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   ▼ 第二幕  少女の悔恨 ▲
 
 
 
 
 睨まれた、と思った。
 鼻先に突き付けられた抜き身のナイフだなんて、ごく月並みな、しかし凶暴性を彷彿させるに余りある形容が頭に浮かんだ。
 おとなしそうだけど……本当はとても鋭利で、触れるや否やスパッと指が切れてしまうような怖い人なのかも……。
 それが、彼――桜田くんに対する、私の第一印象。
 
 
 桜田くんとの顔合わせは、中学校に入学した初日のことだ。
 私は他校からの転校組で、当然のことながら、旧知の友人など誰もいない。早い話が孤立無援。
 とにかく心細くて、必要以上にビクついていたのを憶えている。
 無遠慮に注がれる他の子たちの視線に、そこはかとない悪意を感じたのも、そんな心境ゆえだったかも知れない。
 
 体育館での式典が終わって、私たち新入生は、これから三年間を過ごす校舎へと移動した。
 一年三組。私に新しく与えられた、もうひとつの居場所。
 そして、桜田くんの居場所でもあった。
 
 
 桜田くんは、小柄な生徒の多い私のクラスにあって更に背の低い生徒だった。
 全校生徒を背の高さで並ばせたら、前から数えて百人以内に入っていたこと間違いない。
 ところが体躯ほどには小動物的な性格ではなさそうで、私が見ている限りにおいて桜田くんの表情はいつも険しく、猜疑心の強そうな眼差しで周囲を睨んでいた。
 机に肘をつき、ピリピリした気配を全力放射する様は、殺る気満々の人斬り――なんて時代錯誤も甚だしい比喩さえしたくなるほどだった。

 そんな桜田くんと私の席は、隣同士。出席簿どおりに席順を並べた結果、たまたま、そういう巡り合わせになってしまったのだ。
 正直、怖かった。でも、まさか入学初日から、私の身勝手な主観を理由に席決めのやり直しを要求したりはできない。
 おののく心をひた隠して、なんとか桜田くんに話しかけようとしたけれど……ダメだった。結局、その日からずっと機会を得られないままだ。
 
 
 二日が過ぎ、三日が過ぎ……それこそ春の夜の夢みたいに呆気なく、二週間が経った。
 この頃になると、私もクラスの女子生徒のほぼ全員と、気軽に話せるまでに打ち解けていた。
 中でも、特に意気投合できたのが、柏葉巴。いつも物静かで、およそ感情を爆発させることなんて滅多になさそうな娘だ。
 それでいて根暗な感じや、底知れない不気味さなどは微塵もなく、だからこそ私も気軽に歩み寄れたのだと思う。
 なにを考えているのか解らない相手だったら、とてもじゃないけど、気が置けない仲にはなり得ないものね。
 
「……あら」
 
 教室のドアを開けるなり、巴と鉢合わせた。この子は未だかつて、私より遅く登校した例しがない。無遅刻にして無欠席。皆勤賞でも狙っているんじゃないかしら。
 家が近いからよと、前に雑談がてら訊ねたときは笑っていたけれど、それだけが理由ではないだろう。
 ご両親の躾が厳しくて、規則正しい生活を送らざるを得ない――というのは、私の勝手な想像だけど。当たらずも遠からずかなぁ……なんて。
 
「おはよう、由奈」
「おはよう。今日も早いのね、巴」
 
 にこやかに挨拶。初日のぎこちなさがウソみたい。それもこれも、やはり巴の存在に拠るところが大きい。おとなしげな印象に反して、彼女は社交的だった。
 もしも最初に仲良くなったのが巴でなかったとしたら、私は今ほど、この新境地に馴染めていなかったはずだ。
 あるいは、私の戸惑いを見抜いたからこそ、巴のほうから私に近づいてきてくれたのかも知れない。なんとなく、それが正解のような気がする。
 今では他のクラスの娘たち(みんな巴の幼なじみだ)とも、巴を介して親睦を深めるまでになっていた。
  
 自分の机に向かいつつ、自然を装って、隣の机を一瞥する。
 今日も、桜田くんはまだ登校していなかった。入学してから今日まで、彼が私より早く登校していたことは、ただの一度もない。
 まあ、だからどうと言うつもりは更々ないし、そもそも話しかけるのが怖いのだけれど……。
 ちょっとは巴の勤勉さを見習わせたいかな、とか、ふと。

 その日、ちょっとした事件が起きた。より正確には、二限の授業が終わった、そのすぐ後のことだ。
 いつものように友人たちとの雑談に興じてから、さて三限の授業の用意をしようかとカバンを開いた私は、思わず唇を噛んでしまった。
 見当たらないのだ。ちゃんと入れたはずの教科書が。
 今日の三限は、先生の都合で授業変更になっている。それは先週に伝えられて、私もしっかりと憶えていた。
 
(なのに、時間割どおりの教科書を持ってきちゃうなんて……ドジったわ)
 
 今朝方、身支度の際に、ちょっとばかりゴタゴタしてしまったことが思い出される。
 あれで調子が狂って、きちんと入れ替えたつもりが、うっかり忘れて登校してしまったのだろう。
 生活リズムとは不思議なもので、そこに音楽的な感性など意識していないにも拘わらず、大概、ほぼいつもの時間どおりに行動している。
 いや、無意識下での行動だからこそ、いつの間にかリズム的になってしまうのか……。
 
 どちらにせよ、一旦テンポが狂ってしまうと、私は一日中、調子はずれでギクシャクしてしまう。
 子供の頃から、そうなのだ。して見ると、私って極度のマイペース人間ということになるのかしら。
 それが喜ぶべきことなのかは、また別問題として。
 
(他のクラスの娘に借りてこなきゃ。ああ……でも、もう時間がないわ)
 
 腕時計の針は、そろそろ休憩時間の終わりを告げようとしている。今から隣りのクラスにダッシュで向かっても、ギリギリでアウトっぽい。
 だいたい、その娘が目当ての教科書を持っている保証もない。
 
 と、なると――

 隣の人に見せてもらうのが、次善の策に違いない。うん。充分すぎるほど理に適っている。
 けれど、それは怖そうな印象の桜田くんに話しかけるということ。今日も今日とて、彼は登校してからずっと顰めっ面のままだ。
 いったい、世の中のナニが気に入らなくて、四六時中、眉間に皺を刻んでいるの?
 それをネタに水を向けてみようと思ったこともあったけれど、いきなり「うるせえな」と邪慳にされそうで、未だに実現していない。

 とにもかくにも、今の私に求められているのは悶々と悩む時間ではなく、行動する覚悟と努力だ。
 なにもしないなら、教科書がないまま授業を受けるしかない。
 まかり間違って先生に質問されでもしたら……。そんな危惧を抱きながらでは、とても授業に集中なんてできないだろう。
 
「あの……桜田くん?」
 
 この桑田由奈、まさに生涯最高にして一大決心の末、桜田くんに話しかけた。苦しいまでに心臓が早打つのは久しぶり。目頭まで熱くなってくる。
 彼は俯きがちの顔を斜にすると、訝しげな視線を、私の唇の辺りに向けた。
 目を合わせて話す気なんて、全くないみたい。それがまた、私の心臓と呼吸を苦しくさせる。
 
「なに?」
 
 ぶっきらぼう。まさに、この表現しか思い当たらないほど素っ気ない返事。その裏には、明確な意志が縫いつけてあった。用がないなら呼ぶなよ、と。
 そんな顔をされて、そんな言い方をされれば、いくら陽気で積極的な人でも腰が引けてしまうだろう。
 ポジティブな心情に乏しい私からすれば、桜田くんの言葉には、圧倒的なまでの質量が確かに感じられた。
 その重たい一言一言が、距離を縮めようとする私を、ぐいぐいと押し戻そうとする。近づくことを、あっさりと諦めたくなる。
 
「え、と。……う、ううん。やっぱりいい」
「そう?」
「うん」
 
 ダメだ。降参。やっぱり無理。私って意気地なし。
 仕方がない。次の授業は、自分の愚かさを呪いながら、当てられないことを祈って戦々恐々としていよう。
 
「あぁ、ひょっとして――」
 
 その声が掛けられたのは、まさに私が悲壮な覚悟するのと同時だった。「次の授業の教科書、忘れたの?」
 訊ねる桜田くんの表情が、なんとなく和らいで見えたのは、やっぱり気のせい?

 あまりのタイミングのよさに驚かされたけれど、ともかく絶好のチャンスには違いない。私は咄嗟に追従笑いして、彼に調子を合わせた。
 
「そ、そうなのよ。ちゃんとカバンに入れたつもりだったんだけど……えへへ」
「よくあるよね、うっかりミス」
「他のクラスの子に借りようと思ったら、みんな今日はその授業が無くて」
 
 もちろんウソだ。本当は、借りに行く暇さえなかった。
 もっと早くに気がついていれば、いくらでも対処の仕様もあったのだけれど。
 
「借りられなかった、と。間が悪い日も、よくあることさ」
 
 桜田くんは、私の些細なウソなんか気にした様子もなく続けた。私が友人たちと教室で雑談していたのは、承知の上だろうに……。
 それが、彼なりの思いやりなのかも知れない。ひょっとして、意外にいい人なの?
 こんな程度で警戒心を弛めてしまう私が、とんでもない間抜けに思えてくるけど――まあ、ごちゃごちゃ考えるのはやめておこう。
 折角の会話の流れを途絶えさせてしまうのは下策だ。
 
「そういう日って、なんか何もかも嫌になっちゃうわよね。ふふ……」
 
 愛想よく微笑みかけると、桜田くんは気恥ずかしそうに瞳を逸らせた。
 どうやら、シャイな性格らしい。彼は「いいよ。僕の見せてあげる。一緒に使おう」と、はにかみながら新品同然の教科書を差し出した。
 
「ホント? ありがとう」
「困った時はお互いさまだよ」
「優しいね、桜田くんって」
  
 率直な感想だったのだけれど、桜田くんは奇妙な面持ちになった。
 そんな風に言われ慣れていないのかな。私たちの間に横たわる空気も、なんだか重たくなる。私の嫌いな雰囲気だ。
 もっとも、この気まずい沈黙を好きという人は珍しいだろうけれど。 

「でも、よかったわ」
「えっ?」
「桜田くんって、いつも怒ってるような顔してたから、怖い人なのかなぁって」
「そ、そ、そんなこと、あるワケないよ」
 
 狼狽える彼を見て、予想が確信に変わる。内気なだけで、根はいい人なんだな、と。
 そう思ってしまうと、あんなに怖そうに見えた仕種が、そこはかとなく愛おしくなってくる。幽霊の正体見たり――とは、ちょっと違うか。
 でも、桜田くんは桜田くんで、この大きく変わった環境に馴染もうと必死だったのだと解って、安堵したのは厳然たる事実。
 私の人生経験なんて微々たるもので当てにはならないけれど、それでも他所と打ち解けるまでに長い時間を必要とする人がいることは解っている。
 その時間の短縮には、多くの言葉の交換が極めて有効だってことも。
 だから、私は会話を続けようと思ったし、実際にそうした。
 
「見かけで決めつけちゃうのって、すごく失礼よね。ごめんなさい」
「べ、別に、謝られる程のことじゃ……」
「いいの、私の気が済まないんだもの。そうだ! お詫びも兼ねて、なにか御礼させて」
「えぇ? いいよ、そんなの」
「ダメダメ。言ったでしょ。私の気が済まないのよ」
「桑田さんって律儀……って言うか、意外に積極的な性格?」
「うん。よく言われるわ。おとなしそうなのに、って」
 
 私の言葉に、ひょいと右の眉だけを上げる桜田くん。なかなか器用な真似をする。私がやれば、間違いなく両方の眉を上げてしまう。
 して見ると、この男の子は意外に多才じゃないかしら? 
 桜田くんのことを、もっと知りたい。そんな欲求が、私の中に芽生え始めていた。あんなにも敬遠気味だったことがウソみたい。
 
「桑田さんって、どこの小学校の出?」
 
 彼も、私と同じ気持ちを抱いてくれたらしい。さっきより、表情も口調も柔らかい。
 内気な人ほど、仲良くなるやベッタリ依存型になるのは、往々にしてよくあることだ。かく言う私も、割とそんなタイプの人間だった。
 今では、桜田くんと話をすることに、なんの抵抗も感じてない。

「私、転校生なのよ。卒業と同時に県外から引っ越してきたの。お父さんの転勤で」
「そうなんだ? こっちの暮らしには、もう慣れた?」
「少しはね。でも、地理にはまだ疎いわ。どのバスに乗ればいいのか、とかね。独り歩きだと、すぐ道に迷っちゃう」
「無理もないよ」
 
 そう。環境が一変したのだから、無理もないこと。でも、それを誰かに『普通だよ』と肯定してもらえると安心する。
 じゃないと、自分がいつまでも地図を憶えられないバカみたいに思えて、惨めな気分になってしまう。
 私は普通。私は普通。胸の裡で、呪文のように繰り返してみる。
 
「僕でよければ、今度の日曜日にでも案内してあげようか」
 
 ――と、いきなりの不意討ちに、私の思考は一瞬にしてシャットダウンした。
 今、なに言われた? 脳内ブレーカーを上げて、再起動。じわじわと、落ちる寸前のメモリが甦ってくる。
 
(それって、いわゆる『デート』じゃないの? ああ、でも普通に親切心で言ってくれたのかも……。だけど、やっぱり『デート』よね?)
 
 一旦そう思ってしまうと、その思考の連鎖から抜け出せなくなるお約束。
 どこをどう逃げ回ってみても、結局は『デート』の三文字に行き着いてしまうのが恥ずかしくもあり、憎らしくもある。
 意識しすぎで、返す言葉も見つけられずにいると……。
 
「あ、でも都合が悪いなら仕方ないんだけど」
 
 桜田くんの方が、先に限界を突破したらしかった。バツ悪そうに赤面した顔を背ける。
 そんな仕種に、私の中の微妙にしてデリケートな部分が擽られた。なんだろう、このゾクゾクする感じ。
 
「ホントに? どの辺を案内してくれるの?」
「それは当日のお楽しみに」
「ははぁん……要するに、これから考えるのね」
「大正解です、はい。でもさ、行き当たりばったりも意外性があって、そんなに悪くないと思うよ」

 確かに、そういう闇雲まっしぐらな行動は好きだ。先々の見通しが立っているより、意外なサプライズに溢れているほうが面白い。
 ある意味、旅に通じるものがあるだろう。よく知らない街で、どんな驚きと出逢えるのかしらと思うだけで胸が躍る。
 私は今度の日曜日に想いを馳せながら、続けた。「割と好きよ、そういうの」
 
 もしかしたら、私は自分で思っている以上に、夢見がちな顔をしていたのかも知れない。熱っぽく瞳を潤ませたりまでして。
 その後の桜田くんの反応は、そう思わざるを得なくなるほど、ぎこちなかった。
 すると急に、今までどこかで眠っていた羞恥心が頭を擡げ、私を照れ隠しの軽口へと駆り立てた。
 
「ん? どうかしたの、桜田くん。目元が引き攣ってるけど」
「ちょっと柄にもなく笑いすぎたみたいで。顔面神経痛かも」
 
 冗談のセンスは、イマイチかなぁ。でもまあ、まだ話せるようになったばかりだものね。
 少しくらい滑ったところで、それもまたいいスパイスだ。あまり頻繁に滑りすぎるようだと、鬱陶しくなるかも知れないけれど。
 何事も、全くないよりは、多いぐらいが丁度いい。長すぎる袖は捲って調節できるけど、無い袖は振りようがないものね。
 ああ、でも借金を例えにするとなると話が違ってくるのかしら? ……ま、どうでもいいか、今は。
 
「あ、先生が来たわ」
「こんなもんで、見辛くない?」
「うん。ありがとう」
 
 日直の生徒が、「規律、礼」と続ける。それは、落ち着きのない子供たちに『ここからは私語厳禁』を徹底するための儀式。
 だから、私は開いたノートの端にさらりとメッセージを書き添え、桜田くんだけに見えるようにした。
  
  『この御礼は、今度の日曜日にね』
 
 読むなり、桜田くんはそっぽを向いて、それっきり授業の終わりまで私を見ることがなかった。
 照れてるんだなって、手に取るように解った。それがまた妙に愉しくて…………。
 正直、あの時の私は浮かれすぎてたと思う。もう週末のことばかり考えてしまい、結局、教科書の有無に拘わらず授業を聞いてはいなかった。

  
 
   ※

 その一件は、彼にとっても、ひとつの転機となったらしい。
 以降、私ばかりでなく、桜田くんにも親しく会話する友人が増えた。夏休み前には、男子の仲良しグループで遊びに行ったりもしてたらしい。
 むしろ、好かれるのが当然な気もする。だって彼は元々が優しい顔つきだったし、笑うととても可愛らしいんだもの。
 女の子にも密かにモテてたんじゃないかなぁ――とは私の見立てだから、あまりアテにならないだろうけど。
 
 私は私で、やはり順調に交友関係を広めつつあった。部活(子供の頃から走るのが好きなので陸上部だ)の関連で、先輩から遊びに誘われる機会も増した。
 今では大の親友となった巴と遊んだなら、決まって彼女の友人たちとも仲良しになれた。
 
 友だちの輪が広がるということは、私の人生が潤沢になること。独りで悶々とするよりも感性が研ぎ澄まされ、知識も増える。
 人の言葉とは、ある意味でサンドペーパーみたいなものかも知れない。
 強く叩きつけられようと、優しく撫でつけられようと、私の中のメッキを研磨して地金を露わにしたり、逆に、こびりついた錆を落とし光沢を引き出してくれたりする。
 そもそも、メッキとは虚飾だ。それを失うことを過剰に恐れるのではなくて、新しい自分に気づくチャンスかもと捉えられるなら、いい生き方をしてると言えるんじゃないかしら。
 
 実際、最初の数ヶ月、私の中学校生活は潤っていた。教科書を忘れても簡単に誰かから借りられたし、難しい宿題の解法を教えてもらえたり。
 常に誰かと一緒にいることで、不要なトラブルも未然に防げるようになっていた。
 
 ただ……全部が全部、いいことだらけなんて話は絶対にない。
 私の周りに集う人々が増えれば増えるほど、好ましくない情報もまた否応もなく、もたらされてしまう。絶対不可避の宿命だ。
 検索エンジンのフィルタ機能みたいに、設定しておけば自動的に完全な選り好みをしてくれる便利ツールがあるワケでもない。
 ――世界の広がりを欲したのは、私。ならば、善悪美醜の一切合切を甘受しなければならない運命もまた、私が望んだ世界と言えよう。


 そして、中学生になって初めての夏休みの、とある一日――
 私の元に、聞きたくもない話題が舞い込んできた。
 桜田くんについての、ひどく下品で不愉快な噂が。

「いやぁね。そんなの、根も葉もない話でしょ?」
 
 彼をそれなりに知る私は当然、それを語った友だちに言い返した。笑みを絶やさず、あくまで冗談めかして。
 だって、笑い話にでもしなければ、とても口にはできない内容だったんだもの。
 別に、いい子ぶってたワケじゃない。この年齢にしては、至って月並みな下ネタなのかも知れないけれど、私は気持ち悪くて仕方がなかったというだけだ。
 
 その話題は、なあなあの内に立ち消えた。移り気な子供の会話では、脈絡のない話題の転換など日常茶飯のこと。
 だから、その後は誰も気に留めていない様子だった。みんなにとって、よくある『間を繋ぐための、どうでもいい話題』でしかなかったのだろう。
 けれども、私にとっては違う。そして、たぶん巴にとっても。
 
 胸の中に残る、コールタールみたいに黒くてべとべとする不快感。
 それは、なにをしても拭いようがなくて、無理に拭えば余計に汚れを広げるだけで、ずっと私を気持ち悪くさせ続けている。
 あの文化祭前の、体育館で行われた全校集会から随分と経ち、私は二年生になった。それなのに、今でも喉元の苦みと胸の痛みが消えない。
 どうして、顔を背けてしまったんだろう。桜田くんは助けを求めるように……縋るように私を見ていたのに。
 
 ……いや。さすがに白々しすぎる。理由なんて簡単なこと。一瞬だけとは言え、友だちに聞かされた下品な噂話に惑わされ、私は拒絶してしまったのだ。
 『どうして』という問いかけは、私の内面の柔らかい箇所を深く鋭く抉る。自分の卑しい性根がさらけだされ、無慈悲に突きつけられる。
 なぜ、私は彼を疑ったりしたの? 最後まで信じてあげられなかったの? 傍観者という小賢しい加害者になったの?
 繰り返される後悔が、容赦なく抉られた傷口に塩を擦り込む。その激痛もまた、私がずっと抱え続けなければならない責務なのだろう。
 
 いっそ、司直に委ねられるべき問題ならば、どんなに救われたか。仮初めに過ぎなくても、贖罪したつもりにはなれるから。
 でも、これは違う。償いようがない。そして償われない咎は、どこまでも咎のままなのだ。忘却も転嫁も許されない。
 
「ごめんなさい」
 
 今夜も、ベッドに横たわって暗い天井を見つめながら囁き、両手で顔を覆う。悲劇のヒロインを演じて、悦に入ってるつもりはない。
 ただ、どうしようもない悲しさが――面と向かって謝ることができない自分の弱さが情けなくて。
 それが、泣けてしまうほど悔しいのだ。

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