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彼女は強い人でした。

彼女の足は常に前へ、彼女の目は常に前を。

そして彼女の腕は、常に新しいモノへと伸びるのでした。

故に、過ぎた過去に意味は無く。

そんな彼女は、とてもとても強い人でした。

これはそんな、立ち止まる事を、振り向く事を知らない女性のお話です。



《雪ら薔らと夢の世界樹》

第一階層『雪ら薔らとみっちゃん亭』

第3階「ノンストップ・クリムゾンレディ」



チャイナ服でした。
朝みっちゃん亭の支度室にて仕事をする際着用する支給されていた今週分の衣服について述べてみただけですので、さしたる意味はありません。
ええ、例えスカートのスリットが股のかなり上の部分まであろうと、給仕服の時にはジャストサイズだったのに目の前のそれがやや小さめであろうと、この時既に“コスプレ”なる単語を認識していようと…何も、暗に、含む、意味は、ありませんのですわよ。
先週は巫女と呼ばれる異国の神に仕える娘の装束でした。
これもただ事実を述べているだけであり、何ら考えあっての事ではありません。
そう、これらの伝統衣装には敬意を祓いこそすれ、罪などありはしないのですから。
「お姉ちゃん…どう?似合う?」 
「うう…!」
目の前にはやや頬を赤らめ、体のラインがもろに誇張される滑らかな布をその身に這わせ、その(私の服より遥に)短いスカートから伸びるすらりとした滑らかで白い足をやや内股気味にかがめ、上目使いにわたくしを見る妹…
……いい……はっ!違います!そうではなくこの妹の姿が見知らぬ殿方の前に晒されるなど耐えられるものではないといきがったのであって、決して見とれていたワケでは…ワケ、では…
「…どうかした?どこか…変?」
今度は不安げな上目使い。即、撃沈。
「いいえ。とても良く似合っておりますわ♪」
ここでわたくしが抱きつかなかった理由は、今わたくしが少々汗を含んだ寝巻き姿だったからに他ならず、またそれだけなのでした。
「…やった」
小さくガッツポーズ。うぅ…この妹は何度わたくしを萌え(最近知った単語です。マスターに意味を解いたところ、妹を指し『アレ』と教えてくれました)殺せば気が済むのですか…?お姉ちゃんはばたんきゅ~寸前です…
「お姉ちゃん、早く着ないと時間ないよ」
「あ、はいはい。少々お待ちを」急いでクマさんのパジャマから異国の制服へ。「うっ…これは…」
まるで水着のようなフィット感…そのくせ肌を滑るような生地のおかげで窮屈感は微塵もなく、保温性も申し分なく。
「異国の料理店での正装との事でしたが…もはやドレスの域ですわ」
見た目の色合いや金の刺繍も美しいの一言です。表の生地の手触りも、いつまでも撫でていたいのに手垢を付けるのが躊躇われるほど。使っている布の面積はかなり少ないはずなのに、その存在感は威厳すら感じられるまでに。
くっ…これならば確かに『いかがわしいコスプレ』などと文句を付ける事など出来るはずもありません…
「お姉ちゃんも似合ってる。とても素敵」
「そ、そうですか?ありがうございます。ばらしーちゃん」
「うん。こんないい服…マスターに感謝だね」
無垢が故の残酷さや愚かさをこんなことで痛感するわたくし。
「………ですわね」
ですが、服に罪は無いのです。ならせめて、調理中に汚れないようエプロンで守る事は許していただかねば。
「よし。では、行きましょうか」
「うん」
こうしてわたくし達姉妹は今日も可憐な衣装に身を包み、元気にお仕事に励むのでした。


「きゃー!きゃー!きゃー!素晴らしいわ二人とも!似合ってるなんてもんじゃないわ!その服…いえ、その服を作ったその国は二人の為にあったと言っても過言じゃないわね!!」
「…光栄ですわ、マスター」
田舎娘二人に服を作る為にある国とは…スケールの小さい国もあったものです。
「く~っ!見てるだけじゃこの私の熱きパトスは満たされない~!いっそ食べちゃいたい!!」
「残念ながらわたくし達は食用ではございません」
「ああ…自分が真人間なのが口惜しい…悪人として生まれてれば監禁もできたのに…」
「どうか清らかなままで生きてくださいね」
「なら…ならせめて目の前の奇跡を永久の現象として残こ…!」
パシ。勢い良くポケットへ飛び込んだ腕をわたくしが掴みます。そして、ゆっくりと微笑みをたたえて諭すのです。
「マスター?お約束、覚えてらっしゃいますね?」
「う、うう…きらきーちゃんのいけず!ケチ!」
「何とでもおっしゃってください。ですが、けじめは付けさせていただきますわ」
「はひ~ん…私の夢がぁ~私の人生の潤いがぁ~」
「約束を違えた場合、もう制服は着ませんからね?」
「私に死ねと言うの!?」
「強く正しく生きてくださいませ」
こんな会話を店のカウンター付近で繰り広げ、それを遠目で眺めるお客様がほくそ笑んでおられるのも慣れたもの。こう言ってはなんですが、マスターを御する術はすっかり身につけてしまいました。
このみっちゃん亭で働き始めてからひと月以上経ち、わたくし達がこの町に馴染んでゆくと同時に本性を表し始めたみつマスター。先程の“約束”と言うのも、そのマスターの毒牙から我が愛すべき妹を守るためのものなのです。

“制服姿の写真は一切撮らず、またその制服は尊き労働活動に見合うものとする”

こんな確約が成されたのは数週間前の事。その頃マスターはわたくし達に制服の改変を提示されました。
わたくしとしてはあの給仕服が気に入っていたのですが、酒場の看板娘の衣装替えは客引きとして非常に効果的であると説明されては断れません。
が、あろうことか、マスターが提示された服というのが…

『じゃーん!これよ!さあ着て着て!』
『………あの、これは?』
『え?どっかの国の体操着なのよ。ブルマとか言ったかな?動き安さ抜群でしょ?それにほら、上着にはワッペンが付いてるの!“きらきー”と“ばらしー”って。可愛いでしょー?』
『………』
『あれ、気に入らない?ん~、じゃあちょっと早いけど、こっちにする?これは“スク水”って言って、これも体育の授業で使用する…』
ぷっちん。わたくしの頭の中でナニカガ切レル音がシタノですのですのよでしますの。

その後の事は、実は良く覚えていません。ですが妙に脅えた目を向ける妹に問いただしてみると、マスターを床に正座させ、朗々と八時間に渡る説教を繰り広げたそうな。うーん、あまり記憶に無いんですがねぇ。
その内容は『労働における心構え』や『女性の品格』、『衣服への敬意』に始まり、『資本主義社会における限界と共産主義思想の存在意義』や『先進国の発展の犠牲』と言った政治論を経由し、何故か『コーンフレークがふにゃふにゃになる力学的考察』へと帰着したそうです。
さらにその後お客様のご協力により、わたくし達の写真を貼り付けたビラの発覚、“コスプレ”なる存在、みっちゃん亭に勤めた娘が次々に辞めていった事実などを知るに至り、件の確約を迫るに至ったわけで。
何と言っても、このみっちゃん亭が労働環境においては理想的とも言えるのも事実でありまして、先の娘達のように手放すには余りに惜しく。
ならばこちらから改善すべしと確約書を持って迫ったところ、カタカタと震えながら笑顔で了承して頂けました。話の解る方は大好きですわ。うふふ。
しかしマスターも考えたもので、ならばとわたくしが文句を言えないような格式高く清純な衣装を持ってくるようになったのです。それも模倣品ではなく、地元の高級品を取り寄せる気合いの入れよう。
その請求額を見た時にはめまいと共に根本的な矛盾を感じたものですが、妹の言う通り、そんな衣装を身に纏えるのは魅力と言えば魅力なのでした。
「ああ、ところでマスター。この服を汚しては申し訳ないのでエプロンを羽織りますが、よろしいですね?」
「よろしくないわね」
「…ですが、こんな値の張る服を汚しては…」
「何のために高いお金を出したと思っているの!?」
観賞用だったんですか。
その後なんとか油汚れの頑固さを涙ながらに語った甲斐もあり、キッチンでのエプロン着用権を獲得したのでした。この酒場では布を一枚纏うのに苦難を強いられるのです。


「では、いってまいりますわね」
「うん、気をつけてね」
さてその翌日。今日はみっちゃん亭で使う食材の買い出しに向かう事に。
みっちゃん亭には週一度の定休日が設けられているのですが、時たまマスターが突然『ごめん!明日は休みね!』とどこかへ出掛けてしまう事があります。ですがそれはどうやら日常茶飯事らしく、お客様も承知しているようです。
そんな降って湧いたお休みはわたくし達も自由時間として使えるため悪い事ではありませんね。ええ、実は今日もその臨時休業日でして。
もっとも、買い出しと言ってもお酒や主要な食材は契約しているお店から送って貰えるのですが。なので今日は新しいメニューを考えながらのショッピングといったところでしょうか。ようはわたくしの休日の楽しみなのですね。
ここ世界樹の町では元々自給自足で生活していたこともあり、世界樹内部だけでなく町でも野菜や家畜の飼育などがなされているのです。なので食材の露天や業者さんも結構賑わっていたりします。
中には珍味や新感覚の食材もあったりして見ているだけでも楽しく、それをその場で試食させていただき、新たなる料理に思いを巡らせることはわたくしに至福の時間を与えてくれるのでした。
ちなみに妹にはそういった楽しみを理解していただけず、休日は主にトレーニングや武具の調整に励んでいるようで。…まあ、本人が楽しんでいるなら良しとしましょう。

「…ちょっといいかしら」
「え、あ、はい?」
特にこれといって当てもなくぶらぶらと買い物を楽しんでいると、不意に後ろから声をかけられました。
振り向くとそこには真っ赤なサイドカー付きのバイクに跨った金髪の女性が。ヘルメットとゴーグルで顔は伺えませんが、ピシッとした真紅の服(レーサーが着ているようなヤツです)がなんとも強烈な印象を与えてきます。まず間違いなく新参者でしょう。
「世界樹、というのは…あの木の事でいいのよね?」
「え、ええ。そしてここが世界樹の町ですわ」
なかなかに威圧感があるのでちょっと緊張してしまいます。ですがやはり世界樹目当ての旅行者のようです。
「ふぅん…ではとりあえず実現したのだわ」
その女性はそう呟くと、カバンから手帳を取り出して何やら線をひくような仕草を見せました。
「さて…ところであの世界樹だけど、一般人も登る事ができるのかしら?」
「ええ、少し手続きをして頂ければ。ただ…」
旅人に情報を提供するのも町民の勤めです。
「ご忠告までに申し上げますと、慣れない方は気分を悪くしたり(わたくしです)、中の移動手段に合わなかったり(わたくしです)、迷子になったりしますので(わたくしです)、もし登るのでしたら誰かにエスコートして貰うことを強くオススメしますわ」
経験者は語る、というヤツですね。語りにもつい感情がこもってしまいます。
「そ…でも確か、最上階まではもう誰かが行ったのだったわね?」
「はい、随分昔に」
「とすると値はしないか…まあ、いいわ。せっかく来たのだしとりあえず適当に登ってみましょう。それで?その付き添いは誰に頼めば良いのかしら?」
「あ、ええと…」
ここで『では、わたくし達にお任せを!』とカッコ良く言えればいいのですが、わたくし自身がエスコートされねばならぬ身ですし。もっとも、言えたとしても痩せると噂のラフレシアの触手(3本700円でした。生暖かいです)を抱えた状態でカッコ良いかは微妙ですが。
みっちゃん亭の掲示板に依頼してもいいのですが、あれは基本的に『受けてくれたらいいな』くらいの気持ちなので時間のない旅人には向きません。
逆にギルドに依頼となると今度はしっかりしすぎて気楽な依頼とはいかなくなりますし、お金もそこそこかかってしまうでしょう。
ふーむ、意外と難しいですね…どうしたものか…あ。
「そうですわ。わたくしの知り合いに世界樹の運送屋を営んでいる方がいるのでそちらをご紹介いたしますね」
「運送屋?」
「ええ、わたくしも前に連れて行ってもらった事がありますの。ですからお仕事ついでに同行出来るかもしれませんし、例え無理でも旅行者の世界樹案内についてはわたくしより良くご存知のはずですから」
「そう…では、お願いしてもいいかしら」
こうしてわたくしは簡単な紹介状と地図を渡し、お礼を言われてから別れました。わたくしが案内してもよかったのですが、先ほどからなんとなしに手元のラフレシアの触手が勝手に動きだしそうな気が…帰ったら細かくぶつ切りにして冷蔵庫へ放り込みましょう。

店内で障害物の中での戦闘訓練にいそしんでいた(ちゃんと叱りました)妹に奇異の目で迎えられたわたくしは、まだお昼前だったこともあり、早速今日手に入れた新しい食材にチャレンジすることにしました。
まず、メニューを考える上ではその食材のことをよく知らねばなりません。
さてこのラフレシアの触手は握り拳くらいの太さのある紐状のもので、色はアロエのような感じでしょうか。
ですがさすがはラフレシア。多くのキャラバンを絶望の淵に叩き落としてきただけはあり、その身の弾力はまさにお肉のようであります。これにトゲがついて叩かれたらそれはさぞ痛いでしょうね。
お店で試食した時は薄くスライスした身を茹でてわさび醤油でいただいたのですが、ああしていただくには少々苦味が強かったです。
歯ごたえも目の前のそれに比べ締まりが欠けたように感じられたので、そのままいただくか炙るのがよろしい気がいたします。
「とするとお刺身か…あるいはもっと煮込んで佃煮に…焼くとなると水気が多いですから炒めモノには向きませんか…よし」
頭の中に完全図を思い描き、眼前の魔物の屍に対峙いたします。この魔物によって朽ちた強者達に代わり、わたくし雪華綺晶が鎮魂の料理人として刃を振るうのですわ!
「いざ!!」
…一時間後。
闘いは、幕を下ろしました。
「おお…」
わたくしの前に並ぶ料理の数々。今は亡き人の想いを代弁するかのごとき出来栄え…!
二センチ程厚さに切り、甘口の味噌に梅肉でアクセントをつけたラフレシアの刺身田楽。
薄切りにしたモノを白味噌ベースのスープにちらしたラフレシアのミソスープ。
白身魚と各種野菜にアンチョビと一緒にレモンドレッシングとオリーブオイルで和えたラフレシアのさっぱりカルパッチョ。
そして渾身の自信作、ぶつ切りの身の中心をくりぬき、生の牛肉と香辛料、卵黄とくりぬいた身を叩いてユッケにした後、ラフレシアの身に戻してから灰汁抜きした苦ヨモギを巻いて薄くころもを付けて揚げたラフレシアの創作天ぷら!
苦みの中に卵と肉の甘味、そして香辛料の香りが引き立つ大人の一品!
「ふっふっふ…まさかここまで料理されるとはかのラフレシアも思ってもみなかったでしょうね!」
「お姉ちゃん…お腹空いた…」
「あらあら、もうお昼を過ぎてましたか。ちょうど出来ましたから、早速試食をかねて昼食にしましょうね」
出来上がった料理を二人でテーブルへと運びます。平日のこうしたゆっくりとした食事は普段時間がないだけに格別のものですね。姉妹水入らず、のんびりとテーブルに腰掛けて先ほどの料理を昨日いただいたパンと共にいただきます。
「いかがですか?ばらしーちゃん」
「…この田楽すんごい歯ごたえ。ぷるぷるしてるのにコリッていった」
「ミソスープもなかなかですけど、きっとミネストローネにちらしてもイケますわね」
「カルパッチョ美味しい。パンに合う」
「ん!やっぱりこの天ぷらは素晴らしい出来ですわ!ばらしーちゃんもそう思いません?」
「…深い味わい。それに…痺れる」
「そうでしょう、そうでしょう?これはマスターに相談してメニュー追加の要望を…え?痺れる?」
「…め目が、ま回る…くくらくららする…ももうダメぽ…」
パタリ。
「キャァアアアア!!ばらしーちぁあああああゃん!?」
…えー、その、後で解った事なのですが、あのラフレシア、実は食用ではなかったようで。毒があったそうです。ええ、ポイズン。食べたいモノも食べれないこんな世の中です。ポイズン。
わたくしにアレを売ったお店はラフレシアの死骸が手に入ったのできっと売れるだろうと売っちゃったそうで。なんかギルドセイバーの方々にお説教されてましたね。
ばらしーちゃんも持ち前の生命力とドクターの治療の甲斐あって数日後には復活していただけましたが…危うく妹を手料理で毒殺するところでした…。
ちなみに、わたくしは平気でした。この事についてのコメントは控えさせいただきます。…ちょっと、鋼鉄の胃袋とか言わないでくださいな。全然嬉しくありませんから。くすん。

「命に別状は無いけど、念の為二三日入院した方がいいね。酒場へは僕が診断書を出しておこう」
「はい…よろしくお願い致します」
基本体が強く好き嫌いも殆ど無い妹ですが、ラフレシアの毒はいかんともし難かったらしく、その日の内に町の医療施設にお世話になる事に。この医療施設はこの町に最初に来た時ばらしーちゃんがお世話になり、金糸雀さんに巻き込まれた時はわたくしが、そしてまた…
うーん、施設のお医者様の槐さんと親しくなれたのは良いのですが、病院と何かと縁があるのは考えものです。
「もし妹さんの様態が早く良くなるようなら酒場に連絡を入れよう」
「はい…ありがとうございます」
「いや、それにしても素の体でラフレシアの毒をモノともしないとはね。雪華綺晶さんならもう少し早くここに来れていたら一流のキャラバンの仲間入りを果たしたかもしれない」
「………」
おっと、わたくしの体(主に胃)についてのお話しはそこまでですわ。
「それにしても…今こんなことを言うのは不謹慎かもしれないが、妹さんは患者服でさえこうも似合ってしまうとはな…」
槐さんが妹を眺めながら長い足を組み、白く細い指をおもむろに顎へもっていきます。あ、ヤな予感。
「やはり内に秘められたる魅力は衣装などによって妨げられるモノではないということか。いや、この患者服というものも一見質素ながら薄幸の少女をイメージさせその生命の儚さゆえの美的感覚はイマジネーションとして大脳を駆け巡りその」「あ、あの…」
「幼い顔付きながら瞳を閉じることによって醸し出されるアダルトな魅力との融合こそ古代アステカ文明から伝わる美意識の延長でありまた中世ヨーロッパで起こった絶対写実主義のテーゼから導かれる人が本来持つべき異性に対する所謂」「も、もし…」
「冷静と情熱の間にこそ我々が求めてきたコモンセンスと相成る特異的なカリスマ性を有する一種の信仰がありそこには神と同格として認識される美醜的なインプレッションが」「………」
い、いけません!この槐先生は医師としては信頼でき尊敬に値する方なのですが、わたくし達を見るたびこうした空想を巡らせる事がしばしばあり、そのパワーはみつマスターに引けをとりません。
恐らくこのままでは明日まで永遠と喋り通すのでしょうが、妹が倒れた今明日からの店はわたくしが引き受けなくてはならず、さしあたってはその仕込みをやらなくてはならないのです。
「…それはかつてのガリレオガリレイが示したところの」
「あの!槐さん!」
「…ん?何かな雪華綺晶さん。ああ、安心していい。今の君の私服姿も充分に魅力的だ。それは…」
「いえ、その、わたくし酒場で明日の仕込みがありますのでそろそろ…」
「おお、すまない。つい熱くなってしまったようだ」
足を戻して椅子に座り直す槐先生。どうやらわかってくださったようで何よりです。
「いえ…では、これで」
「うむ。それでは、明日から君達は私の養女になるのだね」
「ホワイ!?」
ちょ、何をいきなり!?動揺のあまりにEnglishでanswerしてしまいましたよ?
ていうかこの人、どうしてわたくし達に保護者が居ない事をご存知なのでしょう。なにやら薄ら寒い気もしますが、ここは医師だからとしてするスルーしておきます。
「おや?今の話の流れはそういう結論が導かれるはずだったのだが」
「先生が一方的に話てただけですわ…」
「ふむ、ではその気になったらいつでも言ってくれたまえ。家内共々快く迎えよう」
「はあ…」
何かとんでもない事をさらさらと流している感もあるのですが、そろそろ本当に時間がないのでわたくしは診療所に妹を残して酒場へと戻ったのでした。


翌日からは久しぶりの一人での店番ということでかなり気を入れて構えていたのですが、比較的客足は少な目でなんとかさばく事ができました。
午前中とお昼を凌げればみつマスターが起きてきてくれるので何とかなるのですが、数が少ないとはいえさすがに一人でオーダー、調理、運搬、お勘定まで全部行うのは骨ですし。
これはやはり日ごろの行いが良いのが効いたでしょうかね?まあ、行いが良いから客足が少なくなると言うのも両手を上げて喜べないところもあるのですが。
さてそんな折、明日には復帰出来るだろうと槐さんから連絡があった日のお昼過ぎでした。お昼で使った食器を鼻歌混じりに洗っていると、心なしかいつもより勢い良くお店のドアが開き、
「いらっしゃ…まあ、貴女はあの時の」
「ああ、どうやらここで良いようね。お邪魔するのだわ」
と、先日にお会いした旅の方がやってきたのです。その姿は相変わらずのインパクト満点のライダー服。
真っ直ぐわたくしの前のカウンターに向かってくるので、洗い物を中断してお水を用意します。
「いらっしゃいませ。こちらがメニューになります」
「私はお酒は飲まないのだわ」
「それなら大丈夫ですわ。この時間帯はお酒以外のモノを扱っていますから」
「そ。なら紅茶はあるかしら」
「はい。茶葉はいかがしましょう」
「あら、酒場なのにちゃんと種類が揃ってるじゃないの。そうね、ならセイロンを頂戴」
「かしこまりました」
ふっふっふ、ここをただの酒場と思ってもらっては困ります。確かに夜は飲めや騒げやの典型的な酒場ですが、それまではわたくしとばらしーちゃんが様々なチューンアップを施し、わたくし好みの喫茶店へと変貌を遂げているのですから!
主に出稼ぎや観光といった人達が多い世界樹の町の中で喫茶店などは流行らないのではないかと危惧していましたが、人工密度がわりと高いここでは住居スペースがやや狭く、のんびりと読者やお茶を楽しむ場所が無かったようで好評を頂いている次第です。
それにしても…改めてあの方とお話ししてみると、なんと言いますか、威圧感と言うか威厳と言うか…そんなものが溢れている感じがしますね。
ただオーダーを聞いただけですが無意識に緊張してしまうのか肩に力が入っちゃてます。旅人というより格式高いお嬢様の方がイメージとして合いそうなんですが…どうして旅などしているのでしょう。
そんなことを考えている内にお茶が入ったのでお出しします。あ、なんか皇室の給仕な気分。
「はい、お待たせしました(お嬢様)(←気分です)」
「ありがとう。ふうん、なかなか良いモノね。確かな五感を備えている証拠なのだわ。誇りなさい」
「あ、あ、あらあらうふふ…ありがうございますわ。うふ、うふふふ…」
いやん、そんなに誉めないでくださいまし。これはほんのたしなみで…うふふふ…うふふふ…うふふふ…
(…はっ!)
あ、危ない。もう少しで夢のワンダーランドへトリップするところでした。いやはや、なんとも恐ろしいお方です。誉め言葉一つでわたくしを籠絡寸前に追い込むとは…油断なりませんね。
「それに人を見る目もあるようね。紹介してもらったお店、気に入ったのだわ」
「ありがとうございますお嬢様!」
「は?」
!!ああーっと!!
「い、いえ…なんでもアリマセン…」
おや?もしかしてわたくし既に従えられてしまってます?起き上がって仲間になりたそうな目でじっとそちらを見つめちゃってます?
これはマズいですわ…わたくしにはばらしーちゃんという人がありながら…!くっ、ここは堪えなくては!!
「え、えと…あ、世界樹!そう、ジュンさんと世界樹に行かれたんですよね?いかがでしたか?」
「ええ。世界樹はそれなりだったけれど、ジュンは悪くないわね。ついでだから下僕にしてあげたわ」
…ん?今何か聞き慣れない単語が?
「ジュンも運がいいわね。この真紅に仕えることが出来るなんて」
「ははあ…」
うーん、さてはジュンさんはこの真紅さんに落とされましたか…いえ、責めたり致しませんわ。ジュンさん、貴方はよく戦いました。ですが、勝てない戦いと言うのもあるのです。どうかお幸せに。たまにでいいのでわたくしと交代してくださいね。
「ただ、そのジュンを見込んで探し物を頼んだのだけれど、それはここに頼んだ方がいいと言われたのよ。不安だったのだけど、この分では大丈夫そうね。お互いに見る目があること」
「は、はいっ!なんなりと!」
頭の奥の方で『お尻に尻尾でも生えていたらさぞ勢い良く振っているのでしょうね』と囁く声が聞こえましたがスルーです。何故ならばこれは酒場、ひいてはわたくしへの依頼なのです!お仕事なのです!御奉仕なので…いや、これは間違い。
「あ、でも今日は店番がわたくしだけですので…今直ぐにと言うわけには…」
「あら?それは困るわね。なんとかしなさい」
「ううっ…!?」
なんとかと言われましても…妹が寝込み、わたくし一人で店に立っている以上、わたくしがここを離れるには…!
「………」
ああっ、あの眼差し!高圧的ながらも絶対な自信と期待を孕んだあの眼差し!くじけそう!
「おんや?どうしたねきらきーちゃん」
「マ、マスター!」
ああ、今ほど貴女を待ち焦がれたことはありません!さあわたくしに繋がれた仕事とという鎖を断ってくださいませ!(←完全に籠絡してます)
「ああ、貴女が彼女の主ね。ちょっと店主、しばらくこの娘を借りていくわ。いいわね?」
「うん…?ああ、きらきーちゃんに依頼か。んー、そうね、ばらしーちゃん居ないから五時くらいに帰ってくれればいいかな」
「了解したわ。さ、行くわよ貴女。ついて来なさい」
「あ、ちょっとお待ちをお嬢…コホン、真紅さm…ゲホン、真紅さん!」
「何をしているの。早くなさい」
「はいぃっ!ただ今!」
「気をつけてね~」
「行って参りますー!」
こうして、雇い主に背中で返事をしながら酒場を飛び出したわたくしなのでした。
正直に申し上げます。わたくし、こういうの大好きです。なんかドキドキしちゃってます。ハアハア(←走って息が切れただけです)


さて、二人並んで(本来ならば三歩後ろに付きたいところですが、探し物との事なので致し方なくです)町の中心部の市場までやって来ました。ここをもう少し進んだ所に食品店があり、真紅お嬢様と出会った場所になります。
「それで真紅さん、お探し物とは?」
ジュンさんによればそれはわたくしの方が適任との事。はて、ここ世界樹において資源調達に長けるジュンさんよりわたくしの方が見つけやすいモノとは?
尋ねられた真紅お嬢様は、さらりとおっしゃいましたよ。
「“夢”」
「………………は?」
ええと、今、なんと?
「言い換えれば“目標”かしら。私の次の目標を探す手伝いをして頂戴」
「も、目標…その、具体的にはどういう…?」
「私は夢や目標に向かい精進する事を常としているの。ここ世界樹に来たのも“世界一偉大な巨木を見る”という夢があったからに過ぎないのよ。
確かもう一つあった気もするのだけど…どっちにしろ、ここで叶えられる夢は叶えたから私は次の夢を探さなくてはならないの。お判りかしら?」
「ええ、まあ…」
夢、ですか。それを探せと。なる程、確かに探し物ですが…
これが、わたくしが適任な探し物ですか。ははあ、つまり、要するに、詰まるところ、
厄介払いしましたね?ジュンさん?
籠絡どころか、主(?)を放り投げるとは…さすがは世界樹の男。強いです。いや、確かに紹介したのはわたくしですが、この仕打ちはなかなかヒドイじゃありませんか?
「それで、どうなの?」
「ひえ!?え、えと…ですね、そのせっかく夢が叶ったわけですし、もう少しその成果を楽しんでみては…?」
「否」
ギロリと睨みながら花も凍らすの氷の一文字。ああっ!そこに痺れる憧れるぅ!
しかし、なんて言葉が似合うお人でしょう。きっと『笑止』とか『無粋』とかビシッと言っちゃうのでしょうね!?
破顔のわたくしとは対照的に、真紅お嬢様は無表情の中に僅かな怒りすら感じられる雰囲気のままに、言い放ったのです。
「いいこと?夢とはね、叶うまでの努力こそが価値であり、全てなのよ。だから叶わない夢でさえ価値を持つ。
何故ならばそれに向け精進する事こそが本質だからよ。叶った夢に浸って怠けていては停滞と劣化を招くだけ。叶ってしまった夢に価値など無いのだわ。そうではなくて?」
「え、えと…」
お花畑な頭に強烈な言葉を投げかけられ、わたくしは我に帰りました。
今彼女はとても凄い…というか、強い事を言ったように感じられます。それはまさに、彼女自信の強さがにじみ出たような。
そして、そんな彼女に『そうではなくて?』と言われても、わたくしは直ぐに『はい!』と言う事が出来ませんでした。これは、わたくしが弱い者だからなのか、それとも…
「…では、少しこの町を散策しませんか?ここには珍しいモノや事もあるでしょうし、その道中で真紅さんのお話も伺ってみたいですし」
「ん、まあ、そうね。確かに止まっていても仕方がないのだわ。でも、私の話って?」
「そうですね…今までの旅や夢のお話などでしょうか」
「そんなものを聞いてどうにかなるとは思えないけれど、期待しないことね。私、過去なんて興味もないから殆ど覚えてないもの」
「…はい」
その時わたくしは殆ど確信を持って、その言葉が冗談や誇張ではなくただ真実を述べただけである、ということを感じたのでした。

その後、わたくしと真紅さんは真紅さんの旅の荷物類の買い物と合わせ、町の商店街を歩いて回りました。
ただ、食料品や燃料や日用品などの新調についてのサポートはいくらでも可能なのですが、やはり“夢”とやらの提供はからっきしといった有り様で…
たまに『おいしいお料理を作ってみるとか…』『綺麗な小物作りなんて…』『は、速く走りたくありません?』などと言ってみるも、反応は皆無でした。…なんか、小学生の自由研究みたいですね。我ながらに貧相な発想力…
わたくしがうんうんと腕を組んで悩んでいる間にも、真紅お嬢様は簡単な説明からテキパキと準備を整えていきます。正直、わたくしの存在意義が見いだせません。
なる程、これほどの人となると仕える側にも力量が求められるのですね。だんだんみつマスターが恋しくなってまいりました。
「さて、こんなモノかしらね」
「…お疲れ様です」
ああ!わたくしが軽い現実逃避している間にお買い物が終わってしまいました!ピンチです!
「それで、何か案は見つかったの?」
今までのは案として受け取ってくれていなかったのですね…
「ええと…そうですわ!今までの目標を記録したモノとか御座いませんか?」
本人が覚えていなくとも、何かに書いてあれば問題はありません。
「ああ、それなら手帳があるわ。私は目標が決まったら手帳に記して、達成したら線を引いて消しているから」
おお!そんなナイスアイテムがあるのですか。そう言えば初めて会った時もそんな仕草をしていらしてましたね。ならばわたくしお得意の誤魔化し技術を駆使し、過去の目標を少し変えてみるなどしてなんとか体裁を…
「あら、無くしたようね。新しいのを買わないと」
ノー!!わ、わたくしの希望のアイテムが…なんてこと…
と、落ち込んでいるわたくしに荷物を託し、一人スタスタと商店街へと戻る真紅お嬢様。そんな貴女が大好きですわ。
さて、こうしてはいられません。この空いた時間を使ってなんとかわたくしへの評価を下げない程の案をひねくりださなければ…
「おや?」
なんとなく眺めていた真紅お嬢様のバイクのポケットに、何やら手帳らしきモノを発見。無くしたと言っていたのですが、もしかするとここに置き忘れた?
「ん~、この古さからすると、先代の手帳といったところでしょうかね」
何も手帳は一冊ではないでしょう。使い終わった手帳をおもむろに投げ込み、その存在自体忘れて放置。ああ、お嬢様ならありそうです。
「非礼をお許しくださいませ真紅お嬢様…これもお嬢様を失望させないためのやむを得ない措置なのです…。では、ちょっと拝見」
パラパラと捲れば、そこにはぎっしり並べられた文字と大量のそれを消す大量の横線。なんとか読み取れるものを探していくと…

《ライオンに勝つ》

ぱたん。
手帳を素早く閉じ、即返却します。
「………」
見るんじゃなかった…
ライオンに勝つ。これが人の夢として適切なのかはともかく、これに横線が引かれていたということはつまり、《ライオンに勝つ》ではなく、《ライオンに勝った》ということで…
「真紅お嬢様…貴女は一体…」
勝つ、と言うのが何を示しているのかは判りませんが、ともかくそれが凄まじい事は理解できるというもの。また、これはわたくしが考え付くものでは到底渡り合えないレベルであるとも悟るに至り。
これはもはや、わたくしの手に終える問題ではないようです。しかし『思い付かなかった』では無様は勿論、依頼された者として余りにも無責任というもの。ならば…
「待たせたわね。これで荷物は揃ったのだわ。貴女の方はどうなの?」
「ええ、その事なのですが…一度達成された目標をもう一度目指してみる、というのはいかがでしょう」
「もう一度?」
腑に落ちないといった様子で首を傾げる真紅お嬢様。
「はい。一度達成された目標であったとしても、その時の真紅さんと今の真紅さんではやはり今の方が成長していらしてるでしょう。ならばその時に達したモノより更なる高みへたどり着けるかもしれません。
加えて周りの環境も変わっているとすれば、新しい境地に至る事もありましょう」
わたくし、今のお嬢様なら素手で魔物にでも立ち向かえると信じております。
「………」
否定するでもなく肯定するでもなく、思案顔で目を閉じるお嬢様。とっさの屁理屈だったのですが、思慮には値したようです。
まあこう言っては何なのですが、例えば聞く耳を持つ人にとってはどんな話からも自分からタメになる事を抽出するもの。それが綺麗事や屁理屈であっても、実践する人が素晴らしければ何かしらの成果は見いだせるのではないでしょうか。
しばらくして考えを纏めたのか、そっと目を開けてこちらを覗きました。
「ふふっ、流石はジュンが見込んだ人のようね。確かに、今の私は昨日を私ではない。なら、昨日達した目標さえも新しいモノとなってこの真紅の前に立ちはだかるのね…あら、でも私昔の夢など覚えていないのだけれど」
「ア、ソンナ場所二手帳ノヨウナ物ガアリマスヨ?」
「まあ、本当。…ふむ、身に覚えはないけれどこの筆跡は確かに私のモノね。提案だけでなく昔の手帳まで見つけるなんて…お見それしたのだわ」
お見それされました。多少チート気味でも終わり良ければ全てよし!
しかし、こうしてみると天才と呼ぶべき人も枠を広げて捉えてみれば案外その行動は理解に及ぶのですね。一つ学習です。
「そう言えば名前をまだ聞いてなかったわね。教えてくれるかしら」
「雪華綺晶、ですわ」
「そう。人の名前ね」
「…ええ、まあ」
ごめんなさい。やっぱり何考えてるのかサッパリ判りません。


何はともあれ、こうしてめでたく(?)依頼は完了ということに。一体わたくしが何の役に経ったのか甚だ疑問ではありますが、お客様が満足していただけたのならば何も言いますまい。お客様満足度が第一のみっちゃん亭です。
「ところで、お礼はいかほど?」
「えー…」
確かに、これが仕事としての活動である以上、労働に対する給金が支払われます。そしてわたくし達の依頼については出来高制、つまりお客様満足に合わせて戴いているのですが…
今回の場合ですと、わたくしが何もしていないのにも関わらず最高額を支払わせてしまう結果になりそうな予感が。いくら満足していただいたとはいえ、流石にそれは…
かといっていらないと言えば反論されるのは火を見るより明らかです。むぅ、ならば酒場を出てから今まで引かれるであろう時給をいただくとしましょうか。えー大体三時間半くらいですから、
「まあ、随分と安いのね」
だそうです、マスター。
支払いが済むと素早く荷物をサイドカーに詰め、出発準備を整えてしまいました。
「もう出ていかれるのですか?」
「ええ。次の目標を考えるにはここは少し活気に過ぎるもの。どこか落ち着いて思案出来る場所を探す、それが目下の目標ね」
「そうですか…わかりました。それでは、貴女の旅に幸多からんことを」
せっかくお近づきになれた気もしていたのですが、旅人を呼び止めるのは野暮というもの。
「ええ、貴女も。いろいろありがとう。ではさようなら。…ああ、最後に」
真紅さんは前を向きながら言いました。
「ジュンによろしく」

夕暮れに染まる大通りに、一台のバイクがその真紅の体を鮮やかに光らせながら世界樹に見送られ走って行きます。
登場も唐突なら、去り際もまるで閃光の瞬きのようで。それは彼女が纏っていた紅とともに、彼女のイメージにぴったりと当てはまるものでした。
「あ、雪華綺晶さーん」
「え?まあ、ジュンさんじゃありませんか。お久しぶりです。どうかされました?」
「…まあ、どうかしたな。誰かさんのおかげで慌ただしい数日間だった」
「それはそれは。同情に値することですわ」
ピクピクと顔の引きつるジュンさん。ふむ、これは真紅お嬢様は想像以上に楽しまれたようですね。
「…ところでアイツ、真紅は?」
「ああ、お嬢様ならもう出ていかれましたわ」
「お嬢様…?」
あー、なんかもう、訂正する必要が感じられなくなってきました。
「そっか、間に合わなかったかー」
「何か?」
「アイツな、家にこれ忘れていったんだ」
そう言って掲げられたのは一冊の手帳。
「確かに手帳を無くしたとおっしゃってましたわね。きっとそれでしょう」
「まあ、最後まで使い切ったみたいだから捨てたに近いんだろうけどな。一応持って来たけど…間に合った所でいらないって言われるんだろうな」
「そうですわね。真紅さんは前しか見ないようでしたから」
さも当たり前のように発したわたくしの言葉でしたが、それを聞いたジュンさんは少し顔を下ろして、
「その事なんだけど…多分、アイツ…病気みたいなんだ」
「え?」
“病気”。その否応なしに反応してしまう単語。わたくしはジュンさんに視線で問いました。
「病気つっても大したことは…いや、あるんだろうけど。アイツ、僕に世界樹を案内させた後に家に上がり込んできてさ。姉ちゃんは喜んだけどまあ大変だったよ。なんか下僕にされちまったし」
それは見方によっては微笑ましくもある光景でしょう。では一体?
「でな、ちょっと気になった事があったから試してみたら…真紅、一時間前に食ったご飯のメニューが言えないんだ。それどころかついさっき話終わった内容も覚えてない。そのくせ、自分の名前とか、明日の予定とか約束とかは数分単位で記憶してた」
「そ、それは…」
「これは僕のただのカンだけど、真紅は…“終わった事に興味がない”んじゃなくて、“終わった事を覚えていられない”んじゃないかと思うんだ」
覚えていられない?そんな事が…?
「単純な記憶障害ってワケじゃないみたいだけど。まあ僕は医者じゃないから性格には解らないけど、数日一緒に暮らしただけでアレなんだ。一カ所に定住するのは難しいだろうな…」
反論しようにも、数時間ともにいただけのわたくしよりもジュンさんの方がはるかに理解を深めているのでしょう。
また、数時間いただけのわたくしにもそれらの話は余りに納得のいくモノであり、反論の余地などありそうになく。
「でも…だとしたら…」
なんて、なんて強い人なのでしょうか。
普通もし自分が前の事を覚えていなければ、『自分は過去の事を覚えていられない』と自分の非を感じ、医者に行くなり忘れる事を恐れながら生きていくのでしょう。
ですが、彼女は『それは自分が過去に興味が無いからだ』と記憶の方を否定し、自分を肯定しているのです。
自信と誇り。それが事実すら飲み込み、彼女をあそこまでの人物へと押し上げてたのでしょう。
彼女から感じたモノの正体が、ほんの少しでも理解できた気が致しました。
「んー、じゃあさ、この手帳雪華綺晶さんに預けていいかな」
「え?」
顔をあげてジュンさんを見ると、彼は気まずそうに苦笑いをし、
「いや、流石に男が女性の手帳を持ってるのは…マズくないか?」
その姿がどことなく愛嬌を漂わせていたので、わたくしはそれを受け取りました。
開いてみれば先ほど見た手帳と同じく文字と線でびっしりでした。そして最後のページの一番下には『世界一偉大な巨木を見る』とあり、同じく線が。
「…あら?」
手帳をたたもうと傾けたと同時に、一枚の二つ折りにされた紙切れがひらりとわたくしの足下に落ちたのです。
それは最後のページの右側の手帳のラバーポケットに終われていたものだったのですが、拾い上げてみると何かが内側に書いてあるようです。そして同じく横線が引かれているのが透けていました。
(という事は、此処へ来てから叶った夢…?そう言えば…真紅さんはもう一つかなった事があったと言っていたような…)
拾い上げたそれを両手で広げて。
そして。
「………」
ポタリ。
「わっ!ちょ、いきなりどうしたんだよ!?」
わたくしはその紙切れを再び手帳に戻し、頬を伝うソレを袖で拭います。
「…すみません。ちょっと、ホコリが入ってしまって。では、これで失礼しますわ。また後ほど」
「あ、ああ…」
少々失礼な気もしましたが、こんな姿をまじまじと見られるわけにはいきません。まして、その原因など。
わたくしはしばらく走った後で建物と建物の間にある細い抜け道に逃げ込み、壁に背中を預けました。
すると手元の手帳の重みが、やけに際立って感じられるのです。わたくしはもう一度、恐らくは最後になるであろうと考えながら手帳を開き、挟まれた紙切れを眺めました。
真紅さん。貴女はわたくしに尋ねましたね。叶った夢に価値はあるのか、と。
今ならわたくしは断言できます。価値はあります。だって、そうでなくては、
「わたくしがこんな所で泣き続ける理由がありませんわ…」
それに、答えは自分で出しているじゃありませんか。わざわざこの夢だけ切り取ったページに書いて、手帳の一番後ろになるように、流れては消えてゆく自分の過去にならないように。
貴女は強く、賢く、生真面目で、時に頑固で。
そんな貴女はどんな経験をして、この夢を抱いたのですか?
そんな貴女はどんなことを考えて、この紙を一番最後にしまったのですか?
そんな貴女はどんな想いで、この夢に線を引いたのですか?
真紅さん。貴女は、その線の意味に気付いていたのですか?本当に気付いていなかったのですか?
「……はぁ」
どんなに疑問に頭を塗り潰されようと、もうこの町に彼女はいません。この場所は、既に彼女の過去になりました。
でも。
でも、わたくしが身勝手に夢を見る事が許されるのなら。
この町で芽生え感じたキモチが、彼女の中の“今”であり続けることを―
「あっ…!」
突然の風に手帳に乗せられていただけの紙は飛ばされ、宙を舞ってしまいます。
慌てて追い掛けてみるも、天高く舞い上がったソレは夕焼けの紅に紛れ、わたくしの視界から消えて逝きました。
その先に見えたのは、ただ、紅く染まった世界樹の木。まるで吸い込むかのような風が、その大樹へと向かっていきます。
わたくしはそれを見届けた後、手元に残った夢の跡を抱え、それがあるべき場所を考えながら、自分が居るべき酒場へと足を進めるのでした。

誰かの涙に濡れて風に舞い、今はもう世界樹の一部となった一枚の紙。そこには一本の線の下にこう記されていたのです。



《運命の人に、出逢えますように》

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