エピローグ「旅の後片付け。そして、」



ジュンとアリスが谷を抜け、初めてこの地に立った時と変わらぬ様子を感慨深げに眺めていると、丘の上に白い傘を見つけた。
もう少し花咲く丘を登って近付いてみると、それは白いテーブルに立てられたパラソルだとわかった。
そこに、そのテーブルに並ぶ白い椅子に、背が高く、金髪の、器量の良い男がこちらを見て微笑んでいた。
「お帰り、ジュン君。そして、アリス」
その男は優しいテノールの声を響かせ、言った。
「あなたがローゼンさんですか?初めて会った時より…と言っても姿は見えなかったですけど、随分若い感じがしますね」
ジュンがリュックを下ろして椅子に座る。その男は優雅にお茶をつぎ、香りたつカップをジュンの前に差し出した。
「こうして再開するときはこの姿で会おうと決めていてね。これでも楽しみにさていたんだよ。2人とも良く帰ってきてくれた」
「いえいえー」
「どうも」
2人が返事をして、ジュンがカップの紅茶を一口飲む。
「さて…なあアリス。ちょっとローゼンさんと二人で話したいんだけど、いいかな」
ジュンが視線を少し上にあげた。
「はいはい、男同士の話しってヤツね。いいですよ~だ。じゃあどっかそこら辺の花の上にでも…」
「いや、必要ない」
「え?」
ジュンが帽子をとり、テーブルの上に置く。それは、ただの帽子になった。
「上手いものだね。もうそこまでコントロールができるのか」
ローゼンが感心したように言う。
「まあ、自分の事ですから」
「お別れの挨拶はしないのかい?」
「散々しました。今やったら泣きそうなんで止めときます」
ジュンはとぼけるように肩をすくめ、ローゼンは楽しそうに笑った。
「では、改めて。よくぞ帰って来てくれたね、桜田ジュン君」
「いいえ、お礼は僕がする方です。何から何まで…ありがとうございました」
ジュンは軽く頭を下げた。
「なに、私はただ見ていただけさ。それはそうと…一つ、謝らなくてはならないね」
「雪華綺晶さん、ですか」
ローゼンは頷く。
「彼女の介入を許してしまったのはこちらのミスだ。危うく君は完全に死んでしまうところだった。本来ならばあの国には雪華綺晶という駒は入らないはずだったのだが…少々、彼女の力を見くびっていたようだ」
「でも…そのおかげで見えた事もありました」
ジュンは椅子に深く腰掛け、空を仰ぐ。
「確かに。私のとしては、あの子についての淡い確信を持って帰ってきた君に少々助言をして、元の世界でそれを確かなものにしていかせるつもりだったのだけれどね。既に君はあの子達を明確化しているようだ」
「はい。ですから、今日は別の事を聞こうと思ってるんです。この世界の事、僕の旅の事、途中で合ったあいつらの事…。えと、雪華綺晶は」
ジュンは言いかけた口を閉じ、もう一度開く。
「いえ、先にこっちですね。僕が訪れた六つの国…あれは、どこまで本当なんですか?」
ジュンの質問に、ローゼンの目が僅かに見開かれた。
「ふむ…という事は、気付いたのかい?」
「まあ、それなりには。僕が歩いて数日で行ける距離に隣接しているのに、文明レベルに差がありすぎましたし、気候や風土もまるで違う。他国と貿易している国もあるのに、隣国ではその痕跡が一切見られなかった」
「ほう、君は確か14、5才と記憶していたが、なかなかたいしたモノだね」
「ちょっとかじっただけです。それで?」
ローゼンは椅子に深く腰掛けて、言った。
「ほぼ、君の考えている通りだよ。あれらの国は、私が選んで配置したものさ。君が、君になるためにね」 


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「さて、詳しい話しをする前に聞いておくが、君はどこまで知りたいのかな?」
「一通りは聞いておこうと思います。後で後悔するのはイヤなので」
「そうか…では、かなり長い話しになりそうだが、興味の薄い部分は聞き流してくれてかまわない」
「そうします」
「もっと言えば、私は別の話題になる度一呼吸おくから、次の改行までスクロールすればいいと言うことだ」
「スクロールってなんですか?」
「気にしてはいけない。では、始めよう」

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「あの世界や人々の話しをする前に、君に質問をしよう。ジュン君、君は『夢』についてどう思う?」
「漠然とした質問ですね。レム睡眠とか言いだしていいんですか?」
「そうではないな。よし、質問を変えようか。ジュン君、君は夢を見た事があるね?」
「ありますね」
「では、覚えている夢、いない夢に関わらず、君は朝になれば目覚めるわけだが…見終わった夢は、どうなると思う?」
「夢の続き、ってことですか」
「そう捉えてくれていい。あるいは、その見た夢そのものだ」
「う~ん…別に、ただの記憶として残るだけの気がします。忘れた夢なら、何も残らないとか」
「そう思うのが自然だね。でも実は…君が見た夢、また他人が見たいつぞやの夢というのはそれぞれが『無意識の海』へと流れ込むんだ。そこはまさに時間や記憶やイメージの“るつぼ”。
宇宙のチリから地球が生まれたように、時間や空間や存在、意識、イメージといった世界の構成要素の集合が何かの拍子にリンクし、また離れては、繋がる。そんな場所さ。
私の経験上、“シンパシー(共感)”がそれらを結ぶ力になると考えている。そして、上手く素材が合わさった時、新しい世界が誕生するというわけだ」
「…正直、よく解らないんですが」
「ああ、私も全て理解してもらおうと思って話していない」
「…性格悪くなりました?」
「ふふふ、この体をとると、時間を意識するようになるからね。待っている間にすっかり退屈してしまった。
まあ…そうだな、君が見た夢は誰かの見た似たような夢と繋がって、君らが言うところの現実世界とは異なる世界を作ることがある、と言う事だよ。ちなみに私はこれらの集合をnのフィールドと呼ぶ。君らの現実世界は第1世界となるな」
「わかったような…気が」
「それでいい。第一、もうすぐ君とは関係なくなる話しだ。そうだろう?」
「ですね…その通りです」


「次に私についてだが、私がどうして生まれたのか?私がどうやって生まれたのかなどという質問は止めたまえ。実際私も長い間その答えを探していたが、もう考えるのを止めたよ」
「わかりました。じゃあ、あなた自身についてを」
「ああ。私はそう…言わば、先ほど述べた無数の世界の管理人といったところだ。まあ始めはただの意識の一つだった私だが、様々な世界を管理していくうちに明確な自我を持ち、また人の形をとるようになった」
「管理…って?」
「私にとって世界とは本のように認識される。無意識の海からくみ出された世界は製本され、私の部屋の本棚に組み込まれるんだ。それを私はある程度操作することができ、管理人としての役割を果たす」
「なぜそんな事を?」
「一言で言うならば、不安定だからだ。君達の第1世界がどうやって出来たか私は知らないが、あれほど安定した世界は珍しいんだよ。
無意識の海でリンクしたパーツの組み合わせによっては、時折世界が破綻してしまう事がある。まして、“そういう夢”ならなおさらだ。そういう夢には、そういうパーツが引かれ合うのでね」
「すると、どうなるのですか?」
「世界の破綻は思いの他影響力が強い。出来立ての世界ならそれ程ではないが、長い歴史のある世界では他の世界を巻き込む事すらあるんだ。
具体的には、似たような世界、近い場所に並べてある本を巻き添えにする。私はそれを時には食い止め、無理ならばその本を隔離して消す。そんな事をしているんだよ」
「その世界に干渉する、と?」
「そうだ。ただ、これがなかなか難しい。単に本自体を移動させたり、ページを戻してみたりする事は簡単だが、本の内容そのものを書き換える事が難しいようにね」


「さて、君は私が旅をしていたと言った事を覚えているかな?」
「ええ。あ、じゃあ…」
「そう…私があれらの世界を巡るようになったのは、“夢の旅人”となった理由はそれだ。正直なところ、崩壊が始まってしまった世界の修復は不可能に近い。
だが、私は生まれてくる世界に愛情のような感情を抱いている。それが管理人としての定めなのか、初めから見守っている事による愛着なのかは解らないが、とにかくそうなんだ。だから、何とかしたいと、何とかしなければと思うようになった」
「それが…旅だと?」
「正確にはその世界への干渉だが…愛情を持つ世界を巡るのは、私にとっては幸せ以外の何物でもなかった。たとえどんなに荒んだ悲劇の世界であれ、ね。
おっと、話しがそれてしまうな。それで、実は世界の崩壊、無意識の海で引き合ったシンパシーのエッセンスの崩壊というのは予兆のようなものがある。そしてそれを私はある程度知覚することが出来るんだ。
だから私はその予兆を発する時間、場所、人物を訪れた。だが、私が世界に干渉できる事は余りにも少ない。精々、人に助言する程度が限界なんだよ。それでも上手くいく時もあった。正常化された時もあったんだ。だが…」
「上手くいかなかった時も、あった」
「私は一つの世界に対して一度しか干渉できない。だから、あとは見守るしかないのだが…本当に、身を削られる思いがしたよ。
私は神ではない。その時何が必要で、その世界は何が根幹となっているのか、正確無比な判断を下すには…私は不完全すきだ。“人で在りすぎた”んだ。私がただの管理人、制御プログラムならば、どんなに楽だったかね。
時折あるのだが…その世界及びその近くの世界のバランスを維持するために、わざと望まない干渉をすることがある。結果、崩壊は食い止められるが…本の続きは、あまり良いものではない」
「でも夢なんて…良くない夢の方が多い気もしますけど」
「それならばそれでいい。負のシンパシーで作られた世界ならば、そうあるべきなんだ。だが、その世界の根幹から脱線してしまうことが、本の筋書きが崩れてしまうことが、私には耐え難い苦痛なんだよ」


「ここまでがこの場所についての大まかな説明だ。満足はいったかな?」
「一応、ですが」
「結構。では今から君の旅について触れていこう。この世界の人々も合わせて」
「お願いします」
「まず私達が立っているこの場所だが、これは私が作った世界なんだ。正確には、世界のようなもの。本とは呼べない文字入りの原稿用紙のまとまりのような場所さ。
そこに、空っぽの君が自分ないし彼女の事を取り戻していく過程のための世界を私が選び、こうして配置したというわけだ。だから、あれらの国に相互性は一切ない。そもそも世界が違うのだからね。君が疑問に思うのも当然だ」
「じゃあ…あいつらは、夢の中の登場人物だと?」
「その通り。誰が、いつ見た夢かは私にも解らないけどね」
「夢…ですか」
「ふふっ、君が少々落胆する気持ちは理解出来るよ。君らの現実世界では人が見た一夜の夢ほど儚いものもないからね。
だが、その夢により作られた世界はもはや一端の世界だ。生と死が繰り返される世界。死ぬ事もあれば、生まれる事もある。だから君が旅の途中で息絶えた場合、現実世界の君も同じ事になるんだよ。そうならぬよう、細心の注意は…払ったと思っていたのだが」
「でも、世界を配置なんてして…大丈夫なんですか?」
「本として世界を見た時に、ページを巻き戻す事はさほどの事ではない。ほっておいてもまた同じ歴史を辿るからだ。
そして今回世界に干渉するのは君という一人の旅人。私のように変える意志を持って行動したのでない場合、まず根幹を揺るがす事態にはならないよ。それに…」
「それに?」
「実は…あれらの国には私も行ったことがあるんだ。君が城で会った人達にも、会った。理由は先に述べた通り。だが、崩壊こそしなかったが、私の干渉のせいであれらの世界は始まりの時の色彩を鈍らせる結果となってしまった…。
本当に…どうしようもなく遺憾な事だ。だが、こういう“あやふやな世界”は加工がしやすくてね。また、あやふやなだけに安定もする。だから、ああして配置できたんだよ。それが君を助ける一因となったのは、なんとも皮肉だけけれどね」


ローゼンとジュンのカップにお茶を注ぎ足すと、ポットの中は空になった。二人はゆっくりとカップを持ち上げ、口をつける。
「最後に、雪華綺晶の事だが…彼女はこの世界で生まれ、そして死んだ。そういう者は君ら現実世界の死と少し異なるのだが、今の君に詳しく教える事は出来ない。それは…」
「僕が、生きているからですね」
ジュンが割って入いっても、ローゼンは微笑むだけだった。
「ああ…そうさ。まったく、生きているという事は素晴らしいよ。君を見ているとつくづくそう思う」
「その…もう一つ、いいですか?」
「ああ、何だい?」
ジュンの両手が、膝の上で固く握られる。
「最初に会った時、貴方は僕が落とし物をしたと言いましたが…僕は、ワザと捨てたんです。自分の意志で」
「そうだね。最初はそのせいで少々言語にも影響が出ていたな。きっと、彼女に強くリンクする単語だったんだろう」
「それで…なんでそんな僕を助けたんですか?なんで、こんな世界まで用意してくれたんですか?」
ジュンが声を大きくして尋ねても、ローゼンは反応せず、やがて席を立った。
二、三歩歩いて手をかざすと、そこに黒い穴が開いた。それは縦長の楕円形で、縦の長さは2メートルはある。
「私はね、時々…自分のしている事に疑問を抱く事があるんだ。生まれながらの仕事を疑うなど無意味な事だが、それでも、思う。『これは、正しい事なのか?』と」
ローゼンが手招きをして、ジュンがその穴の前にやってくる。
「私はこれからも、生まれてくる世界を眺め、守り、壊していくだろう。果たしてその先に―」
ローゼンがもう一度手をかざすと、その黒い穴は輝き出し、琥珀色の渦を巻く。
「君を助けた理由、か。確か、最初に会った時にも言ったと記憶しているが」
「『   』から、でしたっけ」
「ああ。念のため言うが、君の鎌に引っかかるほど私は未熟ではないんだよ?」
「残念です。それで、どうでした?」
「…良かったよ。そうした甲斐があった」
それを聞くと、ジュンはその光穴に手を伸ばした。
「ローゼンさん。本当に、ありがとうございました」
「なあに、構わないさ」
「あと、アイツの事…よろしくお願いします」
「…ああ、承知したよ」
ジュンの指先が穴に触れた瞬間、その丘を、その一帯を、その世界を、光が埋め尽くして、消えた。
その何もない場所で、誰かが虚無の空間へ向け、言った。

―これで、いいのだね? 



「・・・」
目が覚めた。目の前にあるのは…蛍光灯か。それと、すこし黄ばんだ天井。
「…ッ!」
首を動かしてみる。なかなか辛い動作だったが、太陽の光が差し込む窓を見ることができた。
ガラスごしのくすんだ空。なんだか、随分と陳腐だと思ってしまうのはなぜだろう。
もう一度首を動かして逆を向く。点滴のチューブ、スタンド、ベッドの手すり…そうか、ここは病院なんだな。
「くっ…!」
体を起こそうとするが、まったく動かない。理由を考えてみたが、直ぐに思い付いた。ちょうど、壁のカレンダーが目についたから。
「10月、か…」
僕がアイツ…オディールに告られたのが7月の始めだから、少なくとも3ヶ月は寝たきりだったんだろう。それじゃあ体が動かないのも無理はない。
「…オディール」
その名前がすんなり出たのには正直驚いた。アリスとの旅は、どうやら実を結んだらしい。
「アリス?」
この名前にも驚いた。どういうワケか、オディールよりもしっくりくる。いやいや、それはそれで色々とマズい気がするが…
その時、ドアが開く音が聞こえた。次に、何かがドサリと落ちる音。
「・・・」
ああ…酷い顔してるなぁ…バカみたいだよ、まったく…。しょうがないから、こっちから声をかけないとな。
「ただいま、姉ちゃん」
動かない体を持ち上げられて抱きつかれた時のとんでもない痛みは、心配かけた分の対価として甘んじよう。いや、姉ちゃんの事だから、こんなモンじゃ釣り合わないかな…
「ただいま、姉ちゃん」
「お帰り…お帰りなさい…ジュン君…!」
…対価なんて、どうでもいいらしい。まったく、この姉は。
「…ごめんなさい」
何となく、僕はそんなことを呟いていた。姉ちゃんに謝ったのって、何時ぶりだろ?

それから一週間、僕は日常復帰のリハビリに追われた。とりあえず、今までの事は考えない事にした。忙しかったのもあるし、どうにもこの現実世界に馴染みきれなかったから。時折、どーしようもなく外へ出たくなる。これは旅人の職業病だな、きっと。
そして何より、ねーちゃんが四六時中隣で世話するもんだから、感慨にふける暇もない。普段なら煙たがるねーちゃんの世話も、この時ばかりは受け入れた。そうしないと生活出来なかったのもあるし、ちょっとしたお詫びもかねて。
「ジュン君、リンゴむこうか?」
「うん」
僕に頼られるのが嬉しくて仕方ないらしいこの姉は、まるで忠犬のごとく世話に勤めた。ただ、たまに流れる涙は、丁重に気づかないふりをして顔を背ける。僕の顔だって、見せられたモンじゃない。

甲斐甲斐しい姉の看護のおかげで、一週間で僕は家に帰る事ができた。そして今、僕は自分の部屋にいる。あの、綺麗なロゴの入った帽子を持って。
オディールと出会ってからもう何年も経つけど、余りに日常と密接な存在だったから意外とあっという間、という気分がある。あの、日本語しか話せないエセフランス人…オディール。
フランス人って言えばお嬢様的なイメージがあったけど、アイツときたら金髪を後ろで束ねて、カラフルなTシャツにデニム短パンが通常スタイルの元気印の塊みたいな奴だった。

僕を籠から引っ張り出してくれた恩人。
辛い事を二人で分け合った戦友。
楽しい事を膨らませてくれる仲間。
色々な事を教えてくれる先輩。

そんな風に思ってた。だから、好きだって告白された時は、酷く動揺した。
一人の女性としてオディールを見る。あの時の僕には難しくて恥ずかしい事だったけど…アイツの目をみてたら素直になれたんだ。ちゃんと言えたんだ。だけど―
「…ッ」
駄目だな…あの時の事は今でも思い出すのに強い抵抗がある。嫌悪感と言ってもいい位だ。僕がもっと注意していれば。アイツの手をとって止めていれば。そんな後悔と現実に耐えられなくて、全部みんな拒絶して、僕はあの世界に行ったんだ。
今記憶を辿ると、僕がローゼンに最初に会った時…いや、会う前に、誰かに引き止められた気がする。ふらふらと前に行こうとする僕の腕を、誰かが掴んだ感じがうっすらと残ってる。だから、きっとあれは―
「ジュン君!今日のお夕飯、お魚でいい?」
「……うん」
「よっし!お姉ちゃん頑張るぞ~!」
「………」
バタン。
この元気アマリリスな姉は、家に帰ってから何かある時には必ず部屋まで来て僕に直接言うようになった。 心配なのはわかるし、だから寛容な態度をとっているが、そろそろ節度を守らせるべきか…
「やれやれ…」
僕はベッドに手足を広げて倒れ込む。こうしていると、僕は一つの義務感に襲われる。それは即ち、帽子の手入れ。
「…ったく。やればいいんだろ、やれば」
アリス。僕が帽子に込めた、オディールの分身。
昔、オディールとこんな会話をしたことがある。

『ん~?何してんのジュン君よ?』
『英語の宿題』
『うげ』
『お前がフランス語はともかく、英語くらい話せりゃなー』
『ふんだ。私には熱き大和魂が灯ってるのさ!…ん?「不思議の国のアリス」?今はこんなもん読まされるんだ~へ~』
『ほら、この“アリス”を読んで少しは見習え。そしてベッドの上であぐらをかくのを止めてくれ』
『えっとなになに…「“アリス”、すべての人に愛される理想の少女」…?はっ、誠にファンタジックでありますことで!』
『予想はしてたけど…そこまで毛嫌いするか』
『あのねー、そんなすべての人に愛されるなんて出来るわけないし、出来たって窮屈で仕方ないでしょうよ。そーゆーのは聖母マリア様にでも頼めばいーの』
『じゃあ、どんなのならいいんだ?』
『ん?そーだなー…』
そして、アイツは言った。
『誰か一人の“アリス”になら…なってもいいかな』

思えば、旅の始めの丘でこの単語が出てきたのは実に奇妙な事だ。なんせ、アイツとかなり強固に結ばれた単語だったはずだから。理想の少女、アリス。僕にとってのアリスは、オディールその人だったから。
オディールとその周辺の単語を入念に忘れ、消し去ろうとした僕のフィルターからこぼれた唯一の単語。これが、僕とオディールの絆を繋いでくれた。アリスが、僕達を救ってくれた。
帽子を、帽子かけに乗せる。随分派手な帽子だけど、オディールはなぜか妙に気に入ってて。ところで、この帽子をみながらアリスの事を考えると、なんだか妙に落ち着かない。別に、やましい事をしてるわけじゃないんだけど…
「ジュン君!ご飯よぅー!」
「…なぁ、姉ちゃん。入ってきてもいいから、ノックはしてくれよ」
「美味しそうな鯛が売ってたから丸々買っちゃったのぅ!塩焼きにしたから、早く降りてきてねー!」
ガチャン。
…人の話を聞いちゃいない。ま、それは食事の時にゆっくり言い聞かせるか。
僕は部屋を出る。僕はこの先、オディールのいない生活を、人生を送ることになるだろう。正直不安だ。怖いと思う。後悔だって仕切れない。ではどうして、僕はこんな世界で生きるんだ?
「“期待しているから”」
勝手に出た言葉は、そんなものだった。
その陳腐な言葉に僕は笑う。オディールのいない世界で、一体何を期待すると言うのか。期待したその先に、一体何があると言うのか。

それでも、アイツが望むなら―
僕の、生きる糧になるのなら―

「…期待して、みようかな」
ローゼンが僕に、そして、自分の務めにそうしたように。



ジュンと帽子と夢の旅人 ―終わり

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最終更新:2008年05月10日 13:31