なんの変哲もない、いかにも市販のプリンターで刷ったと判るA4サイズの安っぽいチラシが、これまた至って変わり映えのない右手に支えられ、宙に翻っている。
 およそ緻密な計算など窺えないカラフルなインク配列と、あまり馴染みのない奇妙なフォントの組み合わせは、よく言えば奇抜。悪し様に評するなら、見た目が派手なだけの資源ゴミ。
 しかし、嫌でも見る者を惹きつける胡乱にして摩訶不思議なチカラが宿っていたのも、紛れもない事実だった。
 
 
  【貴方だけのお人形を作ってみませんか?】
 
 
 普段から怪しいブツには目のない桜田ジュン少年が、ムラムラと好奇心を燻らせているのだって、この一文に集約された珍妙さと胡散臭さあったればこそだ。 
 秋も深まる十月末の、平日の昼下がり――本来であれば学校にいるはずの時間にも拘わらず、彼は悠然と自室のベッドに寝ころび、しげしげとチラシに目を注いでいる。
 振替休日や病欠などではない。ジュンはワケありの中学生……平たく言ってしまえば、不登校児なのである。
 
「通信講座なら、ちょっと冷やかしてみるのも面白そうだな。どこのカルチャースクールだ?」
 
 彼の視線は、幾度となく縦横無尽に紙面を走る。けれども、そこに希求する情報はなく、欲求不満がジュンを理不尽な暴力的衝動に駆り立てる。
 見本となりそうな写真は皆無。講義内容の説明文も、少ない上に専門用語ばかりで、初心者には要領を得ないものだ。つまりが不親切。
 それが、チラシを凝視させるための策略だったのならば、一応は広告としての目的を達したと言えよう。しかし、最も重要な『説得力』を蔑ろにしているのも事実。これでは本末転倒だ。
 ジュンは「ふん!」と皮肉めいた笑みで紛らすと、ドラマなどにありがちな、部下の仕事ぶりを批判する上司を彷彿させる仕種でチラシを放った。
 
「ダメじゃん。肝心なこと書いてないで、ホントに受講生を集める気あるのかよ、これ」
 
 
 昨日、この奇妙奇天烈な紙片を少年にもたらしたのは、姉の桜田のりである。以下、彼女の言い分。
「いつか、ジュン君も学校に行きたくなるかも知れないでしょう? そのときに備えて、こういった教室で人慣れしておくといいんじゃないかな」
 
 
 言われたとき、ジュンは、またいつもの鬱陶しいお節介が始まったと辟易し、耳を塞ぎたくなったものだ。このままではジリ貧なことなど彼とて百も承知だし、決定的な打開策を見出せない焦燥感から、ひどく苛立ってもいた。
 どうしたら、いい? どうするのが最善? あれこれ考えはするものの、いざ行動しようと思っても、おいそれとは踏み出せない。不登校の原因ともなったトラウマが、いつもブレーキをかけてしまうのだ。その厄介な心情が、どれほど彼をもどかしい想いにさせ、自縄自縛の悪循環に閉じこめているかは、想像に難くない。
 加えて、能動的であろうとは思いながらも、より大きな存在――親や教師を含めた大人たち――に依存している境遇から、まず指示や許可を待ってしまう点も挙げられる。何事にも受動的になりがちなのは、学校教育で与えられることに慣れすぎているからだろうか。
 とするなら、いっそのこと、姉が何事につけても提案ではなく強制してくれれば、意外と素直に従うのかも知れない。ジュンは胸裡に、すべてを他者に委ね隷属する自画像を想い描いてみた。
 
 だが、すぐに彼は、愚かしい想像を黒く塗りつぶす。その状況になればなったで、自分はきっと心底で肯定的でいながら、表面上は反撥せずにいられないだろう、と。
 実際のところ、ジュンは素直になるという行為を忌み嫌っていた。それはもう徹底的に。何故ならば、それは自分の柔らかい急所を、悪意ある者たちに対して無防備に曝け出すに他ならなかったからだ。
 ココロに負った深い傷を必死に隠し、庇ってきた彼にとって、『防禦を解く』とは精神面での自殺と同義の愚行だったのである。
 
 しかしながら、ジュンとてまだ年端も行かない発展途上の子供。できるなら集団に身を寄せ、生温い安堵を得ていたかった。壁に掛けた制服を目にする度に、学校にも行って、やり直せたらと夢想さえした。
 孤独ほど、退屈で無味乾燥したものはない。引き籠もるようになってから、少年はそれを痛感し、自ら望んだことながら倦厭していたのである。
 健やかなる人格の形成には、やはり同年代の友や、趣味を同じくする仲間たちとのスキンシップが必要不可欠だ。つまらない、と思う時間は、少ないに超したことはない。
 ジュンも世界から切り離されていくような寂寥感に堪えかね、他者との結びつきを求めて登録無料が謳い文句のオンラインRPGに興じたりしたが、そこにも彼の求めるものは見つけられなかった。
 
 結果は、いつだって思うに任せない。前に進もうにも、壁に阻まれてばかりで遅々として進めず、かと言って過去に戻ることもできない。
 この、どうにも進退窮まった苛立ちを放置してしまうと、それはそれで気が変になりそうで、唯一の甘えられる存在である姉にぶつけてきたのだが……。
 
「僕だけの人形、か」
 
 いよいよ胸の焦燥感を持て余し、本気で逃げ道を探し始めていたところに、このチラシの登場である。動機に餓えていたジュンの本音は、まさに千載一遇と言わんばかりの勢いで、魅惑的な誘いに飛びつきたがっていた。
 ぬいぐるみの類であれば、ジュンは既に創作の経験があった。いまよりもっと小さな頃、姉に頼まれ、人形の服を縫ったことだってある。
 彼は自覚していなかったが、こと裁縫に関する限り、幼くして類い希な才能を開花させていたのだ。
 
「ちょっとでも僕が興味もちそうなネタを狙ったんだな。姉ちゃんも、アホなりに知恵を搾ったみたいだけど」
 
 ジュンは芝居めいた仕種で鼻を鳴らし、この場にいない姉を、あからさまに嘲った。やっぱり肝心なことが解ってない、と。
 彼が不登校になったのも、姉の口から広まった噂に因るところが大きかったのである。
 ――が、それは言い訳にすぎないことは、ジュンも理解していた。甦りかけた苦い記憶を押し戻したくて、姉への恨めしさを持ち出し、自身の希望を捩じ曲げようとしただけの話だ。
 
「ふざけるなよ。あいつの思惑どおりになるかっての。こんなもん、からかう程度でいいんだ。絶対に通ったりしないんだからな」
 
 悪態を吐くと、その分だけ胸が空いた。しかし、苛立ちは収まらない。彼の胸には、これまでにも呑み込んできた思いが重い沈殿物となって堆積し、もう僅かな鬱憤でさえ留め置ける余白がないのだろう。
 ジュンはまだ自覚していなかったが、このところ暴力的な独り言も増加傾向にあった。上澄みのような激情が漏れだしてしまうのは、感情をコントロールする水門が壊れつつある凶兆でもあった。
 不意に膨れ上がった怒気が、『いっそチラシを限界まで細切れに破って、窓から撒き散らしてやれよ』などと無責任に煽り立てる。
 
 けれども、少年の震える手は、それをしない。彼方此方と迷走しすぎる感情に振り回され、理性や誇りさえ、うっかり捨ててしまいそうになる自分が情けなくて、ふと忸怩たる想いに苛まれたのだ。
 僅かばかりの満足感を得るためだけに、八つ当たりを繰り返す……それは、なんと不毛で虚しく、卑しい行為だろうか。自制の効かない幼児ならいざ知らず、およそ自尊心ある人間の所行ではない。
 では、果たして自分に自尊心なんてものが本当に残っているのかと自問すれば、真相は疑わしいけれど……。衝動を抑えられた事実を鑑みれば、少なくとも皆無ではないのだろう。
 冷めた笑いで自虐するのも程々に、ジュンはベッドから半身を起こした。視界の隅に映るのは、さっき投げ捨てたチラシ。これが最後のチャンスかも知れない。少年は気持ちを切り替えて、再び、紙片を手にした。
 
 すると、僅かばかりの心境の変化が功を奏したものか。
「あれ? この電話番号って、ウチと同じ市内だよな?」
 
 いままで見落としていた情報が、ぱっと目に留まった。細々した文字で、紙面の隅に記された連絡先は、ジュンの見立てを肯定している。
 誤記なら別だが、偶然の一致は有り得ない。常識で考えても、県外まで広く頒布するならウェブ上に広告を貼った方が効率的だろう。
 ジュンの家から少しばかり離れた、とある民家が教室――そこが、この人形製作講座の教室らしい。縁もゆかりもない土地だが、自転車なら十五分ほど、徒歩でも三十分あれば着けそうな距離だ。
 
 土地勘がない場所に赴くのは、一般人であっても多少なり気が引けてしまうもの。ヒキコモリの少年ならば尚更に違いない。
 だが、見方を変えれば状況は真っ新であり、心機一転と言えなくもない。受講生の人数や年齢層が判れば、気苦労も少なかろう。ジュンは充分すぎるほど熟読していた紙面を、更に目を皿のようにして矯めつ眇めつした。
 そして程なく、細々とした文字の中から『定員二名』の四文字を発掘した。彼にとって好ましい数字ではあったが……今度は、別の心配が頭に生まれた。
 
「二名だけなんて、採算とるには少なすぎないか? チラシにはビスクドールって書いてあるけど、どんな人形なんだろう?」
 
 独りごちながら、パソコンで検索してみると、驚くほど大量の情報がもたらされた。その内から無作為に数件を選び、すべてに目を通す。
 その結果、自分の認識よりも遥かに高度な講座らしいと判って、ジュンは驚きを露わにした。
 
「なんだこれ、すごく本格的じゃないか。ボディーを焼成したり、とんでもなく手間暇かかりそうだ」
 
 趣味で始めるにしては、少しばかりレベルが高すぎる。それに、この手の相場なんて解らないが、材料費だって馬鹿にならないはずだ。
 一体を組み上げるのだって、どれだけの時間がかかるか、ジュンには皆目見当もつかなかった。いや、殆どの者は知らないだろう。誰だって、自分に関わりのないことには疎いものだ。
 さておき、定員が二人でも営利的に成り立つとなると、金持ちの道楽っぽい内容なのかも知れない。「受講料を、何十万も請求されるのかなぁ。それだと厳しいな」
 
 などと、いかにも未練がましい諦めを醸しつつも、ジュンは勝手に受講生のスタンダードモデルを思い描いていた。
 金銭面で余裕があり、時間の融通もつけ易い層――すなわち大学生から上くらいだろう。人形と言えば女の子向けだし、主婦やOLをターゲットにしている可能性が大である。
 
 ジュンとしても、それは願ったり叶ったりの好条件だ。同年代の子供を見ると、どうしても忌まわしい記憶が甦ってきて、苦痛に苛まれるから。
 対して、年上の人間にそれほど気後れしないのは、やはり姉の存在が彼の心理に大きく作用しているからに違いない。要するにジュンは、こまっしゃくれた子供なのだ。
 
 とにもかくにも――
 ジュンは、どうにも講義の内容が気になって仕方がなかった。どんなに言い訳を並べたところで、本音を偽り続けることなどできない。
 どうせ部屋にいてもネット通販か、ごろ寝しているばかり。いずれにせよ暇つぶしに過ぎず、一心に打ち込める趣味があるワケでもなかった。
 ……否。唯一、ジュンが専念できそうな事柄はあった。それこそが、刺繍や裁縫などの手芸だ。だからこそ、『自分だけの人形』という一句に魅惑的な引力を感じているのである。
 
 いまの生活にも、ほとほと嫌気がさしている。だったら、少しでも変われそうな術に賭けてみるも一興。気分転換がてら、一回くらい様子見にでかけるのも悪くない。
 この手の個人レッスンならば、体験入門や見学くらいは可能だろう。教える側にとっても、個々の適性を測る意味で、それは重要なはずだった。
 
「自分に合わないと思ったら、受講しなけりゃいいんだもんな」
 
 そうすれば、入学金やら月謝は払わずに済む。もし続けられそうなら、そのときこそ姉に費用の相談をすればいい。
 とは言っても、すべては既に募集定員に達していなかったらの話だが。
 
「行くだけ行ってみるか。冷やかしだよ、冷やかし」
 
 よしっ! と、漸くの決断を景気づけの掛け声で後押しして勢いよく飛び起きて、ジュンは久しく袖を通していなかった外出用の服を、タンスから引っぱり出した。
 しかし、彼のいじましい決意を嘲笑うように、ボタンをかける指は震える。ココロのどこかに棲み着いた『怖れ』は、思った以上に大きく育っているらしい。
 ジュンは忌々しげに舌打ちするものの、なにをしようとも、手の戦慄きと胸を締めつける不安を払拭するには至らなかった。
 
 四苦八苦の末に、やっと着替えを終えたときには疲労困憊。『怖れ』はジュンから、募集の締め切りを懸念する余裕さえも奪っていた。
 
 
      §
 
 
 なぜ、これほどまでに緊張しないといけないのか……。
 戦々恐々と歩を進める一方、ジュンは激しい動悸により朦朧とする頭のごく一部に残る冷静な箇所で、自身の変わり様に愕然としていた。
 
 平日の真っ昼間に出歩いているだけで、なんとなく後ろめたくなるのは仕方がない。そこは彼にとって、本来の居場所ではないのだから。
 しかし、ほんの数ヶ月前は学校に近づかない限り、まだ普通に出歩けた。あの頃となにも変わっていないと思っていただけに、現実とのギャップは少年の弱いココロを戸惑わせた。
 
 
 人の目が、怖い。物陰の暗さですら、悪意の塊のように感じられる。常に監視され、絶えず誹謗されている気がする。
 ひそひそと耳朶をよぎる罵詈雑言など、ネガティブな感情が生んだ幻聴に違いないと念じるのだが、ジュンはどうしても、それらを聞き流せなかった。
 
 実のところ、それは少年期にありがちな自意識過剰なのだろう。昼日中の住宅街を行く者は疎らだ。誰も、僕のことなんか気にしてない――と、ジュンは幾度も自分に言い聞かせる。
 しかし、彼の耳には姿なき者の陰口と嘲笑が染み着いたように谺し、いまにも彼の精神を土台から崩落させようとしていた。
 それまで、極めて緩慢にではあっても進んでいた足が、ぴたりと止まる。彼の全身を、畏怖が侵蝕してゆく。
 
 
(やっぱり帰ろうぜ。柄じゃないだろ、こういうの)
(でも、ここまで来て……もうすぐ着くのに)
(いまから行っても、きっと定員オーバーさ。無駄足だよ。俺の言うことを、素直に聞いとけって)
(判らないじゃないか。まだ誰も申し込んでないかも知れない)
 
 
 ジュンの中で、ふたつの声が交互に鬩ぎ合う。否定派の優勢を物語るかのように、佇む少年の爪先は揺れて、いましも向きを変えようとしている。
 項垂れ、迷い、抗う。別の意志によって支配されそうな身体を、ジュンは懸命に自分の制御下に置こうとした。
 
 
(そう意地を張るなよ。俺には、ちゃ~んと解ってるんだぜ。どうせ毎度のように、すぐ飽きるに決まってるって。おまえだって解ってるんだろ?)
(ふざけるな! なんで、先入観だけで決めつけるんだ? そんなの――)
 
 
 そんなの、又聞きの噂だけで僕を中傷した連中と同じじゃないか! その叫びは胸裡で止めきれずに、喉から迸りそうになった。
 甦る、辛い記憶。胸の激痛は、時間の経過と共に和らぐどころか、当時よりも酷くなっている。まるで、傷口が雑菌により化膿し、腐り始めたかのようだ。
 
 ジュンは両の拳を固く握り、内からくる痛みを堪えるように、歯を食いしばった。薄い頬の奥から、ぎっ、と奥歯の軋めきが漏れた。
 
「……違う」
掠れ声で言って、徐に、決然と顔を上げるジュン。「僕は、あいつらとは違うんだ。あいつらとは……」
 
 どんなに世を拗ね、不貞腐れようとも、絶対に捨てなかった想い。それが、はたして本当の自尊心なのかは解らない。だが、ジュンを再び前へと推し進める原動力にはなってくれた。
 依然として、足は鉛のように重く、ほんの5メートルを進むのでさえ数分を要したけれど……それでも、ジュンはもう立ち止まらなかった。
 ただただ目的もなく流離うだけだった日々に終止符を打つべく、変われるかも知れない可能性――夢に向かって歩き続けた。
 
 
      §
 
 
 それこそ決死の覚悟で辿り着いた受講会場は、敷地面積が周辺近所のどの家より広く、建物自体も洋館風で、異質さが際立っていた。
 自分の背より遙かに高いコンクリート塀を回り込んで、門構えの前に立つジュン。アルミ製と思しい格子状の門扉は、ぴったりと閉ざされ、彼の目には拒絶的に映った。
 
「留守……じゃないよな?」
 
 その間隙から庭先を窺い見れば、庭の半分ほどを占めるプレハブ小屋がある。あれが、人形作りの教室なのだろうか。
 しかし、そこに人の気配は感じられなかった。母屋にいるのか? しかし、家人を呼び出そうにも、門柱にはドアベルが見当たらない。
 遠目に窺えば、観音開きのドアの脇に、それらしいものは見えるが……。
 
 ここでも飽かず不毛な逡巡を繰り返して、ジュンは恐る恐る、門扉を押し開いた。
 自らの領域を土足で踏みにじられた経験があるだけに、誰かの領域に無断で踏み入ることすら、変に躊躇ってしまう。
 けれど一寸、考える。ここを訪れたのはチラシに誘われたからだ。ある意味、先方に招待されたとも言えるのではないか。
 
「……アホらし。ここまで来ておいて、なに迷ってんだよ僕は」
 
 ジュンは急に白けた気分になった。もう決断はしたのだ。だから、ここにいる。
 なのに、まだ詭弁じみた屁理屈を捏ねくり回しているなんて、馬鹿げているにも限度があろう。そんな暇があるなら、さっさとドアベルを押すに限る。
 
 実際、彼はドアベルのボタンを押した。いかにも重厚そうな扉の向こうから、古風なチャイムの響きが漏れ聞こえた。意外に大きな音だ。
 これなら、すぐにでも家人が出てくるものと思いきや……。
 
「まさか本当に留守じゃないだろうな?」
 
 ドア越しに近づいてくる者の気配を探ろうとしたが、ジュンの耳は、それらしい音を拾わない。大きな屋敷だから、家人がベルを聞き逃がしたのかも……。
 もう一度、ドアベルを鳴らす。しかし、やはり状況に変化なし。ドアから離れて、二階の様子を窺い見るも、すべての窓は閉ざされ、時が止まったように静閑としている。
 もしや、屋内ではなく、庭のプレハブ小屋にいるのだろうか? それとも、庭木の手入れでもしている?
 試みに目を向ければ、さっきは塀に遮られて判然としなかった裏庭の様子が、ちらと見えた。予想外に広い。しかも、世間では紅葉の季節だと言うのに、針葉樹でもない木々は真新しい緑で溢れ返っている。
 なにか変だなとジュンは首を傾げたが、ともあれ、どちらにしても家人がドアベルを聞き漏らした可能性は有り得そうだった。
 
 ここに至って、ジュンは自分の迂闊さがを大声で罵りたくなった。
 なぜ、テレアポを取っておかなかったのか。外出することばかりに気を回しすぎて、肝心な準備を失念するとは迂闊に過ぎる。
 
「なにやってるんだよ、僕は。マヌケすぎるだろ」
 
 額に手を当てて、吐きだすように言いつつ思い出すことは、ひとつ。提出する宿題のノートに、うっかり残してしまった落書き――
 あの、どんなに悔やんでも悔やみきれない失態が、いまもジュンの胸を締めつける。
 どうしようもない憤りを他者に向けたりもしたけれど、それらは悉く彼へと跳ね返ってきたものだ。その度に打ち拉がれ、憔悴しきった少年は、より内面へと鬱ぎ込むようになっていった。
 
 それが、どうだ。閉塞状態から逃れようと藻掻いてみれば、現実はジュンにとってマイナスにしかならない。
 ひょっとして、立ち直ろうと考えること事態が、既に間違っているのではないか? 拗ねた想いが、また彼を意気消沈させる。
 ネガティブ百パーセントで立ち尽くすジュンの胸裡に、もうひとりのジュンの嘲笑が響きわたった。
 
(あははは! バーカ。だから言ったじゃないか。さっき俺の忠告に従って、帰ってればよかったんだよ)
(うるさいな! おまえは黙っててくれよ!) 
 
 このままでは帰れないと、ジュンは依怙地になった。おめおめと帰れば、過去の繰り返しだ。ばかりか、自身の内で大きく育ちつつある『怖れ』に屈することにもなる。
 目的を果たすためなら平気で罵詈雑言を並べ立てるヤツに主導権を握らせたら、どういう未来を招くかは火を見るより明らかだった。
 
 半ば自分自身の侮言に後押しされるカタチで、ジュンはまず裏庭に歩を向けた。プレハブ小屋には、遠目にも人の気配が感じられなかったためだ。
 石畳から逸れると、今度はすくすくと伸びた芝生が、踏む彼の足裏を押し戻してくる。ガーデニングに疎いジュンでも、よく手入れされた庭だということは解った。
 だが、次の瞬間――
 
「誰?」
 
 突如、背後から語気強く誰何されたばかりか襟首まで掴まれて、ジュンは怯える仔猫みたいに背中を丸めた。
 おまけにショックのあまり急激な脱力感に襲われ、その場で腰砕けになってしまった。肩越しに振り返ることさえ、できなかった。
 
「あ、あああ、あの……ぼ、僕……」
 
 天地神明に誓って、怪しい者ではない。思うように動かない口と舌の代わりに、身振り手振りで懸命に弁明を試みるジュン。
 だが、相手に背を向けたままでは説得力どころか、寧ろ胡散臭さを強調しているに等しい。
 
 そんな彼の様子に、声を掛けた何者かは小さな溜息を漏らした。
 
「コソ泥さんなら、お生憎。ウチは、セコムしてますから……タイーホ。人生オワタ」
「は? ま、待って待って! 違うよ、僕は違うんだ!」
 
 すっかり誤解されている。ならば、無実の罪を着せられる前に弁解しなければ。あの頃みたいな泣き寝入りは、まっぴら御免だ。
 ジュンは、それまでの脱力がウソのように跳ね起きると、これまでの経緯を説明すべく、がばっと相手に向き直った。
 しかし結局のところ、彼は声を失ってしまうことになる。かつてない視覚的精神攻撃が、胸を直撃したがために。
 
 無様に口をぽかんと開けたジュンの仕種が可笑しかったのか、「冗談」と。
 少年の前に凛然と佇む、この世の者とは思えないくらいの美少女が、その可憐な唇を綻ばせた。
 
「あなた、悪い人ではないみたい。ご用件は、なぁに?」
 
 口振りこそ素っ気なく冷たい印象を抱かせるが、決して拒絶している風ではない。そもそも、拒絶するくらいなら声を掛けたりしないはずだ。
 そんな手前勝手な分析にチカラを得たジュンは、シャツの胸ポケットから、折り畳んだ紙片を抜き出して、広げた。 
 
「こ、これ! このチラシ、見てさ。ちょっと興味があって」
 
 彼が言うと、この家の娘と思しい美少女は、花開くように笑った。
 ただでさえ姉以外の異性との交流に乏しいジュンである。その笑顔に、すっかり参ってしまった。バクバクと高鳴る胸に手が行きそうになるのを、必死で堪えたほどだ。
 
「ああ。受講希望の人だったのね」
「って言うか、まあ……」
「違うの?」
「いや、その、ちょっと見学したいなって。これだけじゃ、なんかよく解らなかったから」
「……そう。とりあえず、こっちにいらっしゃい。無断で裏庭に入っちゃ、ダメ」 
 
 言うと、美少女はジュンの脇を通り抜けて、庭のプレハブ小屋へと足早に歩いてゆく。やはり、あれが教室だったらしい。
 だが、ジュンは擦れ違い様に放たれた少女の薫香に陶然とするあまり、その場に立ち尽くしたままだった。
 姉とはまた違う異性の色香に魅了された彼が、受講に大きく傾いたとしても、スケベ小僧と笑うなかれ。思春期の少年ならずとも、かの美少女には男心を惑わす妖艶さが宿っていたのである。
 
「なにか?」
 
 そんな問いかけに慌てて振り返れば、少女はプレハブ小屋の戸口に立ち止まって、ジュンを見つめていた。
 ジュンは猛然と熱くなってゆく顔を曖昧に弛めながら、「なんでもないよ」と、少女を追いかけた。
 
 
      §
 
 
 小屋の中は、異次元だった。大袈裟でなく、ジュンは夢を見ているようだと思わずにいられなかった。
 初めて目にする特殊な機材や製作途中の人形が、所狭しと置かれている様子はさながら、狂気に囚われたホニャララ博士の怪奇館なんて時代がかったタイトルを彷彿させる。
 身の毛もよだつ悪魔の芸術――なぜかジュンの脳裏に、『蝋人形の館』の一節が大音響で再生された。そんな気分にさせられる空間だった。
 
 ――なに圧倒されてるんだ、僕は。ジュンは吐息混じりに近くのテーブルへと歩み寄って、作りかけの人形を見おろした。少年タイプもあるにはあるが、圧倒的に少女タイプが多い。
 
「こういう人形を作るのが、講義の内容なの?」
 
 訊いた彼の隣りに、少女がふわりと寄り添う。まさに、ふわりの形容がピッタリの、質量を感じさせない仕種だった。
 無論、そんなことは有り得ない。浮ついたジュンの感覚が、現実の認識を狂わせていただけだ。
 
「この子たちはインターネットで注文を受けて、作っているもの。講義が目指すお人形とは、違う」
「具体的に、なにが違うんだ?」
「大きさ。でも、一番の違いは――」
 
 意味深長に言葉を切った少女は、ジュンから数歩だけ離れると、長い髪を靡かせ振り返って、艶然と微笑んだ。「込められる想いの強さ、よ」
 
「大きさって、どのくらい?」
「この講座で生みだすのは、等身大のお人形」
「等身大って……つまり、きみくらいの身長ってこと?」
「すべては、あなたの望むままに。あなたの内にある理想――あるいは欲望を投影できる存在を、具現化するのよ。私が、そのお手伝いをしてあげる」
「え? じゃあ、もしかして講師は」
「そぉれは私」
 
 少女は歌うように言って、お互いの鼻が触れそうなくらいに、グッと身を乗り出してきた。「私なの」
 なるほど等身大ともなれば、その手間暇たるや相当なものだろう。しかも、講師はジュンと大して歳の離れてなさそうな女の子だ。受講生が二名というのも頷ける。
 ジュンは仰け反りながら、「面白そうだ」と引き攣った笑みを返した。
 
「受講するよ。僕は、桜田ジュン。ジュンって呼び捨ててくれて構わないから」
「私は、薔薇水晶。ココロから歓迎するわ、ジュン。それじゃあ、講義の日取りとか、カリキュラムの説明とか、いろいろとお話しましょう」
 
 
 そして、少年は夢の世界へと足を踏み入れる――
 
 


 
 第二回 「The Mirror」へと続きます。
 
 
  【三行予告】
 
 夢は風、光導く……。
 人形製作の美少女講師・薔薇水晶は、少年の夢を支えることを約束する。
 そんな彼女にひとかたならぬ想いを傾けながら、ジュンは理想の女の子を生みだすべく歩みだすのだった。

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最終更新:2010年01月19日 23:33