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てっきり、今日が初対面だとばかり思っていたけれど、彼女は違うと言う。
それは……いつ、どこで? 僕は、何度となく記憶を辿ってみた。
だが、どれだけ脳内検索を繰り返したところで、悉く空振りに終わった。

鳶色のロングヘアー。紺碧の双眸。容姿端麗。
これだけキーワードを並べれば、直撃はせずとも、少しぐらい掠るだろう――
そんな僕の認識は、この会場にあるどんなデザートよりも、甘かったらしい。
眉間に皺を寄せ、ジリジリと回想に耽るも、所詮は悪あがき。
程なく、僕は溜息まじりに両手を肩まで上げて、彼女に掌を見せた。「ごめん。降参だ」

 「私のこと、ホントに思い出せないんですか?」
 「うん。きみみたいに可愛い女の子を忘れるなんて、考え難いんだけど」

なんて言ってはいるが、あり得ないことでもないと、僕は思っている。
メイク、ヘアスタイル、衣装やアクセサリ、光の加減、その日その時の気分――
些細な変化でも、女の子は身に纏う雰囲気や、見た目の印象を、がらりと変えてしまう。
デザイナーとして、日頃から多くのモデルたちと接している僕でさえ、
その都度、違った顔を見せる女性の魔性には、畏怖の念を抱かずにいられない。
だから、いつも思うのだ。
女の子の素顔とは『のっぺらぼう』で、仮面を付け替えているだけじゃないのか、と。

この娘も、ご多分に漏れない――ということか。
しかも、最近ではプチ整形なんて小細工まで、手軽に行われているから困りもの。
そうなっては、知人かどうかなど、もう判りっこない。
いや……そもそも、それで正体を当てろと言うほうがペテンだ。

彼女は、邪気のない澄んだ眼差しで、僕の困り顔を捉えていた。
忘れたなんて、ウソなんでしょ? 口元の微笑が、睫毛の揺らぎが、そう語りかけてくる。
なんだか尾骨の辺りが落ち着かなくなって、僕は、かぶりを振った。


 「本当に、分からないんだ。悪いんだけど」
 「そんな――」

愕然。その一言に尽きる、掠れた声。見開かれた瞼。
彼女が紡ぎだす言葉は、可憐な唇の奥で既に湿り気を帯び、ふやけきっていた。

 「ヒドイ……酷いわ、そんなの。今まで私をからかって、遊んでただけなのね」
 「はあ? 待ってくれ。きみ、僕と他の誰かを、取り違えてないか?」

まったくもって身に憶えなし。この娘は、何を言っているんだろう。
どうやら、彼女を深く傷つけてしまったらしいが――
仮に、存在を忘れたくらいでショックを受けるほど浅からぬ仲だったのなら、
何かしらの記憶が濃く残っているのが、普通だろうに。

思い当たるフシもなく、一方的に詰られるなんて、納得できない。
それに、どうも言動がおかしい。
この娘、妄想癖でもあるのか? それとも統合失調症?
訝しんで、横目に盗み見ると、彼女は深く俯いて、肩を震わせていた。
両手は、ナニかを堪えるように、ドレスに包まれた膝を固く掴んでいる。

なんで泣くかなぁ。苛ついて、声を荒げたくなったが、逆上させては藪ヘビだ。
僕は、努めて静かな口調で、娘に話しかけた。

 「なあ、頼むから落ち着いてくれ。冷静に、話をしようよ」
 「……う…………くっ」
 「参ったなぁ。これじゃ、僕が新人をイジメて泣かせたみたいじゃないか」
 「く……く、く……ぷふっ!」
 「ん?! な、なんだ?」

嗚咽にしては奇妙な音がしたぞと、思った直後――
彼女は、もう堪えきれないとばかりに口元を両手で覆って、背中を丸めた。
ぴく、ぴく。小刻みに震える肩の下から、押し留めきれなかった笑声が漏れてくる。
僕は、ただ呆気に取られるばかりで、問い詰めることさえ忘れていた。

 「……あ、こいつ! さては、からかったな」

やっと紡いだ僕の声は、我ながら失笑するくらい、憮然としていた。
彼女が、目元を人差し指の背で拭いながら、緩みきった顔を上げる。

 「ごめんなさい。ちょっと、イタズラしてみたくなっちゃって」
 「なんでまた、そんなことを?」
 「確かめてみたくて。貴方が今も、あの頃のままか、どうか……。
  だから、お料理を文字どおりのエサにして、話しかけてみたんです」
 「――分からないな。あの頃って、いつのことなんだ」
 「高校の、二年生のとき……と言えば、思い出してくれる?」

高校時代――それもド真ん中の二年生。あの頃、なにがあっただろう?
思い出そうとして、僕は『あれ?』と首を捻った。そこだけ記憶が薄いのだ。
一年時や三年時は、何組の何番だったとか、担任や級友の顔と名前などを、すぐ思い出せる。
それなのに、高二の時だけは、思い浮かべる景色の、ほとんどが霞んでいた。
まるで、霧のスクリーンに映したドキュメンタリー映画を眺めているみたいな……
茫漠として、輪郭の不明瞭な世界しか、僕の中にはなかった。

本来そこに息づいているべき確かな自分が、亡霊のようにしか存在していない。
どうして、こんな曖昧な記憶しか、僕は持っていないのだろう?
なぜ? ナゼ? 何故? 胸裡で叫んだ自問が、山鳴りの如く、轟き続ける。
その振動で、長く記憶に糊塗してきた日常を削り剥がしながら、僕は核心へと近づいていった。


ちょうど、ゴールデンウィークを過ぎたくらいでしたよね。
彼女は独り言のように呟いて、細めた瞼の奥に、遠い目を作った。

 「貴方が、ぱったりと学校に来なくなってしまったのは」

――そうだった。彼女の言葉が、核心への扉を穿つ。僕は、唇を引き結んで頷いた。
ようやくにして辿り着いた記憶の領域で、僕は17歳の自分と向かい合った。

 「……ああ。当時の僕は、重度の鬱憂症で、精神的に不安定だったからね。
  被害妄想に囚われ、周りのすべてが、巨悪の塊にしか見えてなかった。
  そんな汚い世界とは関わる必要ないと、解った気になって、自分を正当化してた」

高二の一学期後半と、二学期を丸々、僕は学校に行かなかった。
一日の大半を目的もなく過ごし、起きている時はパソコンに向かうだけの生活。
もし運命のイタズラが、彼女と巡り合わせてくれなかったら、どうなっていたことか。
逃げられるだけ逃げ続けて、しまいには、首でも吊っていたかも知れない。

 「それを知ってるってことは、きみは、僕の同級生だったのか。
  ああ……なるほど。だから、ずっと前から僕を知っていた――と」
 「私が、貴方と一緒のクラスになったのは、あの年だけでした。
  しかも、実際に顔を合わせていたのは一学期の前半と、三学期のみですもの。
  私を憶えていなくても、仕方ないですよ」
 「んー。だけどな……僕としては、忸怩たる気分だ」
 「あら、どうして?」
 「僕も一応、デザイナーだしさ。あるんだよね、自分の感性に対する自負ってやつ。
  なのに、きみのことを少しも憶えてなかったなんて、自信喪失ものだよ」

高校生の頃とは言え、この娘のような素晴らしい素材を、あっさり見逃していた。
それで鋭敏なセンスと眼力を持っているだなんて、どうして胸を張れようか。

自嘲した僕の肩に、彼女の腕が、労るように伸ばされる。
けれど、わななく指先は、素直に目的を遂げることなく――
二度、三度……行ったり来たりを繰り返した後に、やっと、ひとつ所に落ち着いた。

僕の背中に触れる、彼女の手。
ワイシャツの生地を透して伝わる、しっとりとした温もりが心地よい。

 「そんな、卑屈にならないでください。分からなくて当然なんです」
 「……どうしてだい。君、整形手術したとか?」
 「いいえ。でも、あの頃とは、私――もう違うから。身も、ココロも」

カムフラージュ、ですね。
言って、鳶色の前髪を指で弄びながら、彼女は翳りのある笑い方をした。

 「でも、貴方は、ちっとも変わってなかった。羨ましいです……とても」
 「そうかい? これでも、人類が月に行ったくらいに、激変したんだけどな」
 「取り巻く環境は大きく変遷しても、素直なココロは、あの頃のままですよ。
  繊細で、多感で――他人に影響されて、すぐ雰囲気に流されちゃうところとか」
 「流されやすい、かな?」
 「ええ。さっきだって、私の泣き真似に、本気で狼狽えちゃって」
 「あれは――いきなりだったからさ。あの展開じゃ、誰だって動揺するだろ」

思いがけず醜態を晒した気恥ずかしさから、注がれる視線を避けるように、顔を逸らせた。
彼女は、そんな僕の様子を眺めて、さっきまでの翳りもろとも相好を崩す。
そして、サッと立ち上がると、僕の腕を引っぱった。

 「冗談はさておき、宴もたけなわの内に、お料理を頂いちゃいましょうよ。
  うかうかしてたら、美味しい物、食べ損なっちゃいます」



  3.

やがて夜も更けて、華やいだ時間は、だんだんと眠りの静寂に呑み込まれてゆく。
来賓の多くは、もう会場を去って、今や物好きなスタッフが僅かに残るばかり。
その居残り組の中には、僕らも含まれていた。

【JaM】のスタッフで残っているのは、僕だけだ。
柏葉を含む他の面々は、形ばかりの挨拶を済ませると、早々に退散してしまった。
まあ、そうするように奨めたのは、他ならぬ僕なのだけど。
だって、今夜はクリスマス・イブ。
各人にも予定があるだろうし、いつまでも、職場に拘束するわけにいかない。

ところが、飛び入りのモデル娘――この鳶色の髪の乙女は、帰ろうとしなかった。

 「折角、こんな素敵なドレスを着られる幸運に、恵まれたんですもの。
  もう少しだけ、シンデレラ気分を味わっていたいんです。ダメ……ですか?」

――なんて、モジモジしながら上目づかいに訊くのは、ずるい。
それが計算ずくめの仕種だと解ってはいても、男なら、断れっこないじゃないか。
まったく、したたかな女の子だ。美しい薔薇には棘がある、か。
その棘に刺されて喜ぶ僕の酔狂にも、困ったものだけどね。


僕らは適当に飲み食いしつつ、他愛ない雑談に花を咲かせた。
喉が渇いては、気安くシャンパンに潤いを求めたせいで、些か酔いが回っている。
火照った身体は怠く、耳の奥でバクバクと鳴り響く鼓動が、うるさい。
ここ最近、ずっと酷使してきた眼も、アルコールで充血して、軽く痛んだ。
僕は、グラスに残るハチミツ色の液体を一息に干して、隣に座る彼女に話しかけた。

 「今日は、悪かったね」
 「……はい? なにが、でしょうか」
 「こんな遅くまで、引き留めちゃったことだよ」
 「まだ言ってる。私が、好きで残ったんです。まだ電車も走ってますし――」

言いかけた彼女の声色が、ふと、トーンダウンした。
「それに、どうせ急いで帰ったところで、待ってる人なんて……いませんから」

若い身空の独り暮らし、ということか。
僕は、そっか、と相槌を打ったきり、口を噤んだ。
けれど、彼女は二人の間に割り込んだ沈黙を排除するように、言葉を並べた。

 「ひとつ、質問しても……いいですか」
 「ん? なんだい。僕で、答えられることなのかな」
 「たとえば――砂漠で遭難した場面を、想像してみてください。
  道を見失って……たった独りで、もう三日。水も食料も、もうない。
  露出した肌は、刺すような強い日射しに焼かれ、腫れ上がっています。
  どこに向かってるのか判らない。不安で、心許なくて。
  そんな、やり場のない寂しさに、胸を締めつけられたとき――
  貴方なら、どうしますか?」
 「どう……って」

僕は、酔って朦朧としかけた頭で、真剣に考え込んでしまった。
でも、たった独りで砂漠を彷徨っている状況なんて、まったくイメージできない。
彼女は、どんな意図から、こんな質問をしたのだろうか。そっちの方が気になった。

答えるべき言葉を探して、でも見つけられなくて、僕は長い沈黙を続けた。
彼女の小さな溜息が、そこに、ピリオドを穿つ。


 「――幸せなんですね。少なくとも、過酷な状況を、即座に想像できないくらいには。
  でなかったら、自分を癒し慰める術を、経験的に知っているのかも……」
 「僕は確かに引きこもり経験者だけど、寂しさを癒す方法なんて、知らないよ。
  知らないものなら、欲しがりようもない。それだけだ」

ならば、やはり僕は幸せなのだろう。
甘えたいときに、無条件で受け止め、包み込んでもらえたから。
故に、完全な孤独、孤立無援には、陥らなかったんだと思う。

 「今にして思えば、あんなアホ姉貴でも、居ないよりマシだったのかもな」
 「のりさん……ですね」
 「うん。姉貴と会ったことが?」
 「学園祭実行委員で、一緒でした。優しくて、面倒見のいい先輩でしたよ。
  お姉さん、貴方のことを、よく話してくれました」
 「愚痴か、泣き言ばっかりだったろ」
 「そんな! とんでもない!」

彼女は人目を憚らず怒気を露わにして、ぐいと身を乗り出し、僕と鼻を突き合わせた。

 「あの人は、いつも自慢してました。悪口なんて、一度だって言ったことないです。
  本当に……貴方を、誇りに思ってたんだと――今なら、私にも解ります」
 「そう、だよな」

言って、僕は項垂れた。「だらしない弟を、軽蔑するどころか立ち直らせようと努力してた」
酒気に火照った彼女の手が、僕の頬を、そっと撫でる。

 「眼に見える寂しさなら、誰かが気づいてくれる。親切な人に、慰めてもらえます。
  貴方の傍には、いつも、優しい誰かが居たの。今も、多くの人が見守ってくれてる」

それは、とても……この上なく幸せなことよ。
言って、グラスを呷った彼女の横顔には、また、あの翳りが――
存分に満たされていない者に特有の、貪欲なペルソナが刻まれていた。

  私だって淋しいのに。身も心も、慰めて欲しいのに。
  どうして、誰も気づいてくれないの? いい子いい子って、頭を撫でてくれないの?

そんな声が聞こえた気がして、僕は――「よかったら……もう少しだけ、どうかな?」
くい、と。グラスを傾ける仕種をして、パチリとウインクを飛ばした。
彼女は目元を弛めて、口の端を、控えめに吊り上げた。

 「あら、嬉しい。今を時めく【JaM】のデザイナーさんに、お誘いいただけるなんて」
 「よせよ。そういう言われ方されると、背中がむず痒くなる」
 「ふふ……ごめんなさい」

彼女のイタズラっぽい微笑は、筆舌に尽くしがたいほどチャーミングで……
でも、どこか挑発的な、見る者を不安に駆り立てる冷ややかな嗤いでもあった。

迂闊だった……かな。けれど、誘っておいて尻込みするのも、男として情けない。
この娘が、たとえ巧妙にカムフラージュした食虫植物だったとしても――
ならば、愚かな昆虫を演じて彼女を満たす養分になるのも、男の度量じゃないか。
僕は、だらしなく震える膝に鞭をピシャリと叩いて、立ち上がった。

 「それでは、次なる舞台に参りましょうか。お嬢さん」

素面じゃ決して言えないだろうクサイ台詞を、臆面もなく口にして、悠然と腕を差し伸べる。
彼女は、妖しく濡れた碧瞳に僕の手を映し、コケティッシュな笑みを浮かべながら……

「ちゃんと、エスコートしてくださいね」

しっとりと汗ばんだ手で、そっ……と、僕の手を握った。




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