※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

 
 
  『君と、いつまでも』
 
 
柔らかな春の日射し。
桜舞う校庭を吹き抜ける風は、まだ冷たい。

今日から三年生。薔薇学園で過ごす最後の一年。

玄関前に、新しいクラス編成が貼り出されていた。
それを食い入るように見詰める私と、ジュン。
お互いの名前を見付けて、ほぼ同時に、吐息する。
僅かに白くなった息が、春風に流されて、消えた。

「また、貴方と同じクラスになったのだわ」
「本当に、ここまで来ると腐れ縁だよな」

まさか、三年連続で同級生になるなんて、思ってもみなかった。
腐れ縁……か。せめて『運命の悪戯』とかロマンチックなことを言って欲しい。
そういうところで、ジュンはデリカシーと言うものが無かった。

下駄箱に続く階段を登りかけて、ジュンは立ち止まり、振り返った。

「――いつまでも、一緒に居られるといいな」

よく見なければ気付かないほど小さな微笑み。
私は小走りに彼を追い掛けて、耳元で、そっと囁いた。

「ええ。これからも、ずっと――」




なにげない日常にも、よく見れば新しい発見がある。
その事に気付いたのは、休み時間の教室だった。
ジュンが眺めていた雑誌を、興味本位で覗き込んだ私は、
そのページに印刷されていた情景写真に、一瞬で惹き込まれていた。

海の底の写真。まるで、ギリシャの神殿を想わせる石筍の列。
こんな光景を目にしたのは、写真や映像を含めても、初めての事だ。

「どうしたんだ、真紅。ぼぅ……っとしちゃって」
「え? ああ、その写真が、あまりに素敵だったから、つい」
「これか? うん。確かに凄いよなぁ」
「そうね。竜宮城って、こんな感じなのかしら」
「……いつか、一緒に行ってみたいな」

いきなり妙な事を口走った私に微笑みかけて、彼は写真の説明をしてくれた。
どうやら外国の、海底に水没した鍾乳洞の写真らしい。

  ――世界は広い。

素直にそう感じたとき、学校という空間が、如何にちっぽけな世界であるかを知った。
そして、少しだけ不安になった。
こんなに小さな世界ですら、私には広く思えるのに……。
学校を卒業して、世間に放り出されたとき、私は何をすればいいのだろう。

そもそも、何がしたいのだろうか?
自問すると、返ってくる答えは、ひとつだけ。

  ――ジュンと一緒に居ること。

私の望むことは、ただ、それだけ。




ゴールデンウィークの直前、私とジュンは大喧嘩をした。
理由は、馬鹿馬鹿しいくらいに他愛ないこと。
今から振り返れば、そう思って笑い飛ばせるけれど、あの時は違った。

まあ、結局……連休半ばには寂しくなって、どちらからともなく仲直りしたけどね。
私たちは仲直りの際に、ひとつの誓いを交わした。


  いつまでも、一緒に居るから。
  これからも、ずっと側に居るわ。


その誓いどおりに、私たちは休日でも、都合を付けて会っていた。
普段の生活でも、なんとなく傍らに居る二人。
周囲の目には、恋人同士に映っているのだろうか。

私たちは、世間一般に言うようなカップルではない。
ジュンが告白してくれた事は一度として無いし、その逆も然り。
世俗的な通過儀礼を、私たちは経験していなかった。

でも、私たちは互いの気持ちを解っていたし、意志の疎通も完璧だった。
人の気持ちは、言葉にしなければ伝わらないなんて話は、ウソ。
分かり合おうとする想いさえあれば、気持ちは自然と通じるものなのだから。




二人の関係を例えるなら、影――だろうか。
私は彼の影。そして、彼は私の影。
境界は明瞭なようで、本当は全てがグレーゾーンなのかも知れない。

今更、側に居たいと願う必要もないほど、私たちは密接な関係を築いていた。
傍らに居ることが、呼吸するくらい、ごく自然なことだと思えるくらいに。
十八年の歳月が育んだ二人の絆は、多分……生涯、変わらない。
私も彼も、それで充分、満ち足りた気持ちになれた。

「ジュン。一緒に帰りましょう」
「ああ。帰ろうか」

ジュンはいつだって、笑いながら、私の願いを聞いてくれる。
――それは、私も同じ。
彼が望むことなら、なんでも叶えてあげたいと思う。
見返りなんて、最初から求めてはいない。

いいや……それだと、語弊がある。
本当のところ、彼の笑顔を見る事こそが、私にとって最高の見返りだった。




一学期が終わり、明日から夏休みを迎えようと言う日、私たちの関係は少しだけ発展した。
と言っても、単に世俗的な通過儀礼を終えただけなのだけど。
私にとって、その日は人生最良の思い出となった。
そして、ジュンにとっても、そうであって欲しいと思った。


――八月初頭に開催される、町内の夏祭り。
私たちは、誓いの指輪を交換した。
勿論、露天の安っぽい指輪である。
普通の高校生に買えるアクセサリーなんて、このくらいが限界。
けれど、売っていた指輪はどれも、素直で洒落たデザインをしていた。

左手の薬指に填めた、お揃いのチェインリング。
それを眺める度に、私は笑みを堪えることが出来ず、頬を緩めた。
ジュンは、そんな私の肩を、優しく抱き寄せてくれる。
いろんな露店を冷やかして回る間、彼はずっと、腕時計を気にしていた。
少しくらい、私の浴衣姿を褒めてくれてもいいのに……とか、ちょっと欲求不満。

「そろそろ、花火を打ち上げる時間だな」
「そうね。例の場所に行きましょう」

私たちは寄り添いながら、学園裏の城址公園に行き、例の場所に向かった。
子供の頃から来ている、花火を見るための、秘密の特等席。
周囲には、誰も居ない。

夜空を彩る大輪の花が、恥じらう二人の表情を、柔らかく照らし出す。
私たちは掌を合わせ、指を絡ませ合いながら……。

――互いのファースト・キスを捧げ合った。




夏休みも半ばを過ぎた頃、私たちは二人きりで、海に行った。
世間では『夏を征する者は受験を征す』とか言われているけれど、私たちは気にしない。
受験に成功しようが、失敗しようが、一緒に居ることに変わりはなかったから。

照りつける太陽の下、私はパーカーを羽織って、パラソルの陰に隠れていた。
別に、肌が弱い訳ではない。
水着だって、今日のために気合いを入れて選んだほどだ。
しかし、なんと言うか……コンプレックス?
我ながら、実にくだらないと思うのだけれど、やはり他の娘たちのスタイルを見ると、
尻込みせずにはいられなかった。

「折角きたのに、泳がないのか、真紅?」
「……ええ。もう少し、波打ち際が静かになってからね」
「そっか。確かに、あの人混みじゃあ泳ぐ気にならないよな」

だったら、何か飲み物とか買って来るよと言って、
ジュンは焼けた砂の熱さに飛び跳ねながら、海の家へと走っていった。

私は独り、読んでいた本を閉じて、沖合に目を向けた。
すると偶然にも、浮き輪にしがみついている子供の姿を見付けた。
明らかに、様子がおかしい。沖へ沖へと流されている。
このままでは、あの子が危ない。

咄嗟にそう判断した私は、パーカーを脱ぎ捨て、砂浜に走り出していた。
海に飛び込み、あの子を目指して、泳ぐ。
ひたすらに泳ぐ。
懸命に泳ぐ。




その子の元に辿り着いた私は、すぐさま異変に気付いた。
沖に流される速度が、尋常ではない。
見る見るうちに、砂浜から引き離されていく。
この時、私はまだ『離岸流』というものの存在を知らずにいた。

このままでは拙い。でも、どうしたら?
子供が掴まっている浮き輪は、二人が縋り付くには小さすぎる。
遠ざかる砂浜に目を遣ると、異変に気付いた他の海水浴客たちが、
こちらを指差して騒ぎ出していた。

その人混みの中から、浮き輪を手にした男性が飛び出し、こちらに向かって泳いでくる。
彼……ジュンだと、私には直ぐに判った。


――いつまでも、一緒に
   これからも、ずっと――


頭の中で繰り返される、あの言葉。リフレインと言うのだろう。
だが、安堵したのが悪かったのか、両脚が攣り、私は水底に沈み始めた。
苦しい。息が出来ない。
鼻腔に浸入した海水が、奔流となって喉や気管に流れ込んでくる。


  ごめんなさい、ジュン。私……もうダメかも知れない。


そう思った矢先、私は力強く腕を引っ張られて、気付けば水面に浮かび上がっていた。
浮き輪を手渡されて、しがみつくと、私は激しく噎せ返った。

どのくらい、そうしていただろうか。
私が落ち着きを取り戻した時……周囲に、ジュンの姿は無かった。




私と、流されていた子供は、駆けつけたモーターボートに救助された。
けれど、ジュンが居ない。


  彼は……ジュンは、何処に居るの?
  何処に行ってしまったの?
  ずっと一緒に居るって、約束したのに……。
  今朝だって、誓いの指輪を見せ合ったじゃない。

  悪い冗談は、止めてちょうだい!
  ジュン……お願いだから、こんな意地悪は止して!
  私を、これ以上、悲しませないで!


  お願いよ。ねえ、お願いだから……。


後になって聞いた話だと、私は半狂乱になって、地元警察や漁協の人たちに、
ジュンを探してくれるよう食ってかかっていたそうだ。
海上保安庁の職員も合流して、周辺海域の捜索が行われた結局――


  ジュンが発見される事は、遂に、なかった。




それからの日々は、何を、どうしていたのか判らない。
勿論、今でも、当時の事を思い出せない。
記憶が、完全に抜け落ちていた。

私が、やっと自身の呟き声に気付いたのは、九月も末の事だった。
夏休みから……あの事故から、ずっと鬱ぎ込み、引き籠もっていたらしい。
食事のとき以外、部屋のドアは固く閉ざされたままだったと言う。

誕生日に、ジュンがプレゼントしてくれた手縫いのぬいぐるみを抱き締めて、
時に、小鳥が愛の歌をさえずる様に……
時に、哀話を囁きかける様に……
ブツブツと独り言を喋っていたそうだ。




そして今朝、私は微睡みの中で、不意に気が付いた。
彼が会いに来られないなら、私が会いに行けば良いのだ、と言うことに。
何故、こんな簡単な事が、今まで思いつかなかったのだろう。

私は、すっかり人っ気の無くなった砂浜を訪れていた。


  夏の日に、二人で来た砂浜――
  貴方は、なにか飲み物を買ってくるって、言ってたわね。
  今度は私が、貴方のために、飲み物を買ってきてあげるわ。


「ねえ、ジュン……貴方は、なにが飲みたいのかしら?」

訊ねても、吹き抜ける風は、何も答えてくれなかった。




  ――ジュン

私が愛した、最初で、最後の男性。
彼は今も、この海のどこかで眠り続けている。
だから、私が起こしに行くわ。

そして、また……二人、一緒に。


長月の西空が朱に染まりだした頃、私は、靴も服も身につけたまま、海に入った。
流石に、水は冷たい。
だけど、私の熱い想いを冷やすことなど、出来はしない。


  いつまでも彼と一緒に居るためならば、私は灼熱の大地でも踏破してみせる。
  凍てつく氷河でも、渡りきってみせる。
  誰にも邪魔はさせない。
  何者にも遮られはしない。
  全ては、ジュンに出会うための、試練に過ぎないのだから。


一歩……また、一歩。
膝から太股へ……そして腰まで、水面に呑み込まれて行く。
どの辺りまで行けば、離岸流にぶつかるのだろう。
ああ、もう……歩いているのが、もどかしい。

いっそ、泳いでしまおうか。
そんな考えが思い浮かんだ矢先、私の身体が、ふっ……と流され始めた。
もう、泳いだ方が速そうだ。




服が肌に張り付いて、酷く泳ぎにくい。
それでも、私は平泳ぎの要領で、沖を目指した。
身体が、ますます軽くなっていく。
泳いでいると言うより、流されている感覚が、強くなっていった。

「やったわ、ジュン。このまま、貴方の所まで行くわ」

私は仰向けになって、潮流に身を委ねた。
右手に握り締めていた紅茶のペットボトルを、胸元に押し込む。
ここまで来て、折角のおみやげを落としたりしたら、彼に笑われちゃうわ。


  さあ、私を彼の元に運んでちょうだい。


いつしか、空一面に星が瞬き始めていた。
なんて綺麗なのかしら。
そう呟きながら、私は夏祭りの夜に見た、花火を思い出していた。
二人が初めて、身も心もひとつになった、あの夜――
私たちの関係が、これからも続いていくことに、何の疑いも抱いていなかった。


  まだ、終わりじゃない。
  これからも、続けていくのよ。
  私たちの関係を――
  二人の人生を――


私の頬を、涙が一粒、零れ落ちた。
嬉し涙なのか……悲しい涙なのか……よく、解らない。
瞼を閉じた私の身体は、静かに……ゆっくりと沈んでいった。




波の中で、私は、たゆとう。
なんとなく、揺りかごに寝かされていた赤ん坊の頃に還った様な気分がした。
とても、心地が良い。


「そろそろ、目を覚ましたらいかがですか、お嬢さん?」


唐突に話しかけられて、私の意識は一瞬にして目覚めた。
誰も居ないものと思っていたのに、いつの間に?!
振り返ると、タキシードを着た、ウサギ男が立っていた。
頭には小さなシルクハットを頂いている。

「初めまして、お嬢さん」
「貴方……誰なの?」
「日常と非現実を渡り歩く道化に、名など有りませんよ。
 ワタシはただ、お嬢さんの要求を耳にして、お節介を焼きに来ただけです」
「お節介、ですって?」

自らを道化と名乗ったウサギは、こっくりと頷いた。

この道化ウサギは、どう言った素性の者なのだろう?
日常と……非現実?
そもそも、ここは何処なの? 海の中かと思っていたけれど、どうも違う。

「私は、死んでしまったの?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
「訳が分からないのだわ。禅問答をしている暇はないの」
「せっかちですね。短気は損気というのを、ご存知無いですか?」




ああ言えば、こう言う。煩わしいウサギだ。
私には、貴方に構っている暇なんて無い。
ジュンを、探さなければならないんだから。

「どこを探すつもりですかな」

道化ウサギは、まるで私の心を読んだかのように薄笑いを浮かべた。

「ように……ではなく、ワタシには読めるのですよ。
 ここは、非現実世界ですからね」
「……それなら、私の目的も解っているでしょう」
「勿論。だからこそ、道化の分を弁えず、アナタの前に現れたのですよ。
 彼の居場所をお伝えするために……ね」
「っ! 貴方、ジュンが何処に居るのか、知っているのね?」
「この非現実世界の事ならば、何でも知っておりますよ」

私は、心の奥底から湧き出してくる感情を抑えることが出来なかった。
道化ウサギに縋り付き、あらん限りの声で、叫んでいた。

「教えてっ! ジュンの元へと、私を連れていって!」

その為に、私は此処まで来た。
ジュンに会う……ただ、それだけの為に。

道化ウサギは徐に頷き、指を鳴らした。




今度こそ、私は海の中を漂っていた。
けれど、相変わらず、非現実世界に居ることも理解していた。
何故って? 
だって……海の中でも、普段どおりに呼吸が出来るんだもの。
頭の中に、あの道化ウサギが話しかけてくる。

『彼の居場所は、アナタも既に知っているはずですよ』
(既に、知っている? いいえ……解らないわ)
『思い出しなさい。彼が、教室で眺めていた雑誌を』

突然に、私は思いだした。
休み時間の教室で、ジュンと眺めた、あの雑誌……。
確か、水没した鍾乳洞の写真が載っていた。


  竜宮城って、こんな感じなのかしら。
  いつか、一緒に行ってみたいな。


あの日、私と彼が交わした言葉。
あの時の事を、ジュンが今も忘れずにいてくれたのだとしたら――

『行き先は決まりましたか? それでは、望みなさい。
 願いが強ければ強いほど、より近くへと行けるでしょう』

願いの強さなら、誰にも負けない。
私は彼の側に行く。
絶対に、ジュンを見付けてみせる!




私の意識は、海中を駆け抜け、海底に眠る洞窟へと飛び込んでいた。
無秩序に立ち並ぶ石筍の間を、するりするりと泳いで行く。
真っ暗な筈なのに、洞窟の中は照明が当てられているかの様に明るかった。


  もうすぐよ、ジュン。
  私は、もうすぐ貴方の元に辿り着く。


暫く行くと、岩壁に突き当たった。ここで終わり?
いいえ……彼は間違いなく、この先で、私を待っている。
左薬指のチェインリングが、私に、そう語りかけていた。

真上に泳いでいくと、不意に、水面を突き抜ける感触があった。
この鍾乳洞は、全てが水没している訳ではなく、所々に空気溜まりが有るのだ。

海中から陸に上がって、私は目の前に広がる光景に絶句した。
荘厳……それ以外に表現する言葉が見付からなかった。
何千年、何万年という歳月を費やして形作られた、鍾乳石の神殿。
神殿? いいえ、違うわ。ここは、大自然の作り出した夢幻の城。


  此処こそが、竜宮城。
  私と貴方が一緒に来たいと、願っていた場所。


私は、徐に歩き始めた。
ここに、ジュンが居る。早く……一秒でも早く、会いたい。
その衝動が、歩くスピードを、更に加速させる。

いつの間にか、私は走り出していた。


  ――真紅。会いに来てくれたんだね。


彼の声。ずっとずっと聞きたかった、ジュンの優しい声。

「ええ。来たのよ、私。ジュンに会いに来たの」

だって、約束だもの。
いつまでも、一緒にいるって。

声のした方へ向かって、一心不乱に走り続ける。
ジュンは岩影に横たわって、駆け寄る私に穏やかな眼差しを向けていた。

「こんな恰好で、ごめんよ。なんだか、とても億劫なんだ」
「当然よ。こんな所に、一ヶ月も隠れていたんだもの」
「そっか……もう、そんなに経ってたんだな」
「貴方は酷い人なのだわ。
 竜宮城に入り浸って、いつまでも、帰ってきてくれないんだから。
 早く戻らないと、私がお婆さんになってしまうじゃないの」
「ははは……そう言えば、浦島太郎の伝説って、そんな話だったね。
 竜宮城で三年を過ごす間に、地上では三百年が過ぎてた――って」
「ええ。でも、今なら間に合うわ。一緒に、戻りましょう」

そう言った私に、ジュンは頚を横に振って見せた。

「ごめん、真紅。それは出来ないんだ」
「そんなっ! 何故?! どうしてっ?!」
「なぜならば……僕はもう、竜宮城の食べ物を口にしてしまったから」

それが、どうしたと言うのだろう。
その程度の事で、何故、帰れなくなるのか?

……解らない……判らない……分からない。


「真紅。僕はね、もう……死んでしまってるんだよ」


聞いた瞬間、新手のブラックユーモアかと思ってしまった。

「ウソ…………よ、ね?」

私の問いに、ジュンは苦しげな表情を浮かべて、顔を背けた。
彼の姿がぼやけて、霧のように掻き消えた。
その後に残されていたのは、白骨死体。
右手の薬指には、夏祭りの夜、露天で買い揃えたチェインリングが填められていた。


  間違いない。この人が、ジュン。
  私の最愛の人。


涙が止まらなかった。再会できた歓びと、別れなければならない悲しみと、悔しさで。
私は胸元から紅茶のペットボトルを抜き出して、傍らに置いた。

「ジュン……このお茶ね、貴方のために買ってきたのよ」

私はジュンの頭蓋骨を拾い上げて、胸に抱いた。
会いたかった。心の底から、そう思う。
たとえ貴方が、どんな姿になろうとも……貴方を想う、私の気持ちは変わらない。


  ジュン……世界の誰よりも、私は貴方を愛しています。


涙に濡れた頬を、ジュンの頭に擦り付ける。
ひんやりした、冷たい感触。
こんなにも冷え切ってしまったのね、貴方は。
だったら、私がこうして、暖めてあげる。


  これからも、ずっと――


私は、この上なく満ち足りた気分で、ジュンの頭を抱き締めていた。
道化ウサギが、姿を現すまでは。

「彼との再会は、果たせたようですね」
「何の用なの? 冷やかしに来たのなら、帰ってちょうだい。
 私は今、とても幸せな気持ちなの。邪魔されたくないわ」
「ほう……それは、本人の意思を尊重しなければいけませんね。
 しかし、本当にそれで良いのですか?」
「……くどいわね。なにが言いたいのかしら?」
「彼を連れ戻さなくて良いのですか? と、訊いているのですよ」

どういう事だろう。意味が、よく解らない。

「平たく言えば、彼を甦らせたくはありませんか……と言う事です」
「!! そんな事が、本当に?!」
「黄泉戸喫という言葉を、聞いたことはないですか?」
「? いいえ、無いわ」
「イザナギと、イザナミの話として有名なのですがね。まあ、良いでしょう。
 彼は、さっき言っていましたね。竜宮城の食事を、口にした――と」

そう言えば、ジュンは確かに、そう言っていた。

「黄泉戸喫とは、その地に縛られてしまうこと。
 彼はもう、竜宮城から抜け出せなくなっているのですよ」
「だとしたら、甦らせるなんて不可能じゃないの!」

からかわれている気がして、私は声を荒げた。
しかし、道化ウサギは目を細めて、私が持ってきた紅茶のペットボトルを指差した。

「あれが、役に立つのですよ。現実世界との繋がりを、取り戻すためにね」
「この紅茶を、どうしようと言うの?」
「彼の亡骸に振りかけなさい。そして、願うだけ。簡単な事でしょう」
「……確かに。でも、解せないわね」
「何がです?」
「なぜ、貴方が、そこまでお節介を焼くのか……と言う事よ」

問われて、道化ウサギは頭を掻いた。
そして「今度のお嬢さんは、また勘の良い娘ですね」と苦笑混じりに呟く。

「それについては、いずれ……話すことも有るでしょう。
 ですが、今は彼の件を急いだ方が良いですよ」

言われるまでもない。
私は骨を並べ直して、紅茶をまんべんなく振りかけた。
ジュンの亡骸が、ふたたび光を取り戻す。

「…………真……紅? 僕は、一体――」
「っ! ジュン! ジュンっ!」

私は、いまだ朧気なジュンの身体を、両腕でしっかりと包み込んだ。
まだ冷たい。でも、待ってて。きっと温もりを取り戻してあげるから。

「さあ、早く行きなさい。カウントダウンは始まっています。
 鬼ごっこの鬼は、一秒だって待ってはくれませんよ」
「解ったわ。ジュン! 私の手を掴んで! いつまでも、ずっと――」
「ああ。行こう。ずっと一緒に!」

私の左手に、ジュンの右手が重ねられ、しっかりと繋がれた。
安物のチェインリングが、再び、二人を結び付けた。

私はジュンの手を握り締めて、来た道を辿り、出口へと向かった。
背後に、何だか判らないけれど、恐ろしい者の気配を感じる。
もの凄いスピードで、追いすがってくる。

思わず振り返ろうとした私を、ジュンが叱責した。


  振り返っちゃダメだ。前だけを見て、逃げ続けるんだ。

 
そうだ。後ろに有るのは、悲しい過去だけ。
私たちは前だけを見て、幸せな未来に向かって、進み続けなければいけない。


――僕には、君が居る
  私には、貴方が居る――


その想いを胸に、私たちは光の溢れる世界へと飛び出していった。




潮風のにおいと、潮騒のざわめき。

目を覚ましたとき、私は見たこともない磯に横たわっていた。
身体を起こして、辺りを見回す。
何処なの、此処は? それに、ジュンは何処に?

彼が居た痕跡は、無い。まさか、全て夢だったの?
左手に、繋いだ手の感触が残っている。
でも、あれは……非現実世界でのこと。強く願えば、なんでも叶う世界。

「また、こんな喪失感を抱かせるなんて……。
 ジュン。貴方は、本当に酷い人なのだわ」

後から後から、涙が溢れてきた。
こんな夢なら、いっそ、見ないままの方が良かった。
こんな想いをするくらいなら、いっそ、ここに来なければ良かった。

私は泣きながら、磯を歩き始めた。
足元は起伏に富んでいて、とても歩きづらい。
涙で目が霞んでいたせいか、私は蹴躓き、ごつごつとした岩場に倒れそうになった。
――危ないっ!



そう思った瞬間、私は力強い腕に、抱き留められていた。
私を支えてくれたのは――


「危なかったな。気を付けないとダメだぞ」
「ジュンっ! 貴方……今まで何処にっ!」
「ちょっと、飲み物を買いに行ってきたんだよ。約束だっただろ?」

あの日の約束を、ずっと憶えていたなんて……。

「でもさぁ、行ったは良いけど、財布を持ってなかったんだよな」
「…………バカ。貴方って、本当に――」


その後の台詞は、声が詰まってしまって、巧く言えなかった。
けれど、私も彼も、この一言だけは、しっかりと伝え合っていた。


  『君と、いつまでも』





幸せな二人の様子を、道化ウサギは崖の上から見下ろしていた。
その表情は、我が子を見守る父親のように優しい。
道化ウサギは指を鳴らして「お幸せに」と呟くと、突風と共に消えた。

彼が、最後に使った魔法の効果だろうか。
朝日の中で抱き合い、口付けを交わす二人のチェインリングは、
ひときわ輝きを増していた。
|