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――どこかで、カラスの群れが騒いでいる。
いつ聴いても、不安を掻き立てられる声だ。
近い。耳を澄ますまでもなく、気づいた。窓のすぐ外で啼いているのだ、と。
 
いつ籠もったのか記憶にないが、雛苺はベッドの中に居た。渇ききった喉が痛い。
腫れぼったい瞼を押し上げて、枕元の時計に目を遣れば、午前八時を少し回ったところ。
普段より30分ほど早い目覚めだった。カーテンの隙間から、眩い朝日が射し込んでいる。
 
まだ眠い――が、喧しいカラスを散らさないことには、二度寝もできそうにない。
指先で、目元を、こすりこすり……欠伸を、ひとつ。
その直後だった。なにか重たい物が、ドサッ! と、彼女の上に落ちてきたのは。
 
「ぴゃっ?! 痛ぁ……ぃ。もぉ、なんなの~?」
 
呂律の回らない口振りで、雛苺は頭を浮かせて、重みを感じる腹部を見遣った。
布団の上に、なにやら見慣れないモノが、転がっている。
 
――いや、違う。
見慣れたモノではあったが、見慣れない姿へと変貌を遂げていた。
 
「あ……れえぇ!? か、か、形が変わってるのーっ!」
 
紛れもなく、本棚に置いてあったベヘモス神像だ。
だが、直立姿勢だった石像は、ボディビルで言うところの『サイドチェスト』のポージング。
それは昨夜、彼女がスケッチブックに描いた姿、そのままだった。
机に置かれている木箱に顔を向けて、雛苺は、ヒリヒリする喉に生唾を流し込んだ。
 
石像の形さえも自在に変える効力が、このパステルには、ある。
と言うことは、つまり――
 
雛苺は、細い身体を戦慄かせた。「怖い……これ」
とんでもなく危険な代物であることに気づいて、瞳を潤ませた。
 
 
  たとえば、富士山が噴火するイラスト。
  たとえば、100mもある大津波に呑まれる百万都市。
  それらさえも生温く思えるほどの、阿鼻叫喚の地獄絵図さえも……。
 
 
このパステルで描けば、雛苺の産みだす絵空事が、すべて現実になってしまう。
それこそSFマンガでも描く気分で、人類を滅ぼすことだって可能だろう。
雛苺が、その気になりさえすれば。
 
できっこない。雛苺はベッドの中に潜り込んで、膝を抱えた。
彼に――ジュンに返してしまおうか、とも思った。手元に無ければ、使うこともない。
そうすれば、少なくとも、大好きな絵で誰かを傷つける心配はなくなる。
こんな風に、過ぎたチカラを持て余し、戦々恐々としなくて済む。
 
けれど……と、雛苺は考え直した。それって、ただの責任転嫁じゃないの?
たとえ彼女が描かずとも、このパステルが存在する限り、危険は無くならない。
 
雛苺は布団を払い退けて、自分の小さな手を、朝日の中に翳した。
この手で処分するなり、二度と日の目を見ないように、封印すべきなのかも。
それが、託された者の責務ではないか。
 
「しっかりしなきゃ……なの」
 
パジャマの袖で目元を擦りながら放たれた、弱々しい呟き。
しかし、それは細くとも強靱な、ピアノ線を彷彿させる決意を秘めた口振りだった。
 
 
 
冷たい水で顔を洗って、喉の渇きを癒し、軽い朝食を摂ると、少しだけ気分が落ち着いた。
けれど、胸に澱んだ重みは、おいそれと消えそうにない。
あのパステルを、どうにかするまでは――
……いや。手放したところで、おそらく一生涯、胸を痛め続けるのだろう。
 
マグカップに残るミルクを飲み干して、雛苺は鬱々と、息を吐いた。
母親がキッチンから顔を覗かせ、心配そうに訊ねたが、「まだ少し、眠いだけなの」と。
曖昧に笑みを返して、席を立とうとした、その矢先。
 
見るとはなしに眺めていたテレビ画面に流れたニュース映像が、雛苺の関心を惹いた。
どうやら、原子力発電所で、事故があったらしい。
放射能が漏れるほどの規模ではなさそうだが、報道の仕方は、物々しかった。
 
この日本という国は、とかく、原子力や核関連ともなると、病的なほどに過敏になる。
そのうち、アナフィラキシーショックで死んでしまうのではないかと、案じるほどに。
確かに、放射能汚染は怖い。原発の近隣住民にとっては、死活にかかわる問題だ。
……が、だからといって、すべての原子力を手放すことなど、できはしないだろう。
普段の生活においても、もうドップリと、その恩恵に与っているのだから。
 
 
仕方のないこと……。雛苺は醒めた気分で、食器をシンクに置くと、食堂を後にした。
しかし、その途中。階段を昇っているときに、ふと、閃くものがあった。
 
「あのパステルも、原子力と同じかも知れないのよ?」
 
使い方を誤れば、多くの不幸を生む。
しかし、用法によっては――
原子力が、文明の繁栄を支えているように、あのパステルで、人々のココロを豊かに出来るはずだ。
 
核、と、描く。
『nuclear』ではなく、『new』+『clear』――
恵まれない今日の上に、よりよい未来を重ね描きできるものならば、そうすることに吝かでない。
ダジャレじみた発想だけれど、やってみる価値はある。
ふと気づけば、雛苺の胸に蟠っていた黒い霧は、一寸先が見える程度にまで薄らいでいた。
 
「それが……ヒナも救われる、たったひとつの解決法かも」
 
事故で身体の一部を失ってしまった人に、元どおりの人生を与えられるかもしれない。
あるいは、難病の苦しみを、取り除いてあげられるかも。
いずれにせよ、封印したり、遺棄したり、我欲を満たすために使うよりは、よほど有意義だ。
もう、楽しく絵を描くことは、できないかもしれないけれど――
 
「やってみる! 行動しなきゃ始まらないのよ!」
 
パステルは使い続けていれば、いつか尽きる。そのときまで、頑張ればいい。
階段を駆けのぼる雛苺の足取りに、もう迷いは感じられなかった。
まるで、蒼穹へと翔けのぼるほどに軽やかで……
小さな背中には、力強く羽ばたく翼さえ見えるようだった。
 
 
思い立ったが吉日と、雛苺は旅支度を始めた。
この週末二日で、少しでも多く、パステルの効果を試しておきたかった。
 
パステルと鉛筆。お気に入りのスケッチブック。傘とタオル。念のための着替え。
それら一切合切を、デイパックに放り込んで、準備はおしまい。
旅費なら、先月分のアルバイトの給料が、ほぼ手つかずで貯金してある。
 
あとは――行動を。目の前の扉を、開けるだけだ。
 
 
 
デイパックひとつの軽装で、自転車に跨り、最寄りのJRの駅へ――
駐輪場に自転車を置いた雛苺は、銀行に寄ってから、緑の窓口に向かった。
こういうアテのない旅をするときは、乗り降り自由の『青春18きっぷ』が便利なのだ。
 
「とりあえず、失敗しても被害の少なそうなところ……郊外に出てみるのよ」
 
アテもなく電車に揺られ、なんとなく気を惹かれた駅で降りてみるつもりだった。
見知らぬ町並みを歩いているうち、これと想う景色に、辿り着けるかも……。
そんな運命の巡り合わせを、彼女は淡く期待していた。
 
 
まず雛苺が目指したのは、何本もの路線が乗り入れているターミナル駅。
そこからは、足の向くまま気の赴くままに、4両連結のローカル線に乗り換えた。
土曜日の午前中で、しかも郊外に向かう列車とあってか、乗客は疎らだ。
部活に行くと思しい学生。ハイカーらしい初老の男性。マスクをした中年女性。
目の届くかぎりでも、雛苺と同じ車両には、彼女を含めて4人しか乗っていない。
 
4人掛けのボックス席も、まったくの貸し切り状態。
シートの窓際に腰を降ろした雛苺は、デイパックを抱えて、ふぅ……と吐息した。
いつもより早起きしたせいか、中途半端に瞼が重たい。目がショボショボする。
コーヒーか紅茶でも買ってこようかと思ったものの、発車時刻までは、あと3分ほど。
きわどい時間だ。この電車を乗り過ごすと、次発は40分後になる。
 
 
仕方がない。この際だから、飲み物はガマンして、少し眠っておこう。
雛苺は、携帯電話のアラームを2時間後にセットして、冷えた窓に頭を預け、目を閉じた。
――だが、いつまで経っても、ちっとも微睡めない。
パステルのことを気にするあまり、知らず、睡魔を遠ざけているようだ。
雛苺は瞼を閉じたまま、あれこれとココロに浮かんでくる疑問に、想いを巡らした。
 
 
  このパステルは、石像のカタチすら変えちゃったのよ。
  じゃあ、崩落した山の、崩れる前の姿を描いても――元どおりになるの?
 
 
常識で考えたならば、有り得ない。
そんなことが可能だったら、時間を巻き戻せる道理になってしまう。
 
けれど、もし――
自然環境すら変えられるのであれば、これは、とんでもないことだ。
干ばつや洪水による災害を、早急に復旧できてしまう。
広がり続けている砂漠を、木々の緑で覆い尽くすことだってできよう。
それどころか、喪われた生命さえも、取り戻せるかもしれない。
 
古生物の絵を描いたら、シーラカンスのように、生きた化石として現世に顕れる?
ダヴィンチの全身像を描けば、彼がキリストみたいに復活する、とでも?
 
 
――まさか、ね。
雛苺は、くふん、と鼻を鳴らした。いくらなんでも、妄想が過ぎる。
あのパステルが影響を及ぼせるのは、現存するモノ【者/物】の未来に対してのみだろう。
時間の遡及など、SF小説の中だけで充分だ。
 
 
考えるのを止めて、暫くすると、ウトウト……。
待ちかねていた瞬間の訪れ。どうやら、このまま眠れそうだ。
雛苺は意識を手放して、なにかに牽かれるまま、真っ白な世界へと沈んでいった。
 
 
 
  ――あれ? いま……なにかが……。
 
 
夢の中で、白いウサギを見た気がした。
その直後、車内アナウンスが、耳に馴染みのない駅名を告げた。
いけない。うたた寝のつもりが、すっかり熟睡していたらしい。
口の端に違和感がある。ヨダレまで垂らしていたなんて、みっともない。
 
恥じらうあまり、顔が熱くなり、変な汗が額に滲んでくる。
雛苺は窓に顔を向け、景色を眺めるフリをしながらポケットティッシュを抜き出すと、
さりげなく、唇に塗ったリップクリームごと、ヨダレを拭きとった。
もしかしたら、無防備に晒した寝顔を、誰かに見られていたかも……。
その現場を想像すると、僅かに残っていた眠気も、羞恥の熱で揮発してしまった。
 
まあ、過ぎてしまったことは、仕方がないとして。
 
「どこなのかしら、ここ?」
 
改めて、車窓の向こうに眼を向けて、雛苺は「ふわぁ~」と感嘆した。
そこに広がっていたのは、およそ首都圏ではお目に掛かれない、長閑な田園風景。
いい気持ちで眠っている間に、すっかり遠くまで運ばれてしまったらしい。
枯れ草色に塗りつぶされた早春の田畑には、白々と霜も見えて、雛苺を寒々しい気分にさせた。
 
 
この駅で降りたのは、雛苺だけだった。
デイパックを背負って、ホームに降り立つなり、雛苺は肌を刺す冷気に首を竦めた。
春は名のみの、風の寒さや。3月の陽気は、あまりにも有名な、あの歌のとおりだ。
日毎に日射しが暖かさを増して、桜の蕾を膨らませるけれど、冬の勢いは依然として強い。
ここで春の足音を聞けるようになるのは、もう少し先――4月の中旬くらいか。
 
「ふぁ……ぷちゅんっ!」可愛らしいクシャミを、一発。
大仰に身震いした彼女は、ハーフコートの襟を立てて、閑散とした古い駅舎に足音を響かせた。
 
 
初めて訪れる土地で嗅ぐ空気は、いつだって、孤独感と郷愁の情を募らせる。
心細さに吐いた溜息が、いまだ冬を色濃く残す世界に、さらりと溶けていった。
 
山から吹き下ろす風のせいか、実際の気温よりも、体感温度は低かった。
鋭い冷気が、スラックスの生地をあっさり突き抜け、容赦なく肌を刺してくる。
スケッチする場所を求めて散策する前に、まずは暖を取りたい。
もじもじと脚を摺り合わせながら、雛苺は風を避けられそうな場所を探した。
 
「駅前なら、喫茶店くらいあるはずなのよ」
 
スターバックス、ドトール、マクドナルド……
ライム色のつぶらな瞳が、見慣れた看板を求めて、人っ気のない駅前を彷徨う。
そして、1分と要さず、思い知らされた。都会の常識など、鄙では世迷い言なのだ、と。
 
ここには、都会にありがちな人いきれや、ビル街の陰から漏れてくる饐えた臭いがない。
行き交う車の騒音も、雑踏も、なにもかもが稀薄だった。
雛苺は唸った。電車でたった数時間の距離に、こんな垢抜けない土地があるなんて……。
 
……ともかく。吹きっさらしに突っ立って、無いものねだりをしていても始まらない。
茫然としている間に、温かい缶ジュースでも買うほうが、よほど前向きだ。
そう考えて、自販機の前に立った雛苺の目に飛び込んできた、毒々しいまでに黒い缶。
一見、ブラックのコーヒーかと思えば、そうではなかった。
黒の地に、ドクロみたいな苺のイラストが、ひとつ……。こんなデザイン見たことない。
 
「ハバネロ苺? 初めて聞いたのよ~」
 
いわゆる、地域限定商品か。こういった珍品を試してみるのも、旅の醍醐味である。
なにより、イチゴと聴けば『ヒナまっしぐら』な彼女のこと。
ホットの列に並んでいることもあって、躊躇いもなく、購入していた。
 
プルタブをあげて缶を覗き込むと、ありがちなイチゴ色が揺れている。
温められた甘ったるい人口香料が、ほわんと立ち上った。
その薫香は、雛苺がココロで嗅ぎ取っていた微かな地雷臭を、容易に消してしまった。
 
「ん~。アンマァな匂いがするの~。いっただきまぁーす!
 …………ん? ん゛むっ?! ん゛ん゛ん゛――っ?!」
 
花の香に誘われたミツバチのように、なんの警戒もせず呷ってみれば……
いきなりすぎる強烈な刺激に襲われ、雛苺は涙ぐんで、口元を手で押さえた。
炭酸とか、メンソールなんて、そんな生易しいものではない。
嚥下? またまたぁ、ご冗談を。飲み込むだなんて、とてもとても……。
ジュースとは名ばかりの、劇薬と呼んだって差し支えないほどの代物である。
 
ガマンの限界。ダムは決壊寸前。間欠泉なら待ったなし。
なんとか口に含んだまま堪えていた雛苺も、息苦しさには抗えず、膝を折った。
人目を憚る余裕などない。自販機の脇の植え込みに、すべてを吐き出した。
その直後だった。ガラスを引っ掻いたような甲高い悲鳴が、雛苺の背を叩いたのは。
 
「きゃぁっ?! あ、あ、貴女っ! どうしたのよ? 一体、なにが――」
 
いかにも難儀そうに頸を巡らした雛苺の瞳に、人影が、ひとつ映り込む。
年の頃は、雛苺と同じか、やや上か。見目うるわしい乙女だ。
長く艶やかなブロンドや、バーバリーと思しいトレンチコートから、並々ならぬ気品が漂っている。
名も知らぬその女性は、眉を曇らせたまま、おずおずと雛苺に近づいた。
 
「具合が悪いのね? もう少し我慢なさい。いま救急車を呼ぶのだわ」
「ふゅ? あのぉ……ヒナは別に、なんともないのよ」
「ウソよ! 吐血してたじゃないの!」
 
吐血? 雛苺は、自分の足元を見て……ああ、なるほど。即座に得心した。
この女の人が、どうして悲鳴を上げて、青ざめていたのか――その理由に。
雛苺は、手中にあった『ハバネロ苺』のアルミ缶を、女性の鼻先に突き出した。
 
「紛らわしいコトしちゃって、ごめんなさいなの。
 ヒナが吐いちゃったのは、このジュースだったのよ」
「は? え……えっ? ……ジュース?」
「うい。すっごく不味くて、どうしても飲み込めなかったの」
「……なによ、もぅ。驚かさないでちょうだい。
 独りで勝手に取り乱したりして……バカみたいだわ、私」
 
斜を向いた頬が朱色に染まっているのは、冷たい春風によるものか。それとも――
大人びた印象の彼女が見せた、しおらしい仕種に、雛苺は口元を綻ばせた。
なんだか急に、この妙齢の美女が愛おしくなり、親睦を深めたくなった。
 
「あのね、あのねっ。ヒナは、雛苺っていうのよ。
 よかったら、貴女のお名前も教えて?」
 
「私の?」彼女は、警戒心も露わな眼差しを、雛苺に向けた。
あまりに馴れ馴れしくはないか。なにか企図があって、近づいてきたのかも。
さっきの嘔吐も、関心を誘うための芝居だったのでは……。
 
――が、雛苺の無邪気すぎる微笑みを見ている内に、毒気を抜かれたらしく。
彼女は、やおら頬を緩めて、かぶりを振った。
さらさらの金髪が、頭の動きにやや遅れて、優雅に揺れた。
 
「私は、真紅よ。この町で、小さな製茶工場と茶店を営んでいるわ」
「うよー。若いのに実業家なのね。かっこいいの~」
「ふふ……そんな大したものじゃないわ。趣味が高じた程度のものよ」
 
真紅の口振りは、謙遜でもなさそうだった。
おそらくは、辛うじて工場と呼べるくらいの、こじんまりした規模なのだろう。
 
「どんなお茶なの? 玉露とか?」
「紅茶よ。銘柄は『ローザミスティカ』と言うのだけれど」
「う……と。ご、ごめんなさいなの。ヒナ、紅茶には詳しくなくって」
「知らなくても当然かもね。積極的な売り込みなんて、していないもの」
 
自社製品の知名度について、真紅は、あまり拘っていない様子だった。
販路も、インターネットのウェブショップや、茶店のみに絞っているのだろう。
大量生産の薄利多売よりも、稀少な高品質。玄人ごのみの本物志向が、モットーらしい。
 
「ところで、雛苺さん」
「呼び捨てで、いいのよ。ヒナも、真紅って呼んでもいい?」
 
真紅は「ええ、構わないわ」と、人好きさせる笑みを浮かべて、続けた。
 
「それで、なのだけれど――急ぐ用事がないのであれば、うちに寄っていかない?
 身体が冷えてしまったし……貴女も、不味いジュースの口直しをしたいでしょう。
 温かい紅茶をご馳走するわ」
 
その申し出は、暖を求めていた雛苺にとって、渡りに船だった。
真紅とも親しくお喋りしてみたかったから、断る理由など、あるはずもない。
雛苺は、喜色を満面に広げて、一も二もなく頷いた。
 
 
 
真紅に連れられ、訪れた製茶工場は、小さいが極めて衛生的な建て屋だった。
従業員は20人ほどで、その内の5人が畑に常駐して、茶葉の品質管理をしていると言う。
なんでも、近くの山の中腹に、南に面した広い茶畑を持っているそうだ。
 
「うちで品種改良した茶樹を栽培して、年に何度か、葉を収穫するのよ。
 摘んだ葉の熟成や発酵、等級の分類にも、少なからぬ人手を掛けているわね。
 温度、湿度などのデリケートな管理だけは、機械に任せているのだわ」
 
工場の脇を通り抜けざま、簡単な説明をする真紅の表情は、とても誇らしげだ。
いい物を作っているという自負が、ありありと現れている。
やっぱり、かっこいい。雛苺は、気品に満ちた乙女の横顔に、羨望の眼差しを送っていた。
 
程なく、雛苺は、工場に隣接する瀟洒なコンクリート住宅に招き入れられた。真紅の自宅らしい。
てっきり、工場の一角にあるという茶店に案内されると思っていた雛苺は、遠慮がちに訊いた。
 
「お邪魔しても、いいの?」
「大切なお客様ですもの。手ずから、おもてなしするのは当然なのだわ。
 さあ、遠慮しないで、上がって。散らかってて、恥ずかしいのだけれど」
 
言って、真紅は丁寧に靴を揃えて脱ぎ、さっさとフローリングの廊下を進んでゆく。
置いていかれまいと、雛苺もいそいそ靴を脱いで、足早に彼女を追いかけた。
 
「こっちが応接間よ。すぐにお茶の支度をするから、ソファに座っててちょうだい」
 
真紅は廊下でコートを脱ぎながら、客人が追いついてくるのを待っていた。
すっかり恐縮しつつ、愛想笑って近づいていった雛苺は、ふと――
どこかアンバランスなものを察知して、歩を止めた。なにか、おかしい。
 
雛苺の目が、吸い寄せられるように、違和感を醸している箇所を捉えた。
その箇所とは、真紅の洋服――だらりと下げられた右の袖。
袖の先に伸びているべき右手も、そこにない。
 
 
あろうことか……真紅には、右腕そのものがなかった。
 
 
 
  -to be continued
 
 

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