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グラマンと高速ですれ違った蒼星石は、ほんの一瞬の間に見えなくなった敵の搭乗員の顔が、
自分の心に焼きついた事に気づいた。
恐ろしいまでに高ぶらせていた敵愾心も、どこかへ行ってしまっていた。
長く伸ばした銀髪。真っ赤な瞳。
同じ白人である蒼星石は、不覚にもあの敵を美しいと思ってしまっていた。
一体あの奇異なグラマンを操っているのはどんな男なのだろうか…
そんな考えを頭から振り払い、後ろに去ったグラマンの後ろを獲ろうと旋回を始めたところで、
自分に近づいてくる二機の友軍機を彼女は見た。

梅「あれは…」
慣れぬ機体にもかかわらずものの一撃で敵の指揮官機を海に叩き堕とし、蒼星石のもとへ
駆けつけた梅岡少尉は、今まさに蒼星石と対航で撃ち合ったグラマンを見て、顔色を変えた。
笹「少尉、あのグラマンは…」
梅岡の横を飛ぶ笹塚から、無線電話を通して不安げな声が届く。
梅「ああ…間違いない。あれは堕天使だ」
笹「懐かしい名前ですね…」
堕天使。
少し前まで南方のラエ基地で戦っていた梅岡と笹塚ら海軍搭乗員は、目の前の真っ黒な
グラマンをそう呼んでいた。
呼んでいただけではない、恐れていた。
劣勢になりつつあったが奮戦するラエ基地の戦闘機隊を毎日のように攻撃にやってきた堕天使。
梅岡ら熟練搭乗員は、雲霞の如く殺到する敵を数え切れぬほど叩き落してきたが、
あの堕天使だけは堕とせなかった。
そんな梅岡らをあざ笑うように、堕天使はその抜群の操縦技量で、貴重な零戦隊の
数を無情に、そして確実に減らしていった。
50機ほどいた零戦隊が15機に減り、搭乗員達が疲れ果てていた時…梅岡と笹塚は内地の
鵜来基地への転属を命じられ、ラエを去らざるを得なくなった。
ラエの零戦隊が全滅したのは、そのすぐ後だった。

旋回に入った水銀燈は、敵ジョージの応援二機が加勢にやってきた事に気づいた。
…もう潮時ね。
水銀燈は、翼を翻して全速力で海に出た。

蒼「梅岡少尉…それに笹塚飛曹長…」
蒼星石の横にぴたりと寄り添ってくる二機の紫電改。慌てて蒼星石は切っておいた無線のスイッチを入れる。
梅「…二飛曹。これより帰投するぞ」
蒼「しかし、まだあのグラマンが…」
梅「逃げる奴は逃がしておけばいい。命令だ」
梅岡少尉が怒っているのが、無線を通して分かる。
恐らく笹塚飛曹長も同じだろう。
蒼星石は観念して帰途についた。どっと疲れが押し寄せた。

太平洋上 米空母「キティホーク」
飛行甲板に降りたグラマンは一機。
甲板上にいた米海軍提督のフィッチャー司令はこれに驚いた。たった一機だけ?
着艦フックに止められた真っ黒なグラマンから、航空帽を外し、頭を振って豊かな銀髪を
広げた堕天使が降り、報告のために司令の元に向かった。
司令は、明らかに空母一の名パイロットが塞いでいることに気づいた。
フ「中尉。今日は逆十字は増えないのかね?」
水「はい…」
フ「…小隊長以下二機はどうした?ジャップにやられたのか?」
水「はい。本日1330時に我々がシコク上空に侵入してすぐ…ジョージに襲われました」
フ「ジョージだと!?奴らの新型機か…」
うつむいていた堕天使が突然悲壮な顔を上げた。
水「…司令、小隊長以下同僚の二機は、日本の一般貨客列車を銃撃したんです!」
フ「…まぁご苦労だった。シャワーでも浴びて休め」
水「司令!!彼らは…」
フ「…彼らが君が言った事をしたというのなら、日本から中立国を通じて抗議が来るだろう。事はそれからだ」
水「司令…!!」 

フ「行け」
水「…はい」
とぼとぼと歩いていく堕天使の背中を見つつ、フィッチャーはつぶやいた。
「…今のジャップには抗議などしている余裕などあるまい」
そんなもの、来てたまるか。
少し前、陸軍の兵士が、殺したジャップの頭蓋骨を本国の少女に記念として贈った。
その少女が、頭蓋骨を机に載せ、眺めつつお礼の手紙を書いている写真が米「ライフ」誌に掲載されたのだが、
これにバチカン市国の坊主共が抗議してきたことがあった。
フィッチャーにとっては苦々しい出来事だった。頭蓋骨が我々より劣ったサルをどう扱おうと勝手ではないか。
奇襲をしないとまともに勝てないサル共に国際法という“人間”のための道具を適用させてやる必要がどこにあるのか。
世界は力で動いている。ワインとパンばかり口に入れている奴らに何が分かる。

水銀燈は、艦内の礼拝堂に逃げるように入った。
人はいなかった。
磔刑にあったイエス像の前に跪き、胸にかけていたロザリオを握り締めて祈った。
主よ、お赦し下さい…
溢れる涙が、床を濡らした。

薄暮の鵜来基地。
着陸し、指揮所の前に降り立った蒼星石を、桜田司令はじめ梅岡・笹塚搭乗員が取り囲んでいた。
通信士二人と整備兵二人が、暗がりからこれを遠巻きに見守っている。
梅「馬鹿野郎!」
平手が蒼星石の頬に飛ぶ。乾いた音が響く。
蒼「…」
梅「司令の命令を無視し、単機で勝手な行動をとるとは何事か!!」
笹「軍法会議に掛けられても良いというのか?」
頬を押さえて黙り込む蒼星石。
黙っていた桜田が口を開いた。
ジ「…なぜ、命令を無視した?」
蒼「…申し訳ありません」

梅「司令は理由を聞いておられるんだ!」
梅岡を手で制した桜田は続けた。
ジ「…なぜだ?」
蒼「そうしなければ、あの人々を助けられませんでした」
蒼星石は少し口調を強めた。
ジ「あの人々?」
笹「グラマンが銃撃していた列車の乗客のことであります」
ジ「…」
梅「しかし…試験飛行を勝手に中断し」
蒼「自分が向かわなかったらグラマンによる被害は目も当てられぬものになっていたはずです!
  例え命令を無視したとあっても、それで僕は、鬼畜米国の戦闘機を撃墜し、帝國臣民たる
  非戦闘員を多少とは言え守ったんですよ!?それがまずかったと言うんですか!?
  列車の人々は全員殺されていれば良かったとでも言うんですか!!?」
蒼星石は激高した。誰もそんな彼女を見たことが無かった。
笹「それは…他の部隊に任せておけば…」
蒼「他の部隊!?結局他の部隊があの銃撃に間に合いましたか?松山の343航空隊が何とかしてくれただろうとでも!?」
梅「きっ…貴様あ!」
蒼「司令も、少尉も飛曹長も、結局は僕の出自を気にしているんでしょう!?
  軍が正直厄介者に思っている、ナチの高官の娘のこの僕を、とり合えず無事にしておけば
  良いと…それだけなんでしょう!?僕の思いも知らずにっ…」
ジ「蒼星石」
パシン
蒼「っ…!」
頬を張られた痛みが、再びじわじわと染み込んでくる。桜田司令の目は、暗がりでも分かるほどに蒼星石を
真っ直ぐ見据えていた。
ジ「…確かに君は僕の命令を無視した。これに関しては…罰としてしばらく整備の手伝いを命じる」
蒼「…はい」 

ジ「しかし…君のことだ、功に焦った訳ではないだろう。梅岡少尉も笹塚飛曹長も、君が気がかり
  だったのだ。無論、僕も、他の皆も…。確かに君がローゼンベルク大使の娘だからというのも
  あるが…そこは理解して欲しい。君だけでなく、若い搭乗員の命を軽々と窮地に投げ込むわけ
  にはいかないのだ。今の日本はね」
蒼「…」
ジ「それとな…君が幾ばくかとは言え、非戦闘員を守ってくれた事には感謝する。」
桜田がわずかに表情を崩した。
蒼「…」
ジ「国鉄からも、現地の村役場からも感謝の電話が届いた、と方面軍から連絡があった。方面軍からも感状が来るかも知れんな」
蒼「そうですか…」
ジ「試験飛行が結局実戦になってしまったな。紫電改に修正を加えなければならないだろうから、
  しっかり整備を手伝ってやれ。終わり」
蒼「は!」
桜田は指揮所へと戻った。その場に残った梅岡と笹岡が決まり悪そうに蒼星石に向き直る。  
梅「…殴って悪かった」
蒼「いえ…」
笹「貴様、あの黒いグラマンを見るのは無論初めてだな?」
蒼「はい」
梅「なら教えておいてやろう。あれは『堕天使』という凄腕のパイロットだ」
蒼「…彼は銃撃には加わっていませんでした。なぜでしょう…」
梅「上空で我々を哨戒していたのではないか」
蒼「それは無いと思います。自分が銃撃を行っている3機に仕掛けたその瞬間まで、彼らは自分の接近に気づきませんでした」
笹「…堕天使は味方に警告しなかったと言う事か」
蒼「少尉、もしかしたら彼は自分の意志で銃撃に加わらなかったのではないでしょうか。あれを良しとしなかったとか…」
梅「…いやに堕天使の肩を持つな?」
蒼「…いえ」
笹「奴はラエの我が零戦隊の殲滅に加わった猛者だ。少なくとも我々皇軍の戦闘機乗りには非常な脅威だ。今度奴に遭ったら…逃げろ」
蒼「…」

なぜだろう。あのグラマンのパイロット…堕天使…のことが忘れられない。
一航過目で『彼』とまみえた時…あの表情は敵と相対した兵士のそれだとは思えなかった。
いや…間違いなく寂しげだった。
そう、あれは僕自身の心の投影だ。

米空母「キティホーク」
おぼつかない足取りで礼拝所を後にし、逃げるように自分にあてがわれた個室に入った水銀燈。
女であることを配慮した軍上層部が特別に用意したこの部屋が、彼女の心休まる空間だった。
…礼拝所も例外ではない。
水銀燈は厳格なカトリックの両親に育てられた。
彼らは自分達の生活の全てを宗教生活とし、娘にもそれを強いた。
食前食後はもちろんのこと、何かにつけ『主への祈り』を唱えるように教えられた。
それだけならまだ良かった。
水銀燈が水疱瘡にかかった時、両親は娘に薬を与えず、祈りをもって代わりとした。
体中の痛みに耐え切れず、薬を求める娘に、彼らは言った。
『お前の信仰心がたりないからこうなったんだ』
水銀燈が13歳になると、両親は今度は『貞操帯』なるものを娘に着けさせた。
つまるところそれは性交・自慰を防ぐものであった。
だとしたら自分を生み出した両親がなした行為はどうなるのか?
あまりの偽善に、小さい水銀燈も憤慨し、心は神から離れた。
その後彼女が神を心から求めるようになるのは、メグという少女に出会ってからのことである。

結局、水銀燈は、キリスト者としての良心を捨てる事が出来なかった。
その良心は、今日僚機が行った所業を止められなかった彼女自身を猛烈に責めた。
個室のベッドに倒れこんだ水銀燈は、シーツにくるまり、眠る事で一時でも今日のことを
忘れようとした。
銃撃を受けて崩れ落ちる列車と数多の肉体の変わりに彼女の頭に浮かんだのは、
新鋭機に乗って現れた、あの日本軍のパイロットの顔だった。
まるで少女のころに与えられていた制約に反動するように、いつしか水銀燈は自分自身を
慰めていた。あの敵パイロットの『彼』のりりしい顔が頭から消えぬよう願いながら。

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