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『Dolls' House 第四話 ぎんいろのあきがやってくる』

 歌が聞こえる。
 戯れに口ずさむだけの些細なものだ。
 風が吹き抜けて旋律をさらっていく。
 病院らしい真っ白な部屋で、音はほとんどそれしかない。
 紡ぐ娘の白いうなじを通り抜け、黒髪を揺らす。
 幻想的、否それすらも陳腐か。
 彼女は頬にまで届きかけた前髪にクスリと笑うと、目を細めてまた歌を紡ぎ始め───
 スパァンとドアが開いた。

「───っめぐーーーーーー!!!遂に私はやったわよぉ!!」
「空気を壊さないで頂戴、水銀燈っ!」
 宙を舞う花瓶。ああキラキラ光っているわぁ綺麗だわぁと水銀燈が見蕩れているうちに、それは視界の大半を占めて………
「へぶっ」

 どくどくどくという流血音をバックに、また歌は紡がれる。
「どうして……どうしてなの……めぐ……………」
 水銀燈は力尽きた。



「って、何なのよぉ。私はこんな茶番をしにきた訳じゃないわぁ」
 水銀燈はきゅっきゅと額の血糊を拭き取りながらいそいそと鞄を引っ掻き回した。
 めぐと水銀燈は昔からの友人。めぐは心臓を患っていて、水銀燈はことあるごとに彼女のお見舞いに訪れているのだった。
「……なぁに、水銀燈。今日は変にテンション高いじゃない。いつもの私みたいよ」
「アンタはいつもの自分のテンションに少し位恥じらいを覚えなさぁい。………で、これよぉ!見て見てぇっ!!私の!ワ・タ・シ・の!免許証〜〜〜〜〜〜ッ!!」
「ええ十分に茶番ね」
 跳ね回る水銀燈の満面の笑みに、めぐは辛辣に、かつ笑顔で吐き捨てた。
 大体が、病室で暴れ回るなんて非常識よ?と言おうとしたがよしためぐは、まじまじとはしゃぎにはしゃいでいる銀髪のマドンナ大学生を見た。
「で、水銀燈……本当に、どうしちゃったの?」
「だからぁっ!見て分かんないのぉ?私が前々から欲しいわぁって言ってた免許証よ?これがあれば自分の車を運転できるのよ?」
「うん、わかった、わかったわ。いくら人生の殆どをここで過ごしてるからってそれくらい知ってるわよ」
 やれやれと青白い顔を伏せたメグにも構わず、水銀燈は更に鞄を物色して追加の対めぐ兵器を取り出した。地方の観光マップが数冊。片手では持ち上げられなさそうな代物である。物見遊山の馬鹿力。
「何処行こうかしらぁ?ねぇめぐ、何処がいい?三日くらい外出許可貰って湯治とかに行きましょうよぉ。東北の温泉につかればめぐの心臓なんか一瞬でジャンクよぉ」
「ジャンクになっちゃ元も子もないわ」
 あまりに浮かれ過ぎて、水銀燈は致命的なミスにさえ気付かない。最早手遅れである。
 び!と『るぶぶ 東北版』と書いてある地図を示してみせる彼女に、めぐは困ったように笑った。
「嬉しいのも楽しみなのも分かるけど、でも……私、ここのところ調子悪いから、行けないわ。ごめんね、水銀燈」
 威勢良くのびていた水銀燈の腕がゆるゆると下がっていった。
「そぉ…残念ね。じゃあ、先に下見に行ってるから何処がいいか決めてよぉ」
 一緒に行けないと分かっても、大して騒がず、執着もせずにさくっと水銀燈は提案した。
「……」
 ふ、とめぐは目を細めた。なによ、と水銀燈は地図を見つめたまま呟いた。
「あなたのそういうところ、好きよ」
「なな、何よぉ!急にそんな告白したって何も出ないわよ!ヤクルトくらいしか」
「いいじゃない、今日は水銀燈だって破格にハメ外してるんだから、私だって大胆にもなるわ」
「だからぁ」
 しかめっ面になった水銀燈は、それでも小声で「元気になりなさいよ」とページをめくった。

 どこからともなく取り出したヤクルトをめぐに振る舞い、自分のヤクルトもちょっとずつ舐めながら、水銀燈は一息ついた。慣れないノリで疲れたようだ。
「ふぅ……乳酸菌だけが私を癒すのよぉ……」
「それは良かったわね」
 めぐは珍しいタイプの水銀燈を見てほんの少しツヤツヤしている。「いいもの見せてもらったわ」
 地図はさっき花瓶が置いてあったところにつまれている。その花瓶は、まぁ言わずもがなだ。
「ところで水銀燈、妹達とは行かないの?旅行」
 料理酒を舐める中年親父のような水銀燈は、妹という単語に眼光を鋭くする。
「黙って頂戴」
 銀髪の色が柔らかい光を失う。冴えた赤の瞳がひたりとめぐを捉えた。…捕らえた。
「今回は妹は関係ないわぁ。私は、ワタシで動くのよぉ……めぐ」
 うわ、とめぐが水銀燈の殺気に見合わない反応を示す。
「何年友達やってても、その気迫だけは怖いし馴染めないわね」
「とにかく!私はもう妹に引きずり回されたりなんかしない……私は………姉なんかじゃない…」
「いや姉だから」
 めぐの渾身の突っ込みにも構わず水銀燈はヤクルトを握りつぶした。残っていた乳酸菌がびゅうと噴水スタイルで吹き上がる。
「あ」
 乳酸菌へなみなみならぬ愛情を注いでいる彼女は、それに気付いて正気を取り戻した。
「私のヤクルトが…」
「あげるわよ。あんまり飲んでないし、これ喉乾くし」
「あらごめんなさいねぇ」
 当然よぉというような顔で受け取った飲みかけのヤクルトをあおる水銀燈をめぐはニヤニヤ笑いながら眺めていた。 「ねえ水銀燈、これって間接キ」
「スじゃないわよ。気持ち悪ぅい」
「むー」



 水銀燈は、一人で行くことになってしまった旅行の計画で萎んでしまった勢いに、重くなってしまったような鞄を肩に提げて家路についた。
「はぁ……」
 めぐと旅行の行き先について話し合っていたら、気付かないうちに日が暮れてしまっていた。面会時間が過ぎてしまったのに気付いた頃にはもう外は紫色に沈んでいた。
「小娘みたいね………あんな風に騒ぐなんて」
 馬鹿馬鹿しいと思いつつも、さっきの楽しい余韻を反芻して顔を緩めながら歩く。そうしていると大抵はすぐに家に着くのだった。
 矛盾かしらぁ、と水銀燈はたまに思うのだった。冷めてる、というか冷酷な性格の筈なのに、こんな下らないことに夢中になるなんて。
「ただいまぁー」
 大して重要とは思わなかったので、その思考はほっぽって水銀燈は玄関のドアを引いた。

 帰るや否や、水銀燈の目の前にはずらりと彼女の妹達が並んで笑っていた。
『お帰りなさいませ、銀様!』
 何かの悪い夢じゃないかしら、ともう一度出て入り直そうとする水銀燈を、裏がありそうな笑顔でお出迎えしていた妹達がぴーぴーと騒いで引き止めた。
「な、なんでかしらぁ、ちょっと待つかしら!」
 この作戦を考えだしたのであろう金糸雀は涙目になった。さらにそれにノリノリだったであろう翠星石、蒼星石、真紅、雛苺、雪華綺晶は続けて抗議した。
「話くらいは聞くですぅ!そのために今日の夕飯は多国籍料理なんですからねぇ」
「水銀燈、僕からも頼むよ」
「ちょっと、話も聞かないうちに逃げるのはレディとして無礼よ」
「ヒナもどーかんなのー!」
「黒薔薇のお姉様、どうか一分でも」
「……………」
 薔薇水晶はひたと水銀燈を見据えるだけである。残念ながらそこから何らかの感情を読み取ることは出来ない。
 言いたいことを聞けって、言いたいことなんて初めから分かってる。大昔でも答えは予測できた妹達の主張。
 只一つだけ違うとしたら、それはきっと私自身なのだろうと水銀燈は溜息をついた。
「ドライブに行きたいとかそんなところでしょぉ?」
 妹達は黙って水銀燈を見つめた。何も言わないが、その目が「ざっつらーいと」と語っている。爛々と煌々と輝いている。…正直、怖い。
「(やっぱりね。でもこればっかりは認める訳にはいかないのよぉ…どうしても妥協できない一線なのよぉ)」
 水銀燈は自覚しないままに心を鬼にし、キッと横一列の彼女達に向き直る。
「残念だけどねぇ、アナタ達は連れて行けないわぁ。めぐと一緒にいくからねぇ」
「うゅ…それは仕方ないなの」
 素直に信じかけた雛苺を、がたがた前後に揺らして金糸雀が喚いた。
「違うかしら!きっとそれは嘘かしらー!」
 何を根拠に、と肩をすくめた水銀燈にビッと人差し指を突きつけ、
「だって決まったんならもっとはしゃいでいる筈かしら!それに、もっと計画を立てるのに時間がかかって帰りは遅くなるかしら!暴走し始めためぐさんと水銀燈なら、面会時間なんて丸無視かしら」
 ああーなるほどーとサクラのような反応が返ってきて、頭脳派に解けない謎はないかしら?と金糸雀は得意げであるが、水銀燈だけは浮かない顔だ。
「(しまった……!)」
 一つ頭を振って、水銀燈は苦笑した。
「仕方ないわねぇ。行きたいところあるんでしょ?」
 内心の落胆は隠し仰せる。



 何日前だったかは大して重要じゃない、と思う。
 大学の講義の後だったような気がする。
(ねえ水銀燈さん)
(あら、なあに?)
(私いっつも思ってたんだけどさー)
 隣に座る学友がこんなことを言ったのだ。
(妹に構いっぱなしじゃ結構疲れない?私も弟いるけど、絡まれると疲れるとき多いんだよねー)
 それを聞いて、何だか目から鱗が剥がれた気がしたのだ。
(そうねぇ、確かにそうかもしれないわね)
 何だか、妹達に振り回されている気がして。一度そんな考えに取り憑かれたら、どうしてか忘れられずに一人で行動してやろうという気になったのだ。
(そうねぇ…)
 きっかけは大概小さなことなのだ。



 で、至る某休日。
 大分冷え込んできて、もう山の方は色とりどりの紅葉観光日和であるという。
 水銀燈が購入した新車、七人乗りのワゴンに八人姉妹がむぎゅっと詰め込まれ、てんやわんやの紅葉狩りへ出発だ。
 何故紅葉狩りかというと、雛苺が「苺狩りみたいなものなのよねー?だったら行きたいのー!」と主張したからだった。根本的なところを間違えているようだったが、久しぶりのドライブに浮き足立っていてツッコむ余裕のある者は一人もいなかった。

「しぃんくー、そこのマポロチョコとってなのー」
「ちょ、ちょっと待ちなさい、今揺れてるから……あっ」
「ひゃー、まきびしになったですぅ」
「まきびし美味しいのー」
「苺薔薇のお姉様、三秒ルールにも限界がありますわ」
「取り敢えず皆急いで拾った方がいいね。手伝って!」
「うう……靴の中入ってるかしら………」
「食べちゃ駄目ですよ、流石に靴の中は……ですぅ」
 ワゴンの中には、運転席に水銀燈、助手席に薔薇水晶、後ろの列に翠星石と蒼星石と金糸雀、最後尾に真紅と雛苺と雪華綺晶が詰め込まれている。
 後ろが騒がしいのはいつものこととして、問題なのは助手席だった。
「………」
「ねぇ…薔薇水晶」
「………」
「さっきから何なの、視線が痛いわよ」
 水銀燈の隣の薔薇水晶は水銀燈を(・3・)な表情でじっとりと見つめているのだった。
「………」
「……いい加減にしなさぁい…」
「うん、分かった」
「いい子ねぇ」
「一曲………」
「はぁ?」
「一曲、唄わせて」
 脈絡的にさっぱり意味が分からなかったが、取り敢えず許可しておかないとまた(・3・)になると思い、
「いいわよぉ………」
「では。………草むらに〜♪名〜も〜知〜れず〜♪」
「却下。妙にいい声だからムカつくわぁ」
「むー。………ててれててれてれててててっ!」
「何を唄うのよぉ」
「コートの中にはっ♪魔物が棲〜むの♪頼れる仲間はっ♪みんな目が」
「死んじゃ駄目よぉ。却下」
「………。…大嫌ーいーでーっす♪全部ーがー嫌ーでーっす♪」
「シチュエーションが洒落になんないから却下。第一マイナーすぎるわぁ」
「………。……でんでんでんでんでんでんででんで♪でんでん…」
「んっ……この前奏はもしや!?」
「喜びも哀しみも〜♪虚しーいー♪だぁぁぁけぇぇぇぇ(ご一緒に!)」
『こなああああああああああああああゆきいいいいいいいいいいいいい』
「ねぇ♪」
「はっ!ついつい………き、却下よぉ!」
「………。……アナタとぉ、越えたいぃ(でででででででん)」
『天城ぃいいいいいぃぃぃぃぃぃぃ越ぉおおぉぉぉぉええぇぇぇぇぇぇ』
「ほら。やっぱりノリがいい」
「ついよ、つい!却下!」
「………もういいや」



 ワゴンはいよいよ山間に入り、高度も段々と上がっていき近くに雲も見える。
 頂上付近にひらけた休憩所があり、そこに水銀燈は愛車を停めた。
「ここで休憩よぉ。さ、遊んでらっしゃいな」
「長旅の運転お疲れ様でしたかしらー!」
 口々に水銀燈を労ってから、妹達ははじかれたようにすし詰めの中から飛び出していく。どうしてこの子達はどこかから出るときいつもこうなのか。
 思い思いの遊具を後部座席から取り出そうとする妹達を押しのけ、翠星石が「ちょーっと待つですぅ!翠星石が作ったサンドウィーッチが優先ですぅ!絶品ですよ?」と自信ありげににやりとしたので、食い意地の塊×5は一斉に黙った。
 駐車場に「キラッ☆」と行書体でかかれた馬鹿でっかいシートを広げて、一家そろってのお弁当となった。
 お弁当のサンドイッチを作ってきた当本人、翠星石は、アウトドア用の割れない皿に一人三枚ずつ分けて配っていた。
『いただきまーす』
「毎回作ってもらって申し訳ないわね、翠星石」
「気にしないでいいですよ真紅。料理は翠星石の趣味の一部ですしね。それに蒼星石と一緒に作れるので文句はないですよ」
「姉さん人使い荒いんだよね…」
「これすごいのー!苺入ってるのー!」
「美味しいですけど、これじゃ量が少しばかり…足りませんわ」
「心配御無用ですぅ!もっちろんアンタの為にざっと十五個は作ってきたですよ」
「きらきー…恐ろしい子」
 わいわいと各自の食べ物を頬張る妹に、水銀燈はふっと目を細めた。…が、すぐにちょっとだけ引き締めた。
「(大体がね、何やってるのよぉ。私)」
 内心こんな事になる筈じゃなかったのにと嘆息した水銀燈に、翠星石がサッと何かをよこした。
「連れてきてくれた水銀燈姉ちゃんには特別仕様のデザートがついてくるですよ」
 無駄に凝った容器を開けてみると、中身もまた凝ったつくりの鮮やかなゼリーだった。
「………」
「…な、何です?気に入らなかったですか?」
「…あ、そんな、嬉しいわよぉ。随分可愛いわね、大変だったんじゃなぁい?」
「え、ああ、まぁ多少は」
「そうよね、ありがとうねぇ」
 にこりと翠星石に笑いかけて、水銀燈は手元の本日のデザートに目を落とす。

───益々、自分でも分からなくなってきたわぁ………………



 紅葉狩りよろしく、ちゃんと紅葉を眺めることにしたまともなメンバーは、結局翠星石と金糸雀と雛苺以外の五人だった。
 誰より「行きたいのー!」と言っていた雛苺が翠星石と一緒になって騒いでいるのは、勿論「苺狩りみたいにアマアマなものじゃないの?……うー、期待はずれだったの…」というベタな展開になったからだった。
 といった事情で、結局まともな五人組がぽけーっと赤やら黄やらの山々を眺めている前を、季節違いのビーチボールを三人がばしばしと打ち合っているユルい時間が訪れた。
「覚悟するですよ、ちびかける2!翠ちゃんの稲妻サーブは無敵ですぅ!」
「この威圧感……ただ者じゃないかしら………!?」
「気をつけるのよ、カナ!今日の翠星石はオーラが違うの!こわいのよ!」
 大きく翠星石がボールに手をかざし、ニタリと笑う。殺気────解放!
 宙に浮く丸い翠星石の悪意の塊。うなりをあげて振り下ろされる白い陶器のような腕。
 ぶんっ!
「ひっ!」
「うゅー!」
 二人が怯えて頭を抱えてうずくまる。
 …。
 …。
 ……?
「す、すかしたですぅ」
 所在ない手を投擲ポーズで固定したまま、あははーですぅ…と笑う翠星石の足下にはビーチボールが転がっていた。
「…姉さんらしいオチだね」
 蒼星石が呟いたのが救いだった。

 そんな馬鹿な事をやっている年少組(もちろん、精神的な意味で)はほっといて、水銀燈は疲れたような呆れたような複雑な心境にあった。
 隣でぼーっと座っている薔薇水晶は彼女を見ながら心配そうな顔で、
「(ダイドードリンコって………どうして”コ”なんだろう…………)」
大して心配はしていなかった。
 雪華綺晶と蒼星石は姉妹の重石コンビとして紅葉を愛でつつのんびりと言葉を交わしていた。もうまともな人間はこの子達しかいない。全く後の六人は何をしにきたのか。
 水銀燈は迷っていた、というよりははっきりしなかった考えに終止符を打つため、おもむろに立ち上がった。
「薔薇水晶。私ちょっとあのウォーキングコース行ってくるわねぇ。三十分もしないと思うから、みんなをよろしくねぇ」
「ん」
 駐車場の端にある、ウォーキングコースの入り口へ足を踏み入れた水銀燈。
 いつもなら頬が緩む妹達の笑い声が、今は何となく鬱陶しかった。
 …寧ろそう思いたかっただけかもしれない。



 人が殆どいない道を歩いていると、大分冷えてきた風がすっと水銀燈の頬に触れた。考える猶予が欲しかった水銀燈にとっては、鋭利なそれも幾分かやさしく感じられた。
 随分遠くに来たように思う。喧噪も聞こえなくなった辺り。静かになると、なぜかさっきまでの頭を占拠していた目的が萎んでいってしまう。
「何で、私は…」
 ここまで来たのかしらぁ?と続く言葉は、何より望んでいた冷たい空気に飲み込まれてしまった。
 何で何でと駄々をこねるように繰り返すのは真紅のお得意技だと思っていたのに、これはどういうことかしらぁ、と肩をすくめる。
 元はといえば、知人が大して考えないままに零した一言だったのだ。なのにどうしてこんなにこの下らない問題に真剣に悩まなければいけないのか。
(何故なら、アナタが『銀様』だからよぉ。分からないの?『私』)
 頭の中でふと響いた声は、水銀燈がよく知っている人格のもの。
「(喧しいわよぉ、銀様。私はもうアンタじゃなくて水銀燈なのぉ。とっとと高校卒業しちゃいなさぁい!)」
 くすくすと笑い声が聞こえたのは、勿論水銀燈の耳の中でだけだ。外はざわつく木々と生き物の気配のみ。
 下らないけれど水銀燈にとっては重要な問題がぐだぐだと頭の中でまわり続ける。それが『銀様』の嘲笑と相まって水銀燈の苛立ちが最高潮に達した。
「全く───」
 言いかけたところで視界が唐突に傾いた。
 唐突すぎて体が強ばって動かなかったが、瞬間的にこれだけは理解した。
───ああ…私、今転んでるわぁ……



「………あれ?薔薇水晶、水銀燈は?」
「……ん」
「え?……ああ、あの道に入っていったんだね。分かったよ」
「……ん」
「うん。ありがとう」



 理解した直後なのか、もしくは随分後なのか。いつの間にか閉じていた瞼を開くと、世界が傾いていた。
 急過ぎる視界の展開に、「なんなのよぉ」と眉をひそめて立ち上がろうとした。うつぶせになっている体を片手で支えて、左足に力を───
「いっ………!」
 入らなかった、あまりの痛みに入れられなかった。立ち上がりかけた水銀燈はまたぐらりと傾いて、近くにあった岩を背もたれに倒れた。
 どうやら、と水銀燈は息をついた。
「私は……落ちてきたみたいみたいねぇ……」
 しかも、足の怪我っておまけ付きでね!と盛大に毒付いて、水銀燈は辺りを一度見回してみた。頭上にはさっき水銀燈が歩いていた道があり、そこから一筋草花が荒れている軌道があった。彼女が落ちてきた跡だ。
 それ以外には、歩いてきたときにみた景色と大して変わらない色づいた木々だけ。試しに誰かを呼んでみたが、到底返事は返ってきそうになかった。
 急に心細くなった。



「……!」
「急に立ち上がって、どうしたんだい薔薇水晶?」
「乙女のぴんち」
「……?」
「出動しなきゃ」
「え?……あ、ちょっと薔薇水晶?もう、良く分からない子だなぁ……!」



 本当にどうしたものかと水銀燈は悩んでいた。帰ろうにも足が使い物にならないし、人を呼んでも誰も来やしない。
「あ」
 これが有ったじゃなぁい、私ったらおばかさぁん……と水銀燈は自分の携帯をポケットから取り出した。
「(これで全てが解決よぉ。それにしても足、酷い痛みねぇ。結構な怪我じゃないかしらぁ)」
 ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴ。
「………え?」
 開く直前に、携帯から凶悪な電子音が聞こえた。
 最高に最低な嫌な予感。
「まさか、そんな訳ないわよねぇ?うふふ」
 引きつった笑いを口元に浮かべながら携帯を開いてみると。
────充電切れ。
「………さいあくううううぅぅぅぅぅぅ!!」

 絶体絶命とは良く言ったものだ。正にその状況に立たされると、その言葉の本当のニュアンスを感じずにはいられない。
「……情けなぁい」
 一人になりたいとか、お姉ちゃんじゃなくて水銀燈なんだとか、そうほざいていた自分が今は誰かの助けを心の底から願っている。
 本当に、情けない。そして悔しい。でもどこか、……そう、寂しい。
 こんな気分のときは大抵、姉妹に会いたくなってしまうのだった。
 日はかなり傾いてきていた。夕日になって、真っ暗になるのももう時間の問題だろう。

「来てよ、誰か……きてよぉ……」
 水銀燈にはもう自分の言葉を止められる精神力は残っていなかった。人の声がなければ心細くて、それだけで何かが壊れてしまいそうだった。
 バカだけど憎めない金糸雀。
 何だかんだ言って助かってる翠星石。
 結構相談に乗ってもらってる蒼星石。
 あんなのだけど悪い子じゃない真紅。
 ピュアでこっそり癒されてる雛苺。
 しっかりしてるけどボケが可愛い雪華綺晶。
 そして。
───と、水銀燈の頬に何か冷たいものが触れる。
「……!?」
 涙のように見えるそれは、にわかにやってきた雨雲がもたらしたものだった。
「嫌だわぁ……こんなときに雨だなんて」
 何処までもついてないわぁ。



「ちょっと、姉さん達!雨降ってきたよ!」
「本当ですぅ。まったく、空気の読めない天気ですね!」
「残念なのー」
「……あら?蒼星石、水銀燈と薔薇水晶は?」
「いませんわね……蒼薔薇のお姉様、ご存知ありません?」
「水銀燈はあのコース歩いてくるって言ってた。薔薇水晶は……あ、なんか乙女のピンチだとか言ってたなぁ」
「何だかやな予感がするかしら」
「金糸雀の予感はあてにならないのよ」
「それでも今回は本当かしら!才女の勘かしら」
「僕も賛成かな……ちょっと、行ってみない?」
「蒼星石が言うなら……今回だけですよ」



 自分がどんどん崩壊していく様に、水銀燈は感じていた。装っていた虚構が、ぼろぼろと剥がれていく。こんなちょっとしたことで。いや、下手すれば命に関わることだが。
 それでも、今はもうはっきりと分かっていた。
 自尊心とか個人とか、そんなものはもう全く何も関係ない。自分は自分、水銀燈にしかなり得ないということを。
「……寒…」
 雨にゆっくりと染められていく感覚。
 どうしようもなく妹達に会いたかった。
 そんなとき、ざく…ざく…と草を踏みしめる音を聞いたのだ。
「……だぁれ?」
 無造作に育った植物をかきわけて、そこに傘もささず立ち尽くしていたのは。
「銀姉、………探した」
 妹の中でも何故だか特に会いたかった、薔薇水晶だった。

「薔薇水晶?よくここが分かったわねぇ」
 平然を装っていつもの笑顔を浮かべるが、薔薇水晶は笑顔を返してはくれなかった。
「銀姉…なに、してるの」
「見ての通りよぉ。落っこちて足ひねって動けなくなったのよぉ…助けにきてくれたのぉ?」
「……」
 薔薇水晶はただただ水銀燈を見据え、雨に濡れながら一つ頷く。
「いい子ねぇ。それじゃ、他の皆も」
 言いかけたところ、声の合間。
「銀姉、───の、馬鹿」
 体の上に安心感のある重みがかかった。
「……!?」
 仰向けになって斜めに寝ている姿勢だった水銀燈に、薔薇水晶が抱きついていた。
「ちょっと、薔薇水晶!退きなさ──」
 慌てて水銀燈が薔薇水晶を起こそうとするが、薔薇水晶は一向に離れようとはしなかった。
 いくらかはくっついていれば暖まるかと水銀燈は思ったのだが、彼女の体も水銀燈と同様に雨ですっかり冷えきっていて、到底そこに体温は生まれなかった。
 そこに容赦なくまた雨のつぶてが降る。
「(こんなになるまで、探してくれたのかしらぁ)」
 そう思うと、冷えきった感覚が不思議と遠ざかっていった。
「……優しい子」
 このままでもいいとさえ思った。このまま、雨の中体温を奪われ続けるのもいいと思った。ともすれば、このまま二人でこうして息絶えていいとすら思った。
 極限状態で、水銀燈はそんな幻のような考えに一瞬だけ取り憑かれた。自分の体にしがみつく薔薇水晶を冷たい腕で抱き返しながら。

「……銀燈……!水銀燈ー!!」

 遠くから自分を呼ぶ声に気付き、水銀燈はやっと我にかえった。
───そうだわぁ。生きて帰らなきゃ、意味がないのよぉ!
「私はここよぉ!薔薇水晶もここにいる!怪我をして動けないのよぉ、助けて頂戴!!」
 わやわやと姉妹達が騒ぐ声が近くなる。
「私はここにいるわぁ!」

(結局は、私も姉妹のことを必要としていたのよねぇ)



 で。
 その後、水銀燈と薔薇水晶は姉妹達によって病院に運ばれ、水銀燈は足の骨折、薔薇水晶は風邪をこじらせた肺炎と診断された。

 当分入院が必要ですね、と言われたので水銀燈が入院する病室に連れてこられた瞬間。
「この日を心待ちにしてたのよ……私の黒い天使様ぁ!」
「アッーーーーーーー!!!」
 何故か水銀燈用のベッドに寝転がっていたのは、万年病人のめぐさんだった。
 そういえば同じ病院ねぇ、ここ…と水銀燈が気付いたときにはもう遅かった。
「さぁさぁ早くベッドの中にお入りなさい水銀燈!一緒に寝れば治癒力も倍増よ♪」
「生命力は激減ね」
 看護婦の佐原さんによって、迅速にめぐは本来の病室へ連行されていった。
「次話では……次話では、ゼッタイにモノにしてみせるぅぅぅう………!!」
 という不吉な布石を残して。

 しかし免許を持っていたのは私だけなのに、どうやって車を家まで運んだのか?と水銀燈が蒼星石に聞くと、「それは……当分聞かないでくれるかな……」と静かに目をそらした。他の妹に聞いても同じ反応だった。
 只一人翠星石だけは「知らんですぅ!何処かのとても親切な翠星……じゃなくて美少女がやってくれたんじゃないですか?」と自慢げに言っていた。
 その直後、水銀燈の携帯に件名なし本文なしのメールが届いた。雪華綺晶からだった。
「…………」
 添付されていた画像は、そこかしこが傷だらけになった……水銀燈の新車。
「帰ったら当分おやつ抜きねぇ………」

 薔薇水晶も同じ病院に入院していたのだが、何だか彼女の水銀燈に対する反応が鈍くなったような感じを水銀燈は如実に感じていた。
 たびたび茶々を入れにくるめぐの存在も相まって、暫くは気の休まらない病棟生活になりそうである。
 でも。

「水銀燈、足はどうかしら?」
「水銀燈のことですからメキメキっ!と治るにきまってるですぅ!」
「姉さん、それは流石に無茶だよ…ほら、ゼリー貰ってきたよ」
「全く、病人だからっていい気になるんじゃないのだわ。…これ、花束よ」
「水銀燈ー、早く良くなってねーなの!」
「そうですわ。無茶はしないで、ゆっくり治して下さいまし」
「……私はもう……大丈夫だから。早く…治して、銀姉」
 妹達がこうして自分の周りで笑ってくれて。
「ありがとうねぇ、皆」
 水銀燈もそれに素直に笑い返せるから。
 水銀燈はそれでいいのである。

(……水銀燈が嫌に素直ですぅ……)
(何その言い草ぁ。翠星石と書いてツンデレと読むアンタにだけは言われたくなかったわぁ)

 つづく

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