それの生成はまさに偶然だった。いや、目的のものは完成していたのだ。それの
変化の速度があまりに早すぎたのだ。培養液の中ではまだ変わっていなかったはず
だ。培養液からミサイルの弾頭へ移された段階なのか。それともそれが発射され、
着弾するまでの数十分間のうちなのか。それは誰にも分からない。
 ただ確実に分かるのは、そのウイルス――ローザミスティカの突然変異は予想以
上に早かったということだけである。





DOLL
-Stainless Rozen Crystal Girl-
第二話「かすみ」





2030年9月25日
「ここに隠れて」母が私たちに言う。
 逆らうことなどせず、私たちは畳の下の収納空間へと入った。中は思うよりひん
やりとして、埃っぽい。長らく開け閉めもされていなかったのだから仕方がない。
 頭上ではバタバタという暗い音が聞こえ、母が離れて行ったことを知らせる。私
は腕の中の妹をギュと抱きしめた。
 明かりは無い。ただ、彼女の息遣いと鼓動だけが私の耳には届いていた。


同日
 そこは思う以上に広い家であった。家の周りには浅い水堀が巡り、低い石垣がそ
の先に建つ。小さく低い櫓がその上に存在した。その奥には、恐らくではあるが、
松ノ木が植えられて、茶、白、灰、緑の色を順に呈している。しかし、どれも年月
によるものか薄汚れて見えた。よくある武家屋敷だろう。
 今回、ここには私ともう一人が行くように指示された。事件が事件なだけに、私
という新人を使ってもいいのかと心配になったが、逆にスケールが大きすぎて使え
るものは何でも使わなくてはならない状況なのだろうと一人納得する。隣でパート
ナーを組んだ猫田さんが、「陣屋か」と呟いたのを耳にした。恐らくはこの家に対
する事なのだろうが、さっぱり分からなかった。
 手渡された資料に記されている住所と名前を確認し私はインターホンのスイッチ
に指を伸ばす。ピンというどこか間の抜けた音が響く。指を離す。すると今度はポ
ーンとやはり気の抜けた音が響いた。この家にこの音は合ってないのではないかと、
いらぬ気遣いをしてしまう。
 三十秒ほど経っても、まだ反応が無い。もしかすると逃げたのか、なんて私は考
えた。ちらと左の猫田さんを見る。顔からは表情が読み取れなかった。頭の中で更
に三十を数えてから、再びスイッチを押す。やはり、間抜けな音が響いた。
 今度はすぐにガチャリと受話器を取った音がした。
「はい」重い女性の声。
「すみません。警察のものですが、お話よろしいでしょうか?」私は答えた。
 ヒィと息を呑む声。事前に通達をしていたのだけど、やはり驚かざるを得ないん
だろうな。仕方ないだろう。
「中に、入れていただいてもよろしいですかね?」私は言う。
 数えられる程の時間が経ってから、了承の声がした。


 ガチャリと鍵の開く音がし、ドアの隙間が大きくなる。
「何の用でしょう?」母親らしき女性はその隙間から顔を覗かせる。
「二日前に起こった事件について伺いたいんですけど」
「……帰ってください」暗い声がする。
「いえ、お話だけでも伺わせてください」粘る。
「帰って!」大き過ぎる声を出したためか、すぐに彼女は咳き込んだ。
 これまで黙り込んでいた猫田さんが「この前の食人事件。あんたの子供に容疑が
掛かっているんだが。教えてくんないかな」と言った。よく言われるような役割分
担だ。私が優しい警官。彼が怖い警官。
「何も……お話しすることは御座いません」
 この期に及んでも、彼女は抗った。これが、母親というものか。


 どちらの体が震えているのか分からない。私か、この娘か。外は余りにも騒がし
い。叫び声、断末魔、銃声。上を開いて、外を見る気なんて全く起こらなかった。
 私は、昨日いきなり成長したこの年の離れているはずの妹を更に強く抱きしめた。


 何が起きたのか全く分からなかった。一人の男が飛んできた。よく、飛んできた
という比喩表現は文章において目に掛けるが、ここではそれとは意味が違う。そし
て、飛行機のように本当に飛んできたのかと言われれば、それもまたノーだ。
 何が起きたのかって?
 誰かに投げ込まれてきたのだ。
 それが男性だったというのも服装で判断しただけだ。その体には、首が無かった。
 それはベチャリという血の飛び散る音と、トタン板に重い石を落としたようなガ
ンという鈍い音を生んだ。
 私たちの左方、近くの壁にぶつかり、そのままボチャンと水堀に落ちる。
 そして、じんわりと赤が広がっていった。
 その死体が浮き上がるより前に私はそれの飛んできた方向を振り返り見る。もう
すでに猫田さんは拳銃を構えていた。
 その先には、一人の少女がいた。無表情に佇んでいる。色素は薄く、白人のよう
にも見えた。
 そして、確信する。
――ミュータントだ。
 目を離さず、腰につけたトランシーバーで、本部に部隊の要請を依頼する。了承
は意外と早かった。
 ホルスターから拳銃を抜き、私も構えた。


 声は段々と近づいてくる。私の耳にも、彼らが叫んでいる内容が微かながらも聞
き取れた。もともと、隠れているこの部屋は、玄関からすぐ近いのだ。そしてこの
家も防音に優れた構造ではない。
 爆弾来るぞ、やら、当たらない、やら、火炎放射器まだか、やら。悪態の声がこ
の狭い空間を包む。メガホンで何事かを指示する声が単語単語で聞こえる。下に、
とか、三秒とか狙わないで、とか。
 もう、耳を塞いでしまいたかった。
 だが、耳を塞ぐには腕が足りない。私の腕は彼女を抱きしめるので一杯なのだ。


 今や堀には沢山の死体が浮かんでいた。応援が何人来て、何人殺されたのか分か
らない。
 彼女らの身体能力は、人間を遥かに凌駕する。壁を走り昇ることも可能である。
 それだけではない。ミュータントには、人には無い特殊な能力が備わっていた。
超能力と言ってしまってもいい。例えば、触れた人間の視界を奪う能力。例えば、
何も無いところから針を出し、銃器並みの速度で発射する能力。例えば、音波を
操り、周囲を破壊しつくす能力。どれも人を殺すに十分活用できてしまう。

 そして今回は、真っ赤な紙風船のようなものを生み出し、爆発させる能力だった。
 その爆弾が生み出される条件も、爆発する条件も不明だった。いつも分が悪すぎ
る。その相手に通用した攻撃が、別のものにも通用するとは限らないのだ。


 一発の銃声が響いた。いや、違う。これは重なっている。ほぼ同時に全てが発射
された音だ。それを境に、パタリと阿鼻叫喚の音の地獄は止んだ。これまでの騒音
の所為か、無音に聞こえた。
 ふと、腕の中の妹を見つめる。
 昨日とは明らかに違う彼女。肌、髪、瞳の色全てが変わってしまった妹。
 すぅすぅと、寝息を立てていた。
 その時、私の涙腺は決壊した。恐らく、先ほどの戦闘で両親は死んだだろう。も
う、誰にも頼れない。一人で、この娘を育てる。食べられてしまっても構わない。
 妹――雛苺を、私――柏葉巴が守る。それが、姉としての覚悟だった。


「生きてる」私は思わず口にした。十中八九死んだと思っていた。先程までの緊張
が切れた所為か、腰が抜けて立てなかった。
「また会いましたね」声が掛けられた。声の主を見る。そこには一週間前の事件の
生き残りがいた。
「えっと、名前は……」恥ずかしいことに思い出せなかった。だが彼は優しく微笑
んで「桜田です」と自己紹介しなおした。「白崎さん?」彼は私の名前を呼ぶ。
「ごめんなさい」私は謝る。「気にしてませんよ」と返されてしまった。
 今度は首を回し、猫田さんを探す。いた。立っている。右方向を向いたまま。
「猫田さん!」私は声を掛けた。彼と生きている喜びを分かち合ってみたかった。
 あの寡黙なポーカーフェイスが笑う顔を見てみたい。そう思った。
「猫田さん!」もう一度声を掛ける。だが、彼は全く反応しなかった。未だに緊張
が解けず固まってんじゃないのか?私は笑ってしまった。
 桜田さんの差し伸べた手を握り、立ち上がる。そして、私は猫田さんのもとへ向
かった。

 彼の胸から上の左半身が根こそぎ消えていた。

 そう、彼はとっくに死んでいた。

 悲しいとか、そんな気持ちじゃない。ただ、残念だった。





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                             第二話「かすみ」了

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最終更新:2010年02月01日 00:55