山羊の足は大地を砕かんばかりに蹴り、人間の腕にはメイスと呼ぶことが正しいかどうかすら分からない
巨大な鉄の塊、そして角牛の頭からは、荒々しい鼻息が漏れ続けている。
真紅の身長の三倍はあろうかという巨躯の怪物─ミノタウルスは、地下道の中では少しばかり広い部屋に、
彼女が入ってくるのを見つけるなり、とって食うかのような勢いで飛び掛った。
"The Unknown"
第四話『おとうさん』
「また…怪物ッ……!」
真紅はとっさにしゃがむ。怪物の、巨大なメイスによる初撃は彼女の頭上スレスレを薙ぎ、壁へとめり込ん
だ。鼻息を更に荒げながら、怪物はそれを抜き去ろうともがいている。彼女はその隙を突き、その足に斬撃を
浴びせるが、弾かれる。どうやら巨躯から予想できるとおり、その皮膚はかなりの硬度を誇っているようだっ
た。
「くっ…!」
真紅は再び距離をとるため、はるか後方へと跳躍する。そのついでとして、怪物の頭めがけてナイフを数本
投擲してみるも、ようやく抜けたメイスを、怪物はすばやい動きで目の前に構え、ガード。どうやら、あのキ
マイラよりは数段上の知能を持っているようだった。
怪物はなかなか次の攻撃を加えてこない。真紅はその間に何か打開策を考えるも、硬い皮膚と、体に似合わ
ず俊敏な動きに対して、いい手段を思いつけずにいた。
「…ブ? ゥゥウウウウウウウウッ!」
突如、怪物が再びメイスを薙ぐ。先ほどよりはるかに硬度の低いそれをしゃがんでかわすことは不可能だ。
真紅は跳躍する。しかし、空中に跳び上がった瞬間、彼女は息をのんだ。…気づくのが、遅すぎた。
「しまった!」
怪物は、空中で身動きが取れなくなった真紅めがけて、メイスを返し、振り抜いた。あたりに金属同士の鋭
い衝突音が響く。
「ぐ……あぁっ!」
剣でガードしたはいいものの、怪物の力に太刀打ちできるわけもなく、真紅は吹っ飛ばされ、壁に全身を強
く打ち付けた。
「う…ま、ずい……」
衝撃は肉を伝わり、骨へと達している。真紅は痛みのあまり、その場にしゃがみこんだ。
体を動かそうにも、感覚が麻痺していうことをきいてくれない。この期を逃さず、怪物は肩を震わせながら
近づいてくる。
「動け…っ…う、ご…けぇっ!!!」
─真紅─
朦朧としていく意識の中で、真紅は誰かに呼ばれたような感覚に陥った。
しかし、あたりに人がいるはずはなく。彼女はいよいよ自分も御仕舞いかと、まぶたを閉じる。
─お前も『リスクブレイカー』となって一年…そろそろ『技』を教えてやろう─
声は続く。それは『外』からではなく、真紅の『内』からの声。
─使い慣れた武器に『闘気』を集中するのだ。武器は、相棒はきっと、それに応えてくれる─
壁に崩れた体勢のまま、真紅は剣を構える。彼女に意識は殆どなかった。しかもこのような『声』も『動き』
も、まったく持って彼女の記憶の中にはなかったはずだった。しかし、腕は流麗に、まるで『覚えているか』の
ように剣を振るう。
自然な動きで振るわれる、その剣の切っ先が音速を超えたとき、声は確かに言った。
─殺人技(ブレイクアーツ)・裂帛双重斬─
「殺人…技……?」
むなしく空を切る剣。しかし、その作動によって切りつけられた空気は音速の斬撃と化して『飛び』、怪物を、
構えたメイスごと切り裂いた。
「オ、オオオオオオォォォッ!?!?」
見えない攻撃に一瞬怯む怪物。しかし真紅の腕は動きを止めず、またも高速で振り返される。そしてソレは再
度空気を斬り飛ばし、怪物の───命すら、断ち切った。
「グオ、オ、オオォォォォン…」
怪物はその場に崩れ落ち、キマイラと同じように黒光を放って掻き消える。
禍々しい光に包まれながらも真紅は意識を取り戻す。しかし、彼女の心は、拭い様のない違和感に支配されて
いた。
「あんな技…私は知らない…… 『殺人技』ですって…?」
自分の意識の外で動く体。まるで『技が染み込んでいる』かのような感覚。真紅は危機を脱したことに、素直
に安心できなかった。
─パチ パチ パチ……─
真紅が戸惑いながら立ち上がると、前方から拍手が聞こえてくる。体勢を立て直した彼女が顔をあげると…
「水銀燈!」
再び彼女の前にその姿を現した黒ずくめの女、水銀燈は興奮気味な笑みを浮かべている。それはまるで、コロ
シアムの観客のように、無慈悲で、俗悪で─無責任な表情だった。
「さぁっすが『危険請負人』! アレだけの傷を受けても冷静に、技を繰り出すなんてぇ…」
「……あの『技』…貴女、何か知っているの…!?」
真紅の問いかけをさらりとかわし、踊るような素振りを見せながら、水銀燈は続ける。
「人間ってぇ、ほっとんどの奴らが『真実』を認めないで『常識』にとらわれるわぁ。
ゆえに『恐怖』に支配され……出来たはずの抵抗すら見せずに殺されちゃう。
でも、貴女は別。死者が生き返ったときも、キマイラとの戦いでも…そして、ちょぉっとピンチだったとはいえ、
今の戦闘でも。常に冷静沈着。絶対に慌てない……『絶対に』……そう」
水銀燈は言葉を言い終えると同時にぴたり、と動きを止め、真紅の方へと向き直り……何の感情も篭めず、冷
徹に言い放った。
「まるで『心』がないみたい」
「……なん、ですって…?」
その言葉は確かに、真紅の言葉を打ち抜いた。
怒りの表情を浮かべ、真紅は水銀燈に向かって詰め寄っていく。水銀燈の方はというと、逃げる素振りも見せ
ず、ただ真紅の『瞳』に向かい真っ直ぐと、視線を送っていた。
「どうして貴女は肉体を支配できるの?」
言葉を続ける水銀燈。
「貴女は…絵本を読む子供と、その本の中で活躍する勇者のように…心と肉体が分離している」
詰め寄る真紅。
「貴女の『心』どこにあるの?」
二人の距離は、どんどん縮んでいく。
「鍛錬の賜物? それとも…『心』を閉ざさなくてはならない『何か』を見たのかしら?」
真紅は怒りに任せて剣を振り上げ……
「貴女の心、『見せて』もらうわ」
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「おとうさん。しんく、のどがかわいたわ」
麗らかな春の日差しが降り注ぐ公園。不思議なことに人通りはない。
そこに立つ一本の木の下に、齢三十ほどの男性と十歳にも満たぬほどの少女が、シートを広げて佇んでいた。
二人はどうやら親子らしく、戯れあうその姿は、なんとも幸せそうに見える。
「はは、もうかい? さっき牛乳を飲んだじゃないか」
「うー。のどがかわいたったらかわいたー!」
手足をばたつかせ、駄々をこねる少女。こうなるとてこでも動かないことを父親は知っていた。
「…やれやれ。じゃあ、あっちの井戸で水を汲んでくるから、いい子で待ってるんだぞ?」
そう言って父親は立ち上がる、少女は満足げに少し離れた井戸へと向かう彼を眺めていたが、手持ち無沙汰
になったのか、シートに寝転がって、独り言を呟き始めた。
「えへへ、花さん。おとうさん、やさしいでしょー」
どうやら少女は近くに生えている花に向かって喋りかけている様子。子供らしい想像力だ。
「おかあさんはしんくをうんですぐにしんじゃった、っていうけど…しんく、おとうさんがいればしあわせなんだ」
頬杖をつきながら足をばたばたと動かし、少女は『花との会話』を楽しむ。まるで映画のようなワンシーン。
「んー。おとうさん、おそいなあ」
しかし、すぐにそれに飽きてしまったのか、少女は起き上がり、父親が向かった井戸の方へと顔を向けた。
そこで、少女が見たのは…
二人組の怪しい男が父親を襲う姿。その身なりは汚らしく、恐らく騎士崩れの野盗であることは容易に見て取れた。
父親は抵抗する素振りを見せるが、片方の男が振るう剣に腹を貫かれ、その場に倒れこむ。
「おとうさん!」
少女は叫ぶ。あまりの大きな声に、男たちが気づかないわけはない。
もう一人の男が少女に向かってボウガンを構え、矢を放った。
その矢は真っ直ぐに少女の方へ飛び、その肩を打ち抜いた。
少女はその場に倒れる。男たちは少女が死んだかどうかも確認せず、父親の懐を一通りあさってどこかへ消えてしまった。
「お、とう…さん……おとうさ…ん……」
少女にはまだ息があった。
たまたま通りかかった誰かが異常を察知して少女に駆け寄っていく。
だが、少女の意識は持たず…彼女は涙を流しながら、そのまぶたを閉じた。
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「あ、あ、あ………」
振り上げられた腕は力なく振り下ろされ、その手から剣が零れ落ちた。
「…貴女が、『おとうさん』を殺したのよぉ」
水銀燈は抜き身のナイフのように鋭い言葉で真紅に追い討ちをかける。
真紅は自分の心が醜い音をたてながら抉られていくのを感じていた。
「…違うわ…殺したのは…騎士崩れの野盗よ…」
「いいえ。貴女が『喉が渇いた』なんて言わなければ貴女もぉ、父親もぉ…一人になることはなかった。
それだけでも、野盗が貴女達を襲う可能性はずいぶんと低くなったと思うわぁ。
すぐに人が来てくれたことだしぃ? 獲物が見つからずに、あきらめて移動したでしょうねぇ。
やっぱり、あ・な・た・の・せいじゃなぁい。
あっははははは! おっかしぃ!」
「やめてぇぇぇぇぇっ!!」
真紅は怒りを隠さず、水銀燈に飛びかかる。しかし水銀燈は戯れるかのような動きで彼女をかわし、扉の近くへ
と駆けていった。
高ぶる感情を抑えながら、真紅は剣を拾い、その後を追う。
「巴、いいわよ」
その言葉を合図に、『水銀党』のもう一人の生き残り─柏葉巴が扉を開けて現れる。彼女がその手に握った綱に
縛られているのは、先ほど別れた情報捜査官・桜田ジュンだった。
「真紅!」
「ジュン!」
予想外の出来事に真紅は驚き、大声をあげた。そんなことはお構いなしに、ジュンは叫ぶ。
「僕には構わないでいい! 気にせずこいつらを捕らえるんだっ!」
その様子を満足げに眺めたあと、水銀燈は皮肉たっぷりに、甘ったるい口調で真紅の神経を逆撫でするように言った。
「『魔女』は貴女の罪を赦し、眠れる力を呼び覚ますわぁ。
でも、それは『魔女の与えた力』じゃない…
貴女自身が封印した『力』なのよぉ…」
ぴたり、と足を止め、笑いをこらえながら、彼女は言葉を続ける。
「これはねぇ、ゲームなの。
私が逃げてぇ、貴女が追いかける。
私は可愛い可愛い白兎、貴女は怖ぁい狩人さん。
でもねぇ…兎だってただ捕まりはしないの。
罠を張り巡らせて、狩人さんを待ち受けているわぁ。
待っているわよぉ、リスクブレイカー…いえ、真紅ぅ?」
言い終わると、二人はジュンを連れ、扉の向こうへと去っていく。扉の元へ急ぎ走り、次の部屋に飛び込んだ真紅の目
の前には、何も、誰もいなかった。『彼女たち』はまるで煙のように消えてしまっていたのだ。
「……こんなものが…『ゲーム』ですって… 水銀燈……っ!」
薄暗い明かりの中で彼女が感じていたのは『怒り』なのか─それとも、『悲しみ』なのか。
そんなことはお構いなしに闇の中を飛びまわるコウモリたちの鳴き声は、真紅をあざ笑うかのように続き…止む気配を
一向に見せることはなかった。