3月の、身を切るような冷たい雨が、車のルーフやガラスを静かに濡らし続けている。
けれども、その粒はもう霧雨と呼べるほどに細かく、降りも強くない。
走ってしまえば、傘をささずとも玄関まで辿り着けそうだったが……。
 
「門の前まで、行ってくれないの?」
 
雛苺が訊いても、水銀燈は彫像のように口を引き結ぶばかりで。
シートに癒着してしまったかと思うほど、身じろぎひとつしなかった。
間歇設定のワイパーが滑らかに行き来するフロントガラスの、その向こう……
ひっそりと静まり返る屋敷へと、紅い瞳は彷徨っていた。
 
2人の乗る車は、小さな製茶工場の壁際に、ピッタリと寄せられている。
なんの相談もなしに、水銀燈がそこへ停めて、エンジンまで切ってしまったのだ。
真紅が独りで住まう屋敷は、工場の隣り。門構えまでは、約30mほど。
近すぎる壁に邪魔され、助手席からだと、屋敷は殆ど見えない。
それは、運転席に陣取る水銀燈とて、同様のはずだった。
 
「ねえねえ。ここで眺めてるより、もっと前に出たほうが、よく見えるのよ」
 
こんな場所――屋敷からも車の存在を気づかれにくい位置に停車したのは、
水銀燈のココロに、凝り固まって壁と化した“しがらみ”がある証明だろう。
どこかで、真紅と関わりになることを恐れ、逃避している感じだった。
 
だけど……。彼女の固い表情を見つめながら、雛苺は思う。
聡明な水銀燈になら、解っているはずだ。それがムダな突っ張りであることは。
にも拘わらず、強情な彼女は素直に振る舞えないまま、煩悶とするばかりで。
 
本当は、誰かに背を押されることを、ひっそりと待ち望んでいるのではないか。
そんな風に思えてくる。もちろん、憶測にすぎないけれど、しかし……
雛苺は、水銀燈の左腕を――淡黄色のカーディガンを摘んで、そっと引っ張った。
 
「そんなに怖がってるのは、どうしてなの?」
「怖がってる? 誰が?」
 
おうむ返しに呟いて、水銀燈は鋭い眼差しを、雛苺に向けた。
 
「ワケの解らないこと言ってないで、さっさと忘れ物を取ってらっしゃいよ。
 ぐずぐずしてると叩き出して、置き去りにするわよ」
 
言って、腕を振り払う。その声音に、冗談めかした響きは微塵もなかった。
今の、不機嫌そうな水銀燈の様子だと、本当にやりかねない。
 
「うゆ……」
 
真紅と接することを忌避して、別人を騙ってさえいた水銀燈のこと。
しつこく誘ったところで、頑なに反撥されるだけだろう。
と言って、真紅を連れてくる間に、逃げ出さないとも限らない。
 
「ああ、もう! ハッキリしないわねぇ」
 
困惑する雛苺の態度にシビレを切らしたらしく、水銀燈の声に、明らかな険が滲んだ。
 
「嫌いなのよ、そういうの」
 
なんて宣う水銀燈だって、他人を責められたものではないだろうに……
雛苺は唇を突き出し、言葉を返しかけたが、敢えて、思うだけに留めておいた。
ここで啀み合っても、彼女たちには、なんのメリットもない。
代わりに、雛苺は今度こそ、しっかりと水銀燈の腕を掴んだ。
 
「な……なによぉ」
 
怪訝な顔をする水銀燈に、ニコッと表情を綻ばせた雛苺が言う。
 
「それじゃ、行ってくるから待っててね。きっとなのよ」
「……あ、ぇと。もしかしたら、急用を思い出しちゃったり……とか、するかもぉ」
「絶対ここで待っててなのっ! ヒナ、銀ちゃんのこと信じてるんだからね」
「なによ、銀ちゃんって。……馴れ馴れしいわねぇ」
 
不機嫌さも露わに、水銀燈が鼻を鳴らした。
しかし、その瞳には先程までの険しさはなく、笑っているようにさえ見えた。
誰だって、純粋な好意を寄せられれば、嬉しいものだ。
彼女も例に漏れず、雛苺の素直さに絆されて、少しだけ気をよくしたらしい。
 
 
助手席のドアを開けて、ずりずり……。雛苺は、壁と車体との寸隙に這い出した。
2人分の体温とエアコンで暖まっていた車内と違い、外は凍えるほどの寒さだ。
しっとりと手や頬を打つ雨が、薔薇の棘を思わすほどに痛い。
夜遅くまで降っていたら、雪に変わっていただろう。雛苺は天を仰いで、思った。
 
両腕を抱き寄せ、小柄な体躯をさらに窄めて、屋敷の門構えに駆け寄る。
一旦、立ち止まって耳をそばだてるが、水銀燈が追いかけてくる気配は、なかった。
 
格子状の門扉は、すべてが鉄製らしく、重厚にして堅牢そのもの。
それが、車一台が楽に通れるほど広い幅を、完璧に塞いでいる。
見れば、閂こそ掛かっているが、施錠はされていないようだった。
 
「う……ど、どうしよう」
 
イタズラ対策か、門柱にドアベルらしいものは付けられていない。
深夜の、しかもアポ無し訪問だけに、門を押し開ける手に一抹の躊躇いが生まれた。
しかも、雛苺が気後れした理由は、それだけに留まらなかった。
表札の隅にある、『猛犬注意』のシール。
 
「昨日、お泊りしたときには、ワンちゃんなんて居なかったのよ?」
 
広い屋敷に、うら若い乙女の独り暮らしだ。番犬を飼っていたって不思議はない。
だが、小型や中型のお座敷犬なら、一晩すごしていればイヤでも目に付く。
記憶にないと言うことは、つまり室内飼いではないのだろう。
『猛犬』というぐらいだから、人の出入りが多い日中は、檻に入れられているのかも。
鳴き声を聞いた憶えがないのも、タイミング悪く、聞きそびれていただけで。
 
もし、門扉を開けるや、シェパードみたいな大型犬に飛びかかられたら……。
雛苺の身体を、寒さによるものとは別の震えが走る。
けれど、立ち尽くしていたって始まらない。ここで引き返しては、元の木阿弥だ。
なけなしの勇気を振り絞って、雛苺は門扉を押し開けた。
 
「うゅ……お、おじゃまします、なの」
 
そろりと門扉を開いて、身を滑り込ませる。
雛苺がキョロキョロと左右を見回すが、広い庭に、犬の気配はない。
ひょっとすると、あのシールは、防犯上のフェイクだったのでは?
なら、ひと安心だと、小走りに玄関に向かおうとした、その矢先――
 
右手の暗がりで、ちゃっちゃっちゃっ……。濡れた枯れ芝を踏む音。
見れば、荒い息づかいと共に、クマかと思うほど大柄な影が近づいてきた。速い。
 
「ひっ?!」
 
その影は、雛苺に踵を返す暇も与えず、ひと吼えするや飛びかかってきた。
 
「ひぃやぁああぁぁっ!」
 
両腕を突き出したものの、のし掛かられ、仰向けに倒れる。
コンクリート敷きの路面に、したたか背中を打ちつけて、雛苺は息を詰まらせた。
けれど、噛み殺されるという恐怖が、一瞬たりとも抵抗を止めさせない。
 
ひっ、ひっ……。しゃくりあげた空気が、極限まで窄んだ喉を、過呼吸気味に行き来する。
ギュッと瞑った瞼を割って溢れた涙は、急速に熱を失い、肌に痛みをもたらす。
雛苺は恐慌をきたし、めくら滅法に両の腕を振り回すばかりだった。
 
そんな彼女の両耳に、やおら飛び込んできた、福音。
 
「およしなさい、ホーリエ。お客さまが怖がっているでしょう」
 
左からは、玄関のドアを開ける音と、顔を覗かせた真紅の声。
犬が騒いでいるのを聞きつけ、監視カメラで、訪問者が雛苺だと確認したのだろう。
一方、右耳から届いたのは、門扉を蹴破る勢いで駆けつけた、水銀燈の声。
 
「なによ、今の悲鳴は!」
 
雛苺の絶叫を耳にして、取るものも取り敢えず、様子を見に来たらしい。
そして、次の瞬間――
 
「えっ……」
「……あ、らぁ」
 
ばったりと、真っ向ぶつかり合う、真紅と水銀燈の視線。
薄暗い照明の元でも、驚愕に目を瞠り、唇をわななかせる彼女たちの動揺が見て取れた。
 
「あ、貴女……」
 
真紅が、掠れた声を絞りだす。踏み出された彼女の足は、見るからに震えていた。
ドアノブを握りしめていた左手が、徐に、旧友へと伸ばされる。
けれども、対する水銀燈は歩み寄るどころか、気まずそうに視線を下げて……
なにも言わず踵を返し、脱兎の如く走り出した。
 
「ま、待ちなさい、水銀燈っ!」
 
夜も憚らず叫んで、真紅もドアを開け放ち、ポーチへと飛び出してくる。
就寝中だったらしく、彼女はネグリジェ姿だった。
 
「待ってちょうだい! どうして――」
 
突っ掛けていたサンダルを脱げるに任せ、真紅は素足で、濡れた路面を駆ける。
その直後、雛苺を抑えつけていた重みが消えた。
雛苺を抑えつけていた大型犬のホーリエが、主人を追いかけて行ったからだ。
よくよく見れば、それはセント・バーナードの成犬だった。
 
道理で重たかったワケだ。などと、頓珍漢な感心をしたのも一瞬。
車のエンジンが始動する音を耳にして、雛苺は我に返った。
 
「ヒナも行かなきゃ!」
 
ここで水銀燈を行かせてしまったら、彼女はまた、行方を眩ますに違いない。
だから、雛苺は、涙に濡れた目元を拭いもせずに起きあがった。
水銀燈を引き止めて、もう一度、真紅と話し合ってもらいたい。
ただ、それだけを願いながら、門を飛び出した。
 
 
  あの時、目にしたコトはね――
 
 
後に、雛苺はきっと、こう述懐するのだろう。
 
 
  たぶん一生、忘れられないのよ――と。
 
 
それほどまでに、ショッキングな光景を、彼女は目にしてしまったのだから。
 
 
  夜のしじまを劈くエンジンの咆吼と、タイヤの軋めき。
 
 
  皓々たるヘッドライトの光芒。
 
 
  その直中に、左腕だけを真一文字に広げて飛び込む、華奢なシルエット。
 
 
あ! と、ひと声を発する間もあればこそ。
いや、たとえ猶予があったとしても、より大きな音に掻き消されていたはずだ。
ブレーキノイズと、身の毛もよだつ鈍い衝突音によって。
 
ドン! シルエットが、吸い寄せられるように前屈して、車体と重なる。
急停止した車のボンネットに、真紅の上半身が叩き付けられたのだと、瞬時に悟った。
 
物理学――初等の力学で言うところの、弾性衝突。
真紅の身体は、再びボンネットから引き剥がされ、後方へと大きく仰け反った。
ヘッドライトの光の中、真紅の髪が金色のヴェールの如く、虚空に広がった。
 
そのまま、仰向けの姿勢で、路面に投げ出される――と思いきや。
間一髪、忠犬ホーリエが、自らをクッションにして主人を受け止めていた。
でなければ、真紅はアスファルトに後頭部や脊椎を強打していただろう。
それが元で一生モノの障害を負ったり、最悪、生命さえ落としていたかも知れない。
 
早く、真紅のそばに行かなきゃ!
その前に、救急車を呼んでおくべきかも……
でも、そしたら警察にも連絡されて、銀ちゃんの無免許運転がバレちゃうのよー。
 
行動しなければと思う一方で、錯綜する様々な想いが、雛苺を縛りつける。
もどかしさを抱え込んだまま立ち尽くすことしか、彼女にはできなかった。
 
「真紅っ!」
 
代わって、隻腕の乙女に縋り付いたのは、運転席から飛び出してきた水銀燈。
その声に、真紅は微かな呻きでもって、大したことはないとアピールする。
けれど、腹部に宛われた彼女の左手が匂わすのは、強がりの気配。
ヘッドライトに浮かぶ、その横顔は、透けるほどに青ざめていた。
 
「……心配、ないわ。まともに……は…………ぶつかってない……から」 
「この…………バカぁっ!」
 
そぼ降る雨にそぐわない、乾いた音が、ひとつ響いた。
罵声とともに、水銀燈が右手を振り抜いたのだ。
それは、あやまたず真紅の頬を張り飛ばしていた。
 
「なに考えてるのよ! 信じられない! 本気でバカじゃないのっ!」
 
時雨の如く浴びせられる、水銀燈の痛罵。
真紅は「そうね」と。殴られた頬をさすることもなく、睫毛を伏せた。
 
「……そうね。本当に、私……軽率で、狭量で、どうしようもなく愚かで――
 いつだって、胸を掻きむしるような慚愧に悶えながら……生きてきたわ」
 
それなのに。自嘲と共に吐き出される、消え入りそうな呟き。
真紅の顔を覆っていた不自然な笑みは剥がれ落ちて、あるべき姿が、曝け出された。
 
「結局……私は、なにも学んでこなかったのね。
 こんな――貴女を苦しめるやり方でしか、貴女を止められないのだもの」
 
そう告げる声は、湿り気を帯びて、震えていた。
真紅の頬を、雨とは違う雫が、はらはらと流れ落ちる。
 
「でも、これで……やっと言えるわ。
 ごめんなさい。貴女を傷つけてしまったこと、ずっと後悔していたの。
 どれだけ謝っても、足りないでしょうけれど……それでも……ごめんなさい」
「…………おまぬけ真紅」
 
不愉快ここに極まれり。
その一言に尽きるほど、水銀燈の返答は冷ややかで、辛辣な響きを内包していた。
けれども、口調とは打って変わって、真紅を見つめる眼差しは優しい。
水銀燈は、今しがた自分が張り飛ばした旧友の頬に、そっ……と掌を当てた。
 
「呆れたわ。くだらない。ずっと気に病んでたなんて、つくづくおバカさんね」
 
もう謝らなくたっていいと、素直に言わないところが、なんとも彼女らしい。
ホント、強情なんだから。緊張していた雛苺の頬が、自然と緩んだ。
 
ともかくも、凍えるような雨の中、悠長に構えてなどいられない。
雛苺は表情を引き結ぶと、濡れた路面に座る2人の元に歩み寄って、話しかけた。
 
「2人とも、そのままじゃあ、風邪をひいちゃうのよ。
 おうちに入って……それから、病院にも行った方がいいと、ヒナは思うの」
 
今しがたの光景を思い出して、雛苺は戦慄を抑え込むべく、腕を掻き抱いた。
真紅は、大したことないと気丈に言うけれど、あれで無傷だなんてあり得ない。
目立った外傷はなくとも、肋骨にヒビが入ったり、内臓破裂の懼れだってある。
本来であれば、今すぐにでも病院に担ぎ込むべきだった。
 
言われるまでもなく、真紅と水銀燈も、自分たちの置かれた境遇は把握していた。
まずは、精密検査を受けること。理由は後付けでいい。
その上で、単なる打撲と診断されたなら、御の字。
万が一に異常が発見されても、治療が早ければ、重篤な状態に陥ることもあるまい。
 
「貴女の言うとおりにするわ、雛苺。ホーリエ、私を玄関まで運んでちょうだい。
 水銀燈……貴女は車を片づけなさい。その後に、救急車を呼んで」
 
さすがに普段から人を使役する立場だけあって、真紅の指示は早かった。
ホーリエは主人を背に乗せて、易々と歩きだす。雛苺は先回りして、ドアを開ける。
眼を転じれば、庭に車を乗り入れた水銀燈が、携帯電話で病院に連絡をしていた。
 
――有栖川。
聞くとはなしに漏れ聞いた水銀燈の声に、雛苺の胸が一拍する。
それは他でもない、水銀燈が名乗っていた姓だった。 
 
 
 
  -to be continued
 
 

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最終更新:2008年11月12日 00:30