新年明けたからといって、別段何の感慨も沸かないというのが、僕の常だった。
特にテレビを観るわけでもなし、どうせ観たところで下らないし。そう思って、僕は相も変わらず、年越しの瞬間から、ずっとネットに繋いでいるだけだった。
年が変わってから暫くして、ぶぶぶ、と携帯電話が身を震わせ、メールが届いたことを僕に知らせてくれる。日付の変更から二、三十分経っているのは、それだけ元旦と共にメールを飛ばした輩が多いせいだろう。センター大忙し。お疲れ様。
どれもこれも、友人からだった。
『あけましておめでとう!』『今年もよろしくお願いします』……
――そもそものところ、こういったメールが届くこと自体、何も悪くないだろうとも思う。むしろ有難いこと。彩りのある絵文字が満載された文面を見やりながら、考える。一昔前の自分ならば、そんな思いも抱かないに違いなかった。新年を祝ってくれる、そういう存在が、確かに居るということ。むしろその事実から、きっと眼を逸らしていた筈。
でも、今の自分は違う。届かなければ返さなかったメールなんだろ、という事実から積極的に眼を背けながら、かちかちと携帯をいじる作業に取り掛かった。ちなみに、年賀状は一枚も書いてなかったし、誰にも送ってない。面倒だから。届いてたら、一応返す。それにしても、こうやって携帯のメールで年始の挨拶をしてくるのならば、いちいち葉書で送ってくる意味があるのだろうかと思う。その疑問を浮かべるのは、年の初めに一回くらい。だから今年の分として、その問いはこれで終了した。
ぷしゅ、と、年明け一本目の缶麦酒のプルタブに指をかけた。別に勢いよく振っていたわけではないから、ちょっと炭酸が噴出す音がするくらいで、何の問題もなくその口は開く。左手の中指だけでそれが出来たことが、ちょっとだけ幸先良いような感じを抱かせた。幸先? 何の。
一人で乾杯の音頭を取って、メールを打つ、ひとりひとり、ちゃんと返事を考え、打つ。返す順番は、殆ど僅差ではあったけれど、メールが届いた順。わざわざ年賀の挨拶をくれたのだから、当たり前のことだ。パソコンのメールから返しても良かったし、それなら作業効率は現時点の凡そ十倍になるだろうと思うのだが、携帯に送られてきたのだからそれは流石に、と自重した。
一人暮らしの部屋も、大分慣れた。六畳一間、キッチンはあんまり広くなく、それでも一人で自炊する分には十分な広さ。コンロも二つついてるし。強いて苦言を呈するなら、そのコンロが横ではなく縦に並んでいるということか。これでは、一度に二品加熱するのが厳しい。微妙に感覚も狭いし。だからいつも僕は、チャーハン紛いというごくごく簡単な料理を作ることに甘んじている。紛い、というのは、中華鍋でそれを作っていないため。火力も十分ではないため。元々は僕がそう評した訳ではない。どこぞの料理にうるさいお嬢様が、そう言ったのだ。
『中華は火力です! ああもう貸してください私がやります!』
貸したところで火力がどうにか出来るものか。このガスコンロ、上に何か押し付けてないと勝手に消えるんだぞ。スーパーセキュリティ設計だ。セキュリティ? とりあえず大人しくフライパンを委ねた。そうするとあら不思議、ぱらりと美味しそうな焼き飯の出来上がりと相成る。どうしたの火力。その辺を全てうっちゃって、麦酒の乾杯と共に舌鼓をうった。昨日。真昼間から。
とりもあえず紛いと呼ばれることを気にしなければそれは非常にお手軽で、最近ではキムチとオイスターソースを入れて辛めのものを作ることも見出した。大変素晴らしいものを生み出してしまったぞ、と当時食べながら思ったものだが、それは誰にも言わなかった。どこかかわいそうな視線を浴びせられるような、そんな気がしたからだ。キムチチャーハン馬鹿にすんなよ。
相も変わらず携帯をいじりながら、くぴりと缶を傾ける。
麦酒、と呼びつつ、実際のところ缶にでかでかと「端麗」と書いてあるところに、学生の経済力の悲しさを感じた。本物の麦酒は微妙に高い。バイトはしてるけれど、実入りは生活費を差し引いてしまえば、ごく僅か。それを差っ引いたところで酒を買っていると知られたら、姉ちゃんは泣くだろうか。『ジュン君が呑んだくれになっちゃった』くらいは言うかもしれない。だが、それは冗談にもならない。とてもじゃないが、酒の強さで姉ちゃんに敵う気がしない。
いいんだよ、発泡酒でも。年を食っても美味いと感じるひとには大変美味い。グリーンだよ。カロリーだって控え目だ。その辺りを寸分も気にしたことはないけど。むしろもう少し肉をつけたい――と、友人に以前呑み会の場で言ったら殴られた。非常に綺麗な右ストレートだった。何故だろう。
ちょっとでも酒が入ると、色々考えすぎてしまう。その思考も、特に自分にとって、およそ何の足しにもならなそうな類。考えること全てが無駄だとも言わないが、少なくともプラスに成らないことは確か。仕方がないので、空気を入れ替えがてら窓を開け、ベランダに出ることにする。
「はぁ……」
年末、もう昨年の話。つい先日から降り続いていた雪は、未だやむ様子を見せない。あたり一面、ぼんやりとした白色に包まれている。きっとこれは、このまま根雪になるのかもしれない。
そういえば、冷蔵庫に入っていた麦酒が、そろそろなくなる。正月だから酒屋も閉まっているだろうし、コンビニで適当に補充すれば良いと。
考える。
訳だが。
ちょっと予想していて、期待していなかったと言えば、嘘になる。
しんしんと降り来る雪。どこまでも白く、辺り一面に積もり行く、雪。
アパートのベランダからは、T字路になった道が見渡せる。その向こう側から、がちゃがちゃと音をたてるビニール袋を持った人影が、しずしずと歩いてくるのが見える。何故か、傘は差していなかった。
アパートの前で、足を止め。ベランダに居る僕を見ながら、その人影は言う。
「あけましておめでとうございます」
柔らかい髪に。うっすらと純白な雪が積もっていて。
その姿が、とても綺麗であると思った。
「……おめでとう」
寒いに違いない、と思って。
早く中に入るよう促したのは、間の抜けた返事をした、そのちょっと後のこと。
【お酒と、お正月と、お嬢様】
「はあ、すごい雪ですねえ。素敵です」
「傘、さしてくればよかったじゃないか」
「いえ、いいんです。降り方は穏やかでしたし、あれを傘で遮るには、ちょっと勿体無いです」
「そうなのか?」
「そうなのですよ」
明けましておめでとうの乾杯は、非常にプレミアムでモルツな純正の缶麦酒で行うことになった。発泡酒は勿論すきだが、たまに呑むからこういうのも美味い。いつも呑んでたら飽きるだろうとも言わないが。
とりもあえずこうして麦酒を呑めるのは、つい先ほど僕の家にやってきたお嬢様、雪華綺晶がこれでもかと言うくらい持って来てくれたお陰である。毎度毎度、生々しい話、もう金額にしたら結構な額になるんじゃないかと思う。でもその大半は、雪華綺晶の細身の身体に吸い込まれていって、僕が呑む分としては殆ど残らない。勿論、ひとつの文句もない。本来は無かったものなのだから。
雪の降り来る中歩いてくるお嬢様、とう図に対して、遠い既視感を覚えていた。あれから何度も雪華綺晶は家を訪ねていたものの、その時の情景はことさら鮮やかに僕の頭の中に残っている。ような気がする。
「ところで、何か用事でも?」
「え? それは、新年のご挨拶です」
「家は大丈夫なのか、門限は」
あるにしたって、とっくに過ぎてるだろうけど。
「ちゃあんと、執事に言付けておりますので。お泊りもオッケーですよ?」
ずぃ、と。やけにでかい手荷物を眼の前に差し出され、自信満々の様子で雪華綺晶は嘯く。相変わらずの笑顔で。
「それはもう驚かない。……薔薇水晶は?」
「ばらしーちゃんはですね、年末のイベントとやらで買い漁ったうっすい本を消化するのに年末から全ての時間を消費しておりまして、今も続いております」
「ああ、そういう……」
つまりは、雪華綺晶が此処を訪れるのに、何の障害も無かった。僕はそう判断する。
「新年のご挨拶は、メールでも良かったのですけれど。是非とも、直接伝えたいと思いまして」
そういえば、雪華綺晶からは年賀のメールは届いていなかった。彼女の妹、薔薇水晶からは、一応届いていたが。
『今年は一緒にコスプレ! よろしく!』
よろしくじゃねえよ何のだよ、という突っ込みを一応返してやった処に、僕は自身の優しさを鑑みても良いのではないかと思う。姉にそういう趣味がなくて良かった。
「たまにやりますよ?」
「読むなよ! 思考読むなよ! なんのだよ!」
僕はすかさず自分の麦酒を空にした。そして次なる缶に口をつける。
「ああ、ばらしーちゃんオススメのです。白いふわふわしたドレス調の服でしてね、ちょっと丈が短くて恥ずかしかったんですけど。眼帯も薔薇なんかあしらったりして、見た目可愛らしい感じです。決めポーズは四つんばいでにやりと笑う、とか言われて始めは嫌だったんですけど、それだけは外せないってばらしーちゃんが言うので、私がんばりました!」
おかしい。今眼の前に居るのは(ちょっと酒のタガは外れているが)清楚で、大人しい感じを地で行く存在の筈だ。
……と思いながら。眼の前に居る雪華綺晶はそんな白いふわふわしたドレスを着て、薔薇をあしらった眼帯をつけて、四つんばいで不敵に笑う。あまりにも大胆で、それでいながらどうしてもその様に違和感が無さ過ぎて、かえって僕は混乱していた。これが、これが、お嬢様の新しい一面なのか。それとも元々持っていた素養なのか。
少なくとも、がんばったという彼女の言葉に対して、僕は手放しに労いの言葉を送る気にならない。あまりにもぴったり当てはまりすぎていたので。というか、それ何のコスプレだったの? 元ネタは?
「はしたない……とお思いですか?」
ちょっと低いトーンで、しゅんとしながら雪華綺晶は言う。
――しくった。結果を見てから思ったっていつも遅い、当たり前だ桜田ジュン。
「いや、いやいやいや。コスプレは大胆にするもんなんだろ? やあ、僕も見たかった」
見なくても何故か簡単に想像出来るけど。
それを雪華綺晶に伝えることはない。
「あ、ええとですね、写真があるんですよ。ばらしーちゃんが携帯でとってくれたんですよ」
「マジでか」
おずおずと、携帯のメモリーに記憶された画像を僕に差し出してくる彼女。
その写真に映っていたのは、何処か幻想的で、何処か官能的で、およそ眼の前で恥ずかしそうに頬を染めている人物と同一であるとは思えなかった――ごめんちょっと嘘。紛れもなく雪華綺晶だよこれ。そのものだよ。そのもの?
「いや……すごいな。似合ってるし、かわいいし」
ちょっと怖いし。麦酒を勢いよく煽りながら、酔っ払って尚最後の一言をわざわざ口にしない処に、僕は自身の確かなる成長を感じる。何の。写真の中でにやりと笑う雪華綺晶の口元から覗く歯が、あまりにも白い。
「あ、ありがとうございます……」
僅かに上気しているらしい頬に右手をやりながら、左手では五百ミリリットル缶の中身をその口に流し込み、雪華綺晶はほぅと溜息をついて言った。駄目だ、彼女には勝てない。わかってたことじゃないか、桜田ジュン。
新しい缶麦酒を冷蔵庫から取り出して、雪華綺晶に渡す。自分の分のプルタブも開けながら、改めて乾杯する。新年からこんなに呑んでて良いのだろうか、という疑問は、適当に投げ捨てた。
そして思う。つぅ、と、嫌な感じの汗が背中を伝っていくのを、感じる。今、コスプレの話題が、雪華綺晶の口から出た。顔を動かさないように、視線だけ、雪華綺晶の持ってきた、お泊り道具が入っているらしいバッグを、見やる。
一晩泊まる分にしては。
ちょっと。
でかすぎる、よな。
「なあ、雪華綺晶」
「なんでしょう?」
傍から見ればもう酔ってへろへろになってるんだろ、という具合に頬を染めている雪華綺晶だが、彼女はそれに当てはまらない。むしろここからが本番。思考を適度に酔っ払わせながらかつそこからがしぶといというのは、本人にとっては幸せなことこの上ないかもしれなかったが、周りからすればそれなりに厄介なことでもある。
「まさか、まさかとは思うんだけど」
「はい」
「その衣装、持ってきてないよな?」
僕の言葉を受けて、雪華綺晶は眼を丸くして、やがてパチパチと嬉しそうに手を叩いた。
僕、アウトー。
「すごいですね、流石です。ばらしーちゃんから拝借してですね、こっそり持ってきちゃいました」
「わかった。いいから落ち着け。なんかその衣装着られると、色んな意味で僕が無事で居られない気がする」
理由はわからないが。僕の本能が、そう告げていた。
「残念です……」
「や、またの機会に」
そのまたの機会が訪れないことを、僕は願った。心から。いよいよもって雪華綺晶はしょんぼりしていたのだが、流石にそこは譲れなかった。それを許したら、言葉通りの意味で「補食」される。そんな予感がしたから。
「仕方ないですね。折角準備したのですけれど、それはその内に。あ、お風呂お借りしますね」
「ん、どうぞ」
きゅー、と、手持ちの缶を空っぽにしてから、荷物を持って、雪華綺晶は浴室に向かう。さもそれが当たり前のことであるという風に、彼女はそうする。というかその麦酒、今しがたあけたばかりじゃなかったっけ?
「まあ、何とも不思議な」
こういう夜は、今という時に限らず、幾度となく繰り返されてきたこと。実際の処、初めて雪華綺晶がこの部屋に泊まってから(その時は薔薇水晶も一緒だったが)、事ある毎に雪華綺晶は此処にやって来るようになった。お酒を持って。
その事について何の違和感も抱かず、僕は雪華綺晶が寝る為の布団をクローゼットから取り出す。この一組は元々、姉ちゃんが家にやって来た時の為のものだった。けれど今となっては、雪華綺晶がこの布団に包まれる回数の方が、断然に多い。
僕は僕で、その隣に敷いてある、自分の布団で寝る。実家に居た頃はベッドで寝ていたが、それは持ってこなかった。かつての自分の部屋は、いつか自分が戻ったとき、なるべくそのままであって欲しいと思ったから。それ以上、深い考えは特に無い。ベッドでなくても、布団は布団で存外寝心地が良いものであると、一人暮らしをしてから僕は知ったのだった。
今は一糸纏わぬ姿で、風呂に入っているだろう雪華綺晶のことを、思う。湯は張ってなかったから、シャワーか。
こうやって泊まりに来るのも、ひとえに僕という存在が安全と思われているからだろう、と。缶を傾けながら、考える。
「……別に構わないけどな」
口をついて出た言葉は、嘘じゃない。独りで、誰に投げかけるでもない言葉だから、尚更。
ただ。男友達なら別だけれど、今自分と繋がりを持っている、女友達を。こうして易々と泊めることが、あるだろうか? そう、自問する。
僕はその答えを、否をする。帰れるなら家に帰れと、十中八九、言う。
雪華綺晶は? 彼女は近所に住んでいる。豪勢なお屋敷に。それでも、僕は家に帰れと、言わないのだ。
ならば。雪華綺晶が僕を安全と思うように。僕もまた彼女のことを、信頼しているのかもしれない。ほんのちょっと、特別に思っているのかもしれない。
そんな、またしても何の足しにもならなそうな思考を紡いでいる内に、雪華綺晶が戻ってくる。
「はぁ、さっぱりしました。ドライヤー、お借りしてもよろしいですか?」
見慣れた寝巻き姿で、雪華綺晶は言う。何度見ても、これほどぴったりなパジャマもあるまいという塩梅の淡い色合い。流石にネグリジェという訳ではなくて、以前本人に確認してみたところ、自宅でも寝るときはいつもこの格好だと言う。
「はいはい、どうぞ」
棚から、普段自分では使わないドライヤーを取り出す。僕はいつも風呂上りの髪を、自然乾燥に任せることにしている。昔に比べれば髪は短くなっていたし、季節に関わらず直ぐ乾くから。
雪華綺晶の長い髪が、熱風に巻き上げられる。ふわ、と、良い香りが部屋を漂う。同じシャンプー、ボディソープを使ったところで、僕からこの香りが立ち上ることは無いだろうと思う。これは、雪華綺晶だからこその。雪華綺晶の、香りだ。
「それ、癖っ毛?」
「ああ、はい。少し」
手で髪を梳きながら、雪華綺晶はにっこり笑って応える。その仕草が、どうしたって可愛い。
いいか。酔ってるせいにしよう。酔ってるせいにすると、大概良くないことが起きるけど。
「貸して」
「はい?」
頭の右上らへんにクエスチョンマークを浮かべているのが見えたが、気にせず僕は雪華綺晶の持っていたドライヤーを手にする。
「巻き上げ放題。勿体無い。それじゃ痛む、髪」
「え、ええ……はい……」
ぶぉー、と、ドライヤーから吐き出される熱を角度を変えてあてながら、丁寧にその髪を梳いた。癖が少しある、と本人も言っていたが、その指通りはとても滑らかで。触っているだけで心地よい。
その最中、雪華綺晶の顔を覗きこんでみたが、眼を瞑って、妙にほっこりした顔をしていた。
「はい、おわり」
「あ、ありがとうございます」
ほぅ、と溜息をついて、雪華綺晶は両の手を頬にあてがう。満足してくれたようなら、何より。流石に完全に乾くこともなかったが、ひとまずはこれで終わらせるのが良いと思った。
雪華綺晶が買ってきた麦酒は、まだ残っている。でもこれ以上元旦から呑んでも仕方ない。明日、明後日と。その分が前もって準備されたと考えるのが、吉だ。なんて都合の良い。
「そろそろ寝るか」
「はい、……そうですね。おやすみなさい」
灯りを落とす際、わざわざ消灯ですよ、とは言わない。ぱちん、と音がした後。部屋は真っ暗になる。雪華綺晶はもう準備していた布団に潜っているし、僕は僕の布団に戻る。
暗闇。ぼんやりとした、暗闇。いつもと違うのは、隣に自分以外の誰かが、居るだけ。それだけなら、後は眠りについてしまえば良い。というかもう、かなり眠い。
「……起きてますか?」
「寝る直前」
「そうですか、私もです」
「なら早く寝たらいいだろ」
「そうですね、そうなんですけど」
声の聴こえる方へ、僕は身体を向ける。もうコンタクトは外してしまっていて、その上暗闇だったから、横に寝ている筈の雪華綺晶の姿は、ぼんやりとしか捉えられない。けれど、彼女も身体を横にして、自分の方を向いている、ということは何となくわかった。
「眼鏡、もうかけないんですか?」
「家に居るときは、かける。今日はたまたま、ずっとコンタクトだった」
使い捨てのものを使っていて、たまに寝るときも付けっぱなしのことがある。それは大変眼に宜しくないとのことなので、なるべくしないように気をつけてはいる。
「眼鏡も似合ってますよ。私はすきです」
「そりゃどうも」
自分ですきともきらいとも思っていないことについて。とりもあえず好感を持たれたなら、少なくとも悪い気はしない。
「……」
「……」
「……ええと」
「うん?」
「ほんとはですね、ずるいのですけど」
布団をずらす、音。何だ、と思ってから。さわ、と頭に手を回され、芳しい香りと共に、唇に柔らかい感触を受け取る。
ごく、短く。ほんの一瞬の、出来事。
「おやすみなさいっ!」
「え、ああ、おや、すみ」
雪華綺晶はさくっと自分の寝床に戻って、布団に包まってしまった。何だそれ超早い。僕に思考を処理する時間をくれ。あれか。死亡フラグたったか。死亡? 眠い頭では、上手く考えが纏まらない。
心臓は相当ばくばくと音を鳴らしていたが、眠り薬でも仕込まれていたんじゃないかと思う位、僕の意識は闇に落ちていく。
何の気まぐれやら。お嬢様の考えることは、よくわからない。
けれど、それも嫌ではなかった。誰かに今日のことを伝えたら、この甲斐性なしだの何だの言われそうだったから、秘密にすることに決めた。
まどろみながら、考える。
元旦早々、遊びに来てくれたのだから。
夜が明けて、天気が良かったなら。
ふたりで、初詣に行こう。今は正月、それも良い。
人混みは好まないから、近所の小さな神社で良い。
それは多分、幸せなことだ。存外に幸せなことだ。
そして朝、目覚めてから。
僕はお嬢様の髪を撫でて、おはようと声をかけて。
平和な正月の最中、その内、ぼんやりとした思いを、きちんと伝え。
のんびりと、笑いながら、たまに泣いて怒って、そしてまた笑って。
そういう時間を、過ごしていく……
だけに留まらず。
丑年にかこつけて、日本中の牛を口にせんと縦横無人に駆け巡るきらきー牛肉無双に僕が付き合わされることになるのだけど――
それはまた、別のお話で。
【お酒と、お正月と、お嬢様】 おわり
最終更新:2009年01月02日 21:11