始まりは些細な事。
彼の淹れた紅茶が温かった。
私は詰り、淹れ直すように命じた。
たったそれだけの事で一緒に過ごした時間は崩れてしまった。
どうせすぐに謝って来るだろう。
でも彼は二度と私に話しかけなくなった。
自分から謝れば良かったのに、下らない自尊心が邪魔をする。
卒業まで後1ヶ月、卒業式で謝ろう。
彼は来なかった。
式の5日前に海外へ、専門の学校に行ってしまった。
私は怒り、落胆し、自分を責め、泣いた。
彼の居ない春が来た。
去年は一緒にお花見をした。
雲のない三日月の夜に、庭の大桜の下で。
こっそり持ち出したワインは、私には強すぎた。
名前みたいになった私はあっさりダウン。
彼の膝枕で甘い夢を見た。
彼の居ない夏が来た。
去年は一緒に海に行った。
背伸びしてみたビキニの水着、朴念仁には効果なし。
けれど一言『似合っているよ』。
私は顔が緩みっぱなしになってしまい。
顔を覗きこんだ彼を海に沈めた。
彼の居ない秋が来た。
去年は一緒に本を読んだ。
私は分厚い哲学書、彼は彩美なデザインブック。
何か一着作ろうか?
急に言われ、笑えるくらいに狼狽えて、そして頼んだのは何故だかマフラー。
素直に言えず凹む私を、彼は不思議そうに眺めてた。
彼の居ない冬が来た。
去年は一緒にスキーをした。
彼は上手で綺麗に滑り、転んだ私を起こしてくれる。
頼りないイメージが嘘のように、彼は誰よりも格好良かった。
ゲレンデで迎えたクリスマス、彼が私にくれたのは鮮やかな紅のドレス。
止めるのも聞かずに着た私は、ものの見事に風邪を引いた。
季節は巡る。
また彼の居ない春が来た。
私は一人教室の片隅で微睡む。
夢見に彼の声を聞いた気がして飛び起きた。
誰も居ない教室。
こんな時、彼が居れば起こしてくれただろう。
埋められない孤独の中、私はまた泣いた。
また彼の居ない夏が来た。
私は喫茶店でバイトを始めた。
休憩中、試しに自分で紅茶を淹れたが、あの時飲んだ温い紅茶より不味い。
私はいつも彼の淹れた紅茶を飲んでいた。
その味はどれだけの時間、どれだけの試行錯誤の上に在ったんだろうか。
気付けなかった優しさに、私はまた泣いた。
また彼の居ない秋が来た。
本を読むが少しも頭に入って来ない。
私の隣にぽっかりと開いた空間が、心を引き裂き苛んでいく。
私は愕然とした。
私という存在の、節目はもとより日常に至るまで、彼が居なかった日は無いということに。
酷い喪失感の中、私はまた泣いた。
また彼の居ない冬が来た。
今年は雪が沢山降った。
滑らないように注意して歩くのは、転んでも笑って手を差し伸べてくれる人が、もう居ないから。
急に吹いた冷たい風に、慌てて首をマフラーに埋めた。
このマフラーは彼の手編みで私の宝物。
マフラーはあの頃と変わらずに、私を寒さから守ってくれる。
その暖かさが切なくて、私はまた泣いた。
あれから三度目の春が来た。
帰り道、私の部屋の前に人影がある。
瞬間、足が全力で走り出す。
間に合わなければ人影が消えてしまうかのように。
人影を見つめたまま、視線が外せない。
見失ったら二度と見つけられないかのように。
とんでもない勢いで走って来る私を見てギョッとしている。
勢いを緩めないまま、私はしっかりと抱きつく。
少しでも手を緩めれば霧のように流れていってしまうかのように。
私は泣きじゃくりながら、あの時言えなかった事を、ようやく気付いた事を、そのまま言葉に紡ぐ。
彼はただ、私を包むように抱きしめてくれた。
END
最終更新:2008年02月29日 23:29