めぐを救いたい――
水銀燈の切々たる願いには、まったくもって同情を禁じ得ない。
彼女の境遇に立たされれば、同じことを考えただろうと、雛苺は思った。
だが、しかし、それは子供がオモチャをねだるほどに気安いことではない。
 
結論を先に言えば、どうしようもない。
外傷ならば、いざ知らず……めぐの病気は、心臓にあるのだ。
しかも、雛苺はこれまで、正常な心臓とやらを見たためしがない。
そんな状況で、どんな絵を描いたら治せるのかなんて、判ろうはずもなかった。
 
「めぐは、この数年、人並みの生活さえ許されなかった。
 その彼女に、やっと、ささやかな幸せが訪れようとしているわ。
 だから、お願い。なんとか、善処してあげて」
「そ、そうは言われても……困っちゃうのよ」
 
できることなど、なにもない。ココロに浮かぶのは、その台詞だけ。
しかし、言葉にはできない。言ってしまえば、楽になると解ってはいても。
口の中に広がる苦さに顔を顰め、雛苺は水銀燈の視線から、眼を背けた。
 
「ヒナ、分かんない。どうしたらいいのか、解らないなの」
「とりあえず……明日にでも、その娘に会って話してみたら?」
 
そう助け船を出したのは、真紅。至極もっともな意見だ。
たとえ描くにしても、本人の意思は確認しておくべきだろう。
答えの繰り延べに過ぎないのかも知れないけれど、雛苺は、その案に飛び付いた。
 
「うん……そうするの。銀ちゃんも、それでいい?」
「もちろんよぉ。私のワガママを、聞き入れてくれるんだものね。
 たとえ嬉しくない結果になっても、恨んだりしない。これも運命と諦めるわ」
「話は決まりね」
 
スパッと締め括るように言って、真紅は雛苺の左手を握り、手繰り寄せた。
なにごとかと思えば、どうやら腕時計に用事があったらしい。
 
「あら、いけない。9時を6時間も過ぎてしまったわ。もう寝ないと」
「……そうね。お休みなさぁい」
 
また水銀燈が小馬鹿にするかと思いきや、彼女は、くすっと笑うだけだった。
傷病人である真紅を、気づかったのだろう。
スツールから腰を浮かせた水銀燈は、足音を忍ばせ、病室を出ていった。
雛苺は、その様子を黙って見ていたが、真紅に手振りで促され、後を追いかけた。
 
水銀燈は、ナースステーションの前で立ち止まっていた。
なにやら小声で、夜勤の看護士と、話をしている。
夜の静けさもあって、間近に行かなくとも、会話の内容は聞き取れた。
 
「ねえ、桑田さぁん。今夜だけ、真紅の病室に泊まらせてぇ。ね……お願ぁい」
「ダメです。病室は患者さんのためにあるのよ。ホテルじゃないんだから。
 どんなに頼まれても、規則なので――」
「私ぃ、そういうアタマ固いのって嫌ぁい。今ここで暴れたっていいのよぉ?」
「…………まったく。貴女たちは有言実行だから、困ったものね。
 仕方ありません。もう遅いし、今夜だけ特別よ。あと、婦長さんには内緒にね」
「ふふ……ありがとぉ♪」
 
なにやら、とても親しげな2人。いや……その割に、桑田さんは憂鬱そうだが。
状況が分からず、雛苺が戸惑っていると、水銀燈が戻ってきて病室へと促した。
 
「ねえねえ、あの看護士さんと知り合いなの?」
 
問うと「そうよぉ」だなんて、悪びれない返事。
今のは、どう聞いても脅迫だったが……
それが許容されるほど親しいのは、まず間違いない。
 
「あの人ねぇ、実は、私のお姉さんなのよぉ」
「えっ?!」
「……なぁんて、ウソ。ビックリしたぁ?」
「う、うい。思わず、信じちゃったのよ」
「そんなワケないじゃなぁい。ま、ここに入院してたから、その縁でねぇ」
「入院って、銀ちゃんが?」
「聞いてなぁい? 行き倒れてた私が担ぎ込まれたのが、この病院だったのよ。
 そして、めぐも、ここに居るわ。フロアが違うけれど」
 
桑田さんが「貴女たち」と言ったのは、そういう意味か。
有栖川と名乗っていたのも、身元を隠すため、咄嗟にこの病院の名を……。
 
病室に戻ると、眠っている真紅を気づかい、雛苺たちは話を続けた。
水銀燈が語るには、退院後も、定期的に検査と薬の処方を受けているから、
どうしても医師や看護士とは、顔見知りになってしまうのだとか。
確かに、水銀燈ほど人目を引く容貌ならば、それも無理からぬことだ。
 
「さ……そろそろ、私たちも眠りましょ。今日は、いろいろあって疲れたわぁ」
「うん。明日……めぐさんに、ヒナのこと紹介してね」
「ええ。明日、ね」
 
言って、水銀燈は、真紅の隣のベッドに横たわった。
雛苺も、空いているベッドに寝転がる。
病院に寝泊まりするだなんて、雛苺には、初めての体験だった。
 
 
  ~  ~  ~
 
真紅に叩き起こされ、腫れぼったい瞼を、こすりこすり。
重たい頭を、全力で枕に預けていたい欲求に抗って、雛苺は半身を起こした。
腕時計を見れば、午前7時を、少し過ぎたところ。
 
「うゆぅ~。あと5分だけ寝させてなの~」
「そんな暢気なこと言ってる場合じゃないでしょう、お寝坊さん。
 事情を知らない日勤の看護士さんに叩き出されても、知らないわよ」

言われてみれば、そのとおり。
水銀燈は、出てきたときのパジャマにカーディガンを羽織っただけの格好だから、
まあ、入院患者と誤魔化せなくもない。
しかし、私服姿の雛苺がベッドで寝ていたら、怒られること間違いなかった。
 
「あふ……起きますなの」
「いい子ね。早く、身だしなみをしていらっしゃい」
  
言われるがまま、デイパックを引っ掴んで、洗面所へと向かう。
その際に、アルバイト先へ休む旨を連絡しておいた。
当日になってのことなので、主任には少しばかり嫌味を言われたが、仕方がない。
成り行きとはいえ、柿崎めぐに対する興味は、勤労意欲よりも勝っていたから。
 
顔を洗ったり、髪にブラシを入れたり、諸々……
身だしなみをして、洗面所を出てきた雛苺を、ちょっとした賑わいが出迎えた。
なにごとかと見れば、入院患者の老人たちが、水銀燈を取り囲んでいた。
 
聞き耳を立てると、老人たちは水銀燈の来院を、歓迎しているようだ。
その姿は、アイドルに声援を送る、熱烈なファンを彷彿させた。
実際のところは、孫娘のように可愛がっているだけかも知れないけれど。
 
一応、にこやかに受け答えしているが、水銀燈の笑顔は、微妙に引きつっている。
さすがに辟易していたらしく、雛苺を眼にするや、これ幸いと近づいてきた。
 
「あらぁ、身支度は終わったぁ?」
「うーい! このとーり、バッチリ済ませたのよー」
「じゃあ、食事の調達に行きましょぉ。と言うワケだからぁ、まったねぇ~」
 
と、老人たちに別れを告げて、雛苺の手を握り、そそくさと歩きだした。
「すっごい人気なのねー」雛苺が話しかけると、彼女は前髪を掻き上げながら、
 
「なんだかねぇ……目立つのも考え物だわぁ。まったく」
 
だなんて、さも迷惑そうな口振り。
けれど、言うほど嫌がってはいないらしく、目元は笑っている。
素っ気なく振る舞うけれど、その実、面倒見のいい姉御肌なのだろう。
薔薇水晶の家での、かいがいしい姿を思い浮かべて、雛苺は独り合点した。
 
 
  ~  ~  ~
 
購買コーナーのある2階、および1階は、矢庭に騒がしさを増していた。
月曜日の朝だと言うのに、多くの老若男女が、眼下のロビーに屯している。
目を丸くする雛苺に、外来の受付が始まったのだと、そっと水銀燈が耳打ちした。
 
パンや飲み物、間食用のお菓子などを買い揃え、雛苺たちが病室に戻ると――
真紅はもう、ベッドに備え付けのテーブルに、病院食を並べて待っていた。
 
「遅いわよ。どこで寄り道していたの」
「ごめんねぇ、お店が混んじゃってたからぁ。はい、紅茶」
 
水銀燈の差し出す、紙パックのオレンジティーを見て、露骨に嫌な顔をする真紅。
 
「もっと、ちゃんとした紅茶が飲みたいのだけれど」
「あのねぇ……病院で売ってるわけないでしょぉ。ホぉント、おバカさん。
 イヤなら、別に飲まなくたっていいのよ」
「…………仕方ないわね。それで我慢してあげるわ」
「あぁら、無理しちゃって。イヤなんでしょ? ゴエモンにしときなさぁい」
 
と、水銀燈は薄ら笑い、緑茶のPETボトル――『午後の伊右衛門』を突きだす。
なにもコトを荒立てなくたっていいのに。雛苺が内心ハラハラしていると……
案の定、真紅は、いつもの淑女然とした形振りも忘れ、ムッと唇を突きだした。
 
「もう! 意地悪ね」
「うっふふふ……怒った顔も、相変わらずブサイクぅ」
「ぐ……うるさいわねっ。誰のせいだと思っているの!」
「あら怖ぁい。私のせいじゃないもぉん」
 
向けられた憤りも、まともに受けなければ、柳に風というもので。
水銀燈は、ひょいと肩を竦めて、パックの紅茶を差し出す。
そんな張り合いのなさに気疲れしたのか、真紅は無言で、それを受け取った。
 
けれど、彼女が難しい顔をしていたのも、食事が始まるまでのこと。
病院食が物珍しいらしく、真紅は「優しい味だわ」とか、意外に楽しそうで。
その様子を見て、雛苺の胸を占めていた緊張も、やっと和らいだ。
 
「ねえねえ。真紅って、左利きだったなの?」
 
ふと、雛苺が訊ねた。と言うのも、真紅が箸を使っていたからだ。
スプーンもあるのに、敢えて、箸。しかも、とても慣れた手つきで、器用に。
 
「いいえ」真紅は、煮豆を摘み、口に運んで嚥下すると、また続けた。
「元々は、右利きだったわ。これは練習の賜物よ」
 
左利きにならざるを得なかった理由は――
水銀燈の表情が、サッと翳るのを、雛苺は見逃さなかった。
もちろん、真紅とて、それを言えば旧友を不快にさせると解っていよう。
でも、それなのに……。彼女は冗談めかした声音で、友人たちに話しかけた。
 
「そうそう。左手を頻繁に使うようになってからね、色々な発見もあったのよ。
 インスピレーションと言うのかしら。いいアイディアが、よく浮かんでね。
  右脳が刺激されて、新たな能力開発になっているのかも知れないわ」
 
そうかも知れない。違うのかも知れない。
ここは愛想笑いするところ? 雛苺は戸惑い、水銀燈は、相も変わらず暗い顔。
なんとなく、いたたまれない空気。真紅は咳払いして、箸を動かし始めた。
 
「それにしても……こうして、また一緒にお食事ができるなんてね。
 本当に、夢のようだわ。ねえ、水銀燈?」
 
しみじみと。
感慨深げに紡がれた真紅の心情は、偽りない想いだろう。
 
「大袈裟ねえ。バカみたい」例によって、水銀燈は木で鼻を括るように応じる。
真紅は唇に笑みを湛えながら、そんな彼女の瞳を、ひたと見据えた。
 
「そんな風に言わないで。貴女が行方不明になってから、心配で、不安で――
 新聞やニュースで、身元不明の遺体が発見されたと聞かされる度に、
 私の胸は、張り裂けそうに痛んだわ。ずっと、生きた心地がしなかったのよ」
 
幼なじみに注がれた蒼眸から零れる、一筋の雫。
真紅は、泣いていた。見苦しく噎び泣いたりは、意地でもしないだろうけれど。
震える肩と、唇と。こみ上げてくる感情は、留めようもなく。
 
「本当に、無事でよかった。……おかえりなさい、水銀燈」
 
涙まじりの掠れ声に、水銀燈は柳眉を八の字にして、笑みを浮かべた。
 
「ああ……まだ、言ってなかったわね。えぇっと…………ただいま、真紅」
 
真紅も、指先で目元を拭って、微笑みを返す。
 
「順序が逆だけれど、まあ、いいわ。それよりも、ひとつだけ誓いなさい」
「はぁ? いきなりね。なにを誓わせようって言うのよ」
「もう絶対に、黙って居なくならないで。それから、隠し事もなしにしてね」
「……ひとつだけって言ったじゃない」
「『居なくならないで』が約束。『隠し事なし』は、友人としてのお願いよ」
「ふぅん? いいのぉ? 私はホントに、疫病神かも知れないわよぉ」
「そんな……もう、そんなに苛めないで……」
 
眉を曇らせ、真紅は、長い睫毛を伏せた。
そんな彼女の様子に、少しばかり、胸の痛みを覚えたのだろう。
水銀燈は徐に腰を上げると、ベッドの脇に寄って、俯く真紅の頭を抱き寄せた。
 
「ごめん。私って、ひねくれ者だから」
「知っているわ。昔から、貴女って、そうだもの。
 でも、解ってはいてもね……やはり、悲しい気持ちになるものよ」
「そうね。お詫びってワケじゃないけど、さっきの話……約束、してあげるわ」
「本当に?」
 
訊ねながら、真紅は確かなものを求めるように、水銀燈の胸に頭を預けた。
そして、水銀燈は想いに応えるように、ちょっとだけ抱く腕の力を強めた。
 
「ホントよぉ。もう蒸発なんてしないわ。
 私は……水銀燈は、気高く生きてゆくための誇りを、取り戻したんだもの」
「きっと、約束よ」
 
真紅は消え入りそうな声で言って、水銀燈のカーディガンを掴んだ。
白い指が、更に白くなるほど強く、握りしめた。
 
「うんうん。よかったのよー」
 
2人の優しい抱擁を、微笑ましく思いながら、雛苺は想いを口にしていた。
 
人生とは、変幻自在にして縹渺たる迷宮のようなもの。
そこでは、なまじ常識や教養があるばかりに、混迷し、臆してしまうことがある。
真紅も、水銀燈も、おそらく誰であっても例外なく、だ。
その時、子供のように泣き喚いたところで、助けてもらえるとは限らない。
 
でも、彼女たちなら――
手を取り合って、歩いてゆける人を見つけた真紅たちならば、もう平気だろう。
どんなに道を間違えても、正しいほうへと向かってゆけるはずだ。
 
  ――涙の乾いた後には、夢への扉がある。
 
いつだったかに聴いた歌のフレーズが、雛苺の胸に谺していた。
 
 
  ~  ~  ~
 
もうひとつ、解かなければならない難問が残されている。
他でもない、柿崎めぐ、の件だ。
雛苺は、彼女の病室を訪ねるべく、水銀燈と連れ立って歩いていた。
その、途中――
 
「ねえねえ、銀ちゃん。訊いてもいーい?」
訊いておきながら、雛苺は返事も待たずに続けた。
 
「ばらしーたちに保護されるまで、どこに隠れてたの?
 真紅は、銀ちゃんのこと、手を尽くして探したって言ってたわ。
 かかりつけの病院にも当たったけど、やっぱり見つけられなかったって。
 それに、銀ちゃんのご両親だって、必死になって探したんじゃあ――」
 
「ああ……その話」場所を憚ってか、水銀燈は声を潜めた。
「私ね――最初は、死のうと思ってたのよ。どこか山奥で、独りっきりで。
 だから、余計な荷物なんか、持っていかなかったわ」
 
消えゆこうとする者は、多くの物を持たない。
愛着のあった物との繋がりを自ら絶つことで、この世への未練も捨てるからだ。
もう要らない世界、もう要らない命――そんな迷妄に囚われたまま。
 
「それで、小銭と『ドクトル・ジバゴ』の小説しか持ってなかったのね」
「ええ。だけど、山に向かう途中、発作で倒れてね。そのまま意識を失って……
 気づいたときには、この有栖川大学病院に、搬送されてたのよ。
 それで、病状から治療歴を辿られて、私の身元は早々にバレちゃったわけ」
 
雛苺は、素っ頓狂な声をあげた。薔薇水晶から聞いた話と、違う。
身寄りがないから、一時的に、槐邸で身柄を預かっていたのではなかったのか?
それを雛苺が訊ねると、水銀燈は、スッと眼を細め、首肯した。
 
「つまりね、こういうことよ――」 
 
 
 
  -to be continued
 
 

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最終更新:2008年11月22日 00:40