10. 【過去との】【遭遇】
 
火が消えたような――
管理人の真紅さんが去った有栖川荘は、まさに、その形容がピッタリだった。
私を含めたすべての住人は、誰も彼も、どこか気が抜けた感じだ。
特に、水銀燈先輩の虚脱ぶりは、傍目にも痛々しかった。
 
でも、先輩だけが特別ではない。私だって彼女と同じか、より以上は失望している。
真紅さんを見送ってから、ずっと胸の奥が重たくて、奇妙に疼いていた。
礼儀作法には口喧しい人だったけど、いい友だちになれそうな予感がしてたのに……。
それが三日と経たずお別れだなんて、裏切られた気分だ。あまりにも寂しすぎる。
 
憂鬱な想いに引きずられるように、私はいつしか、あの寒椿の前に立っていた。
無意識的に、昨日の記憶を辿り、彼女の面影を探していたのかもしれない。
 
「いったい、なにが真紅さんを衝き動かしたですか?」
答えなど返されないのを承知で、寒椿に問いかける。
さわさわ……。寒椿は春風の中で、枝葉を揺らした。去った人への手向けのように。
微かな葉ずれさえもが啜り泣きに聞こえるのは、私の感傷ゆえなのか。
 
ふと、思う。真紅さんは、この寒椿に我が身を重ね、悲歎に暮れたのかも、と。
三月と言えば卒業シーズン。いわゆる旅立ちの時期でもある。
彼女は毎年のように、巣立ってゆく下宿生を見送ってきたのだろう。
その都度、再会を誓った『誰か』を想い、果たされない過去に胸を焦がしたに違いない。
 
「貴女にとって、この寒椿は惨めな自分を写した鏡だったです?」
だとしても、自身の立場を忘れて旅に出てしまうなんて、あまりに無責任だ。
私も薔薇水晶も、そして雛苺も、新入り組には真紅さんが必要なのに。
灌木を見上げ、私は、そっと独りごちた。「真紅のどあほう」
 
言葉にできない悲しみは、乗り越えていくしかないのです。
それは解ってますけど……理屈どおりに行くのなら、誰も苦しまないですよね。
  


 
 11. 【愛か】【夢か】
 
とにもかくにも、真紅さんの一件を引きずり、腑抜けたままではいられない。
一週間後には入学式があるし、それを過ぎれば学生生活も本スタートだ。
この有栖川荘の家賃を払うためにも、アルバイトだって探さないと。
心機一転するための妙薬は、多忙になることだろう。クヨクヨする暇もないくらいに。
でも、どうせなら私だけでなく、みんなにも元気になってもらいたい。
 
「そうです! こんな時こそ、私の本領発揮ですぅ」
私は館内に戻って、たまたま通りがかったオディールさんを捕まえると、
買い物に付き合って欲しいと頼んだ。この近所には不案内で、独り歩きが怖かったからだ。
オディールさんは嫌な顔ひとつせずに、快諾してくれた。
 
 
その道すがら、オディールさんに真紅さんのコトを訊いてみた。
彼女が再会を約束した『誰か』とは、どんな人物だったのかを。
 
「彼は、夢を追いかけていた。理想家だったのよ」オディールさんは眉を曇らせた。
「そして彼女も、同じ夢を見ている。いえ……そうに違いないと信じたがっている」
 
けれど、結果は待ちぼうけ。口約束だけが、辛うじて二人を繋いでいるに過ぎない。
万華鏡のように煌びやかだった現実を、色褪せた夢だったと認めたくなくて……
確かな絆が欲しくて、真紅さんは傷悴し、迷ってしまったのだろうか。
 
「彼女が愛だと信じていたものは、結局のところ、白昼夢だったのかもしれないわ」
 
私には、よく解らない。特定の男の子を本気で愛した経験が、まだないから。
でも、もし……それが真実ならば、真紅さんには早く夢から醒めて欲しかった。
そして、また、ここで――
 
「真紅さん、帰ってきてくれるですかね?」
訊ねてみたけれど、オディールさんは曖昧な笑みを浮かべるだけだった。
 

 
 12. 【チョコより】【甘い】
 
オディールさんが案内してくれたお陰で、いろいろと食材を買い揃えられた。
より正確に言えば、シフォンケーキの材料だ。
 
「ケーキを焼くのが趣味なの?」
あまりに迷いなく材料を買った私に、オディールさんが訊いてきた。
間を置かず、「いいわね。女の子らしい趣味でステキだわ」とも。
 
「お菓子づくり全般が好きなのです。食べる楽しみで倍率ドン、さらに倍ですぅ」
「分かる気がする。ちょっと食べてみたいわね」
「モチロン。最初から、そのつもりでしたから」
 
私にできることなんて、この程度。でも、何もしないままでは居られなかった。
みんなに少しでも微笑みが戻ってくれたら、嬉しいのだけど……。
 
のりさんに頼んで、厨房を使わせてもらった。完成したのは、計ったように午後三時。
ココアを多めにしたシフォンケーキは、我ながら上手に焼けたと思う。
甘く芳しい匂いに釣られたらしく、雛苺や雪華綺晶さんが真っ先に顔を覗かせた。
その後、部屋にいた人たちが食堂を訪れ、お茶会が催されることとなった。
 
「先輩が、まだ来てないですね。ちょっと呼んでくるですぅ」
失意のうちにある水銀燈先輩にこそ、食べてもらいたかったからだ。
私が部屋を訪ねると、先輩はお猪口を手に赤ら顔。早い話が、呑んだくれていた。
ストーブの上には、徳利の並んだ鍋が! 昼間っから熱燗で自棄酒とは、とんだ不良娘だ。
 
「先輩! ケーキ焼いたですから、一緒に食べるですよ! こっち来いやです」
 
私は、「いらないってばぁ」なんて、未練がましく猪口を舐めている水銀燈先輩の腕を掴んで、
「そんな猪口より甘いケーキのほうが美味しいですぅ!」と、食堂まで引きずっていった。
 
やれやれ、世話が焼ける。酒の代わりに、蒼星石の爪の垢を煎じて呑ませたいですぅ。
 

 
 13. 【それが私の】【愛の歌】
 
真紅さんのいない、初めての夜。
どこか暗い夜食が済んで、片づけを終えたときには、午後九時を過ぎていた。
 
「それじゃあ、翠星石ちゃん……また明日ね。戸締まり、ちゃんとしてね」
「のりさんも気を付けて。じゃ、おやすみなさいですぅ」
 
のりさんを見送って、もう一度、玄関の靴をチェック。
そこに、真紅さんの靴はない。私は頭を振って、ドアの施錠を済ませた。
「さて、お風呂に入るとするですかね」寂しい気持ちを誤魔化したくて、独り呟く。
汗を流すように、心もサッパリと洗ってしまえたら、どんなに楽だろうか。
 
着替えを持って浴室に足を運んだ私は、微かな歌声を耳にして立ち止まった。
その歌は、浴室の隣にある洗濯室から漏れていた。
「料~理の腕とか、掃除洗濯とか、決して上手くはな~い」
 
興味を覚えて覗き込むと、カナ先輩が歌いながら、洗濯機を回していた。
昼間はバイトで忙しかったから、こんな時間に洗濯をしているのだろう。
カナ先輩は私に気づくと、はにかんで話しかけてきた。「これから、お風呂かしら?」
 
「はいですぅ。シャワーだけ浴びようかと。それより、今の歌はなんていうです」
「Love knot。スローテンポで唱いやすい曲かしら」
「ラヴ……恋……。カナ先輩は、男の人とお付き合いしたこと、あるですか?」
 
ふとした興味から訊くと、先輩は照れ笑った。「アイエヌジーかしら」
現在進行形なのか……ちょっと羨ましい。愛NGにならないことを、切に祈ろう。
あまり洗濯の邪魔をしても悪いので、私は先輩に別れを告げ、浴室に入った。
 
「伝えきれな~い、あり~ふれた愛~の歌じゃ――」
カナ先輩の歌が、薄い壁越しに聞こえる。私は服を脱ぎながら耳を傾け、思った。
私もいつか、男の子と愛の歌を口ずさむ日がくるのでしょうか……と。
 

 
 14. 【何度でも】【何度でも】
 
朝方、布団の中で目を醒ました私は、朦朧とする意識の中で思った。
なんだか熱っぽくて、怠い。膝や肩などの主だった関節が、じわじわと痛む。
喉も痛いし、頭がクラクラする。これは……間違いない……風邪だ。
 
自分では健康管理に気を配っていたし、伊達の薄着をしてたつもりもない。
なのに、体調不良だなんて、どこかに油断があった証拠だろう。
まあ、理由はさておき。嘱託医のオディールさんに診てもらうコトにした。
 
寝床から起き出すとき、想像以上に身体が重くてビックリした。足どりが覚束ない。
私は歩くのを諦め、這ってオディールさんの部屋を目指した。
――が、階段を降りるのに失敗。下までスライディングしてしまった。
 
段の角にドンドコぶつけまくったお尻が痛すぎて、泣ける……。
激痛のあまり動けずにいると、「大丈夫?」
音を聞きつけ、様子を見にきたのだろう。薔薇水晶が心配そうにしていた。
なにを思ったのか、彼女は私の腰を撫で回して、愕然といった風に呟いた。
「大変……お尻が、まっぷたつに割れてる」
 
また、ベタな冗談を。それとも、これが噂に聞く『割れ厨』なのだろうか。
ともあれ、私は薔薇水晶に付き添われて、オディールさんの診察を受けた。
その間も、「お尻にも深刻なダメージが」と、しつこくネタ振りするものだから、
オディールさんまでが「知りません」だなんてダジャレで応酬する始末だった。
私を笑わせるまで、何度でも同じネタ使うつもりなのか……。
 
その後も、同期のよしみか薔薇水晶はお粥を作ったりと、かいがいしく看病してくれた。
流石に学習したらしく、お尻が割れてるとは言わなくなったのだけど……
背中の寝汗をタオルで拭いてもらっているとき、私のお尻の青あざを目にしたのだろう。
いきなり「蒙古Haaaan!!!」ときたから、私は堪らず噴き出してしまった。
 
くぅ~。こんなおバカなネタで笑っちまったなんて、無性に悔しいですぅ。
 

 
 15. 【白く】【しなる指】
 
密やかな音色に耳をくすぐられ、目覚めた瞬間、私の意識は真っ暗な世界に投げ出された。
あんまり唐突すぎて、まだ瞼を閉じたままだったかなと錯覚したほどだ。
なんだこれは。のし掛かられるような圧迫感があるし、ひどく蒸し暑い。
 
どうして、こんな暑苦しい空間に居るんだっけ?
思い出せなかったが、ひとまずここから抜け出したくて、私は肘を振り払った。
途端、私を覆っていた物がはね除けられ、寒々しい空気が押し寄せてきた。
そこもまた暗い世界だったけれど、窓を透けてくる月光が、私に安堵をもたらした。
風邪薬を飲み、昼間の明るさを逃れて布団に潜り込んでいたら、熟睡してしまったらしい。
 
「喉……乾いたですぅ」
おまけに、寝汗を吸ったパジャマが気持ち悪い。
ポットから白湯を汲んで薬を飲み、着替えたところで、微かなピアノの音に気づいた。
私の住む205号室の隣には、娯楽室なる部屋があり、住人に開放されている。
そこに、年代物のグランドピアノが置かれていた。
 
時計を見ると、午後八時。思ったより深夜ではない。でも、誰が弾いているのだろう?
好奇心から、隣室のドアを開くと、ノクターン調のメロディがピタリと止んだ。
 
「あ……ごめんなさい。起こしてしまったのですね」
 
謝った声の主は、雪華綺晶さん。
私は頭を横に振って、微笑みかけた。「ピアノ、とっても上手ですね」
彼女も口元を綻ばせた。「いえいえ。管理人さんには、到底叶いませんわ」
聞けば、雪華綺晶さんは、ここに来てから真紅さんに手ほどきを受けたのだとか。
 
「もう少し、聞かせてくださいです」
私がお願いすると、彼女は椅子に座り直して、「では、お粗末ながら――」
鍵盤の上で、雪華綺晶さんの白くしなやかな指が、ゆったりと躍りだす。
その艶やかな仕種を眺めながら、私は、真紅さんの行方に想いを馳せていた。
 

 
 16. 【味見は】【死のかほり】
 
「びゃああああ! Non! なんてことなのー!」
 
眠りの時間は、空を切り裂く刃のごとき黄色い悲鳴によって断ち切られた。
あの声は、間違いない。フランスのチビチビ留学生だ。
相変わらずの風邪で臥せていた私にとって、彼女の甲高い叫びは迷惑千万である。
 
「ったく……なに騒いでやがるですかぁ」
身体の怠さを押して、寝返りを打ち、枕元の目覚まし時計を見る。
時刻は、朝食時。献立で、なにかトラブルがあったのかもしれない。
大方、食生活の急変に順応しきれず、駄々を捏ねているのだろう。
 
これでは、おちおち寝てもいられない。のりさんのフォローもしてあげないと。
私は渋々ながら、パジャマの上にコートを引っかけ、階下の食堂へと向かった。
ついでに、薬を飲む前に軽く何か食べておこう。そう思ってもいた。
 
ところが――いざ現場に到着した私は、異臭を嗅いで卒倒しそうになった。
何事だろうか? 食堂の入り口で、雛苺は魂を抜かれたみたいに呆然としていた。
まさかガス漏れ? でも、これは都市ガスの臭いではない。
もっと、こう……うーん。なんともはや、ただただ『臭い』としか表現のしようがない。
ジャカジャカと調理する音を辿って、厨房に眼を向けると、そこには、
 
「はぁい、風邪ひきさぁん。具合はどぉ?」
「待っててねー。すぐにできるから」
水銀燈先輩と柿崎先輩が、額に汗して料理なんぞをしていた。
のりさんまで風邪でダウンしたから、二人で料理当番を引き受けたのだとか。
その後、柿崎先輩の言葉どおり、料理は(食べられるかはともかく)完成した。
 
食卓に着いた誰の表情も、固い。テーブルに置かれたバイオ調味料って、なんですかね。
あぁ、こうと分かっていたら、多少うるさくても寝ていたのに。死ぬほど後悔しても、もう遅い。
蒼星石……。お姉ちゃんの命日は、今日かもしれないです……。
 

 
 17. 【それが私の】【愛の歌】 その2
 
――おえっぷ。うぅ、いきなり失礼。だってなんだか、だってだってなんだもん。
私、翠星石は、饗宴(凶宴か?)から生還を果たしたものの胃凭れに苦しめられていた。
正直、キツイ。洗面所の鏡に写る私の顔色も、明らかに青ざめている。
きっと朝食を摂った誰もが、こう考えているはずだ。お昼は外食にしよう、と。
 
「私はまだ本調子じゃないし、寝ながらお留守番ですかねぇ」
吐息まじりに呟いた、その途端。「それは可哀相ね」
予期しない返事があって、私はみっともなく身を震わせてしまった。
 
「ごめんなさい。驚かせちゃったかな」
院生の桑田さんだった。彼女の手には、歯ブラシとコップ。
各部屋にもシンクがあるから、私はもっぱら、そこで洗顔や歯磨きをしているが、
桑田さんは、そういう横着をしない人らしい。
 
会釈して、場所を譲ろうとしたけれど、「ねえ、私のお部屋に来ない?」
先んじられてしまった。「あんまり、お話する機会がなかったでしょ。どうかしら」
どうせ、部屋に戻っても寝るだけなので、彼女のお誘いを受けることにした。
 
桑田さんの部屋は、よく整理整頓されていた。
歯磨きの一件といい、けっこう几帳面な性格なのかも……と思いきや、
部屋の隅に、長方形の小片が散らばっていた。裏返された百人一首だろう。
 
私の視線に気づいたらしく、「歌占って、知ってる? 捲った歌で、占うんだけど」
訊きもしないのに、彼女は取り繕うように続けた。「やった。この短歌、好きなのよね」
 
 『君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思いけるかな』
 
君に会えるなら命も惜しくなかったけれど、今はこの時が少しでも長く続いて欲しい。
そんな意味の歌だと、桑田さんは教えてくれた。いたって普通の、誰が抱く欲求だ。
みんな同じ。私も、そして、真紅さんも――
 

 
 18. 【未來の】【乙女】
 
その青年は突然に、私たちの乙女の園――有栖川荘にやってきた。
上下揃いのタキシードを品よく着こなし、口元に笑みを絶やさない優男だった。
一見すると人畜無害そうで、どっか慇懃無礼な気配。こういうタイプ、私はあまり好きじゃない。
 
「今いる方たちだけで構いませんから、食堂に呼び集めてはもらえませんか」
柔らかい口調で伺うも、そこには有無を言わせない響きがあった。
アルバイトに行った数名を除く面々が一堂に会すると、青年は恭しく名刺を配りだした。
 
「白崎と申します。このたび、学園からの連絡事項を、みなさんに伝えに来ました」
 
彼の語るには、学園理事会が、このほど有栖川荘の風紀について難色を示したのだとか。
つまり、管理人不在のまま、学生の溜まり場にはしておけないという見解だ。
その意見には、私も賛同したい。学生だけでは、なにかと心配だもの。
 
「学園としては、有栖川荘そのものを一時閉鎖する方向で纏まりつつあります」
「ちょ、ちょーっと待ったです! じゃあ私たちは、どうなるですか!」
「学園側が斡旋する寮、アパートに移ってもらうことになりますねぇ」
 
冗談じゃない。入居して早々、追い出されるなんて嫌だ。みんなと離ればなれになるのも、だ。
ならば、選ぶ道はひとつ。学生たちが資金を出し合って、新規の管理人を雇うしかない。
 
「私たちは、ここで暮らし続けたいです。だから絶対に、この有栖川荘を守るですよ!
 真紅さんの帰りを待つためにも、入居を希望するだろう未來の乙女たちのためにも」
 
ただの独りよがりかも知れないけれど、それが今の住人である私たちの使命だと思う。
幸い、みんなも私の意見に賛意を示してくれたので、問題提起のキッカケは掴めたようだ。
 
「なるほど……解りました。これは一度、理事会と話し合いの席を持つべきですね」
白崎さんは、また後日に来訪すると告げて、今日のところは引き上げて行った。
そして私たちも、当面の管理人代行および運営委員を二名、民主的手段で選出したのだった。
 

 
 19. 【桃栗3年】【三周年】
 
私は今、春先の柔らかな朝日の下で、有栖川荘のそこそこ広い庭を掃除している。
どうしてかと言えば、他でもない。私が運営委員だからだ。
先輩と新入生から各一名を投票で選んだ結果、私と水銀燈先輩がその任に就いたのである。
 
「はぁ……あの微生物ジャンキーは、ちゃんと働いてくれるですかねぇ?」
 
冗談めかし、ボヤいてみる。なにしろ、アンニュイで勝手気ままな彼女のことだ。
「気が乗らないわねぇ」の一言で、一切合切をこちらに丸投げされては堪らない。
まあ、先輩にとっても真剣にならざるを得ない問題だし、大丈夫だとは思うけれど……。
 
寝ても醒めても、先行きへの不安から、気分が鬱ぎがちだ。溜息の回数も増えた。
そして、通算何度目かの吐息を漏らした私は、不意に話しかけられて背筋を伸ばした。
振り返ると、朝のジョギングから戻った雪華綺晶さんが微笑んでいた。
アディダスの白いジャージが朝日に映えて、ちょっと神秘的だ。
 
「困ったことになりましたわね。私たちは、どうなってしまうのでしょう」
 
言いながら、雪華綺晶さんは庭の隅に植えられた灌木に、琥珀色の瞳を向けた。
あの木が、なんだと言うのだろう? 訊ねると、彼女は教えてくれた。
 
「私が入居するとき、記念で植えたのです。管理人さんの許可をもらって。もう3年になりますわね」
「そうだったですか。でも、どうして桃です?」
「実がなる方が楽しいじゃありませんか。美味しい果物なら、なお良しでしょう」
 
なるほど、いかにも彼女らしい発想だ。桃栗3年と言うし、これなら在学中に収穫を楽しめる。
その日まで、この有栖川荘に住み続けたいものだ。ううん……是が非でも、そうしなければ。
 
「楽しみですね」と告げたら、雪華綺晶さんも「そうですわね」と――
そして私たちは顔を合わせ、どちらからともなく笑い合った。
あとで、三周年記念のケーキを焼いてあげようかな……なんて、私は思ったりしていた。
 

 
 ・今そこにある未来 編 に続く

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最終更新:2009年03月15日 23:34