******

「!!!」
真紅は、ベッドから弾き出されたかのようにその上半身を引き剥がした。
ポッケ村の丘の上に建てられた真紅とジュンの家の中に、静かに月の光が降り注ぐ。
月の光は、贅沢にもガラスが張られた窓枠により切り取られ、四角く床を照らす。
けれどもこの光度では、夜行性の動物ではない真紅にとってはまだ暗過ぎる。
真紅は、手探りでベッドの脇に立ててあったスタンドを探し出し、それにかけられた厚手の黒布を取り払う。
ぱっ、と部屋の光度が一気に上がった。
黒布の下から現れたのは、『光蟲』の群れをその中に蓄えたランタンだった。
『光蟲』とは、この大陸の各所に生息する、絶命時に強烈な光を放つ蛍のような虫のことである。
もちろん、人間にとって極めて有用なこの虫は、広く養殖もなされている。
このように油を使わない安全で明るい照明として使われることもあるし、
ハンターの手にかかれば、電流によるショックを標的にもたらす『電撃弾』や、
モンスターの目をまばゆい閃光でくらませる『閃光玉』にも変わる。
餌としてランタンの底に張られた、『ハチミツ』入りの水を静かに啜る『光蟲』達。
それを呆然と眺める真紅の肌の上では、寝汗が光っていた。
寝巻きとしてまとっているガウンが肌にへばりつく感覚に、真紅は思わず眉を歪めた。
「……どうされましたの、真紅? そんなに汗をびっしょりかかれて……?」
真紅の眠っていたベッドの近くに置かれたバスケットの中で、赤い毛並みのアイルーが身じろぐ。
ぺろぺろと舌で嘗められた腕を顔にこすり付けるという、愛嬌に満ちたやり方で意識を覚醒させるホーリエは、
真紅の未だ荒い息遣いを、その頭の上の耳で聞いていた。
「……別に、何でもないわ」
真紅は、額にも流れる汗を手の甲で拭き取り、憮然と答えるが――。
「何でもないわけないだろ。汗だくになって目覚めてるんならな」
閉ざされた真紅の寝室のドアの向こうからの声。無造作にノックが、それに添えられていた。
一瞬の間を置いて、ドアは開け放たれる。
真紅は肌に流れる汗とは別の不快感で、その小さな口元を尖らせる。
「レディの部屋に入る時には、『入っていい』と言われる前にドアを開けるのは無作法なのだわ、ジュン」
開いたドアの向こうに立っていたのは、ボサボサの黒髪を揺らせる少年。
言わずと知れた真紅の相棒、ジュンである。
彼は右手の中で書物と思しき、紐で綴じられた羊皮紙の束を開き、小型の『光蟲』入りランタンを左手で持っている。
つい先ほどまで、居間かどこかで読書をしていたと推測するのは、そう難しいことではあるまい。
淑女に対する作法を説く真紅など、どこ吹く風とばかりに、ジュンは真紅の言葉を無視して話を続ける。
「もしどこか体調が良くないだとか、風邪でもひいただとか、そういうことならさっさとボクに言ってくれよ。
真紅の体調が悪い時に、うっかり狩猟依頼でも受けたらボクまでひどい目に遭うんだからな」
「分かっているわ、そんな事」
真紅は口元を固く結び、その青い瞳を掃除の行き届いた床に落とす。
「真紅の例の体調が悪くなる日は、ついこないだ過ぎたばっかりだったよな? そうでないとしたら――」
「いいからさっさと向こうに行きなさい!!」
真紅はジュンの顔を一瞬たりとて見ることなく、怒声を叩き付けた。
ジュンは突然吹き上がった真紅の怒鳴り声に一瞬呆然となるが、
それが終われば怒りになり切れない、何とももどかしい苛立ちが腹の中に育つ。
「……今は夜なんだ。少しは声を抑えろよ」
刺々しく言うジュンは、けれども真紅に荒い声をぶつけ返す気は、不思議と起こらなかった。
ちらりと横目で、真紅の表情を確かめるジュン。
室内をさまよう真紅の視線は、彼女がジュンの注意を受けて大人気ない行動を恥じている事を、
そして何らかの苛立ちが心にわだかまっている事を、両方を示唆しているように見えた。
ジュンに見られている事を察知した真紅は、まるでジュンの視線を振り切るようにして乱暴にそっぽを向く。
真紅はそのまま、ベッドを降り立った。
「どうしたんだ、真紅?」
「お風呂よ。こんなに汗だくになっては、気持ちよく眠れないもの」
ジュンに即答した真紅は、部屋の脇にある引き出しに手をかけ――
その前にほんのりと頬を染めて、部屋の外のジュンを睨みつける。
「さっさと向こうに行きなさい! あなたはレディが服を出すところを見るつもりなの!?」
「べ……別にそんなつもりは……」
ジュンは焦ったように、真紅の部屋を覗き込む形の今の位置を移す。
真紅の部屋から目を反らし、先ほどまで読んでいた右手の本に手を落とす。
ハンターズギルドから購入したこのモンスターの書は、今やジュンが新たに書き加えた情報や備考などが盛り込まれ、
すでに文字の乗っていない場所を探す方が難しい。
当然のごとく開かれていた『フルフルの書』の項目に目を落とすジュンの後ろで、衣をこすり合わせる音が響く。
ジュンはそれを意識の内から蹴り出そうと、必死で自ら書き込んだ文字の羅列に集中する。
ジュンの背の向こうで、タオルの束とその下に忍ばされた替えの着衣を抱えた真紅が、部屋から出てくる。
真紅はジュンのいる方向とは逆に歩き出し、この家に付属している露天風呂の方向にその歩を進める。
「ジュン、お風呂場の方に近付いてきたら、ただでは済まさないわよ」
「分かってるっつうの」
「本当は家から出ていて欲しいけれど、こんな夜遅くではそうも行かないから。それは特別に勘弁してあげるわ」
ジュンは酷く複雑な不機嫌さをかもし出し、鼻を鳴らした。
「いくらなんでも、風呂に入るときは必ずボクを家から追い出すなんて、過敏もいいところだよな」
真紅はジュンのその愚痴に応える事なくして、浴場に歩き出す。
例え背を向けたままでも、
おそらくはホーリエが掲げているであろう『光蟲』の室内用ランタンの光が、静かに遠ざかって行くのが分かる。
浴場の入り口をくぐり、真紅が脱衣所でタオルの束を置くかすかな音が聞こえる。
ジュンは、まだ読み切ってもいないのに『フルフルの書』のページを慌ててめくった。
ついでにそのページの記述内容を、必要もないのにもごもごと音読する様子は、傍目には実に珍奇な行いに見えよう。
「ジュン……こっちに来てないわよね……!?」
遠くから聞こえる真紅の声に、ジュンはやけに上ずった声を返す。
「だから来てないっつうの! 
ボクは今後の狩猟に向けてモンスターの性質を暗記しようとして
その内容を音読して頭の中に叩き込もうとしているだけであって別にそれ以外の目的は一切ないって言ったらない!」
思わず息継ぎすら忘れ、ジュンは半ば叫ぶようにして返答する。
彼の元に近付いてきたのは、脱衣所に予備のタオルを運び込む作業を終えたアイルーだった。
赤毛のアイルー、ホーリエは首と共にその尻尾を可愛らしくかしげつつ、ジュンの背の側から前に回り込む。
ジュンはそんなホーリエの予想外の動作に、思わず虚を突かれた。
ホーリエは、その顔を腕として使っている小器用な前足で撫で回しながら、ジュンの顔を見やる。
「ジュン様も、そんなに意識なさらなくてもよろしいのではなくて?
真紅もああは言ってますけれども、ジュン様は女性の入浴を覗くような下品な趣味をされていないことは、
百も承知のはずですわよ」
ジュンは、ホーリエのいちいち素朴な言質を受けて、ほんの少しだけその赤い毛並みを見つめる。
一瞬だけ見つめたジュンは、次にはばつが悪そうにモンスターの書を閉じながら、目を反らした。
「別に……ボクだってそんなつもりはない。
ただ、真紅にいちいち過剰な警戒をされると、こっちもその……何ていうか……」
「うふふふ……人間というのは複雑ですわね」
くすくすと品のある笑い声を口の中で転がらせるホーリエ。
ジュンは、そのまま俯いて黙り込んでしまった。
首を、何気なく廊下の反対側に傾げる。
衝立が置かれた脱衣所の入り口の向こうからは、早くも水音が響いていた。
「なあ、真紅」
ジュンは、十分水音越しにも聞こえるであろうほどの声量を維持して、浴場に声をかけた。
「……何?」
水音が鳴り止んだのと同時くらいに届く、真紅の返事。
「ちょっとお前に話がある。こっからだと話が聞こえにくいから、ちょっとそっちに行ってもいいか?」
「な……!? あなた、一体何を――!」
「別に変なことをする気はない! 衝立の前まで来るだけだ! ホーリエにきちんと見張っててもらう!」
真紅が絶句し、その次に起こらんとした罵声を、ジュンは強引に押さえ込んだ。
それを見るホーリエの目は、不思議と優しい輝き秘めていた。
「真紅も、そんなに意識しなくてもよろしゅうございませんか?
ジュン様も、決して下世話な話をしたい訳ではなさそうですわ」
「…………」
真紅は、今日の昼間にも使っていた露天風呂の中で、今頃固まっているであろう事は、ジュンにも容易に推測できた。
ジュンは静かに……しかしやましい事をしようとしているわけではない、
ということを示せる程度には足音の音量を維持して、脱衣所の衝立を目指して廊下を歩む。
ジュンは、きっちり衝立の前で立ち止まり、そこでおもむろに腰を下ろす。
右手のモンスターの書を置き、左手の室内用ランタンを床に下ろす。
ジュンは衝立にもたれるようにして座り込む。
その傍らに、付き添うようにしてホーリエが座り込んだ。
「…………」
「…………」
「…………」
三者三様に、沈黙の時間を過ごす。
それが過ぎ去る時機を見計らい、最初に切り出したのは、ジュン。
「真紅、今お前が考えてる事を当ててやろうか?」
ジュンからもたらされた予想外の言葉。真紅は、思わず怪訝そうな声を上げる。
「私が……考えてる事を?」
「ああ」
ジュンは真紅の確認を肯定し、静かにその首を縦に振る。
「真紅、お前は今板挟みで結構もどかしく思ってるんじゃないか? それも多分、フルフルのことで」
「!!」
ばちゃり、と水が跳ねる音。
ホーリエはその正体を、真紅が揺らせた肩と共に跳ねた、温泉の湯だと推測した。
そんな水音が聞こえているのかどうか定かではないが、ジュンはその言葉のペースを一向に変える気配はない。
「今日オババ様から、名指しでハンターの救助依頼とフルフルの狩猟依頼を持ちかけられた……。
けれども、フルフルの姿を思い出して恐怖に駆られ、結局依頼を今日この村に来たお前の姉さん達……
ええっと、翠星石と蒼星石とかいう奴らだったよな? ……に、押し付ける形になってしまった。
フルフルの姿を見ずに済んだのは助かったけれども、
本来ならば自分が背負うべき厄介ごとを姉さん達に丸投げしてしまったようで、どうにも釈然としない。
……そんなとこだろう?」
「――――」
真紅は、石を切り出して作られた湯船の中で、今頃この沈黙に耐えているのだろうか。
ホーリエはそんな夢想を浮かべながら、赤い尻尾をほんの少しだけ揺らす。
たっぷり、10秒近い時間が流れただろうか。
「――違うわ……」
そう答える真紅の声はしかし、蚊の鳴くような弱々しいものだった。
「違わないね、絶対に」
ジュンは、その真紅の発言を一蹴し、断言する。
「違うわ」
「いや、違わない」
「違うと言ってるのだわ!!」
ばしゃん、と激しい水音が浴場から跳ね上がった。
ホーリエの猫耳が、びくりと震える。
ジュンはそれを聞くや否や、まるで独り言のように呟いて聞かせた。
「――まさか真紅、今ボクを殴りに来るつもりか? 素っ裸のまんま」
「!!」
もう一度、温泉の湯が跳ねる音。
それを機に、水音は止む。
「…………」
今度は、湯の中に何かが静かに浸かり行く、静謐な音。
真紅は、夜の寒さが裸体に応えたのか、そのまま湯船に体を預けることを選んだらしい。
真紅がその身を湯の中に沈めるまで、再び沈黙。
ホーリエは、何故こうも自分がどぎまぎするのかが、理解できなくなりかけた。
2人の間には無言の世界が出来上がっているのに、自分の心臓だけがやかましく跳ね回るのが場違いに感じて、
妙に後ろめたい気持ちが起こる。
真紅がその身をもう一度、湯船に浸からせるのに必要であろうだけの時間が過ぎた。
ジュンのため息。彼は意味もなく、自前のボサボサの黒髪をかき回す。
「やっぱり、あの2人のことが気になるんだろう? 何なら、今からでも手助けに行くか?」
「そんなこと……出来るわけがないでしょう?」
ジュンの提案を、真紅は即座に否定した。
「ギルド側の規定で、そうなっているからって理由か?」
ジュンは、真紅の言わんとしたいことを推察し、問う。
ジュンの口に出した「規定」、それはハンターズギルドに定められた狩猟依頼の斡旋に関するものである。
ハンターズギルドがハンターに狩猟依頼を斡旋する際、その引き受けた依頼を遂行する義務と権利が生じるのは、
当然のごとく最初に依頼を受領したチームのメンバーのみである。
万一狩猟の最中に不慮の事故でチームが分断され、チームのメンバーの一部が脱落した状態でも、
仲間の安否の確認をともかくとすれば、依頼自体は問題なく続行できる。
しかしその逆……チームのメンバーを、後付けで追加することは認められていない。
一時期はそれを許したハンターズギルドの支部もあったという噂もあるが、
そんな後付けを認めたがために、依頼の報酬の分け前を巡って、ハンター同士のトラブルが多々発生したらしい。
よってそれと同じ轍を踏む事のないよう、このポッケ村のギルドでも、
一旦引き受けた依頼は、最初に申告されたチームメンバー以外による解決を、認めていない。
万一そのような飛び入り参加を行った場合、
飛び入り参加したハンターにはあらゆる報酬を受け取る権利を認められず、
更にその飛び入り参加でハンター間の秩序を乱した、とギルド側に判断された場合は、
その度合いに応じてペナルティを課せられる危険すらあるのだ。
「……だから、今更私達の側ではどうにもすることは出来ないのだわ」
真紅のその言葉には、切なげなため息が混じり込む。
ジュンは、小さく肩を竦めた。
両手の指をスクラムさせ、一体となった両手の手の平を自身の下腹部に下ろす。
「確かに、これが正規の依頼ならそうだよな。
でもボク達ハンターの側から、ハンターズギルドの規則に違反せずに飛び入り参加できる事例は、全くないわけじゃない。
それを忘れてはいないだろう、真紅も?」
「つまり、何が言いたいわけ?」
真紅の疑問が、衝立を乗り越えてジュンとホーリエの耳にまで届く。
「この依頼、ギルドが依頼者側に課した取り決めに違反する箇所があったらどうなるか、ってことさ」
ジュンはハンターズギルドが提示している規則の、ある一節を思い出しながら真紅に語る。
ハンターズギルドからハンターに斡旋された狩猟依頼は、
当たり前ながら一度引き受けたなら、最善の努力を尽くして遂行する義務が課せられる。
無論ハンターが自身の命を守る権利は認められているので、自身の命に重大な危険が迫っていると判断した場合、
いつでも依頼の放棄を行うことは出来るが、その代償はハンターとしての信用である。
よって一度引き受けた依頼の放棄は、ハンターにとっては最後の手段となる。
だが、ハンターの命に重大な危険が迫らずとも、依頼を破棄する権利が発生する事例は、決して皆無ではない。
その一つが――。
「つまり、依頼人側が何らかの虚偽の申告を行っていたら? ……ボクが言いたいのは、そういうことだ」
ジュンの放った言葉を遮る雑音は、すでに夜の帳の中に消え去っていた。
本来ならばジュンと会話を交わすべき真紅でさえ、絶句を余儀なくされる。
再び、たっぷりと間を置いて、沈黙が降りる。
ホーリエの猫の目は、ジュンのその横顔に釘付けとなっていた。
ジュンはスクラムさせた両手を顎に当て、真紅の声を静かに待つ。
ジュンが己の発言を求めている、と真紅が悟るまで、この沈黙を誰も破りはしなかった。
「……どうしてそんな突拍子もないことを、あなたは考えついたわけ?」
やっと繰り出せた言葉がこれか、と真紅は何故か情けない気持ちでいっぱいになる。
ジュンは、そんな真紅にも淡々と理由の説明を行うことを、忘れはしない。
「真紅……ボクは今日、集会所で翠星石と蒼星石って奴と別れてから、
この家に着いて夕飯にするまで、少し寄り道をしていったのを覚えているか?」
「ええ……。そういえば、そうだったわね」
ジュンは真紅の記憶を確認しつつ、スクラムさせて両手をほぐす。
ジュンは少し顎を引き、俯きながら語り出す。
「ボクは家に戻る前、ちょっとオババ様に確認を取ってきたんだ。
そのランペってハンターは、このポッケ村で『雪山・素材採集ツアー』の依頼をちゃんと受けていたのか、ってね」
ジュンは、とある依頼をその口の端に上らせ、両手を床に着けた。
ジュンの口にした「素材採集ツアー」……。
それは、モンスターの生息にも向き、同時に狩猟において有用な素材を回収しやすい方々の狩場で、
ハンター達が様々な素材を採集したり小型のモンスターを狩ったりすることを認める、小さなクエストである。
その中でも「雪山・素材採集ツアー」は、フラヒヤ山脈に自生している『雪山草』や、
中央部の洞穴から採掘される『氷結晶』などを集めるのに最適であり、
欲しい素材が僅かに足りなかった時や小遣い稼ぎをしたい時など、ジュンも受けたことがある。
原則としてハンターがギルド指定の狩場に向かう際は、
その理由のいかんを問わずこの「素材採集ツアー」を引き受けるのが、ハンターの慣わしとなっている。
それこそ、狩場に向かう目的が散歩や気晴らしであったとしても、である。
もっとも、散歩や気晴らしで狩場にまで足を伸ばす酔狂なハンターは、そうそういるものではないが。
「それで……その結果はどうだったわけ、ジュン?」
ジュンは、続きを促した真紅に、その結果を告げた。
「ランペってハンターが、『雪山・素材採集ツアー』の依頼を引き受けた記録はない、ってオババ様は言ってた」
「けれどもそれは……」
ジュンは、こくりとうなずき、真紅の言葉を事前に切り返す。
「分かっている。
ひょっとしたら、単にそのランペって人が他の町で採集ツアーを引き受けていて、
その知らせがまだこの村まで届いていない、ってだけかも知れない。
もしそのランペって人に何もやましいところがなくて、
本当に採集ツアー受領の知らせが届く前に雪山に直行して、そのまま遭難しただけだって可能性もね。
オババ様はそのランペって人がシロだったなら、
救助が間に合わなければ大変なことになるって考えて、救助要請に応えることを優先したんだってさ。
……それ以前に、ボクがこんな事を話したら、
オババ様には考え過ぎだってたしなめられて、翠星石とか言う奴には鼻で笑われたけど」
ジュンは自嘲気味に言い、その瞳を掃除の行き届いた床に落とした。
今頃湯を弄んでいるであろう真紅も、ジュンの自嘲に同意を示した。
「確かに、ただ採集ツアーの依頼を受けたという知らせがないだけで、
依頼主のランペというハンターが何らかの後ろめたい事情を抱いている、と考えるのは行き過ぎだわ。
オババ様があなたをたしなめたのも、翠星石が鼻で笑うのも理解はできるわね」
「けれども、少なくともボクはランペってハンターが出した依頼には、一つだけどうにも腑に落ちない点がある。
よりにもよって、真紅と雛苺を……いや、正しく言えば『真紅と雛苺のみ』を、名指しにしてきたことだ」
俯いたジュンの鼻梁にかかる眼鏡が、『光蟲』の放つ光を反射し、輝いた。
「考えてもみて欲しい、真紅。
ボクらは半年前、ドスギアノスを狩ってハンターとしての本格的デビューを果たしてから、
チームを分割して依頼を行うことはあっても、原則ボクと真紅と雛苺とトモエの4人単位で動いてきた。
それなのにランペって人は、ボクら4人組の中から真紅と雛苺だけを名指ししてきたんだ。
イャンクックをデビューして数ヶ月で狩った腕利き、という噂から真紅と雛苺を名指しして来たなら、
そこにボクやトモエの名前がないのはおかしいと思わないか?」
「でも……それはひょっとしたら、ランペというハンターが、
今日の時点でジュンとトモエが村にいないと思っていたからではないかし……いえ、待って!」
真紅は、そこまで言っておいて、唐突に理解した。自ら気付いた。
その可能性は、ありえない。
「だったら、今日の時点で雛苺が村にいない事をランペって奴が知らなかったのは、どう説明するんだ?
もしこの村の現状を把握していたなら、ボクと真紅を名指しして来た方がよほど自然だろ。
ボクとトモエは実際にタッグを組んで、狩りを行ったことはなくはないけど、それは二ヶ月以上前の話だ」
真紅の反論は、ジュンによってあっさりと一蹴される。
今まで様子を見て黙っていたホーリエも、ジュンの言葉に頷いていた。
「そんな昔の情報で、今の村に誰がいるかなんて事を判断するなんて、普通の人間なら考えにくいですわね」
「ああ。だとしたら、真紅と雛苺だけを指名してきた理由……ボクには一つしか思いつかないな」
ジュンのその先の言葉は、彼が言うまでもない。
真紅自身が、誰よりもそのことを認識している。
「私達がローゼンメイデンであること……それが私達を指名してきた理由ということ……?」
けれども、彼女は己の言葉すら信じきれないかのように、断定形で言葉を終わらせることをためらう。
そんな自信なさげな真紅の推測が、真実であることを前提とした話しぶりで、ジュンはもう一度口火を切った。
「真紅、お前達ローゼンメイデンには、何か他のハンターから恨まれるような理由、思い当たるか?」
もう何度目か数えるのも億劫になるほどの、沈黙の帳。
そこに響くのは、ただ真紅の体から温泉の湯が流れ落ちるその音のみ。
真紅が一枚のタオルを取り上げる音がそれに続いた。
「……そんなもの、思い当たるわけがないのだわ。
お父様はハンターでありながら、その品行方正な行いは有名だったと、あなたも噂くらいには聞いたことがあるはずよ。
確かにそんな態度がいい子ぶっているなどと言って、お父様の実力と名声を妬む声はあったけれども、
誰かに恨まれるようなことなんてするはずがないわ」
くしゅくしゅという、髪の毛をタオル越しに揉む音。
ジュンはそれを聞いて、今真紅は入浴中だったという事実を思い出したように、赤面しながら慌ててその場を立つ。
もうすぐ真紅が風呂から上がるのだ。
「と……とにかく、この依頼には何か裏がありそうだって事は言わせてもらう!
もしそのランペって奴が、ローゼンメイデンとしての真紅と雛苺に用があるっていうなら、
同じくローゼンメイデンであるお前の姉さん達も、無関係でいられるとは思えない!」
ジュンは思わず声を上ずらせながら、何とか締めの言葉を絞り出す。
ジュンはそのままモンスターの書と室内用ランタンを引っつかみ、自室に向けて駆け込む。
「つまりボクが言いたいのは、この依頼はそのランペって奴が伝えてくれた単なる善意の報告と、
救助要請からのものだとは考えにくいってことだ!」
ジュンはそのまま自室に飛び込み、廊下の方を見ずに済むようしっかりと首を捻る。
「オババ様には一応僕が今言ったことを全部伝えておいた!
もちろんオババ様は『そんな薄弱な根拠では、飛び入り参加を公式に認める理由にはならない』って言ってたけど、
『今日ワシは疲れて、夜が明けてしばらくするまではぐっすり眠っているだろうから、
誰かがフラヒヤ山脈に向かっても分からないだろうねぇ』とも言っていたからな!」
慌てるジュンは、露骨なまでに含意を強調したその言葉を真紅に届け、乱暴に自身の腰を落ち着かせて座り込む。
彼が腰掛けたその下には、「ジュン」と名前の書かれた大きな道具箱……狩りの道具を入れておくアイテムボックス。
ジュンはそのアイテムボックスの上で、無理やりに己の視線を手の中のモンスターの書に固定しておいた。
その様子の一部始終を、脱衣所前の衝立で眺めていたホーリエは、相変わらずの微笑み。
そのホーリエの後ろから、人影が現れる。
それは、下着を新しいものに取り替え、ついでに寝巻きも新しいものに変えた真紅。
少しばかり長湯になってしまったのであろうか、真紅の頬はまるで、ドドブラリンゴの果肉のように赤くなっている。
未だにその体から湯気を上げ、ハンター稼業で生きているとは思えないほどの、滑らかな肌が裾から覗ける。
ホーリエは、改めて真紅のその表情を見上げた。
真紅は、静かにその口元を結んでいる。
普段はツインテールにされている瑞々しい小麦のような金髪は、頭に巻かれたタオルに絡め取られている。
そのタオルの下から覗ける、美しい青の瞳はジュンの去っていった方向を見つめ、複雑な光を宿していた。
ホーリエはそれを見て、ジュンに向けるものとは別種の穏やかな笑みを浮かべる。
ホーリエは、言い聞かせるようにして真紅に言葉を向けた。
「……行きたいのでしょう、真紅?」
「…………」
真紅は一瞬口を開きかけて、止めた。
どんな言葉をもって返せばいいのか、分からないといった様子で口を噤む。
ホーリエは、そんな真紅の元によちよちと歩き、首を傾げた。
「ジュン様は、今真紅の背を押して下さったのよ。
きっとこのままでいたら、真紅の心がすっきりしないんじゃないかと気遣って下さったのですわ」
「ジュンみたいな下品な男に、そんな繊細な真似ができるはずないわ」
憮然としたように真紅は言う。
けれども、そこにはホーリエの推察を否定しきれるだけの強さは宿ってはいなかった。
ホーリエは、眉を歪める真紅の顔をじっと眺め、それからジュンの部屋の方にその目を向ける。
小さなため息が、ホーリエから漏れた。
けれどもそのため息には、疲労感や呆れと言ったネガティブな色合いは含まれない。
「真紅もジュン様も、本当に似た者同士ですわね。
人の気持ちを素直に受け止めたいのに、つい感情を表に出すのを恥ずかしがって、意固地になってしまうあたりが」
「別に私はジュンのことを、ありがたいとも何とも思ってはいないのだわ」
ぷい、と真紅はそのまま己の部屋に向けてその足を向ける。
それでも、部屋に入るや否ややり始めた事が、自分のアイテムボックスを開けることであったと知ったホーリエは、
思わず吹き出してしまう。
ホーリエの上品な笑い声などまるで聞こえていないかのように、真紅は口を開いた。
この部屋の隣で、今頃彼自身のアイテムボックスをかき回しているであろうジュンに、
十分聞こえるほどの音量を伴って、真紅の声が放たれる。
「ジュン、けれどもあなたがそこまで言うのならば、
ランペというハンターの正体を明らかにするところまでは、付き合ってもいいのだわ。
けれども、こんな事をやるのは本当はまずいということは、承知の上よね?」
真紅はその発言と共に、寝巻きに手をかけた。
普段愛用している狩猟用のアンダーコートに、その服装を着替える。
その傍らにかけてある、普段着として使っている赤のロングドレスが、ランタンの光の中で揺れる。
真紅は簡素な薔薇の刺繍を施したスパッツを履きながら、思わず嘆息。
(またフルフルと戦う羽目になるなんて、私はツイてないのだわ……)
いくら翠星石と蒼星石という己の姉が、何か事件に巻き込まれているのではないかという危惧を差し引いても、
あのおぞましい生き物と戦わざるを得ないとは、この巡り会わせを呪いたい気分になる。
真紅は、淑女としてふさわしくない発言であるとは分かっていながらも、一つだけ小声で悪態を吐く。
真紅の愛用のアイテムポーチは、すでに彼女の上半身に固く巻きつけられていた。

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最終更新:2008年07月01日 18:25