近感さえ抱いたのは、要するに『同病相憐れむ』と言うことか。虚しく寂しい馴れ合いをして、相互理解を深めたつもりになっていただけなのか。
 
 ともかくも、まずは姉の見舞いをしてからだ。二階の惨状も捨ておけないが、そちらは病院から帰ってからのほうが、落ち着いてできる。
 ジュンは別れの挨拶をして静かに受話器を置くと、テーブルの片づけだけ済ませ、期待と不安が綯い交ぜになった心境で家を出た。
 
 ……が。門を出て少し歩いたところで、ジュンの視界に不自然な物が飛び込んできた。
 二十メートルほど離れたところに停車している、黒いセダン。遠目にもプライバシーガラスだと判る。自家用車にしては、一般的な仕様ではないように思える。
 停まっている位置も、ただの路上駐車と言うより、桜田邸を監視しているかのようだ。一旦、疑い始めてしまうと、疑念は次から次と生まれてくる。
 
「なんか、嫌だな」
  
 閑静な住宅地で起きた強盗傷害事件だ。昨日の今日で、警察も張り込みを強化しているのだろうか。それとも……。
 虫の知らせか、突如として、ジュンの直感が別の可能性を提示する。
 
「まさか、僕をマークしてるんじゃないだろうな?」
 
 現場からは、犯人に繋がる物証が出てこなかった。そして、犯人は堂々と玄関から出入りしている。第一発見者は、ジュン。
 更に、周辺で聞き込みをすれば、ジュンが不登校児であることも早々に知れよう。これらの状況から、警察が狂言の線でも捜査している可能性は高い。
 
 つまり、こうだ。
 ヒキコモリの少年ジュンは、姉の諫言にカッとなり、調理中の姉を背後から鈍器で一撃。昏倒した姉を死んだと錯覚し、咄嗟に空き巣の仕業に見せかけようと工作した。
 自ら家中を荒らした後、たったいま発見した風を装い警察に通報した――と。
 
「ち、違う…………僕じゃないよ。そんなこと、僕……」
 
 あの、どこからか監視され、陰口を叩かれる恐怖。寒くもないのに歯の根が噛み合わなくなり、膝が震え出す。脈拍も急上昇。嫌だ……逃げたい。ここに、いたくない。
 思った途端、ジュンは脱兎の如く走り出した。あくまで病院に向かうことで、身の潔白を証明しようとしたのか。ジュンは走りながら叫んだ。「僕は、なにもしてない!」
 
 
       §
 
 
 呼吸が辛い。食後の急激な運動で、脇腹にも激痛が生じている。それなのに、無我夢中で走り続けたものだから、ジュンは軽く吐き気を催していた。
 気力も体力も、とうに限界。有栖川大学病院のメイン・エントランスに踏み込んだ直後、いよいよジュンの足は動かなくなった。
 現在、午後二時。朝方は外来受付の患者で溢れていたのに、いまでは人影も疎らだ。それを見て、彼を苛んでいた強迫観念が、急速に薄れていった。
 ところが――
 
「おっ、きたわね弟くん。そろそろ電話しようと思ってたのよねー」
 
 まずは少し足を休めたくて手近なシートに歩み寄っていたジュンは、やおら陽気な声に背中を叩かれ、ビクンと飛び上がった拍子につんのめった。
 疲労しきっていた膝がカクンと笑い、その場に頽れる。その醜態を恥じる間もなく、ジュンは上腕を掴まれ、身体を引き上げられた。
 ふわり……と、甘ったるい匂いが、彼を包む。嗅覚の刺激から連想する人物は、一人だけ。
 
「あらら、大丈夫? ひょっとして、よく貧血で倒れたりする?」
「いや、ちょっと休憩なしで走ってきたから、疲れちゃって」
「元気ねー。うーん、若いって羨ましいわー」
 
 草笛医師はココロにもないだろうことを言って快活に笑うと、ジュンの背中をポンポン叩いた。「それより、いい報せよ。お姉さん、目を醒ましたわ」
 更に彼女の語るには、精密検査の結果にも、脳挫傷のような重篤な障害は見られないとのことである。
 ジュンは安堵のあまり脱力して、またも崩れ落ちそうになるのを、草笛医師に支えられる羽目になった。
 
「じゃあ、姉ちゃんはもう退院できる?」
「んー。それは、ちょっと一考の余地ありかな。殴られた際にできた裂傷を縫合してるし、精神的なショックもあるだろうしー。三日ほど様子見ね」
「そう……なんだ」
「落胆しなーいのっ。会っていくんでしょ? お見舞いの受付は済ませた?」
「いえ。着いたばかりだから、まだ――」
「折角だし、病室に案内してあげるわ。ちゃっちゃと済ませてきなさい」
 
 昨夜も付き添っていたのだから、病室は判っている。だが、疲れ切っていたジュンに反撥する余力はなく、面倒くささから唯々諾々と従うのみだった。
 
 草笛医師に連れられ、四人部屋の病室を訪れたジュンは、廊下側左手のベッドに姉、桜田のりの姿を認めた。
 上半身を起こして、地下階の売店で買ったと思しいファッション系の雑誌を、退屈しのぎに眺めているようだ。
 
「じゃっ、みっちゃんのエスコートはここまでね。姉弟、水入らずで話してきなさい」
 
 ジュンの肩を軽く叩いて、草笛医師はエレベーターホール前のナースステーションに向かった。このフロアの仲のいい同僚と、お喋りに興じるのだろう。
 彼女の背中に無言で会釈をしてから、改めて病室へと足を踏み入れた。気配を感じたらしく、姉がハッと顔を上げた。
 
「あ、ジュン君。お見舞いにきてくれたのぅ?」
「よぉ、元気そうじゃん。殴られて、少しはアホが治ったんじゃないの?」
「ふふ……ごめんねぇ、心配かけちゃって」
 
 弟の憎まれ口をさらりと流し、のりは苦笑した。こんなときまで、なにを憂慮しているのやら。つくづくお人好しな性格だと、ジュンは本気で呆れた。
 いまの時代、暢気すぎると損をする。いっそ保身のため、新興宗教の教祖にでも祭りあげてしまう方が、姉のためではないか。
 ボサッとしているのも菩薩様の生まれ変わり故のおおらかさ、とか適当に言いくるめれば説得力も倍率ドン。ジュンは己が体内に、心眼の開く音を聴いた。
 ベッドの脇に立って表情を硬くした弟を、のりは不思議そうに見上げる。
 
「どうかしたの? あ、お小遣いが足りなくなった?」
「そんなんじゃないって。だいたい、浪費癖なんてないし」
「でもぉ、ネット通販とか……」
「クーリング・オフしてるだろ。最初っから、買う気なんかないんだよ。そうじゃなくってさ」
「ほえ?」
 
 ますますもって、弟の言わんとする真意が解らない。小首を傾げた姉の顔つきは、それを雄弁に物語っている。
 ただ、今度はしつこく訊き返したりせずに、ジュンが語りだすまで辛抱強く待っていた。見当違いなことを言って、不快にさせたくなかったのだろう。
 ジュンは両の拳をギュッと堅め、俯いたまま身じろぎもしない。だが、やがて意を決したように口を開いた。
  
「実は、昨日から考えてたんだ。ちょっと言い難いんけど」
「……聞かせて」
 
 ひとまず、教祖云々の妄想はさておき。ジュンは周囲の聞き耳を気にしながら、抱き続けていた懸念を吐露した。
 
「家にいたのが姉ちゃんだけじゃなかったら、今度のことは避けられたんじゃないのかな」
「ジュン……君?」
「もし、僕が家に残ってたなら、空き巣は犯行を諦めてたかも」
 
 すべては可能性の話であって、実際その場にジュンがいても犯罪者は侵入したかも知れないし、満足な抵抗など不可能だったかも知れない。
 だがしかし、自分の享楽を優先したがための咎ではなかったのかと、ジュンは思わずにいられなかった。
 それもこれも、被害を被ったのが身内だからこそ。ゆきずりの他人が被害者ならば、ここまで自責の念に苛まれなかったはずだ。
 
「だから、僕は――」
 
 不意に、握りしめた拳が温かいものに包まれる。ジュンは驚き、紡ぎかけの言葉を呑み込んだ。
 視線を下げれば、そこにはジュンの手に両手を重ねた姉がいた。
 
「ねえ、ジュン君。憶えてるかなぁ。小さい頃、よくお姫様を描いてもらったり、お人形の服を作ってもらったよね」
 
 向けられる声と笑みは、あくまで優しく。圧倒的な包容力を前にして、さっき胸裡に描いた幻想が、ジュンの中でやおら真実味を帯びて甦ってくる。
 よもや弟の迷乱を見抜いていたとは思えない。しかし、そんな憶測をせずにいられないほど……少なくともジュンにとっては、あまりにタイミングがよすぎた。
 すっかり口を噤んで二の句を継げなくなった彼を手を、殊更に強く包み込みながら、のりの語らいは続く。
 
「あのときね、とっても嬉しかったんだぁ。それに、羨ましくも思った。ジュン君の描くお姫様は、みんな綺麗なドレスを着られて幸せだなあって」
「ただの暇つぶしだよ、あんなの。絵を描くのも、服も、普通にできるだろ。別に、騒ぎたてることじゃない」
「普通に思えるのは、もう持っているから。お姉ちゃんが本当に羨ましいと思ったのはね、普通だと感じて、普通にできてしまう、ジュン君の感性だったのよ」
 
 敢えて、のりは『感性』と言った。『才能』なんて独自性の強い表現ではなく、より普遍性に傾いた表現を。
 弟が特別視されるのを嫌うと知っているからこそできる、ささやかだけれど慈しみに満ちた心遣いだ。
 そしてジュンも、それが解らないほど鈍感ではなかった。むしろ生来の繊細さ故に、姉の本意まで感じ取っていた。
 
「だからね、いまはとっても楽しみなのよぅ。ジュン君は、どんなに素敵なお人形を作るんだろうって」
「……声がでかいよ、バカ」
 
 ここは女性患者の四人部屋、隣のベッドには他の病人もいる。故意でないにせよ聴かれることを、ジュンは嫌厭した。
 荒っぽく姉の手を振り払い、背中を向ける。が、すぐには立ち去らず、顔だけを僅かに巡らせた。
 
「家の片づけは、やっておくから。なにも心配いらないよ。姉ちゃんは怪我を治すことに専念してればいいんだからな」
 
 諄いくらいに繰り返した弟の想いの全容を、はたして姉は完全に察知できたのだろうか。確かなことなど、誰にも解らない。
 姉弟は、微笑みだけを交わして別れた。挨拶と呼べそうな仕種は、それだけだった。
 
 
       §
 
 
 夕方に帰宅したジュンは戸締まりを完璧にすると、残っていた二階の片づけを猛然と済ませた。
 入浴や食事までも、ついでとばかりに終わらせ、更に一服する間も置かず電話をかける。
 
「あ、もしもし。薔薇水晶? 昼の返事なんだけどさ……僕も、明後日から通うよ。うん、毎日。……解ってる。じゃあ、おやすみ」
 
 殆ど一方的に用件を告げただけ。なのに、不思議とジュンの気持ちは安らぎ、事件による不安や鬱屈がすっかり薄らいでいた。
 ここ数日、誰かと話をする機会が急増したことも影響しているに違いない。だが最も大きな要因は、姉の想いが迷いを消してくれたことだろう。
 
 それまでの日々は、パソコンに向かいながら自分の『怖れ』と罵り合ってばかり。それではココロが荒むのも、当然の帰結。
 けれども、いまは違う。『怖れ』は鳴りを潜め、内側に向いてばかりだったジュンの気持ちは、外へと向かい始めている。
 キッカケは、姉が与えてくれた。目的は、薔薇水晶が与えてくれる。扉を開けた以上、ジュンは歩み続けるだけだ。孤独を感じる暇など、ない。
 
 紅茶を煎れたマグカップを手に、ジュンは自室に籠もってスケッチブックを広げた。ジュンに投げかけられていた問いの答えを、記すために。
 秋の夜は静かに更けゆく。少年の描く無垢なる夢を柔らかく包み込んだ揺り籠のように、ゆらゆらと――
 
 同じ頃の暗闇で、また可憐な乙女が瑞々しい命を無残に摘み取られていたことなど、少年は知らない。
 
 


 
 第五回 「Prima Donna」に続きます。
 
 
 【三行予告】
 
 あなたの声 響け……。
 少年の無垢なる夢は、この世に麗しき純白の薔薇を呼び起こす。
 そして朗々と吟じられる歌劇は、更なる聖餐と無慈悲な儀式を告げる。
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