春が近い、と思う。たまにとてもつめたい日だってあるけれど、お日様が出れば、窓際はこんなにもあたたかかった。
 ついこの間まで、こういう日のことを小春日和、って呼ぶんだと思ってた。でもその言葉は、春も近くなった今頃に使うのが正しくない。教えられるまで、本当に知らなかった。
 でも。僕は何だか「こはるびより」っていう語感がすきで、ちょっと天気がよくてぽかぽかあたたかいと、そう言いたくなってしまう。

 笑われて、しまうかなあ。
 そうかも、しれないね。

 さあ、出かけよう。外は良い天気だ。
 やっぱり風は少し、冷たいけど。
 僕はマフラーを巻いて、外へ出る。
 手には小包を、携えて。
 そしていつもの坂を、のぼる。

 一歩一歩、確かに踏みしめていく。
 何だか、こうやって上を見ながら歩いていると。
 あの青い空へ、まっさかさまに落ちていくような気分になる。
 のぼるんじゃない。ただ、落ちていく。
 不思議と怖い感覚ではなくて、随分と気持ちの良いことに思えた。
 それほど、雲ひとつなく、遠い遠い空。

 そんなのは、夢の出来事。
 本当に、起こるはずない。
 わかって、いるよ。



【ゆめみごこち】



 坂は随分長いけれど、それほど疲れる気がしていなかった。歩くのは結構すきで、自転車なんかに乗るよりは、こちらの方が僕の性質(たち)に合っているように思う。
 いつもよりちょっと早い速度で、風景が流れていくのを見るのも、それはそれで素敵なことだろう。ただ、自転車に乗ってわき見をするのは危ないし(歩いていても同じことが言えるかもしれないけど)、ほら、ここは、坂道だから。きっと余計に、つかれてしまう。

 歩いていると、道端にある花につい眼がいく。名前もしらない花、なんていうと、ちょっとかっこよいようなそんな印象も受けるのだけど、尋ねてみたらすぐに答えてもらった。ツメクサ、だったかな。小さくかわいらしい花をつけて、こんな発見があるのも、歩いていていいことのひとつ。

 名前は便宜上の些細なものだけど、とても大切なもの。
 これは、受け売り。もう長年付き合っている友人の、言葉だ。きっと、名前は。その存在のいのち、のようなもの、を示す象徴だからではないかと思う。

 こうして、よく考えながら歩く。普段僕は、とても落ち着きがあると言われているようで(たまに暴走すると姉に窘められる――姉ほどではないと思う)、だけどこうして考え事が多いということは、それだけ落ち着きがないということではないか、とも考え始めてきた。

 長い長い、坂道を登っていると。それが終わる頃には、大きなお屋敷が見える。
 薔薇屋敷。そんな風に呼ばれている建物は、かつてご近所の風評があまり宜しくなかった。
 庭は広くて、あまり手入れのされていなかった薔薇たち。そんな花も、今は見事な咲き方をしている。自分としても、とても満足だった。


――――


「気になるかね」
「え? ええと――まあ」

 門の前で、ぼんやりと庭を眺めていると、不意にそう話しかけられた。
 何だか顔をしかめた、人物だった。

「それほど手入れもしていないからなあ。まあ……いいんだ。仕方のないことだから」
「どういう、ことですか?」

 初対面の人物に対して、思わず言葉を返してしまったことに、少なからず自分で驚きを感じていた。

「見る者が居ない。訪ねてくる者も、今は居ない。だから私が放っておいたら、こうなる。意味がないからな。それは、仕方のないことだろう」

 意味が、ない。
 その言葉は、なんだか僕のこころに、小さな棘のようにちくりと差し込まれた。

「この薔薇は、もともと、客をもてなすために植えたんですか?」
「もてなす――ううむ。薔薇がな。薔薇が、すきなひとが居たのだ」

 遠い、眼をする。薔薇が、すきなひとが居た。そして、今は居ない……

「それでも、なんだか勿体無いですね」
「どうして」
「薔薇のこころは、僕は与り知るものでもないです――ええと、僕の姉は、その声が聴こえるんだっていってます、とても、とてもやさしい姉なんです――けど、あなたがここに住んでいるなら、きっと薔薇だって、あなたに綺麗な姿を見て欲しいのかな、って。そう、思います」

 薔薇の声が、聴こえない僕でも。

 そう言うと、彼は静かに、微笑んだ。それは、ほんの少しの間だったけれど。落ち着きのある、やわらかい笑み。つい先ほどまで、こんな表情を浮かべるひとだとは、思えなかった。

「僕、園芸部なんです」
「ほう」
「こう見えても、お庭のお手入れは――得意だし、すきですよ」

 宜しければ、お手伝いをしても良いですか。

 そんな申し出をしたんだよ、ということを。その日の夜、姉に伝えたら。『やっぱりおめーはたまに暴走するです』と、何だか呆れたように言われたのだった。

 それは、暑い暑い、夏の日の、出来事。


――――


「こんにちは」
「おお。まあ、上がりなさい。茶でも淹れよう。新しい葉が入った」
「それは僕がするって言ってるじゃないですか」
「庭の手入れしてもらいながら、茶まで汲まれては申し訳が立たない。これは私の意地のようなものだ」

 ちっとも誇れん意地だがね、と。
 あなたはまた、微笑みながら言う。

 新しい葉、だなんて言って。週末に僕がここを訪ねるときには、いつだって新しい紅茶の葉が入荷している。少しお台所にお邪魔したことがあるけれど、もう棚などは、ちょっとした紅茶フェスティバルになっているところだった。

 紅茶のすきな、友人の顔が浮かぶ。けれど彼女を、ここに呼ぶことを、僕はきっとしないだろう。

 お台所から、ティーセットを一式台車に載せて、戻ってくる。
 薔薇屋敷は、庭も幻想的だけど、中もとても不思議な雰囲気だった。部屋の端に据えられた大きな時計が音を刻んでいて、それが無ければ、ここは時間がとまっているような、そんな気さえしてくる。
 時間が止まるだなんて。そんなのは、夢の出来事。本当に、起こるはずない。わかって、いるよ。

「今日も良い天気だな」
「ええ、風はちょっとつめたいですけど。窓際なんかはとてもあたたかくて――」
「――『小春日和の、ような』?」
「……いいじゃないですか、語感がすきなんです」

 相手は結構な博識で、こんな洋風の建物に住んでいるというのに(物言いとしてはただの偏見かもしれないが)、日本的な言葉、を重んじるようだ。

「長く生きているとな。どうも説教くさくなる。申し訳ない」
「まあ……いいと思います」

 それでもあなたは、まだ若いと思いますが。

 そう返すと、あなたは少し困ったように笑う。ちょっと位は、仕返ししてあげないと。


―――


「今日は、渡すものがあるんです」
「何かな?」

 脇に置いていた包みを、手渡した。それをあなたは、とても丁寧な仕草であける。

「ほう……ひざ掛けか」
「あたたかいとは言っても、まだ中で暖は必要ですから。ほら、あれです。次の『小春日和』が来るまでだって、寒い日には使えるでしょう」
「はは。――うむ。ありがとう」

 男性がひざ掛け、というのもあまり聞かないけれど、あなたはそれを使うことを僕はしっている。
 車椅子へ腰掛けた膝には、いつもそれがあるから。
 ひらり、と広げて。僕が渡したものを見やりながら、ぽつりと呟く。

「花模様か……うむ……」
「薔薇にしようとおもいましたが。これでも気を遣って、白い小花にしておきましたよ。しかも全面じゃない塩梅で」

 深い群青に、白の小花――ツメクサのような――があしらわれたものを、先日みつけた。
 実のところ僕も色違いを買っていて、それを使っていることは、あなたには、ひみつ。

「いや、まあ。今まで大分地味なものを使っていたものでね」
「今時の男のかたは、花模様も似合っていいと思いますよ」
「今時、というのは。所謂若者のことだろう?」
「違いますよ。今を生きれば、誰だって今時です」


――――


『少し、庭に出ましょうか』

 僕の申し出から、ふたりで庭へ出る。
 薔薇の剪定をしながら思ったが、本当にこの庭は「お客様」のためによく作られた庭であると感じる。あちらこちら無節操に植えられているような花壇でも、それを上手い具合に見て回れるように、きちんと路は舗装され、庭を一巡できるように作られていた。
 まさに、庭園。この世のものとは思えない、と言うと確かに大袈裟だけど、ちょっとした夢のようなものなら、見ることができる。僕は、そう思っているんだ。

 ぎっ、と、音を鳴らして車椅子は止まった。あなたは僕がそれを押すことをあまり良しとしなくて、実際それを僕がしたこともなく、それでいていつも僕より少し前を行く。それも、館の主人としての、意地なのだろうか。

 ただ、あなたの脚には、僕のあげたひざ掛けが。それだけで、なんだかあたたかい気分になる。

「それにしても、見事だ――久しく、忘れていたように思う。花は、誰のこころでも、癒すのだな」
「そうですよ。どうでも良いと放っておいては、勿体無いでしょう?」
「はは。初めてあったときに、言われたものだな……うむ。随分と、懐かしい」
「たかだか半年前の話でしょうに」
「いや。この年になると、一日は確かに、酷く長い。それでも半年、一年と。それも気付けば、あっと言う間に、過ぎているものなのだ。それは君にも、ないだろうか?」

 確かに、それは少しわかる気がする。
 学校なんかに通っていると、一週間はとても長い。けれど、一ヶ月は何時の間にか過ぎ去っていて……一年などは、あっと言う間。気付けば年の瀬は、だなんて。ここ二、三年は、言っているような感じがする。

 そんな考えを伝えてみると。もう学校に通っていたなど、とうに昔の話だな――なんて。何かを懐かしむような、けれどそれを掴む術がないような、あなたはそんな曖昧な表情を浮かべるのだ。

 昔がどうだったか知らないけれど。少なくとも僕がここを訪ねてからは、あなたはよく笑っているように思う。僕はそんな表情を浮かべるあなたの傍にいるのが、とても心地よい。

「君は――まあ。薔薇の手入れをしてくれるのはありがたいが、たまには若者同士で遊んだらどうかね」
「もう何度目ですか、それ。僕もじゃあ同じことを返しますが、僕はここに来るのが、性に合ってます」
「年寄りくさい、とは言われないかね?」
「慣れましたよ」
「はは。じゃあ今度こそ、緑茶でも用意しておこうか――」

 変わらない、やりとり。これが、いつまでも続けばいいと思う。
 夢見心地。その表現は……ただの、その一時の感情を現すだけの言葉なのに。やさしい夢を、いつまでも見ていたいと。そんな時間が続くことを願う気持ちに、なんだか似ている気がした。

「一葉さん」
「ん?」
「気を悪くしたら、謝りますが」
「……うむ。そろそろ半年ともなると、君が割かし、歯にものを着せぬ言い方をする性質であることは、理解してきた。言ってみたまえ」
「あなたの。あなたの言っていた、薔薇のすきなひと、とは。どんなひとでしたか?」

 ここは、外。部屋の端に置かれている古時計が、時を刻む音なんて、ここには届かない。
 そうか。そんな時。夢を見ていなくたって、時間は、止まるんだ。

「……」
「……」

 暫し、無言だった。僕はやはり、聞いてはいけないことを、聞いてしまったのか。
 でも。それでも。僕はそうせずには、いられなかったんだ。

「あのひとは――」
「私など、見ていなかったよ」
「それでも、この屋敷の薔薇を見ると」
「とても……とても。よろこんで、くれた」

 ああ、このひとは。
 そうやって、薔薇を育て、
 そして、諦めて……

「私には、双子の弟が居てね」
「えっ?」
「当時は、それは諦め切れなかったとも。弟は、私の半身だった。それを奪っていく彼女を、憎く思ったこともあった。だが、弟と彼女の想いも、遂げられなかった。向こうへ渡るときの、船の事故で」
「……」
「今ならば。せめて二人が幸せに暮らしていたならば、と。そう思うこともできるかもしれなかった。だが……私も、私自身の想いに、気付いてしまった」

 自分も、彼女を愛していた、と。


――――


 かなしい物語は、そうやって、残る。ぼんやりと、そんなことを考えていた。
 あなたはそうやって、今までに。何度、夢を見てきたことだろう。

「僕は」
「……ん?」
「僕はあなたの元を、離れません」
「はは……それは、とても勿体無い言葉だな」
「茶化して言ってるのでは、ありませんよ」

 ぴぃん、と。空気が一瞬、張り詰める。
 今ばかりは。時計が時を刻む音くらいあってもいいのに、と思う。

「一葉さん、――」
「蒼星石」

 名を呼ばれ、二の句を次げなかった。

「私にとっては、君は孫娘のようなものでね――君、自分と同じくらいの年の誰かを、すきになったことは?」

 思いを巡らせる。「すき」と言うと、何だか微妙で……気になるひとが居なかったわけではない。

「すきになる気持ちには、種類がある」
「……なんですか?」
「よく言われることならば、唄にもなろう。愛と、恋、だ」

 恋愛。それはふたつで、ひとつのものではないだろうか。

「厄介なものでな。愛と恋とで分けたところで、そのふたつもさらに細かく分かれていく――まあ、年寄りの説教として聞いて欲しい」

 静かに、僕は頷いた。

「愛は、なまなましい。それは身体と心の両方を、欲するのが、大体言われる、愛のかたち。身体だけを欲するも、心だけを欲するも、愛のかたちとして成り得る。――わかるだろうか。愛は、自分に取り込まなければ、気が済まない。それ故、互いの愛が重なれば、それは溶けてひとつのかたちになる」
「……」
「恋とは、想い。それは、片方が想えば、成り立つものだ。相手に届かずとも。だから、特に付き合っている事実が無かったとて、恋しく想う相手なら、恋人になる。それは知っていたか?」
「――いえ」
「そうか。ならば――蒼星石。私が考えるに……君は、愛のかたちを知るに、至ってはいない」

 愛か、恋か。
 そんなことを聞かれたって、困る。
 何よりあなたは、人生経験が、とても長い。僕がちょこちょこ仕返しを試みたって、絶対に敵う筈が、ないんだから。

「夢を、見ているようなものだ」
「夢、ですか?」
「そう。この一瞬の、幕間だ。紙芝居のように、幕間は一枚一枚、捲られては過去のものになっていく」
「けれど、それを忘れはしない?」
「……うむ。それは、そうなのかも、しれないな」

 このひとは。きっと、この庭の薔薇がすきだったひとに、もう触れることすら出来ないけれど、愛し続ける。届かない気持ちで、恋し続ける。

「まあ、でも」
「ん?」
「それだと……『失恋』という言葉の響きは、少しおかしいものですね」
「……」
「恋は、想っている限り。失われない、ものなのでしょう?」

 ――敵わんね。

 そう言ってあなたはまた、笑った。
 夢のような、時間だと考える。僕の恋の時間は、――愛には届かずとも――失われることなど、ないのだから。
 たとえこれが、人生的な時間軸で。長く続かないものだとしても。
 それこそ長く続くなんて、きっとない……わかってるよ、そんなことは。

 わかっていても。でも、いいんだ。
 僕のこころは、今こうしているだけで、あたたかい。

 姉さんに、話してみようかな。
 笑われてしまうかなあ。
 怒られてしまうかなあ。
 どちらも、そうかもしれないね。

「押しますよ」
「む、――」
「遠慮なさらず。たまにこういう親切を受けても、罰は当たらないと思います」

 ありがとう、と。小さな声であなたは、言った。
 薔薇に囲まれた庭を一周し終えるまで、あと少し。
 僕がもっともっと早く産まれていれば、だなんて考えたりもするけれど。
 今この瞬間は、僕たちだけのものになる。
 だから、それでいい。

 一歩一歩、確かに踏みしめていく。
 ふと上を見上げたら、また。
 あの青い空へ、まっさかさまに落ちていくような気分になる。
 のぼるんじゃない。ただ、落ちていく。

 それほど、雲ひとつなく、遠い遠い空。

 そんなのは、夢の出来事。
 本当に、起こるはずない。
 わかって、いるよ。

 ただ、こんなにも、陽が照っているのだもの。
 またきっと小春日和はやってくる。
 来年だって、こんな感じに違いない。
 それは多分、とてもしあわせな、こと。





 

【ゆめみごこち】おわり




 

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最終更新:2008年03月18日 01:20