昭和20年7月。
沖縄防衛に当たっていた第32軍の敗北は確実となっていた。
梅雨明けを迎えた日本本土は、米軍の情け容赦ない空襲を受け、主要都市のみならず、残った地方都市すらも
虱潰しに焼かれていった。
本土の陸海軍防空部隊は、老朽化した機体、劣悪な部品、不十分な整備でB-29に挑んだが、米軍の無差別
爆撃を阻む事は出来なかった。ただ、特に首都圏防衛の陸軍航空部隊が、体当たり攻撃を敢行して少なくない
数のB-29を道連れにした。
7月1日、熊本大空襲。
7月4日、高松空襲。
7月26日、松山大空襲。
蒼星石らの鵜来基地からそれほど離れていない九州・四国本島にも、B-29は夜間に大挙襲来した。
出撃命令を出す事を渋る桜田少佐を説得し、梅岡少尉以下443航空隊は、夜間戦闘機ではない紫電改を駆り、
夜空を焦がす紅蓮の炎を頼りに、高度を上げて帰還しようとしているB-29の攻撃を行った。
蒼星石は大型機を撃墜した経験はなかったし、梅岡と笹塚も、南方でB-25などの小型爆撃機を撃墜したことは
あったものの、“超空の要塞”B-29の撃墜経験がなかったのはおろか、この時初めて空の上でB-29と対面した
ほどだった。
果たして桜田の懸念どおり、夜戦の経験がない443隊は、出撃しても戦果を挙げることは出来なかった。
ただ、松山大空襲の折には、爆撃を終えたばかりの一機のB-29に対し、443隊は3機がかりで喰らいつき、
4発ある敵のエンジンの一つに煙を吹かせることに成功した…が、撃墜にはいたらず、その敵は夜闇に逃げた。
蒼星石らは、大型機への照準の目算はその大きさのためにひどく狂いやすい事、B-29の機体には頑丈な防弾
装備がなされていること、そしてその巨体には強力な対空機銃が死角無く張り巡らされている事…を実感した。
戦訓として通達されていた事を実際に目の当たりにした蒼星石らだったが…それが今後の役に立つかどうかは
心もとなかった。

 

 

空母「キティホーク」
この頃になると、水銀燈らグラマン戦闘機隊の本土侵入と軍事施設の銃撃任務は格段に減っていた。
言うまでも無く、それらのほとんどがB-29爆撃隊に破壊されてしまっていたからである。
B-29の護衛には、グラマンF6Fよりも性能が良い最新鋭のP-51戦闘機がついていた。
よって、水銀燈はまたしばらく自分の愛機から足を遠ざけていたのだが…
7月も末のある日、自室で雑誌を読んでいた彼女のもとに、また作戦参謀がやって来て言った。
『明日、我がグラマン隊は九州・四国の敵飛行場の残存兵力を爆撃・掃射、これを壊滅する。
 我が爆撃機が敵の迎撃機から受ける攻撃で、即時に堕とされはしないものの基地に帰り着く前に力尽きる
 味方が続出しているからな。もちろんお前にも来て貰う。なお、出撃時と帰投時には、お前の機と
 一緒に写真を撮ってもらえ。また新聞記事に載ってもらうぞ、“堕天使”の人気もまた上がるな』
言うだけ言って、参謀は帰っていった。
水銀燈は、『…戦意高揚に使いたいだけでしょ』とつぶやいたが、どうにもなる事ではなかった。
前に彼女は「ライフ」誌にその紹介記事と写真を掲載されたことがあったが、同じ紙上にあった
日本兵の頭蓋骨の写真を見たとき、彼女はひどいショックを受けた。
…軍事施設オンリーの銃撃なら後ろめたい事は無いわね。
水銀燈は心を切り替え、明日はもやもやしたものを少しでも吹き飛ばそうと決めた。

 

 

7月31日朝、鵜来基地。
軍の朝は早い。6時に起床したのち、滑走路に集合後点呼・宮城(皇居)遥拝を行う。
443航空隊以外に住民のいない鵜来基地においては、日替わり当番の何人かが島の小さな船着場に
向かい、この時間帯にやってくる四国本土からの漁船を待つ。この漁船は、2~3日おきに鵜来島に
赴き、食料や飲料水、そして運べるだけの航空燃料や機銃弾・整備資材を運んでくる。
その日の当番の蒼星石と整備兵2名がリアカーを引いて桟橋に足を運ぶと、小さな漁船が
焼玉エンジンの独特な音を立てて船着場に接岸しているところだった。
すでに顔なじみとなった漁師の柴崎老人が女性三人を見て笑顔を見せる。
シワだらけだが健康的に日焼けした顔からのぞく前歯が輝いていた。
柴「おお、おはよう。今日はサバのでかいのを持ってきたよ」
蒼「いつも済みません。助かります」
手分けして荷物をリアカーに載せかえる4人。
柴「…それにしても、最近は軍事関係の荷物がとんと少ないのう。ワシも運んでて心配だわい」
雪「あらお爺様、そんな事を四国本島の憲兵に聞かれたら何をされるか分かりませんわよ」
柴「分かっておる、分かっておるが…最近はおちおち漁も安心して出来ん状況じゃからの。
  遠洋漁船は徴用されて哨戒艇に転用されとるしの…これからどうなるんじゃろか」
皆黙り込んだ。
とりあえず生鮮食料品を載せ終わり、一同がリアカーを引いて桟橋を離れて少したった時。
薔「…何か聞こえない?」
雪「どうかしましたの?」
柴「ワシャ耳が遠くなってのぉ」
薔薇水晶の言葉に何となく不安を感じた蒼星石は、思わず海のほうを振り返って目を凝らした。
“不安の元”敵機がやってくるとすれば、間違いなくこの方角だからだ。
…警報は出ていないはずなのに?とも思っていた彼女だった。
が、“それ”は水平線の彼方から小さくやって来た。
日本の対空レーダーにかからない超低空をただ一機で、猛スピードでやって来る戦闘機。
もはやこの時点で、誰の耳にもそのエンジン音は疑いなく入って来ていた。
そして悪いことに、その戦闘機はこちらへと向かってきていた。
柴「…逃げるんじゃ!」
柴崎老人がそう叫ぶまでもなく、4人はリアカーから離れ、滑走路へと走り出していた。
…今から離陸して間に合うか?
蒼星石はそれを気にしていたが…爆音は彼女らの背後に大きく迫っていた。
雪「伏せてっ!!」
エンジン音に掻き消されまいと雪華綺晶が叫び、一同は滑走路の端に頭を抱えて倒れ込んだ。
刹那、あの嫌な機銃掃射の連続音が響き、ついで背後で爆発音が起きた。
振り返ると、桟橋の漁船の航空燃料や弾薬類が撃ち抜かれ、真っ黒な煙を上げて燃え盛っていた。
機銃掃射を終えたグラマンが、四人のすぐ傍、手の届きそうなところを駆け抜けていく。
蒼星石は見てしまった。
あの戦闘機は…真っ黒な『堕天使』だった。

 

 

ドラム缶らしきものを載せた小型船を銃撃した水銀燈は、そのまま一気に小島の反対側へと抜けた。
…どうも、マツヤマにいるという日本の強力な防空部隊の他に、小規模だが手練の部隊がシコクの
南西部の小島にいるらしい、といった噂があったが、果たしてここには手付かずの日本軍の小さな
飛行場があった。
今日の作戦に他のパイロットと参加したくなかった彼女は、早朝からたった一人でここにやって来た
わけである。
…一人でいるほうが、味方の酷い振る舞いを見なくて済む。何より、敵に早期に発見される可能性が低い。
飛行場では、敵兵が慌てふためいて走り回っているのが見えていた。

 

 

銃撃が一旦止んだのを見計らった四人は、再び立ち上がって走り出した。
蒼星石は、自分の愛機が納まっている掩体壕を目指した。
すでに、梅岡少尉がその横の壕の中で自機のエンジンをかけ、滑走路に向かおうと進み出していた。
…が、横から走ってきた桜田少佐が、紫電改の前に立ちはだかり、頭上に手で×を作った。
「発進止め」の合図だった。
梅岡は一瞬躊躇した。
確かに、滑走している途中に敵に地上で撃たれたら万事休すだ。
離陸・着陸時に敵の機銃掃射を受けて撃破される例は史上あまりにも多かった。
しかし、もし離陸に成功すれば、あのグラマンと一戦できる。
…しかも相手はラエの戦友達の仇、“堕天使”だ。
梅岡がスロットルに力を込めようとした時、翼の上に桜田が上がってきた。
ジ「何をしてるんだ梅岡!もう間に合わん!機を降りて退避しろ!」
梅「しかし…!!!」
両者は機上でしばし睨み合った。
白「グラマンが反転してきます!」
その声で、梅岡はやっと諦めたかのようにベルトを外した。
桜田とともに、掩体壕から完全に姿を現しエンジンがかかったままの紫電改から降り、出来るだけそこから遠ざかろうと
駆け出した梅岡は…反転してきたグラマンの主翼から小型の爆弾が一つ投下され、さきほどまで
乗っていた愛機に吸い込まれていくのを、足を止めて呆然と見ていた。

 

 

蒼「…やられた!!」
地上で紫電改が一機撃破され、黒煙を吹き上げて燃え盛る。基地は混乱に陥った。
梅岡に続いて発進しようとしていた笹塚は、これを見て壕内でエンジンを停止させ、泣く泣く機を降りた。
迎撃が不可能になった瞬間だった。
基地の全員が、滑走路の裏にある林へ向かって走り出した。
この林の中にある小さな神社の裏には防空壕があったからだ。
ほどなく、足元が悪いなか防空壕へたどりいて全員が合流した。むろん老いた漁師もついて来ていた。
桜田が点呼を取り、欠けた者がいないことを確認した。
飛行場へ目を向けると、戻ってきたグラマンが、残った爆弾を飛行場脇の格納庫に投下し、これを
瞬時に吹き飛ばしていた。
全員が、とりわけ搭乗員は、この様子を唇を噛んで見つめていた。
空に上がる前に、地上でみすみすやられる事が、飛行機乗りである彼らにはやり切れなかった。
基地の2ヶ所ですでに煙が上がっていたが、堕天使は攻撃の手を緩めるつもりはないようだった。
旋回したグラマンは、今度は戦闘指揮所を機銃掃射で破壊し始めた。
木造の指揮所は、13ミリ機銃6丁分の弾丸の雨を受け、物凄い砂煙の中で崩れ落ちていった。
同じく木造の兵舎も、そのすぐ後に同じ運命を辿った。
反転したグラマンが次に狙ったのは無線アンテナだった。すでに廃墟となった戦闘指揮所の
裏にある半地下の無線室のそばから立っている傘の骨組みのような大きなアンテナは、またも機銃で
狙い撃ちされ、まるで根元に斧を入れられたモミの木のように、ゆっくりと地上へ倒れ込んだ。
これを苦々しそうな表情で見ていた槐少尉が、たまりかねて桜田に言った。
槐「自分は応戦します!」
桜田が止めるのも聞かず、槐は半地下の無線室へと駆け出していった。白崎が後に続いた。

 

 

水銀燈はアンテナを破壊した後、まだ二機残っている敵戦闘機を、地上ギリギリの高さで銃撃すれば
何とか掩体壕の入り口から破壊しうることに気づいた。対爆用の壕は開口部からの銃撃には無意味だった。
一度海上に出て旋回し、機首を向けなおす。
掩体壕の入り口がおあつらえ向きにこちらを向いていたのが有難かった。
彼女は知らず知らず口元に微笑を浮かべていた。

 

 

グラマンが海上に出た隙に、白崎と槐は半地下の無線室に飛び込み…無線機類の下に保管していた
弾薬箱を引っ張り出した。彼らが鵜来基地に赴任が決定した時に、上層部が渡したものだった。
中には、99式小銃とその弾薬・拳銃・手榴弾などが詰め込まれていた。
二人が手馴れた様子で手早く99式に曳光弾を装填していると…今度は搭乗員の三人が無線室に
走り込んできた。
梅「我々も応戦する!銃を貸してくれ」
笹岡も蒼星石も同じことをその表情で語っていた。
顔を見合わせた白崎と槐。
白「撃てるのか?」
笹「自分らは航空隊で教練を受けています!」
蒼「自分もです!」
搭乗員も搭乗員なりに地上であろうとも戦いたいのであろうことを察した白崎と槐は、無言で
99式を差し出した。
…と、今度は桜田少佐がやってきて、息を切らしつつ言った。
ジ「君達だけにやらせておけるか、僕も応戦する。銃を貸せ」
海軍兵学校出の桜田に、槐はまた無言で99式を手渡した。
あろうことか、今度は柴崎老人が物凄い勢いで駆け込んできた。
柴「ワシも…ハァ…やるぞっ」
これには皆が驚いた。
白「爺さん!あんた正気か!?」
蒼「お爺さん…」
ジ「柴崎さん!薔薇水晶と雪華綺晶と一緒に防空壕にいるように言ったじゃないですか」
瞬時に息を整えた柴崎は、目をカッ!と見開いて大音声で叫んだ!
柴「ワシはお前らの生まれる前から日露の戦いで死線をくぐって来とるんじゃぞ!銃ぐらい撃てる!
  ワシにも貸せい!」
気圧された全員は、もはやこの老人に逆らうことは出来なかった。

 

 

半地下の入り口から頭を出すと、グラマンが再び向かってくるのが見えた。
残った紫電改を銃撃で破壊しようとしているのは明らかだった。
白「いいか!狙うのは敵機のエンジンだ!風防は当たりにくいから撃つなよ!撃ち方始め!」
7丁の99式歩兵銃が乾いた音を上げ、次々と曳光弾を撃ち出した。

 

 

トリガーに手をかけようとした水銀燈は、目の前を何かが通り過ぎていったのに気づいた。
見ると、前方の飛行場の建物の残骸あたりから、少なくない数の兵士が上半身だけ出して、
ライフルを構えて曳光弾を撃ってきている!!
一発が、機体をカァン、と甲高く弾いていった。
何よ、もぉ!!
たまりかねて水銀燈は機体を翻した。

 

 

蒼星石が銃を撃つのは久しぶりだった。
霞ヶ浦で飛行練習生だったときに訓練で撃ったのは38式歩兵銃だったが、今撃っている99式歩兵銃に
比べれば口径も反動も小さく、射撃音も違った。
何より違ったのは、99式には旧式の38式にはない対空照準尺がついていたことだった。
歩兵銃に必要なものなのかな、と思っていたが、今ほどそれが有難いものだと実感したことはなかった。
空に向けて撃っているために照準の修正は出来ないに等しいが、どの銃も新品だろうから、銃ごとの
癖の修正は必要ないだろう。
白崎少尉と槐少尉、二人の陸軍出がこんな物を持っていたとは思いも寄らなかった。
本土決戦のために用意されていたものか、それとも蒼星石という存在がこの部隊にあったからか…
皆の撃つ曳光弾の弾筋は、恐ろしいほどにグラマンへ正確に向かっていた。
柴崎老人ですら、落ち着き払って射撃していた。
そのうち、グラマンが射撃を断念して翼を翻した。
蒼星石は、ここでほっと息をついてしまった。
…が、堕天使はまたも機首を向けなおし…今度は、何とこの即席の対空射撃チームに向けてまっしぐらに
向かってきた。
誰かが、頭を下げろ!と叫んだ直後、グラマンの両翼が火を噴いたのを蒼星石は見た。
桜田に肩を引っ張られて無線室の中に転げ落ちた蒼星石。誰も撃たれてはいなかった。
弾筋は正確に無線室の天井上の地面を穿ち、入り口からは砂埃がどっと入ってきた。
頭上を通過し、遠ざかるグラマン。
白「…皆、ここから出るんだ。バラバラに散開して各自で射撃、敵を混乱させるぞ!」
白崎が弾を皆に配りながら言った。
…グラマンが戻ってきつつあった。
中にいた全員は外に飛び出し、蜘蛛の子を散らすように散開した。
蒼星石は自分の愛機がいる掩体壕へ走った。何となく、そこに行きたかったのだ。
グラマンが戻ってきた…が、地上の兵士が散らばって身を隠したのに困惑したようだ。
飛行場のあちこちから再び銃声が響き、曳光弾が火の玉を投げるように堕天使に襲い掛かった。
今度は堕天使は銃撃をせずに通り過ぎた。
蒼星石は自分の紫電改の主脚にもたれかかり…息をついた。
…ここで撃たれるかも知れないな。
正直なところ、堕天使とは、もう空中であれ地上であれ戦いたくはなかった。
敵とは言え、彼のあの寂しげな面影に弾を撃ち込むことは、何となく気が引けて仕方なかった。
…米軍は姉さんを殺したというのに。
最近、蒼星石は翠星石のことをまったく考えない日が増えていることに気づいていた。
それどころか…何もしていない時、ふと堕天使のあの面影を描いていることにも。
蒼星石はそんな自分を責めた。姉さんのことを忘れるなんて…
それほど堕天使の、彼の存在が自分の中で大きくなっていたなんて。
グラマンが反転し、まっすぐこちらに向かってくるのが見えた。
蒼星石は腰を下ろしたまま、立て膝の体勢で銃を構えた。
…姉さんのことを忘れないために、君を撃たなくちゃいけない。
蒼星石は、その対空照準尺の向こうに、グラマンのエンジンではなく、風防の向こうの人影を入れた。
いつもなら戦いの前には高揚感で満たされるのに、今は彼女の心を誤魔化してくれるものは何もなかった。
もう、何が何だか分からなかった。
僕は人の死を糧にしないと自分の生を全うできないのか。自分の心を安定させられないのか…
気づけば、彼女の目には涙が浮かんでいた。
歪む視界の中、ようよう彼女はグラマンが射程に入ったと分かった。
…彼女の射線に、突然人影が割り込んだ。
銃を肩から外して顔を上げると、柴崎元治が背中を向けて立ち、グラマンに向け半身で銃を構えていた。
蒼「おじいさん!危ない、ここから離れて…」
柴「お嬢さんや…蒼星石や。お前さんはもう撃たなくていいんじゃ」
振り返らず言って、老人は銃のボルトを引いた。
薬莢が排出され、甲高い金属音が掩体壕のコンクリートの床に響いた。
グラマンが迫ってきた。

 

 

あちらこちらから散発的に撃ってくる敵兵の排除を諦めた水銀燈は、目標を再び残ったジョージに移した。
一機のジョージを照準機におさめた時…その翼の下に、あのパイロットが…
見覚えのある彼が、銃を構えているのを見た。
彼女は動揺した。
味方の激しい空爆で、あのパイロットはどこかでもう死んでいるのではないかと思っていた。
こんな小さな基地にいたなんて…
と、彼の前に、誰かが立ちはだかったのが見えた。

 

 

柴「ワシの名は柴崎元治!ようく覚えておけい!ワシは貴様のせいで漁船を失ってしもうた!
  もはやワシの生は尽きたも同然じゃ!だが貴様も道連れにしてやる!貴様も軍人なら覚悟せい!」
老人が苦しげに叫ぶのを、蒼星石は呆然と聞いていた。
蒼「…お爺さん!逃げて!」
柴崎は振り返らなかった。
柴「勝負じゃ!!」
柴崎は目を細め、一発撃った。
日露戦争で使っていた旧式の歩兵銃に比べれば、彼にとって99式は扱いやすくて仕方が無かった。

 

 

水銀燈はこの一撃を全く予期できなかった。
突如、目の前の風防ガラスに蜘蛛の巣状のヒビが広がった。その中央には、毒蜘蛛よろしく一発の
銃弾がめり込んでいた。
…やってくれたわね!
視界が悪くなったが、彼女の紅蓮の瞳は照準機から離れなかった。

 

 

蒼「お爺さん…!」
蒼星石は、ゆっくりと銃を下ろす柴崎老人のそばに走り寄り、彼の手を引いた。
蒼「逃げましょう!」
柴崎老人は動かなかった。
柴「…老いたものじゃがよう戦えたわい。ロシヤ軍と戦ったときのことを思い出したぞい。
  これで思い残す事はないわい」
向かってくるグラマンを見据えたまま訥々と語る柴崎。
蒼「お爺さん…!」
柴「じゃがお嬢さん…蒼星石は生きるんじゃ!たとえこの戦争の記憶が後にお前さんを苦しめる事になろう
  とも、お前さんは生きねばならん!」
蒼星石の細い肩を掴んで叫ぶ柴崎。
蒼「逃げましょうよ!お爺さん!」
柴「お前さんこそ早う逃げい!!」
柴崎の表情は厳しいが凛としていた。
グラマンが射撃を始めた。
機銃弾がミシン目のように滑走路を穿ち、蒼星石らの足元に向かった。
蒼星石は…次の瞬間、老人の手を大きく振り払った。
柴崎老人は突然の事に倒れてしまった。蒼星石はしまったと思いながらも、倒れた老人の前に立ち、
銃のボルトを引いて次弾を装填した。
そして…銃床を肩にしっかりと押し付け、引き金に指をかけた。
…僕は、守るんだ!
…これまでも!
…そして、これからも!それだけなんだ!!!
…僕の戦いは間違ってなどいなかったんだ!!
『大丈夫、君は壊れない』
今は亡き佐々木の優しい言葉が、蒼星石に蘇った。
もはや対空照準尺は必要なかった。
目の前に迫る操縦席に、蒼星石は引き金を引いた。

 

 

銃撃を止めない水銀燈の目の前の空間が、突如弾けた。
大口径の小銃弾は、相対速度も手伝い、一発目でヒビの入っていたグラマンの正面風防ガラスを粉々に吹き飛ばし、
コックピットに侵入した。銃弾は少し角度を変えてグラマンの内壁に当たり、跳弾となって機内を跳ね返り…
堕天使のまとう衣…飛行ジャケットを破り、そのお腹へと飛び込んだ。
「ぐうっ…!!!」
一瞬大きく目を見開いた水銀燈は、すぐに苦しげに顔を歪め、前に倒れこんだ。
天使の手が、トリガーと操縦桿から離れた。
漆黒のグラマンF6Fヘルキャット戦闘機は、操縦を失って重力に引き込まれた。

 

 

当たったかどうか確認している暇は無かった。
蒼「お爺さん…!逃げますよ!」
蒼星石は、倒れたままの柴崎を強引に起こし上げ、引きずるようにして掩体壕から離れた。
少し離れたところで、蒼星石は爆音とは違う異様な音を聞いた。
…操縦を失ったグラマンが滑走路に浅い角度で突っ込み、低空飛行の姿勢のままで砂煙を上げて
滑走路を疾走し…摩擦で速度を完全に失う前に掩体壕の中に吸い込まれた。
瞬間、鈍い衝突音と、炎が上がる音が二人の耳に届いた。
蒼星石が逃げるのも忘れ、回り込んで壕の中を見ると…グラマンは紫電改と一緒になって炎を上げていた。
…僕が撃った弾が当たっていたんだ!
そう思った蒼星石は、火に包まれつつあるグラマンの操縦席を見つめていた。
…彼はとうに死んでいるだろう、と彼女は思った。
罪悪感が湧き上がってきた反面、ほっとした蒼星石だった。
グラマンの機体の表面の金属板が炎で熱され、数多くの逆十字とともに溶けていった。
沢山の足音が、後ろからやって来た。
白「よくやった、よくやったぞ蒼星石!」
ジ「無事か!?怪我は無いか!?」
槐「小銃で堕としたか…。何だか呆気ないな…」
笹「紫電改も一機巻き込まれましたね…」
皆が遠巻きに炎上する掩体壕を眺めていた。
梅「…“堕天使”は生きているのか?」
ぼそりと発せられた言葉に、蒼星石始め一同がはっとした。
見ると、グラマンの操縦席は今まさに炎に包まれていた。
…生きてないだろうな、と蒼星石が改めて思ったその時。

 

 

グラマンの風防が開いた。

 

 

そして、火に包まれた飛行服姿の“堕天使”が。

 

 

左手で腹を押さえ、右手で火を振り払うようにして。

 

 

悲痛な叫び声を上げながら、地面へ転がり落ちた。

 


そして仰向けに倒れこみ、左手を地に突っ張り、助けを求めるかのように右手を必死に持ち上げ…

 

 

崩れ落ちた。

 

 

蒼星石は99式をその場へ放り落した。
…そして、誰かが危ないと叫ぶのも聞かず、“堕天使”のもとへ駆け寄り、掩体壕の地面に
敷いてあった工業用の防水シートをつかみ、彼の身を焦がす炎に打ち付けた。
白「…まずい!急がないと弾薬とガソリンが一気に燃え上がるぞ!」
白崎と槐がその後に続いた。
桜田もこれに続こうとしたが、梅岡が無表情で99式に弾を入れなおそうとしているのに気づいた。
ジ「…何をしている!?」
梅「あれでは敵も負傷しているでしょう。楽にしてやります」
ジ「…馬鹿を言うな!本気か!?」
むろん梅岡の本心は違った。ラエの戦友の敵討ち…それだけだった。
…だが、彼はその死線を共にくぐった笹塚飛曹長に諭された。
笹「…少尉。ああなった以上、堕天使と言えどもただの捕虜です。捕虜は…保護されるべきです」
いつの間にか横にいた柴崎老人も言った。
柴「日露の戦いのとき、乃木希典将軍は捕虜のロシヤ兵を手厚く保護するように命令を出しておったものじゃ。
  あの頃の日本軍は世界中から賞賛されておった…
  トルコ海軍が座礁した時も、義和団事件の時もな。
  あんたらもそれを忘れんで欲しい」
梅「…」
ジ「そうだ。批准はしていないものの、我が皇軍もハーグ陸戦規定に従わねばならない。
  …ここは抑えてくれ」
梅岡は黙って銃を下ろした。
蒼星石と白崎、槐は、三人で堕天使を掩体壕から離れたところに運び出して火を消した。
堕天使はすでに意識を失っていたが、脈と呼吸はあった。
三人は堕天使のボロボロに焦げた飛行服を脱がしにかかった。
蒼星石が彼の飛行帽を外すと、あの銀色の長髪が現れた。
米軍は髪型に寛容なんだな、と思いつつ、蒼星石は堕天使のボロボロの上着を破るようにして
一気に剥がした。

 

 

その場にいた一同は、己の見たものがしばし信じられなかった。

 

 

服の下から現れたのは、真っ白な肌に、豊かな胸。腹には浅い傷が出来、血が流れていた。

 

 

蒼星石は、いや皆は悟った。

 

 

堕天使は女だったのだ。

 

 

蒼星石は、長い銀髪に隠れた“彼女”の煤けた顔を手ぬぐいで拭いてやった。

 

 

可憐な女性が、気を失って目を閉じていた。

 

 

いつの間にか防空壕から出てきていた薔薇水晶と雪華綺晶が、これを見てあまりの驚きに口を抑えていた。
…やがて、気を取り直した桜田少佐が口を開いた。
ジ「…蒼星石、そして薔薇水晶と雪華綺晶は…“彼女”の手当てをしてくれ。他の皆は…とりあえず
  片付けに入ろう…」
二人の通信士は無線の復旧と被害状況の報告、それ以外の者は柴崎老人も手伝って廃墟の片付けにあたった。

日陰に堕天使を寝かせた蒼星石は、腕の時計を見て驚いた。
漁船を迎えに言った時間から、まだ30分と経っていなかった。
この日の大半は、この30分で終わってしまったような気がしてならない蒼星石だった。
蒼星石の紫電改と堕天使のグラマンは、弾薬の弾ける音と共に、日没まで燃えていた。

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最終更新:2009年12月05日 09:00