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近所の学生がアパートの屋上から身を投げ、死んだらしい。

誰もいないリビングで、私はソファに身を任せながら単調にニュースを読み上げるキャスターだけを声をただ静かに聞いていた。
キャスターのやる気のない解説によれば学生は日々の単純なサイクルだけの生活に嫌になり自殺した、と。
確かに。人生とは単純なサイクルである。人というものはものを食べ、睡眠をする。単純に表せばこれだけで済む。もっと簡単にすれば人は寝て、起きるだけで生きているといえるのかもしれない。

しかしだ、この単純なサイクルでも決して同じサイクルは無いといっても過言ではないのだ。私の好きなことで表せば、その日その日の食べる量、食べるもの、食べる時間、食べ方、すべて同じく生活など出来やしない。できたとしたらそれは機械化人形だ。

前に未来のイヴ、という話をしたと思うが、人形に魂は宿るのだろうか。アンドロイドに心は持たすことができるのか。
魂が宿ればソレは目的なモノに成らせる事が可能なのであろうか。

キャスターはまた新たなニュースを告げる。
記憶喪失の彼女が彼氏の愛の力で記憶を取り戻した、らしい。
脳内の記憶に至ってもなかなか難しい。記憶というものは個人本来のだけのものである、と一区切りにしてはどこかのお偉い

学者に怒られてしまいそうだが本人の記憶は本人のものでしかないのだ。
それをもしも他人が得たとしたらその他者は過去の本人になれる、といってもいいのだろうか。

記憶のない魂は本当に本人と言えるのだろうか。

そこまでかんがえて私は考えるのをすっぱりと止めた。気がつけば夜、なんて事はもうあまり体験したくないからだ。幸いまだ時計の針は先ほどからあまり進んでいないらしいし、猫のうにゅーは傍らで寝息を立てている。
考えるだけ考えて、最後は矛盾で自己嫌悪、なんていうのも気が進まないし。

……哲学者まがいの考えは昔から。もう二度と治らない不治の病なのかもしれない。しかしだ、これでも私は良くなった方なのだ。すべては薔薇水晶と生活を共にし始めてから。彼女は私から大切なものを奪った、がその見返りとして本当に大きなものを、尊いものを私にくれた。

始めのうちはお姉さまたちも私を心配し止めてたのだがそれも今となってはこの有様だ。彼女はやはりこうあったほうがよかったのだろう。
決して彼女は誰かの傀儡などでは無いし、奴隷でもない。彼女は彼女なのだから。

そんな事も今は懐かし、古きことである。

trrr...trrr...trrr...

電話が鳴る。どうもクリスマスからこの電話により出たくなくなった。
私が電話をあまり好きではないこともあるのだが、この電話というものは幸福よりは不幸を運んでくる方が多い。電話に出る瞬間に少し感じる冷汗を感じるのが好きになれない。

「はい、どちらさまでしょうか」

電話に出る。声色が少し高くなるのはどうしようもない。

「私、水銀燈よ。雪華綺晶、落ち着いて聞きなさい。今、私の方に連絡があったのだけれど」

水銀燈のお姉さまの声が震えている。
どこかでカチリ、と歯車のような音がしたような気がした。

「薔薇水晶が事故に遭ったわ。有栖川病院に運ばれたって警察から電話があったの。今すぐ病院に来なさい」
「……は? 」

病院? 事故? 誰が、なぜ? 何のために、なんで薔薇水晶が病院に事故で運ばれて

「良く聞きなさい、今から車出して迎えに行くから準備しておくのよ、わかった? 」
「……はい」

ガチャン、と受話器の向こうで電話が切れる音がする。
そのまま私は受話器を手から離し、その場に座り込んだ。
人生とは単純なサイクルである、しかしやはりそれは大まかに見たものでしかなく……

横でうにゅーが私の方に心配そうに見上げながら身を寄せる。

しかし私はそれ以上何も考えることができず、ただ、呆然と目の前の壁と向き合うことしかできなかった。



―――――――――――――Predawn


私がようやく冷静を取り戻したのは、殺風景な病室のベッドで薔薇水晶が静かに眠っているのをこの眼で確認して、少し経った頃だと思う。

「外傷は見当たりませんがどうやら事故で頭に強い衝撃があったようで……意識不明です」

見た事もない中年の医者が静かに事実だけを伝えてゆく。抑揚がない、というのか言葉に感情がこもっていない事務的な口調だったが何を言いたいかは大体理解した。

彼女に意識が戻るかはわからない。

本当に意識がないのだろうか、ここに私がいることすらただ夢をさまよう彼女には分からないのか。

私にはそれが信じられなかった。

自分に都合のいい考え方、だっていうことは分かっている。だけど、頭では理解しても心がついていかないのだ。
では、と病室を後にする医者に私と水銀燈のお姉さまは静かに頭を下げる。
ばらしーちゃん、と私は呟いた。今朝、あんなに元気に出かけたというのに。今日は記念日だからとあんなに楽しそうに。

私は薔薇水晶が横になっているベッドの脇に座り、彼女の白い手を握った。何故だろういつもより体温が低い、と感じた。
薔薇水晶、と私は再び呟く。しかし彼女は答えてくれない。心の中でもう一度呟く。

今の私は貴方がいないと成り立たないのに。
今の私には彼女の手を握り、ただ、祈るしかできない。
そんな無力な自分にやり場のない怒りを覚えた。それと同時に虚しさも感じた。
祈ったとしてもどうにもならないことだって知っている。人間に都合のいい神なんていないのだから。

だけど、私は今祈っている。今こうしてありもしない幻の神に祈っているのだ。
すべては彼女のために。
神よ。この世の中に神というものがいるのであれば……どうか彼女を救ってください。


私にはこうして黙りただひたすらに祈る雪華綺晶と薔薇水晶を見守ることしかできなかった。
始め、薔薇水晶が事故に遭ったと知ったのはちょうど私がめぐ、柿崎めぐへのお見舞いに行こうと黒いオーバーコートを手に取ったところだった。

机の上の携帯電話が振動し、誰かからの着信であると知らせる。どうせまためぐがまだ来ないの? と見舞いへの催促だろうと私は少々溜息を吐きながらオーバーコートを近くのソファに掛け、携帯電話のディスプレイを覗いた。

『柿崎めぐ』

ほら、やっぱり。彼女は強気な、いや性格がねじ曲がって強がっているだけなのだけれどもそれに似合わず寂しがり屋だ。
そう急かさなくても私は行くというのに。私は苦笑しながら携帯電話のボタンを押す。

「もしもし、めぐ? 今から行くからそんなに急かさないでぇ。何か欲しいものでもあったの」
『……水銀燈。落ち着いて聞いてね。今、佐原さんから聞いたんだけど……雪華綺晶の妹、確か名前は薔薇水晶だったわよね、彼女が病院に運ばれてきたって。交通事故だって聞いたわ』
「……はぁ? 見間違いじゃないの。あの子は雪華綺晶と違ってしっかりしているから」
『そうだと思って私も病室に見に行ったの。佐原さんに知り合いだって言って。確かに薔薇水晶だったわ。あの雪華綺晶と瓜二つだったもの。まるで鏡に映った彼女みたい』
「……その話、本当なら雪華綺晶は知っているの? 」
『多分、まだ知らないわ。今から身元確認やらなんやらって……こういうことって早い方がいいとおもって水銀燈に電話したの』

私は息を呑んだ。本当だろうか、あの薔薇水晶が事故で病院に運ばれたなんて。簡単には信じられない。

Trrr...Trrr...

教会の電話が鳴った。私はめぐにありがとう、とだけ言うと携帯を置き、教会に備え付けで古い型の電話機から受話器を手に取った。
胸が高鳴るようだった。しかしこれは間違っても高揚ではなく寒気から、何か嫌な予感が私の脳裏をすり抜けていった気分からだ。

「もしもし」

私は受話器の向こうの見知らぬ誰かに問いかける。

『水銀燈……さんですか? こちら有栖川警察署の者ですが、実はですね今先ほど』

それから警察と何を話したかはあまり憶えてはいないが、確かに記憶していることは
薔薇水晶は事故に遭い、有栖川病院へと運ばれた。
そして、彼女は偶然にもポーチにここ、教会の電話番号が記された何かしらを持っていた、ということ。
だから私に連絡がきた、ということらしい。

偶然か、それとも運命か、なんて恥ずかしくなるような事も考えたくなる。
始めて『彼女』と雪華綺晶、そして私が出会ったのも、このような感じだった。
雪華綺晶は彼女の手を握り続けている。

そう、あの日もこのような感じだった。

私はその様子をただ、黙って見守り、しかし意識は次第にあの日へと遡り始めていた。
まだ『彼女』が彼女ではなかった日の事を。


―――――――――――encounter


「やんなっちゃうわぁ、なんで冬は雪が降るのよぉ」

私は昨日から降り続く雪達を睨みながらスコップを手にする。確かに天気予報ではこの雪は積もらず、朝には止むと言っていたのに。

最近の天気予報はあてにならない、と一人愚痴を溢しつつ、教会前に積もる雪たちを掻き出してゆく。
私がこの教会に住み始めてもう何年たつのだろう。孤児院から飛び出してあてもなくたどりついた先はこの廃墟、まではいかないが神に誓った聖職者がいない古びれた教会だった。
始めのうちは大変だった。何せ人間の手から離れて何年も経っていたのだ、ゴミと埃、そして昆虫に小動物達の楽園と化していたのだから。

住むところがない私にもここは楽園に見えたことは確かだけど。
そもそもこの教会が廃れたのは位置が悪かっただと私は思う。何故病院の前に教会なんかを建てたか、それほどまで葬儀を円滑に行いたい、なんてブラックジョークは本場では通じても
ここ日本では笑われるどころ何をされるかわからないのに。

そんな教会に神の許可を勝手に貰い、住み始めた私だったが、ここまでになるには色々と難題もあった。片付けは時間をかければ終わった。問題はその後、この教会が市によって取り壊されるという事を知ったからだ。
ここを管理する真っ当な聖職者はいないのだから理由は簡単だ。

そんな絶体絶命な私を救ってくれたのは意外にも幼馴染の真紅だった。どうやったかは彼女の口から真実は決して話されることはないだろうが、風の噂では相当な金銭が動いたらしい。

誰も引き取り手のいなかった私とは違い、真紅は裕福な老夫婦に引き取られた、と孤児院で聞いた。その老夫婦も事故で他界、親戚もいなかった彼らの遺産はすべて養女の真紅に渡ったというわけだ。
彼女自身はそんなお金などには興味はないらしく、今はその老夫婦の世話になったという家庭に居候という形で住んでいる。確かあの家は桜田……とか言っただろうか。

どうもその家には二人の姉弟がいるらしく、真紅は居候の身で図々しく弟の方を下僕としていいように使っていると本人から聞いた。
教会のことを聞いても真紅はあの時の借りを返しただけだわ、と相変わらず愛想のない返事を返しただけ。
思えば私と真紅は長い付き合いだ。友人と言える友人がいない私にとって孤児院からの付き合いは彼女しかいない。いつだって彼女はうるさく、図々しく、それでいて信頼できる友人だ。

面と向かってそんなことはお互い口が裂けても言えないだろうが。
ともかく、教会存続が決定してから、私はこの教会事態の機能を回復させてきた。お祈りや懺悔、そして何かのお祭りごと、できることはやってきた。

今ではこの教会に訪ねてきてくれる人も増えてきた。ついでに何かしら持ってきてくれるのでとても経済面で助かる。やましい、なんて言われそうだけど神も言っていた。求めれば与えられると。
そんな人たちのために私はこうやって重い雪を持ち上げては庭の一角にまるでかまくらでも作るのかのように積み上げていっているわけだ。

「こんにちは水銀燈のお姉さま。雪、こんなにたくさん積もりましたね」

聞き覚えのある声がする、と雪を掻く手を休め、頭を上げる。
そこには純潔の、まるで雪の精霊のような彼女がいた。

「あら、雪華綺晶じゃない。どうしたのぉ珍しいじゃない」
「いえ、少しそこを通りかかったものですから」

と彼女はにこり、と笑顔を零す。
女の私からでも彼女は美しいと感じる。特にその『両目』だ。彼女の『瞳』は綺麗だと思う。その『両目』を見つめていると吸い込まれそうな魔力を持っている。

「少し雪掻き手伝っていきなさいよぉ、私ひとりじゃ日が暮れちゃうわぁ」

「ええ、喜んで」

また笑う。本当に大きな瞳だ。私の目付き少し悪いのが原因なのか、そこばかり目が行ってしまう。
雪華綺晶はおじゃまします、と玄関先に置いてあったもう一本のスコップを持ち出すと、私とは反対側の方の雪を掻き始めてくれた。
彼女だけにやらせて家主が怠けるわけにはいかない。私も再びスコップを担ぎ、エンドレスに続きそうなこの冬の悪魔たちに不毛なき戦いを挑むのであった。

ココアで良かったかしらという私の問いに彼女はええ、と一言だけ答えた。
私はもう骨董品なんて言われそうな古いガスコンロにやかんを掛けると、台所に寄りかかりながら一息ついた。
やはり肉体労働は趣味に合わない。早くそれに適した奴隷もとい、いい出会いを見つけたいところだがそれも難しいだろう。こんな寂れた教会に足を運ぶいい男は殆どといっていいほどいないのだから。

少し溜息を吐く。私には結婚を諭す保護者も何もここにはいないから別にどうってことはないのだけれど適齢期にはいい人が傍らにいて欲しいなんて妄想も見たりする。

まぁ、そのことについてはゆっくり考えるとしよう。どうせ今焦ったところで結果は見えてこないのだから。
やかんの水が少ないからだろうか、やかん口からはもう既にふつふつと蒸気を出し始めていた。

「はい、どうぞ」
「ありがとうございます、お姉さま」

私はお湯が沸騰するまで小動物のようにおとなしくちょこんと座っていた雪華綺晶にココアに入った白いマグカップを手渡した。

「熱いから気をつけるのよぉ」
「はい、お姉さま」

雪華綺晶は手渡したカップを少し愛らしそうに撫でたように私には見えた。このマグカップは雪華綺晶の専用で、彼女が私の誕生日に持ってきたものだ。ペアでよければ使ってくれと、結局はこのように彼女が使うという形にとなり果ててしまったのだが。

「で、新しい生活には慣れたのぉ? 」
「ええ、おかげさまで。案外、家の構造は前と変わらないので助かりました」

雪華綺晶は最近こちらに引越してきた。元々私達は親交はあったもののまさかこちらに引越してくるなんては私も思いもしなかった。

「けどこちらはこんなにもたくさん雪が降るのですね。朝起きて世界が真っ白だったのでびっくりしてしまいましたよ」

今年は少し早いくらいだわ、と私は笑う。

雪華綺晶は幼い頃、お父様と一緒に住んでいた唯一、とまではわからないが私が知る限りではただ一人の姉妹だ。そのことは私しか知らない。

他の姉妹の事も、例えば翠星石や蒼星石、金糸雀に雛苺は彼女が私たちと姉妹だということは知らない。そもそも彼女ら自身、お互いが姉妹、血縁関係があることすら知らないのにそれを知ることは不可能だ。

私がそのことに気がついたのは孤児院で唯一私に向けられたお父様の思い出、一枚の手紙だった。

『君は彼女らの長女だ。みんなをよろしくたのむ』

最後に記されたこの一文が私の人生を大きく変えた。

無二の友人、とまではいかないが信頼はしていた真紅とまで姉妹。例え腹は違えどお父様の血が流れる姉妹だとは、幼い私にはショックだったし、残酷だった。

もしかしから聡明な真紅のことだ、少し感づいているのかもしれないがあえてお互い黙っている。

そう、今の関係を崩すのが怖いから。
私達は、いや私は臆病者だから。今が最高、とまではいかないが幸せだから。

「……お姉さま? 」

雪華綺晶が心配そうにこちらを覗きこんでいる。

「あ、ああごめんなさぁい。少し呆けちゃったわ」

と、作り笑いを浮かべ誤魔化した。彼女もまだすべてを知らない。知らない方がいいことは世の中にたくさんある。多分、これもそう。

「ココア、お気に召したかしらぁ」
「ええ、お姉さまの優しい味がします」
「ふふ、市販の安物ココアだけどねぇ」
「だけどお姉さまが入れてくれたから」

雪華綺晶が笑う。彼女はいい子だ。純粋で、無垢で。
私とは違う。
嫉妬、なのだろうか、なにかチクリと心に刺さるものがあった。


ピンポーン


私の考えを遮るように呼び鈴が鳴った。

「ちょっとごめんなさぁい」

私は立ち上がると玄関、といっても礼拝堂の方ではなく小さな裏口のほうへと出向く。

「はぁい、どちら様……? 」
「こんにちは……シスター、でよろしかったですか」

玄関を開けるとそこには一人の青年、いや男性がいた。
その黄金色の髪と満面に薄っぺらい笑顔を浮かべた男だった。

「失礼、槐と申します。今朝がたここへ引っ越してまいりましたので御挨拶のほど」
「あ、ああ。そうですか。それはご丁寧に」
「何かとご迷惑をお掛けるでしょうがどうぞよろしくおねがいします」

ぺこりと、槐、と名乗った男性は頭を下げた。私も釣られるように頭を下げ返す。

「槐さんはおひとりでこちらへ? 」

私は頭を上げるとふと尋ねる。こんな男性一人で越してくるなんて違和感しか思いつかないからだ。

「いえ、実は一人、娘がいまして。今そちらで待たせているのです」
「ああ、そうでしたか、そうよねぇ」

私はなるほど、と納得した。子連れの親子か。母親がいないのを見ると別れたか死別か……それ以上は模索すべきことでもないだろう。

「娘を待たしているので……ではまた、水銀燈さん」

と、彼はくるりと私に背を向けると教会を後にしていった。確かにちょうどここから見えない所に娘がいたらしく、帰り際にちらりと姿見ることしかできなかった。

「槐……ねぇ」

私は裏口の玄関を閉めながら呟いた。どうもいけ好かないのはあの偽りの笑顔からだろうか。何か引っかかるものを感じる。

「お姉さま、どうかなされましたか? 」

という雪華綺晶の問いに、私はいや、とだけ答える。

「新しく引っ越してきたらしいのよ。槐さん、だってぇ」
「そうですか。けどわざわざ教会にあいさつに来るなんて珍しいですね」
「宗派がこれなら別に珍しいことじゃないけど……私のことシスターと呼んでいたし」

あっ、と私は思わず口に出してしまった。そう、矛盾点に気が付いてしまったからだ。

「なんであの人……最後に私のことを『水銀燈さん』なんて呼べたのかしら。私はまだ自己紹介していないのに」

ここには玄関札なんてはない。じゃあ彼は私のことを元から知っていたということになる。

「それは……考え過ぎですよ、お姉さま」
「……そうよねぇ」

考え過ぎ、だろうか。いや、そうなのだろう。別にここまで来る途中に誰かに聞いた可能性だってあるのだ、おかしい話ではない。
だけど、何か彼には『嘘』が混じっている。私にはそう思えた。


―――――――――――impatience


お父様は新しい家に着く早々、薔薇水晶と私の名を呼んだ。
また新しい我が家には段ボールやくしゃくしゃになった新聞紙がそこらじゅうに放り出されており、一言でいえば乱雑、散らかっている。

私を呼んだお父様はやけに上機嫌でもう一度私の名を呼ぶと飛びつくように抱きあげてくれた。

「思った以上だ」

お父様は言う。

「君にも見せて上げたかったよ、薔薇水晶」

お父様がしきりに褒めるのは先ほどあの教会で会いにいった『水銀燈』という人物のことだ。
お父様と私は彼女、いや『彼女ら』に会うためにわざわざ遠いところからここまでやってきた。私にはお父様がなぜ彼女らに会いに来たかは明確には教えてくれなかった。
ただ、お父様は私以上に彼女らを気にしているのはこんな私にもよくわかった。

「美しいとは思っていたがあれほどまでとは思わなかったよ」

「そうですか……」

私は答えるがそんな返事をお父様がいちいち聞いている様子はなく、また彼女の話を続ける。

「あのすべてを拒絶している、いやしていたが正しいかな、あの美しさは彼女ではないと出ない」

「私も一目見たかったですわ」

「奥にもあれは多分……雪華綺晶、という少女だな。あれがローゼンの最後の娘だろう」

「きらき……しょう? 」

私は聞き返す。少し私の名前に似ていると思った。名前の漢字まではイメージできなかったが。

「ああ。雪華綺晶という娘だ。奥にいてあまり分からなかったが少し顔を見ることができた。あの子は瞳が美しい」

瞳……胸が苦しい。私はお父様にそこだけは答えられない。

私の片方の瞳には薔薇の形をした眼帯が掛けられている。小さいとき、とある事故で私は片目を開けられなくなってしまった。
無理して開けようとすると痛い。とても痛い。
涙が止めどなく溢れてきてしまうほどに。
それから私は眼帯を掛けている。
これは完璧を求めるお父様に答えられない。汚点、私という『Defect』

その時からなのかもしれない。私の心の奥底でふつふつと『雪華綺晶』と言う名の見知らぬ乙女に嫉妬し始めたのは。
私は見たこともない彼女に嫉妬していたのだ。そんなことお父様に話せば私は変だと、笑われてしまうだろう。
私も見えぬ幻影を呪っているような気分だ。しかしそれは実像のある幻影。
影を憎んでいた、ということは同じくその実物を恨んでいるということに変わりはないのだから。



―――――――――――Vision

私が彼女と出会ったのはいつにも増して寒さが厳しい冬の日の午後だった。

この町に来てから私は毎日の日課、なんて大層なモノではないのだけれど、この町を見て歩く、要は散歩を出来るだけ欠かさず行っていた。

もちろん草花、そして空気までが凍り付いてしまいそうなこんな早朝にもそれは例外ではなく、この前新しく卸したダッフルコートを身につけ、湧き出るあくびを噛み殺しながら玄関の扉を開けた。

寒波が顔を強ばらせる。幸い、雪自体は昨晩で止んだらしく、外は一時の休息に安堵しているようにも思えた。

行ってきますね、と誰にも気が付かれぬよう、小声で呟き玄関を後にする。

殺風景な庭にはただ雪だけが積もり、飾り気の無いポストにはダイレクトメールが無造作に落ちている。
春には何か花でも植えてみたら、なんて水銀燈のお姉様は言うけれど私の家にはこれくらいが丁度いいと思う。

別に誰かにここを見せるわけでもないし、見せるべき相手もいない。私にはこのくらいシンプルがいい。

まだ雪掻きが終わっていない玄関を抜け、昨日の雪中、何人かが歩き作り上げたかすかな一本の道を沿いながら道を歩く。
こんな日に散歩をするのは近所では私だけらしく、他に人影は見ることが出来ない。
時々、かじかんだ手に吐息を掛けて、ただ私はこれといった目的も無く歩く。

このまま何時も通りのルートでいけば少し先に川があり、小高い土手から流れる冬の川を眺めるのも最近の習慣と化している。

雪が降った後の川はまたいつよりも増して美しく、何かこう芸術性をくすぐるものがあると思う。

何かカタチにして残したい、とか、歌や詞にしてもいいかもしれない。

なんて、と才能もない癖に考えることは一流か、と私は内心苦笑しながら雪道を歩む。

いつもの変わらない光景。
しかしそこには明らかな異物があった事を私自身は分かっていたのだが脳内で排除していた。排除せざる負えなかったのだ。

お互いの為に。知らぬ異物にそんな気まで掛けてまで。

しかしそれも限界に達していたこともまた、分かっていた。

私は足を止める。目の前にはもう一人の『私』がコチラをただ、見つめていたのだ。
もう一人の『私』と錯覚しそうな、まるで蜃気楼か鏡に反射された幻を見つめているような心境に陥る。

ただ、その幻には私とは唯一、といってもいい極端な違いがあった。

それは左目を覆い隠す大きな眼帯。

大きな薔薇が施され、目を引くその唯一の『違い』だけが私と『私』を区別する。

その眼帯さえ無ければ私達を遮るものすら、姿や形、魂までも同じであるかのように。

『私達は本質的に似過ぎていた』

思考が停止しかけている私の前に、眼帯の彼女はただ無表情に歩んでくる。

まるで彼女には私など眼中にないかのような、彼女の世界には私という存在が認識されていないのだろう。

硬直、といっても過言ではない私の横を通り過ぎる『私』

決して目は合わせない。合わせてしまったら私と『私』の境界線が曖昧になってしまいそうで。

息が止まる。

一秒一秒がまるで永遠になってしまったような幻覚。
頭に血が巡らず、心拍数が異様に高まる。

彼女は私の存在を認めぬまま、ただ、寒空を見つめながら、私を通り過ぎていた。

目眩がする。

もしも彼女が私と同じ感情を抱いていたのであれば、私たちの歩む道は

二度と交差することはない。

あの時までは

そう、思っていた。

――――――――――――――――A  fert.

 

雪の街で逢った彼女は存在すらしておらず、焦る私自身が見せた幻であった、と自分に言い聞かせているうちにあたりはようやく目を覚まし始めたらしく、寒そうに道を歩くサラリーマンや、学生が雪に埋め尽くされている道を悪戦苦闘しながら歩んでいた。

こうして一人で散歩をするのも久しぶりで、そう考えれば先ほどの出会いは運命、なんていう安っぽい言葉で片付けられてしまいたくはないので、ここは必然ということにしておきましょう。

私があの存在を認めるのであれば、の話ですけど。

あの『幻』はお父様の仰っていた少女に違いなく、なんと言ったでしょうか、彼女の名前。意識していたものの、本能でその意識を取り除きたいが為に、忘れたいがために脳裏から消し去ってしまったあの『幻』。他の『乙女』だって私が持っていないものを持ち合わせているのに、私には彼女だけが仇敵なような気がして。

それは彼女が、私にはどんなに頑張っても、望んでも手に入れることができないものを持っているからに違いないから。

覆い隠された片眼が痛い。

ほら、彼女は私の持っていないものを持っていた。

私が彼女を直視できなかったのもそのせい。あの眼には何か魔力、というのか分からないけど、何か人を引き付ける、一種の芸術品のような魅力がある。

それを見たくなくて私は顔を背けていたんだ。

お父様が言っていたことを信じたくなかったから。

見たこともない彼女を呪っていた私が、もしも実物を見て、それが自分が思っている以上で、その恨みを無きものなんかにするなんて到底無理なお話で。

ましてやその恨みは増すばかり。彼女は何もしていないというのに。逆恨みもいいところ。

そこまで考えて私は考えるのをきっぱり打ち切った。

これ以上考えたら必ず自己嫌悪に陥るから。

少し歩む速度を早め、お父様が待つ新しい自宅へと向かう。

慣れない道に慣れない空気。そしてその雰囲気に慣れそうもない私達。

異質なわけじゃないけれど、やっぱり私達はまだここの町では異様な存在なわけで。

お父様は無理やり笑顔を作ったりまでして慣れ親しみたくはない、なんて言いながらご近所さんに満面の笑顔を向けていた。

本音と建て前を使い分けることも大事だけど、それはなんだが少しさみしい感じがする。本音だけじゃ生きていけないことはわかるけど。

世の中に愛や希望なんていうものに満ち溢れた世界が少しくらいあってもいいなんて私は思うのだ。

お父様の今の世界もそういったものにいつかなればいい。きっとなると信じてる。

「ただいま戻りました」


冷たくなったドアノブを捻り、私は玄関を開けた。まだ玄関には開けていない段ボールが山のようになっている。決して荷物は多いわけではないのだけれど、どうしても段ボールの数が多くなってしまうのはお父様の仕事のせいだ。

「お帰り、薔薇水晶。朝の散歩なんて珍しいじゃないか」

「たまには朝の空気が吸いたくて」

と私は笑顔を返す。お父様は既に工房の方で新しい作品を作っているらしく、汚れたエプロン姿で出向いてくれた。

「何か新しい発見は有ったかい? 」

「……いえ、何も」

私は笑顔のまま嘘を吐いた。何かを悟られるのが怖くて。

「そうか。たまにそういった新しいことをするのもいいかもしれない。違った自分に会えるかもしれない」

お父様はただ、そう言うとまた工房へと戻るらしく私に背を向けた。どうもあの様子から、新しい作品の構成を練っていたらしく私も邪魔はしたくはなかった。

「そういえば、薔薇水晶」

お父様が言う。私はその言葉に何故か悪寒を感じた。

「君はよく、雪華綺晶に似ている」


何か、私の中で崩れる音がした。

 
雪華綺晶に似ている……『私が雪華綺晶に似ている』のだ。

 

決して『雪華綺晶が私に似ている』のではなく。

 

これ以上、お父様は何も言わず、工房へと戻って行ってしまった。

しかしこれで私は確信してしまった。信じたくなかった事を。

お父様は水銀燈、いやローゼンの子たちを探しにここまでやってきた。

彼の頭の中での順位は私より彼女が上。

優先順位が娘より、あの子たちの方が上。

もしも、お父様が彼女らを手に入れたら。

雪華綺晶を我が物としたならば、

私はどうなってしまうのだろうか。

所詮、『雪華綺晶に似ている』だけに成り下がってしまった私はどうなって。

悪寒がひどい。頭痛が私を襲う。食道まで胃液が競り上がり、吐き気が酷くなる。

私はこのまま愛されないただの人形と化すだけであることは間違いがない。

 
捨てられてしまう。私が愛するお父様に。

どんなにお父様を愛しても、こんなにも愛を注いでも。

治まることのない吐き気と頭痛に私は口を押させながら、水を飲むために台所へと向かった。頭の中ではお父様と彼女だけが交互に巡る。

彼が愛してくれない限り、私は彼女を恨み続けるのから。

愛される存在を恨むのだから。

―――――――――――――――Good-bye


彼が私の元を尋ねてきたのは既に八時を過ぎていて、辺りは闇の中、月明かりに降り落ちる雪が照らされ、まるで幻想の世界と錯覚してしまいそうなほどだった。

私はその時間はちょうど聖堂で礼拝を行う時間で、と言うとまるで私が本当の聖教者のようなのだけど、神にも周りにも形だけは見せる必要があるのだからこればかりはしょうがないし、それに別に嫌々やってるわけでない。
背徳者の罪の洗い流しにはちょうどいい感じがして。
それはもちろん今日とて例外ではなく、私はいつも通り、一人聖堂で跪き、祈りを捧げていた。

「今日の礼拝は終わりですかね」

扉の開く音と共に、聞き慣れない声が広い聖堂に響く。いや、一度聞いた声だ。
この声は脳裏に確かに刻まれている。しかし私は振り返らず、聖母像を見つめていた。

「別に構わないわよぉ。私ないなくとも神はあなたの声を聞くはずだから」

「おや、貴方が女神だとばかり、これは失敬」

「それが正しいとしても神を口説き落とそうなんていい度胸よねぇ」

厄介事になりそうと、少しため息を吐きつつ、私はようやく振り向くとそやはり扉の前には嫌味無い笑顔を、言葉を変えればまったく人間味の無い笑顔を作った彼、槐が立っていた。

「礼拝は自由にどうぞぉ。私からは何も言うことないわぁ。神に祈るのに私のありがたくない言葉なんていらないでしょ? 」

「それが今晩は貴方とお話をしたくて参ったわけなんですが」

「素敵な夜景の見えるディナーに誘っていただけるのなら考えてもいいわねぇ」

「それはまた次の機会に。別にそんな俗な話をしに来たわけでは無いのですよ、水銀燈さん」

槐は無機質な笑顔で私のもとへとゆっくりと歩み寄って来た。広い聖堂に彼の足音だけが響く。蝋燭に照らされた彼はまるで不気味な等身大の人形のような怪しさであった。

「今日はとても大切なお話がありまして。神に祈るよりも大切な」

「あら、寄付なら大歓迎だわぁ。もう毎日のやりくりでこちらは気でも狂ってしまいそうなのだから」

「あなたの父、ローゼンの事ですよ、水銀燈さん」

ローゼン? お父様の事をこの男が知っている? 私は少し顔を歪めた。何か不愉快な、足を踏み入れられたくない部分に入られたような気分。
私ですら知らないお父様の事を知ってるなんて、あり得ない。不快な感情を抑えながら私は口を開く。

「あらぁ、よく知っているわね。私のお父様の事。貴方私のストーカーか何か? 」

「ローゼンとは古い友人でしてね。私は彼の事を信頼し、彼は私の事を信頼している、そんな単純で深い関係でしたよ。あの日までは」

あの日? 私は聞き返した。槐はまだその笑みを解こうとはしない。もはやその表情が通常と化しているのだろう。普段の顔など忘れてしまって。

「あの日ですよ。ローゼンが消えた日。あなた達“姉妹”を残して失踪した日までは」

「私たち姉妹? なんのことだかさっぱりだわぁ」

「隠さなくてもいいのですよ、水銀燈さん。私は託されたのですから」

槐は近くの長椅子、それも実際はこの教会の奥底にゴミ同様に眠っていてここの元管理者に殺意すら抱いた代物なのだが、それに座り、私を見つめた。
さて、彼の瞳に私はどう見えているのやら……ヒトか、モノか。

「託された……ねぇ。委託金でもあれば頂きたいところだけど」

「私はその約束を果たすために世界中を娘と共に旅してきました。彼は最後にあの子たちを頼むと手紙て私に託したのですよ。そして私は貴方を見つけた。ローゼンの長女、水銀燈貴方です」

愛らしそうな目で見られることに嫌悪感を抱く。私は貴方の娘ではないのだから、例え槐がお父様に私たちを託されたとしても、槐がお父様にはならない。

「で、どうしたいわけぇ? 私を引き取る? それとも何か援助でもしてくれるわけ」

「保護、ですよ。誰にもあなた達を傷つけられないように、誰も貴方に触れさせないように、これが貴方のお父様の意志ならば私はそれを施しましょう」

「まるで動物園の珍しい動物みたいねぇ。ストレスで枝毛増えちゃいそう」

「……これはローゼンの意思ですよ、それを無視すると言うことは」

ふっ、と鼻で笑ってしまった。あまりにも可笑しくて、あまりにも不自然で、あまりにも……傲慢すぎて。

「お父様の意思? チャラチャラおかしいわ。例えそれがお父様の意思か、あなたの意思か私には分からないけれどそんなの一方方向過ぎるのよ。
私は今が幸せなのよ、この幸せを壊してまでお父様を尊重なんて可笑しいじゃない。私、いや私たちはお父様の娘だわ、けどお父様の人形、ましてや貴方の人形なんかじゃないのよ」

椅子を蹴り上げる。しかし槐は眉一つ動かさずに私をしっかりと見つめ、いや睨んでいた。

「……また来ますよ」

彼は静かに立ち上がり、こちらを振り向かぬまま聖堂を後にした。

振り向かなかったのか、振り向けなかったのか私には分からない。
……またため息を吐く。
お父様、槐、そしてまだ見ぬ姉妹達。何も知らぬ姉妹。知っているのは私だけ。
なんだろう、禁断の果実を口にしたような気分だ。それは背徳であり、言い方を変えれば生贄。
別にいやでこれを背負っているわけじゃないけど、たまには少し押し付けたくもなる。

「まったく根性まで曲がると手もつけられないわぁ」

嘲笑う。自分の罪深さに。

「さて、たまにはワインでも開けようかしらぁ」

なんて独り言を呟きながら立ち上がった私であったが、脳裏にはあの、最後の槐の表情が焼き付いて離れなかった。
彼のあの顔……絶望に近い憎しみの表情を私は忘れることは無かった。

―――――――――――――Night of hatred

胸騒ぎが止まらない、と私は夜、一人ベッドの中で胸に手を当てた。
また今日も。
お父様が私にあの言葉を言い放ったあの日から。
毎日、毎日……毎日毎日毎日毎日。

心が徐々にあの言葉に侵されてゆくような気分。

痛いのだろうか、辛いのだろうか。いや、きっと私は寂しいのだろう。
愛するたった一人の人物に裏切られて。
いくら私が愛しても、あの人が私を見てくれなくて。

どくん、と胸が鳴る。

今日、お父様はあの教会に行くと行っていた。ついにローゼンの子を手に入れられる、と。
そう、話すお父様に私は笑いながら頷いてはいたが、心の底では失敗するだろうな、という思いがあった。
お父様は外堀を埋める、というのだろうか、用意周到なくせに一番大事な所で準備を怠る、油断するのだ。
それはお父様自身、分かっているとは言っているがそれは慢心であり、実際は分かっている“つもり”であって。

だから、私は今夜も失敗するだろう、と。
だけど、私はお父様を止められない。いや、『止めない』

だってそうすればお父様は私を見捨てないから、いつだってこちらを向いていてくれる。
分かっていたのかもしれない。本当は昔から。
だけど、私自身がそれを認めようとしなかっただけの事。

なんて醜い。

なんて……。


玄関付近を誰かが歩く音がする。
いっそ私を攫う誘拐犯ならばいいのに。何も分からなくなった方が幸せなのかもしれない。お父様を知らない生活の方が。

抵抗なく鍵の開く音。私の希望は泡と消える。
お父様が帰ってきた。
私は玄関が開く音を耳で探りながら静かにベッドから這い出た。

私が部屋の扉を閉める頃、何か物がぶつかる音が家中に響き渡り、私の背筋を強ばらせる。
せっかく引っ越してきたばかりだというのに、と思ったりはしたが毎回の事と心の何処かで納得させ、階段を降りた。

リビングの明かりは点いている。

「……クソッ!!」
お父様が叫ぶと同時にしゃん、と何かが壊れる音。
「やはり私では超えられないのか、ローゼンを」
私は聞き耳を立てるようにリビングに近寄る。
「今の私にはあんな男、と思っていたのにまただ。また一番大事な場所で失敗する」
リビングの扉から覗いてみると、お父様は疲れたようにソファーに座っていた。

「何が……何が足りないのだろう。するべきことはしてきた。ローゼンがしてきたことはすべて……何が超えられないのだ私には」
それは……。私には理由がわかる。しかしそれは決して口には出せないもの。
『ローゼン』を目指す男が『ローゼン』を超えられるはずないのだから。

二番を目指して一番になれっこなんてない。

「……薔薇水晶、そこにいるのかい」

見つかった。 私は不安を抱きながらはい、と返事をした。

「こっちへおいで、薔薇水晶」

「薔薇水晶、君は美しい。僕の誇りなんだ、薔薇水晶」

そう私に話しかけたのか、それとも自分に呟きかけたのか私には分からない。

「けどやはり完成品ではない。私の求める『作品』ではないんだ」

そうまた呟きお父様は立ち上がる。身体が強張ったのはこの部屋が寒いから。

目が合う。私を見上げるようにするお父様は泣いているのか、それとも怒りに満ちて我を忘れているのか。私にはその表情から読み取ることが出来ない。

「何故だ、何故あれほど彼女は崇高なんだ。なぜ超えられない! 私にはやはりローゼンは超えられない。やれることはやった。だが何故薔薇水晶、お前は彼女らに追いつくことはあっても追い越すことが無いんだ。私の最高傑作な薔薇水晶。お前は、お前は……」

手がのびる。お父様の細く、しかしゴツゴツした手が、指が私の首を掴む。殺意が無く力が入らない、その指先はまるで私を確かめているようにも感じた。
吐息が混じる。お父様の指は私を確かめるように身体を這う。首を、肩を、胸を、腰を、足を腕を。

そして、その指は私の顔を、犯すように。

「何故君は、何故君は瓜二つの雪華綺晶さえ超えられないんだ」

指先に力が入る。押し倒された私は声も出さずにお父様の指先を、愛撫するその指を受け入れた。
拒絶したって、何も変わりやしないんだ。何も。
まるで獣のように、あの日のお父様ではないように、今は一人の男が一人の女を犯しているだけの関係。

口を指で開かれ、無理矢理ねじ込まれるに舌は、不思議に嫌悪感を感じさせなかった。

だが、それはお父様の愛しているのから身体を寄せているのではなく、哀れんでいるからであると気がつくのには時間はかからず、それを忘れるように、私は滲み出る快楽に身を委ねていった。


そして私は決意した。これは私の一つの決意。私が私を超えるための。
愛するお父様を取り戻すための。

――――――――――――――――I of mirror

胸騒ぎがする、そんな夜だった。
シャワーを浴び終えてから私はカーテンを少し捲り、まるで鏡のように私を映し出すガラスを眺めていた。

ガラスに映るのは私で、もちろんその向かい側には本当の私がいる。

……あの子は今どうしているのだろうか。

あの日、あの寒い朝に出会ったまるでもう一人の私のような彼女は。

水銀燈のお姉様が言うには彼女はあの槐という男性の娘だろう、と言う。それはお姉様自体、憶測の域であることは私にも分かることであったが、それしか思い当たる節が無いのも確か。

それとも、あれは本当にドッペルゲンガーにあたるものなのだろうか。

後者なら私は近々死んでしまうことになるのだけれど……。

「死ねる理由にはならないよね」

私はぼそり、と呟いた。

歪み過ぎて何が真っ直ぐなのか分かったものではないなぁ、と思いながらカーテンを放し、ソファーに身を投げた。

自分が歪み始めているのに気が付いたのは水銀燈のお姉様に会った頃から。

それは水銀燈のお姉様の前で振る舞う私の仕草すべてが偽りに感じたから。

お姉様は私がいい子だと言ってくれるけどそれは演技で、私はすでにお父様に捨てられた時点で破綻している。それを繋ぎ合わせているのは残り少ない理性で、それを動かしているのはつまらない理由へばりつく生への渇望なのだろう。

継ぎ接ぎだらけでまともに動かない心では何も得られないというのに。

暖房が心地よい。バスタオルを被ってこのまま寝てしまおうか、なんて思っているとピンポン、と玄関のベルが鳴った。

こんな真夜中に誰だろうか、と頭を巡らせてみるとそういえば今夜あたり水銀燈のお姉様があの槐という人物について話がある、なんて言っていた気もする。

私はふらりと立ち上がり、玄関へ向かった。
これで玄関にいるのだ赤の他人といった可能性だってあるのだが、それだったらこんな乱れた私を見たらどう思うだろうか。
痴女? まだ純潔の乙女のつもりなんだけれど。

玄関を開けると、そこには『私』が立っていた。

この悪寒は冬の寒さではなくて、本能の警告だったのかもしれない。

「こんばんは、夜分遅くにすみません」

「あっ、えっと……ちょうと待っていてくださいっ」

私は玄関から離れ、リビングに飛び込むと、何か適当に洋服を着込んだ。
水銀燈のお姉様じゃない。しかもあの『私』だ。
深呼吸で鼓動は治まることもなく、警鐘を叩き鳴らすように心臓が伸縮する。

「ごめんなさい、父が明日の早くにもこの町を離れるというので、貴女だけには一度挨拶をしたかったので」

手を後ろに組んだ彼女はニコニコと私に笑みを向ける。純粋無垢、に見えるが、どこか私に似た笑みなのかもしれない。

「一度、あの日の朝にお会いしましたね、槐さんの娘さん? 」

「合っておりますよ。あの日は寒い朝でした。あの日、私は鏡からあちら側の自分が逃げていったのかと思いましたよ」

確かに、と同意はできなかった。確かに私たちは似ているが、似すぎているのだが私達を区別するものが二人にはある。

それは眼帯。あの印象的な薔薇の眼帯である。
それはもちろん彼女も分かっているのだろうが。

「一度ゆっくりとお話をしたかったのですけど。それも叶わない夢となってしまいましたね」
だから今夜、少しだけでもと思ったんですけど、と彼女はまた笑みを浮かべた。

「けど、目的は果たさなければいけません。いけないのです」
ガチャリ、と玄関から音がする。
鍵の閉まる音? 私の脳内はそう認識するのだがそれは非常識すぎて認識されない。
なぜ鍵が閉まる? 水銀燈のお姉様が鍵が閉まっていると思って合鍵を使って、結果的には閉める形となってしまったが、そのせいで鍵穴を回したのであろうか。

いや、違う。

彼女の崩れてきた笑顔を見つめながら、彼女が、後ろに組んだその手で鍵を閉めたのだと認識する。

だから彼女は先程から手を後ろに組んでいたのだ。その為に? 何故鍵なんて閉めるのだ? 私を押し倒すから? まさか。

「そもそも貴方がいけなんですよ。貴方がここにいなければお父様はあんな事を仰らなかったんだし、私も汚されることなんて無かった。純粋で無い乙女にお父様が興味を示すハズないのに。自ら汚して汚れて汚されて。水銀燈なんていう妄想に囚われた哀れなお父様を救おうと私は必死だったのにローゼンなんていう虚像に惑わされないで済んだのに。貴方もそう思うでしょ、雪華綺晶さん? お父様は可哀想な人なんです。だから私が支えなければいけないのに、いままでそうしていたのに貴方が出できたから私の優先順位が変わって、あの人の見る目が汚らしく見えてああああ、お父様可哀想可哀想可哀想」

一歩下がる、いや本能が下がろうとしているが下がれない。彼女の手が掴んでいる。今まで玄関の鍵を探っていた手が、なんでそんな事にすら気がつかなかったんだろう。もう彼女の目線から離れられないしそもそも身体が動かない。
まるで一種の言霊(ことだま)。彼女の何かしらの気持ちが私自身を束縛しているような。

「な、何を言って」

「だから私は消毒に来たんですよ。汚れたら綺麗にしなくちゃ。ほら、いつも言われていたんですよ汚れたら手を洗えって。この汚れは洗っても落ちないから根元を綺麗にするんです。そうすれば綺麗になるでしょ? キレイキレイにして新しい朝を迎えておいしいコーヒーを入れる日々を迎えてだから貴方は邪魔で」

彼女が私の手を引っ張り、引っ張っられたのに近づいてきたのはフローリングと彼女の身体。
ゴツン、と後頭部に衝撃と鈍い痛みが走った。少し吐き気のようなものがこみ上げてくる。

彼女が上で、私が下で。それが貴方が求めた立場なのかもしれないけどそれは求めるものじゃなくて、成っていくもの。

唇が乾き、口内の唾液に粘性が増す。心臓が苦しい。そんなに早く動いても私は動けない。気迫と言霊。動かないと、動かないと。

私は彼女のもうひとつの隠していた腕、その先にある手に握られた果物ナイフを睨んだ。

ナイフを持たない方の手が私の腕を離し、顔面を押さえつける。左目が完全に隠されて、ぐるり、と右目で彼女とナイフを見た。

彼女の吐息が顔に掛かる。目は血走り、呼吸は規則性を失っている。

「貴方たち、いや、貴方さえいなければ私はお父様に捨てられることも、あのような目で見られることも無かったのに!! 貴方の、貴方のその、そのそのうぁぁあぁぁぁ!!?!?!!?! 」

極度の疲労と筋肉の強ばりを感じながら私は全ての力を込めて彼女の顔面を下から支えるようにして押し上げる。
指先で顔面を犯し、人差し指が眼帯を引っ掛ける。

その瞬間、顔面が焼けた。そんな感覚が脳髄にダイレクトに伝わったような、感じ。しかしそれと同じくして私の右目には金属製の冷たさが伝わって、中に中に?? 眼球の中から? 冷た

直後、私は声にならない悲鳴を上げた。声が出ないんじゃない、何か超えてはいけない周波数のようなななな

世界が真っ暗、真っ赤に染まって、私の指は彼女の眼帯を取り去った。

そこには、目にはナイフが突き刺さって

小刻みに揺れるナイフの先端が目を抉っていって

左目は覆い隠されているはずなのに

私にはその世界が見えて

ああああああ全ては見えないものなのに

彼女の眼帯に隠された目からは



涙がこぼれていた。



痛みでようやく身体の拘束は外れ、私は彼女を押し返した。

だけどそれでもう動けなくて、押し返した拍子で抜けた、使い物にならない眼球を両手で押さえ、呼吸器官を押さえつける。大丈夫、大丈夫。痛くない、痛いのにもうそれは痛すぎて麻痺してるのかもしれない。

左目で捉えた彼女は、私同様にナイフが刺さっていて

刺さっていて??

笑顔を浮かべて、彼女の服の上からお腹に赤いシミと果物ナイフが刺さっていて

お互い血の臭いがして

彼女の笑い声が響きわたって

私は意識が途切れた。


――――――――――――――――――Tears of blood


血の臭いがまだ鼻に残っている感じがする、と不快に思いながら私は彼女のベッドの横で座りながらその静かな寝顔を眺めていた。

あの事件から既に二週間。彼女はまだ目が覚めない。怪我はそれほどひどくない、と担当医は言っていたのだけれど。
やはり心身的なショックの方が多いのかしら。
あの日の朝には槐は消えていたらしい。家財道具は置きっぱなしな癖に金品類はひとつも残ってなくて、あそこは男女の獣の臭いまでも残っていた。

何があったかは想像し易いが想像したくない。人として、倫理としてそれはしてはいけない行為なのに。

この子は置いていかれた、っていうことになるのよね。実の娘を捨てて街を出るなんて、それほどの理由があったのだろうか。それともあの日の私の対応が悪かったのかなんては思いたくない。

これからどうするのかな、と私は彼女、薔薇水晶と呼ばれていた槐の娘の髪を撫でた。

あまりにも可哀そうで、哀れみしか、同情しか浮かんでこないのだけれど。

コンコン、と扉がノックされる音がした。

「お姉様、ここですか? 」

雪華綺晶の声が病室に響いた。

「ええ、ここよぉ。もう、また勝手に歩きまわって」

「お姉様がどこかにいってしまうのが悪いんですよ」

と笑みを浮かべながら雪華綺晶がこちらに歩んできた。

あの美しかった右目には不恰好な包帯が巻かれていて、私は胸を痛めた。

「……目はもう大丈夫なの? 」

コクン、とただ頷き、雪華綺晶は薔薇水晶のベッドへと近寄り、彼女を見つめていた。

「可哀想な子。貴方も私と一緒、独りが怖かったのね。愛すべき人に捨てられ、孤独になりたくなかった可哀想な……」

「もしも薔薇水晶が目が覚めたら、雪華綺晶、あなたどうするのぉ? 」

沈黙。

彼女は目線をこちらへ向けようともせず、薔薇水晶を見ていた。

「恨んではいないの? 自分をこんな目に遭わせた彼女を」

「一緒ですから。私とこの子は」

そう、と私は一言呟いてそれからは黙っていた。
やはりこの子も寂しかったのだろうか。お父様と一番最後まで一緒に居たという雪華綺晶。けどお父様に私達と同じように捨てられて……。

もしも、雪華綺晶に私がいたように薔薇水晶に私のような、なんていったら自分を褒めているようで気持ち悪いけど、独りになった時、信頼できる誰かが、何かを相談できる誰かがいたらこの事件は起きなかったのかもしれない。

すべて私たちは親に振り回されて、こんなにも乱されて……もう失望している筈なのに心の奥底ではいつか迎えに来てくれるとか、そんな事を望んでいるんだ。














「おはよう、薔薇水晶」

そんな言葉で私は睡魔の手から逃れた。

いつの間に眠ってしまったのだろう。欠伸を両手で隠しながらベッドの方を見てみると、雪華綺晶が目が覚めている薔薇水晶を抱き起こしていた。

薔薇水晶が起きた! 私は眠気を振り切り、ナースコールのボタンを押そうと立ち上がろうとしたが、

「いいんです、お姉様」

雪華綺晶が横に首を振った。私また中途半端な格好で寝ていて痛い身体を休めるようにパイプ椅子に座る。

仮にもあちらは病み上がり、いや両方共病院に入院していたんだからそうなんだがまた薔薇水晶が雪華綺晶を襲うというもしもという事がある。凶器は無いにしても、仮にも薔薇水晶は雪華綺晶の目を抉った張本人なんだ。

「……ここは」

「ここは病院よ。薔薇水晶」

「……貴方は? 私はなんでこんなところにいるの? 私は……何を」

記憶喪失? 私は薔薇水晶を見た。確かに心身的なショックで記憶が失われることはあるけど……それはフィクション内だけだと思っていたからそれは意外で、好奇心を沸き立てた。

「…………貴方、忘れたの? 買い物の帰り道、事故にあったのよ。私心配したんだから」

「事故、そうなんだ……貴方は? 」

「おねえちゃんじゃない。忘れたの、私の『妹』薔薇水晶」

姉!? 私は雪華綺晶を見つめた。しかし彼女はその聖母のような柔らかな笑みを絶やさない。



本当は止めたかった。全てを話して私は薔薇水晶を罵倒したかった。私の妹をこんな目によくも! と。同じ目に遭わせてもやりたかった。家族なんだ、雪華綺晶は。私の妹なんだと。

けどそれは出来なかった。止められなかった。

止めることなんて、出来やしなかったんだ。

一番辛いはずの雪華綺晶が、同じ孤独の薔薇水晶を迎える。止められるはずないじゃない。

「おねえ……ちゃん? 」

「そう、私の可愛い妹、薔薇水晶」

雪華綺晶は薔薇水晶を優しく抱きしめた。薔薇の眼帯をしていない彼女は雪華綺晶によく似ていて、本物の姉妹のように見えた。

そしてその左目からは涙がこぼれて、雪華綺晶の頬を湿らせた。


――――――――――――――――――L.O.V.E.

「あの日の様ですわ」

と私は呟き、水銀燈のお姉様はそうね、と答えた。

「けど立場がまるであの日とは違うわぁ」

「あれから色々ありましたね。真紅のお姉様たちへの言い訳に私と薔薇水晶の慣れない二人暮らし。けど楽しかった。あれほど輝いていて、家族とは本当に暖かいものだと感じた日々だった」

医者からはいつか記憶が蘇るなんて言われたけどそんなこともなくて、私たちは幸せだった。これを他の人は偽りの愛だとか同情の塊なんだろうなんていうかもしれないけどそれはそれでいい。

私たちは幸せだったんだ。少なからず私たちは。

水銀燈のお姉様とも長い付き合いで、いつだって私達を支えてくれている。もうひとつの『家族』


「………っ……んっ……」

んんっ、とベッドの薔薇水晶が苦しそうに唸ったような気がして薔薇水晶!? と座っていた椅子を蹴倒す勢いで私はベッドの脇に駆け寄り最愛の妹の顔を見た。

「…………おねえちゃん」

「おはよう、薔薇水晶」

虚ろな目をこちらに向け、薔薇水晶は笑った。まだ視線も定まらず、今何が、どういう状態なんていうものはわかっていないのだろう。

「私、あれ……そうか、またあの時みたいに事故に」

「貴方はおっちょこちょいですから。やはり私が付いてないと」

「もう子供じゃないんだよ、おねーちゃん」

私は薔薇水晶の手をしっかりと握り、それに彼女も握り返してくれる。お互いの温かさを感じて、私達は生きていることを知るんだ。

水銀燈のお姉様はいつの間にか病室から姿を消していて、ここには私達二人しかいなかった。

お互いの体温を感じながら彼女が口を開く。

「私、夢を見ていたの。昔の夢を」

「そう……ですか」

「夢の中で私は金髪の……あれはお父様なのかもしれない、彼を追いかけて、追いかけて、泣いていたの」

金髪の、お父様か。私の脳裏に蘇るのは本当のお父様じゃなくて、槐。彼たった。

「そんな私に手を差し伸べてくれたのは、おねーちゃん、貴方だった」

「……うん」

「綺麗な瞳だった。私はおねーちゃんの全てを知らない。私の中のおねーちゃんは今のままのおねーちゃんしかいない。けど、けど夢の中のおねーちゃんは」

そう、と薔薇水晶が何を言いたいのか、何を伝えたいのか私には痛いほどわかった。だからその気持ちをより感じようと、強く手を握る。

「ねぇ、おねーちゃん」

薔薇水晶が私に問いかける。

「どうしたの、薔薇水晶」

いつものように、私は彼女に答える。

「私、本当は……本当は」

身を起こし、私の目を、彼女が知る由もない、いや『今の彼女が知る由もない』私の右目をしっかりと認識している。

恐怖からか、罪の意識なのだろうか身を震わす彼女を私は強く抱きしめた。

「薔薇水晶。例えどんな過去があったとしても、貴方は貴方よ。大切な薔薇水晶……私の、私の最愛の妹よ」

嗚咽混じりで、うん、うんと頷いてくれる彼女を、私は、無くさないように、失わないように、しっかりとただ、抱きしめていた。


あの頃の彼女は『愛』を知らなくて。
あの頃の私は『想い』を知らなくて。

だからこそ、今の私達がいる。



『雪華綺晶的な思考』

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