僕は逃げる。
 時速4キロメートル、歩幅75センチ。風は北北東の向きで吹いている。外の気温、5度ぐらい。我が侭な冬将軍が猛威をふるう、冬、冬、冬の最中に僕は一生懸命逃げている。
 疾風迅雷の如く、追いかけてくる恐ろしき薔薇乙女の一人から、逃げている。


 駆け抜ける深夜の町並みは暗く、物音一つ聞こえない静寂が支配していた。ぽつりぽつりと浮かぶ街灯の光が、足先まできっちりと凍えた身体にふんわりとした暖かさを沸き立たせる。風が吹けば消えてしまう、ほんの一瞬だけの小さな幸せのようなもの。
 午前1時。ざあっと吹いた寒風に思わず身を震わせ、鼻をすすりながら立ち止まって夜空を見上げてみた。
「また……ありえないな、本当に」
 僕は冬の夜空をじっと見つめ、その宇宙空間に起こっていることを冷静に考えた。そして、自問自答。
 今の季節は? 冬だ。
 織姫と彦星が見えるのは? 無論、夏に決まっている。冬は見えない。
 じゃあ、今見えている夏の大三角形は何なんだ!
 不思議なことに頭上にあるだだっ広い宇宙空間では夏の季節が訪れているらしい。なんと無茶苦茶なことをしやがるか、神様。
「いや神様じゃない……神様も一応は常識を持った人、じゃなく存在だろうし」
 神様以外なら誰がやる。
 それは世のことごとく自然法則、物理法則の範疇を超えたヒトである彼女――薔薇乙女以外にない――たちの仕業だろう。多分、それ以外に考えられない。
 まったく、何をやるか乙女ども。

「やばい、もう5分」
 冬に出た夏の大三角形に思考を奪われていたために、同じ場所に5分以上も留まってしまった。僕は腕時計に目をやりながら、また走行を再開した。
 この“世界”ではさっきのように、同じ場所に5分以上留まっていると、その位置が特定されやすくなり、捕獲されやすい度が格段に上がってしまうのだ。これも彼女たちに都合良く作られたこの“世界”のルールである。どれだけ厄介なんだよ。
 固く冷たいアスファルトを全力で蹴りながら、次の町へ逃げる為のドアを探すがどこにも見つけられないし、気配すらない。
 それどころか、真夜中の静かな町に次々と灯りが灯り始めてしまった。
 確実にやばい。腕時計の針は2時6分。デジタル表示には45秒が表示されている。
「たまに似合わないことすると、こんなことになるんだよな。“世界”にはまったよ……」
 はまるとは、僕の位置情報がほぼ正確に向こう側に知られたということ。
 もうここの町は彼女たちの支配下になってしまったようだ。
 気障になっちゃまずい、これがこの町で学んだことである。


 あと5分39秒。それまでにドアを見つけて次の町に飛ばなければ、僕は捕獲され、嫌々と泣き叫びながら雪華綺晶のお婿さんに仕立て上げられてしまう悲劇が待ち構えている。想像することさえおぞましい。
 つい7分前までは静寂と暗闇だった町は今や、煌煌と輝き光に溢れ、
街灯はフィラメントが切れそうな勢いで光を放っているし、電車は汽笛を鳴らし続けて騒々しくあちこちを走り回っている。
「近いのか、近いのか? なんなんだ、このコンパス!」
 僕の手のひらに乗せていた、ドア感知用コンパスはその針をぐるぐるとものすごいスピードで回っていて使い物にならない。さすが100均。
 捕獲される恐怖と緊張に心臓が逃げ出したいのか、鼓動を無駄に早く打つ。
 冷静になれ、桜田ジュン!
 ここで彼女らの手中に収まってしまっては今まで逃れて来た、生きてきた努力がすべて水の泡になってしまうのだぞ!
「100均だが、これだけ針がぐるぐるしているのはドアが近いせいだと思い込めよ、僕! さよならだけが人生だ」
 残された時間は2分53秒。とにかく走り続ける、さすれば道は開ける。
 2分32秒、2分17秒……

「ついにジュン様を捕まえられる時がやってきたのですね」
「きらきーの我が侭もやっと終わりなのね……」
「あの誇り高きローゼンメイデンが末妹の恋の為に働くなんて世の中も変わったものなのだわ」
「なんだかんだ言って、雪華綺晶を甘やかす水銀燈も真紅も優しいよ」
 末妹は可愛がられっこだそうです。


「浮き世はすべて儚し。恋は短し、走れよ青年」


 残すところ1分30秒。
 明るく変わり果ててしまった町のはずれまで来たけれど、ドアは無い。北北東の風はいつの間にか止んでいて、交代制のように真っ白な雪が降り始めていた。
「綺麗なホワイトクリスマスか。よりによってこんな日に捕まってしまうとは……無念」
 僕はドアを探すのを諦め、アスファルトにぺたりと座り込んだ。
 クリスマス、いろいろとやりたかったのに。心底冷えていく感覚に悔しさと悲しみが混ざって溢れた。もう1分10秒を切った。さようなら、みんな。僕はいいお婿さんになるよ、きっとね。
「これこれ、お兄さん」
 ふと上から声が降って来た。見上げば、どこぞの赤い紳士。機嫌が悪そうなトナカイを連れた全身赤ずくめの白いひげもじゃ紳士は柔らかに微笑みながら、こう言った。
「クリスマスに何を絶望しておる。青年になったからとはいえ、ひどく疲れた顔をして」
「捕獲されるんです、僕。夜が明ける頃になれば、僕は二度とクリスマスを迎える元気もない精神的大ダメージを受けるんです」
「……何やら理解し難い大変な事情をお持ちのようだ。どれ、そんな君にプレゼントをあげよう。聖クリスマスは始まったばかりだ、楽しみたまえよ」 

 渡されたのは一つの小さな錆びたカギ。赤ずくめの紳士は白髭に埋もれた口をにやりとさせて、
「それでドアを開けたまえ、桜田ジュンよ。君はまだ逃げねばならないのだ。今はまだ“世界”にはまってはならないのだ」
 そりに乗せてある巨大な白い袋にある小さなカギ穴を指差した。残り25秒。
 僕は迷わずカギを差し込んで、現れたドアノブをひねった。
 がちゃりと鈍い音の後、全身が吸い込まれていく奇妙な感覚に僕は意識を失った。
 最後に思ったことだが、今頃プレゼントを配っていたら間に合わねえんじゃねえですか、赤ずくめの紳士。
「彼は私たちの希望だ。どうかローゼン、いや雪華綺晶さんから逃げ切るのだよ……ストレンジャー、桜田ジュン」
 トナカイがくしゃみをし、赤ずくめの紳士が町を見下ろしたときには、いつもの静寂と暗闇が支配している町へと戻っていた。
 聖クリスマス、午前2時12分頃の出来事である。
「ああ、早く配りにいかなきゃ間に合わないぞ!」


「うーん、最後の最後で上手く逃げられたね」
「あともう少しでしたのに……」
「もうジュンなんて諦めて他の男にすればいいのよ」
「……お姉様方、次の町へ行きますわよ」
「きらきー怖いの……」
「クリスマスぐらい、ちったあ大人しく過ごせですぅ!」


 ESCAPE GIRL FANTASY ep.1 end  to be continued!?

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最終更新:2009年12月12日 19:31