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 雨は、それなりにすき。

 ぽつりぽつりと降る雫が、ぱたぱたと音を鳴らしている。少しだけ開いている窓の隙間から入り込む風が、ちょっとつめたい。
 ここ最近は晴れの日が続いていて、これなら夏もあっという間にやってくるのだろう、と。そんなことを考えていたものの、この分では半袖だと風邪をひくひとも出るだろう。

 眼を閉じれば、晴れているときよりもずっと色々な音が聴こえる。気分にもよるだろうけど、私はそれを五月蝿い、とはあまり思わない。私が鉛筆で、参考書へとつとつとリズムを刻んで叩くほど、規則正しくなどない、音。

 水は地に落ちて。小さな小さな渦を巻き、どこかへ流れて消えてしまう。
 いつのまに。
 一体、どこへ。

 か弱い、雨。
 それが生み出した、水の流れ。
 きっと知らないうちに、なくなってしまう、それ。

 そして、音。
 雨の音に紛れて、聴こえなくなってしまう小さな何か、があるのかもしれない。それでも。それでも。

 教室へ、誰かが近付いてくる足音。
 こつ、こつ。少しずつ、大きくなる。
 からら、と。扉の音が聴こえたところで、私は何時の間にか閉じていたまぶたを開いた。

「きれいな雨ね」

 声につられて、顔を向ける。

「ひとり?」

 うん。

「じゃあここ、失礼するわね」

 そう言いながら彼女は、ちょうど私の前の席へ着いて、こちらへ身体を向ける姿勢をとった。

 雨は、それなりにすき。
 ぽつりぽつりと降る雫の小さな音に。今日、と言う日の放課後は、もうひとりの声が加わる。



【ある日のふたり】



「いつも教室に残って勉強しているわね? 巴」

 いつも、と。改めて言われて見ると、確かにその通りだった。最早我が身も受験生、気合を入れて頑張ろうとは思うけれど、部活もまだ引退ではないし、あまり塾に通おうなどとは考えていなかった。

 すきなの。放課後の教室が。

 この言葉には全く偽りはなくて、人気のない放課後のここは、自分にとってとても落ち着ける場所だった。

「成る程ね。それは少し、わかる気がするわ。私にも、すきな場所はあるもの。私の場合は、それが図書室であるというくらいかしら」

 何を読んでるの?

「読書――と言いたいところだけど。定期考査が近いから、今は勉強ね。受験的な模試の勉強もいいけれど、定期考査を落とすと、内申に響いてしまうかもしれないから」

 確かに、それはそうだった。今はその定期考査のお陰で、部活動自体が自粛期間になっている。

「倫理のように観念的で、本当は答えなど求められない学問は、確かに素敵。授業では、それは答えのような何かは示されるけど。ただ、数学なんかも、存外に良いものね。洗練された題意を解読して、正しい解法を探し当てるのは。もっともそんな考え方も、元々答えのある問題しか与えられないからこそ、出来ることなのかもしれないけど」

 むずかしめのパズル、を解いてる感覚かしら。私は数学は苦手だから……

「簡単、では無いわね。実際、私が数学の問題を、楽しみながら解いているわけではないもの」

 そうなの?

「そう。ただ、どんなに難しく見えても、限定された条件として、『答えのある問題』が与えられるわけでしょう? 頭を捻って悩んでも、それなら些細なこと。答え、という存在があることを自分は知っているわけで、それだけである種の安心感があるわ」

 そんなものかな、と思う。以前ちらりと見かけたことがあるが、彼女が広げていた数学の問題集らしき何かは、巷で有名な通称「大数」だったし。なんとなく、世界が異なるように感じる。

「知らないことは、知ればいいのよ、巴。知ったことを覚え続け、いつか道具として行使しようと思うなら――あとは努力」

 敵わないわ、真紅。

「そうかしら?」

 柔らかい笑みを浮かべる様子に、微塵も嫌味が感じられない。彼女に関しては、元々頭がいいんでしょう、という一言で言い切ることが出来ない人柄を持っている。実際、学年で上位の成績をキープするだけの努力を、しているのだから。しかもそれを、決して泥臭くならないように。
 気高く高貴なその様に、私は降参の意を示したのだった。

 たまに友達に絡まれて、ヒステリックに怒るときがあるということは、ひとまず置いておいた。


―――


 小雨は、いまだやむことなく、雫を落としている。
 私は私で、真紅から数学の手解きを受け続けていた。

「そう。センターでたまに見るけど、この場合は解と係数の関係を使えば良いわね」

 ああ、そういう……これは、知らなければ解けない類?

 そう問うてみる。
 私が高校に入ってから感じたことといえば、知らないと本当に解けないものが多いじゃないか、ということだったから。
 けれど、こと眼の前に居る彼女にとっては、そうではなかった様子。

「少し正しくないわ。知らなければ、苦労する類ね。そういう苦労は、もう既に先人がしてくれたのだから。私達はその益に与ればいいじゃない」

 まあ、考えようによってはそうなのかもしれない。もっとも、その益を使いこなすには、彼女の言うように努力が必要なわけで。
 勉強が直ぐに出来るようになる魔法は、存在しない。そしてそういったものを、今のところの私は、欲しいとも思わない。

 魔法……か。

「あら、随分メルヘンチックな言葉が出たわね?」

 あ、えっと。ごめん、声に出ちゃった。勉強が直ぐ出来るようになるなんて、あったら魔法みたいなものね、って。

「……確かにそれは、魔法ね。ただ、魔法、という響きそのものは、それほど悪いものではないわ」

 そうかしら? 貴女なら、そういう、ひとを堕落させそうなものには、否定的に感じそうだなって考えるけど。

「ふふ。そういった夢を見るのは、乙女の特権というものよ、巴。確かに邪な考えが元になっているかもしれない――けど。自分の空想、想いがかたちになる魔法なんて。きっと誰もが、考えるものではないかしら?」

 正直、意外だった。眼の前に居る彼女は、私にとって、リアリスト、といカテゴリに居る人物だったから。
 乙女に限らず、自分の想いがかたちになる魔法なら、誰もが一度は、願うものなのかもしれない――けど。真紅という人間は、それを自らの力で勝ち取っていく気質を持っていると、私は感じている。
 そして、あと少し思うことがあるとすれば。

 貴女はどちらかというと、魔法、というものにも、その原理を求めるような印象ね。

「理屈、が無いと納得出来ない性質、ということかしら? 有体に言うと」

 うん、まあ、そうかな。

 顔を僅かに傾けて、ちょっと考える様子を見せた彼女は、それほど間を持たず答えを返す。

「ひとが生きていて、努力だけでは立ち行かないこともあるわ、巴。理不尽と思えることだって、多々ある。私達は今のところ学生だから、眼の前にある課題をこなしていけばいいだけかもしれない。それを以て尚、納得のいかないことだって、あるでしょう? 悩みのない人間なんて、きっといないのだから」

 ……そうね。

 もし、人間が「たったひとり」でいきていたのなら、うまれなかったかもしれない、悩み。

「納得のいかないことは……他人との軋轢。それを元に、自分の中にもうまれ得る」

 表面上は、平穏にやりとりしていたとしても。真のこころの中身を、きっと「誰も」が、知ることが出来ない。他人のものは、もとより。それは、きっと、自分のこころの中、でさえも。

 それでも。だからこそ、話す。独りは寂しいわ、真紅。

 私は、独りで居ることの寂しさを、よくよく知っている。友達に恵まれている、なんて思えるようになったのは、高校に入学してからのこと。この恵まれた時代に感じる孤独なんて、たかが知れてるなど、どこかの偉いひとは言うかもしれない。

 けれど。孤独とは、絶対評価だ。絶対、と言葉を放つなら、他人と比べてどうだ、と言われて然るべきものではない、と私は思う。
 本人がそう思ってしまえば、どんな音も聴こえない。どれだけ大きな声で叫ばれても、気付かない。

 私の、私の感じていた孤独。それは、声高に叫ぶものではないと思う。
 むしろ、声を上げることが出来れば、救いの余地が残されている。

 思い出している。
 私自身のことではなく。
 あるひとりの、男の子。かつての彼。その姿のこと。

「ええ、そうね。独りとは、とても寂しいこと。寂しくて、かなしい。自分がそういう状況に陥ってもそうだし、誰か自分のしっているひとがそうなっても、――そう。そんな時には、誰かが傍に居ることが、きっと大切なのだと思うわ。どれ程嫌われても、突き放されても」

 ……
 その行為自体が傲慢なのではないか、と。一時期考え込んだことがある。
 けれど。他人のこころを完全に読みきれない以上、自分の信じることを続けるしか出来なかった私、――私達。

 そうね。そうかもしれないわ。

「ええ。だからこうやってお話するのも、存外良いものね?」

 一瞬、静かに眼を閉じて。ふ、っと息を吐いてから、彼女は窓の方に顔を向けた。
 遠眼。その横顔が、とても絵になる。
 彼女は――遠いところを、見ている。そんな気がする。

「雨」

 彼女は視線を空気の向こうに据えたまま、口を開く。

「雨、きれいだわ」

 零れ落ちる水の途中を見ている、ここは二階の窓。
 水の行く末を、私達が知るべくもなく。静かに、静かに。それほど強く、降らない雨だから。

 にはたつみ――

 視線が重なる。

「にわたずみ」

 ほう、と、今度は少し大きく、彼女は息を吐いた。

「うつくしいわ。先人は、こういう言葉で歌を詠んだのよね」

 ねえ、真紅。

「何かしら?」

 貴女やっぱり、勉強もそこそこに――図書室では本、読んでるんじゃない?

 そう言うと、彼女はいかにも心外、という表情で返すのだ。

「あら。図書室には、本があるのよ? 何も手をつけないのは、それこそ野暮というものね」


―――


「まあ、漫画も良いけれど――私はその類には疎いのよね」

 ちょうど本の話になったのち、私は漫画ばかり読んでいるという話になった。
 や、正確には私じゃなくて、私の母の財産なんだけれど。

 けれどその辺を特に馬鹿にされる訳でもなく、彼女は私の話に付き合ってくれている。

「本は本。それは作品だから。私にだってすきな漫画はあるわ」

 え、何読んでるの?

 正直、ちょっと気になる。真紅といえば、もう図書室にあるおよそ物語と呼べるものについては、殆ど眼を通しているのではないかという噂があるくらいで――その出所は、彼女が腐れ縁と呼んでいる、スタイル抜群のヤクルト大好きな女の子。乳酸菌? 乳酸菌が良いのかしら? めぐに聞いてみようかしら。

 ともかく。そんな彼女は、一体どんな漫画を嗜むのか。
 そして聞いた作品はと言うと。

 ……
 ……

 ……恐ろしい娘!

 思わず白眼の絵面になりそうだったが。

 あれは確かに名作よね。いつ終わるのかしら。

 不謹慎ながら、先生が存命のうちに締めて欲しい漫画のひとつではある。

「時代が飛びすぎるのも仕方ないと思うの。一巻では黒電話を使っているのに、何時の間にか携帯電話を持っているのよ!?」

 落ち着いて、真紅。それは仕方ないわ。ひとつの劇を終わらせるのに巻を跨ぐなんてしょっちゅうでしょ?

「それはそうだけれど……ええと巴、貴女はテレビは観るほう?」

 ううん、あんまりすきじゃないから、つけないかな。映画はたまに観るけど……DVDで。

「私もそれはそうね。テレビは本当にすきではないわ。漫画を原作にドラマを仕立てれば、悲惨になることも多々あるわね」

 ……何か嫌な思い出でもあるのかしら。2までやったしなあ、あれ……評判は知らないけど。

 何かに火がついたのか、彼女は捲くし立てる。バラエティの生放送でハプニングが起きそうで起きなかったときの微妙な間が嫌い、とか。それ、嫌々言いながら、結構テレビ観てるんじゃないかなあ。

「作りこまれていないのが嫌なのよ。その場のノリだけで凌ごうとするのは、番組として成り立っているとは言い難いわ」

 ……そんなものかしら。それなら単に、生放送のバラエティが嫌い、の一言で済みそうな気もするけど。年末に「笑ってはいけない」シリーズを観ると良いんじゃないかしら、と思うけど、口に出さない。

「ああ、でも」

 彼女は今更ながらに、かぶりをふって言う。

「くんくん、くんくんは別よ! あれは完全な物語だわ。スリルと感動、エンターテイメント、それだけで顕せないものを持っているわ!」

 ああ……そういう……

「そこで冷めないで頂戴! ああ……新シリーズが待ち遠しいわ……」

 どこか恍惚とした素振りを見せながら、可憐な少女は呟く。
 うん。わかったことと言えば。貴女は相当、テレビっ子ということよね。

「あ……そうね」

 ふと思い出したように、彼女は言葉を零した。

 どうしたの?

「テレビはとりあえず置いておくとして。漫画、でふと思ったのだけど……そういうお話なら、薔薇水晶が得意だと思うわ」

 そうなの?

 クラスは同じだけれど、あまり話をしたことの無い娘だった。自分の趣味に没頭し続けている、という話はちらほら聞いてる……そのネタ元もやっぱり、乳酸菌大好きなあの娘だ。彼女が話し好きになったのって、絶対めぐのせいだと思う。

「そうよ。私も相当本を読んでる自信があるけれど、あの娘には敵わないわね。彼女は、自分の信じたものを、力に変える資質を持っているから――情熱、と言えば良いかしら。

 そうね。きっと巴、貴女は。本当にあの娘と、気が合うように感じるわ」

 ――丁度貴女が、保護者のポジションになるわね、きっと。

 くすくすと、彼女は笑う。
 そんな彼女も、彼女を放っておけないのだろう。いや、彼女だけではなく、他の周りのひとたちも。
 薔薇水晶は、というと。彼女の姉、雪華綺晶と違って、あまり社交性のある性質ではない。私自身のそれについては、ひとまず棚に上げる。

 機会があれば、話題を振ってみようかしら。

「ええ。そうしてみなさいな」

 そんな機会が、程なくやってくることを、その時の私は知る由もない。


―――


 暫く、熱の篭った話が続いて。
 何時の間にか、大分時間が経っていることに気付いた。

 もう六時になるわ、真紅。

「あら、そう……ごめんなさいね、邪魔をしてしまったかしら」

 その辺りは、特に気になっていなかった。実際、彼女には数学を教えてもらったわけだし。それに加えてお喋りも出来て、かなり有意義な時間を過ごせたと思う。
 まあ、私はと言うと。その感謝をそのまま顕すほど、従順な性格をしていないのだけれど。

 ううん。じゃあまた今日みたいに、勉強を教えて貰えるかな。

 にっこり笑って言う。
 彼女もまた、苦笑いで返す。

「敵わないわね、貴女には」

 そっくりそのまま返しておくわ。

 ノートと参考書を鞄に詰めて、校舎を出る。
 雨はもうやんでいたけれど、雲はまだ空を覆い続けている。
 地面には、水溜り。
 零れ落ちた水の成れの果てが、足元に広まっている。

 ふと、口ずさむ。

 はなはだも、降らぬ雨故、にはたつみ――

「――いたくな行きそ……人の知るべく」

 また、視線が重なる。
 彼女は、やわらかい笑みをたたえていた。

 やっぱり、本ばっかり読んでるんじゃない?

「あら。それは先刻、説明した筈ね?」

 ……そうだったね。

 水溜りは、道々に姿を残している。
 彼女と私の家は、校門を出てすぐ、道を違わなければならないような、位置取りをしていた。

「それじゃあ、また明日」

 うん、また明日。

 互いに背を向けて、歩き出す。
 それからちょっとして、私は後ろを振り返った。
 彼女はこちらを見ることもなく、その道を歩み続けている。

 その時、一瞬。
 雲の切れ間から、陽が差し込んだ。
 夕暮れに相応しい、まっかな光線。
 それに照らされる、彼女の背中が、とてもうつくしい。
 道に出来上がっていた水溜りが、光を反射している様も。

 そうだ。
 いくら雨がきれいでも。
 彼女には、こんな夕陽が、よく似合う。

 そんな小さな声を。
 彼女に届けることは、ついにしないのだけど。

 この光景は、また願ったとしても、見られるものではないのかもしれない。
 水溜りは、何時の間にか消えてしまうし。
 明日はきっと、晴れるのだから。

 さあ、帰ろう。
 勉強していた分、身体が訛ってしまうし。家に帰ったらお父さんが、また稽古をつけるって、張り切ってるに違いない。

 足元にある、ちょっと大きめの水溜り。
 光を放つそれを大きく、ぴょん、と飛び越えながら。
 私は私の、家路についたのだ。





【ある日のふたり】夕陽に照らされた水溜りがきれいだった、放課後の場合  おわり






 
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