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鏡に映る私の顔は、青く冷めていた。
洗面台は吐瀉物で汚れ、元の色が見えていない。
「うぇ」 何度目の嘔吐だろう。もはや、吐き出すものなど、胃の中には残っていなかった。
しかし、胃液が洗面台の中で撥ね、私の服を汚す。
もう一度、鏡の中の私を見る。
それは間違いなく、私自身であるのか分からなくなっていた。

ここまで弱り切った顔は見たことがない。
……。これは、誰だ?
私なのか?
本当に?
私のはずだ。私の。
これは誰だ?





NE

第八話

「追憶の情景」





吐く息は、きっと白く染まっているだろう。
というのも、辺りはまだ薄暗く、何も見えていないからだ。
今の時刻は大体午前5時半。いまだに陽はその顔を見せていない。
ただここにあるのは、この身を切り、熱を奪う風だった。
ここには、動きがない。当然だ。人の起きているような時間ではないのだから。
こんな時間に公園にいる人間など、まともなものではないだろう。眠れない夜が続く。
はぁ、とため息をつく。
これまでのこと、そしてこれからのことについてだ。
もう、何度となく頭の中でこれらのことが繰り返され続けている。

食べるために盗みに入ったこと。
初めて握った銃の重み。
弾いた引き金の衝撃。
とある女の死。
出会った少年たち。
組み立てた計画。
握ったハンドル。
夥しい血。
長い取り調べ。
冷たい独房。
ある男との出会い。
長く、厳しい訓練。
初めて受けた依頼。
青年との出会い。
突然の襲撃。
カウンセリング。

最も古く、最も幼い記憶。
そこには熱があった。少なくとも、ここよりかは。

そして、これからのこと。
この戦闘の中で最も使えそうな訓練の時の記憶。
相手の今後の出方。

殺した後の、私のこれから。

はぁ、ともう一つため息をつく。
これまで一度も銃を軽いなどと思ったことなどない。あらゆる意味で。
引き金が軽いと思ったこともない。こんな職業に就いているくせに、だ。
しかし、いつになっても慣れはしない。
どれだけ握りしめたら楽になれる?何を撃ち抜けば楽になれる?
頭の中では分かり切ってる。

ふと、空を見上げる。
その色は薄くなり、夜明けまで近いことを知らせていた。

ここに、あまり動きは見当たらない。
木に隠れ、フェンスの向こうは見づらいが、その先の道を走る車もほとんどなく、静寂そのものであった。
もう一度、明けてきた空を見上げる。
もう、ほとんど星は見えていない。
ただ、私には気づかれずに、星はゆっくり泳いでいたのだろう。
ゆっくりと。そこにあるように。

視線を下していく最中に何か、飛ぶものが映った。
そう遠くはない距離で。少なくとも、それが何か分かる距離で。

黄と黒の帯。力強く空を打つ翅。
頭部において、その力を見せつけるような顎。長い触角。
足に何かを抱えて飛んでいる。
蜂だ。
季節外れのような気がするが。まだ、そんな季節ではないと思う。

街灯のもとで、足に抱えていた何かが見えた。
蜂自体の陰により、黒く染まっていたが。
あれは、肉団子だ。
きっと、さっき仕留めてきた獲物のものだろう。

上空を飛びまわり、獲物を見つける。
急降下し、毒針や顎を使い、息の根を止める。
動かなくなったそれを、噛み切り、剥ぎ取り、丸めてきたのだろう。
そして、自分の体ほどもあるそれを、抱えて巣へと戻ってゆく。

あぁ、そうか。
何も変わらないな。私と蜂は。
似た者同士なんだ。
何かを殺し、その血で生きている。

そう考えると、急に親近感が湧いてきた。
何も変わらない者同士。
そう、殺すもの同士で。
ただ、蜂の方が私よりよっぽど純粋だろう。マシな存在だろう。
憧れにも似た嫉妬。
私は、蜂になりたい。いっそのこと、なってしまいたい。

そんな風に思われているとは、いやむしろ私自身の存在に気づいていないだろう蜂は、そのまま何処かへと消えていった。


ここにいるのも疲れてきたので、誰もいない公園を出ることにした。
陽は昇り始め、街灯の明かりも消えた道。
今はさすがに拳銃を持ち歩いている。前のような襲撃に備えている、と言いたいところだが、それならこんな風に外を出歩かない。
たまに、健康のためだろうか、ランニングをしている人間とすれ違うことがあった。
互いに声も掛けないし、目も合わせない。
どこまでも他人だった。決して噛み合うことのない関係。
それこそがある種、自然なものなのかもしれない。

そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか商店街へと近づいていた。
まだ開いている店などないだろう。
だが、きっとシャッターの奥では人の動きがあるのかもしれない。
ここに来ると、すれ違う人間も増えてくる。
さすがに多いとは言えないのだが。
さて、これからどうしようか。今日は白崎の事務所に行く予定だが、その時間まではまだありすぎる。
あの男は、時間にうるさすぎる。遅いのはもちろん、早いのも嫌がるのだ。
ますます白兎に似てくる。

この時間を潰すあてなどどこにもない。
あてどなくぶらつくしか、今できることはなかった。
すれ違う人間の顔からその者の人生について勝手な想像を巡らせるぐらいだ。
そうして、開いている喫茶店を見つけるまで、退屈な時間を過ごしていた。

窓際の席に腰を下ろす。
ウェイターにモーニングを頼んだのち、風景を眺める。

ここの近くには学校があり、もうちらほら学生の姿も見え始めていた。
楽しそうに誰かと話しながら歩く者、憂鬱そうに歩いている者。さまざまな人間がいた。
しかし、学校にはある程度裕福な家庭しか行けない。事実、私は通っていない。
もしも、生まれが違えばどのような人生を送っていたのだろうか。
そんな想像は何度となくした。そしていつも同じ結論にたどりつく。
こんな妄想に意味などないのだ、と。

最近、いや認めたくないが、あのカウンセラーに出会ってから“死人”を見る機会は減った。
これは恐らく、自分の中で地に足がついたからなのだろう。
久しぶりの平穏だった。


十分に時間を潰して、事務所へと向かった。
ここから歩いて行くような距離ではない。
ラッシュを過ぎた電車に揺られ、向かう。


事務所が見えると、なぜか蜂のことを思い出した。
しかし、そのまま歩みを進める。
狭い階段を上り、ドアの前に立つ。なにか予感めいたものがあった。
ドアノブに手を直接触れないよう、近くにあった布きれを用いて左手で握り、右手に銃を触れさせ、一気にドアを開けた。


まず漂ってきたのは異臭。どう表現すべきかが分からないような。
そして目につく死体。椅子に座っている。
普通、一目で死んでいるかどうかは分かりにくいものだろう。
だが、これ以上に死体らしい死体は見たことがない。
それは、目や口、耳などの様々な穴から血を流していた。
“いた”と言えるのも、もう既に血は乾ききりその痕跡が残されているだけだったのだから。
それは白崎だった。いや、陳腐な言い方だが、その物体は、白崎と呼ばれる人物の物だった。


白崎が死んでいた。
死ぬことがあるのか、この男にも。
急に吐き気が込み上げてくる。急いで洗面台へと向かい、全てを吐き出した。
吐瀉物が跳ね返り、服を少し汚す。気にしてなどいられない。
やがて、胃の中のものはなくなるが、それでも吐き続けた。
口の中に酸味が広がり、その臭気にまた吐き気を催す。
なぜ吐き気がするのか分からない。
あのカウンセラーならこれに対する正確な答えを持ち合わせているのだろうか。


やっと吐き気も収まったので、落ち着いて物事を考えられる。
おそらく、敵にやられたのだろう。私を襲った者と同一人物と考えられる。
白崎がやられるとは。彼自身、襲われる可能性があることは分かっていたはず。
なのに、こうもやられてしまうとは。
死因は毒殺に違いない。一瞬、病原菌も考えられたが、そんな目立つ手段を選ぶはずがない。
もし病原菌ならば、ここら辺一帯は封鎖されている。
それに、そんな金銭的余裕があるとも思えない。
殺し屋とは、最も安価で人を殺すことの手段なのだ。

白崎の残したものはないか、部屋を探してみたが、それらしきものはない。
ファイルも見ては見るものの、それらしき痕跡は残されていなかった。
となると、残るはパソコンの中のみか。
荒らされた形跡は全くない。
白崎を殺せばそれで終わりだったのだろうか。
彼の所有していたデータを狙ったわけじゃないようだ。
コンピュータを立ち上げ、ファイルを探す。
目当てのものは楽に見つかり、パスワードも設定されていなかったので、すぐに開くことができた。


「これは……。何? 」
絶句するしかなかった。
そこに記されていたものは、あまりに突拍子もないものだったのだ。
しかし、彼の情報収集能力は並大抵のものではない。
こんな内容でもきっと真実に限りなく近いのだろう。


大まかに言えばこうだ。
私を狙っているものは、自警団に雇われたもの。
なおかつ、その自警団とは、2年前のテロにかかわっている。
私がつい最近暗殺した記者に、汚職の証拠をリークされそうになっていた政治家が、今度は私を狙ってきたらしい。
その汚職とは政治家たちと自警団を繋ぐものであり、それが世に出たら、ほとんどの政治家が職を追われてしまうかもしれない。

この襲撃における主な要点はこうだった。
しかし、私を殺したところでまた今度は私を殺した者を狙うのだろう。
ばかばかしい。永遠に疑心暗鬼は止まらないのか。


これらに追加して、気になる言葉が載せられていた。

2年前の襲撃は、“世界樹”を狙ったもの。
そして、もうすぐ戦争が起きる。それも大規模な。
その戦争ののち、この地上に人類はいなくなり、“世界樹”のあった地下へと逃げ込んでゆく。

まるで、SFの世界のようだ。そもそも、“世界樹”とは何なのだ。
しかし、うまく文になっていないところを見ると、異常な恐怖を抱かせる。
本当にこのようになってしまいそうな恐怖を。


大体の情報を得て、ここを去ることを決めた。
二度と来ることはないだろう。
出入り口に立ち、もう一度中を見る。
「さようなら、白崎。恩はありますが、あなたのことは嫌いでした。
正直残念です。私があなたを殺すつもりでしたのに」
そう言い残し、仲間の血で赤く染まった兎を置いて、部屋を出た。
扉が閉まった瞬間、砂の詰まった袋が地面に落ちる音がした。
大体人間くらいの大きさの。


外は、曇り。
予定は狂ってしまったが、自由になるための戦いだ。
おそらく、次で最後だろう。人を殺すのは。
柄にもなく、神に祈った。
「神様、どうかうまく殺させてください」





DUNE 第八話「追憶の情景」了

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