しと、しと、しと。




「――ええ。柴崎さんの処。時計屋の方まで全部燃えちゃったって。元治さんも、マツさんも家の中に居たそうで…」

「ええっ、お二人とも!?」

「どうやら、そうらしいのよねぇ…あのお二人、本当に良い方々だったのに…」

「本当よねえ…家の子達もよく御世話になっていたものだわ」

「ええ。でもあの二人って、そんなに昔から居た訳じゃ無いんでしょう?」

「ええ…確か十年程前じゃなかったかしらねえ…
 元々お二人の息子夫婦が済んでいたんだけど、二人とも無くなっちゃってね、其処に移り住んできた、って話よ」

「そうなの…私もそんなに昔から居る訳じゃ無いから…知らなかったわ」

「其れでね、彼処の息子夫婦には、一人、娘さんが居るのよ。翠星石ちゃん、って言うんだけど。
 …此れからどうするのかねぇ…私達と歳も十歳離れていないのだけど、未だ独り身らしいし…」

「そうなの…身寄りが居れば良いけどねえ」

「本当、あの娘も両親の次は祖父母を亡くして…未だ若いのに、可哀想ねえ…」

「ええ。本当、可哀想だわ――」




《とある呉服屋での出来事―八月二十六日―》




 しと、しと、しと。




「――雨か」

「――じっとりしてますね、坊っちゃん」

「ふああ…」

「ほら、そんなにもたれたいで。お客様が来られたらどうするのですか。今からが一番お客様が来られるのですよ?」

「大丈夫だよぅ…こんな憂鬱な日には客なんて来ない――」

「済みませんです…」

「わっ!…済みません、いら――って、翠星石!?どうしたんだ、そんなずぶ濡れで!?」

「あらあら…!ちょっと待ってて頂戴。直ぐタオルを持って来ますからねえ」

「…………」

「……と、取り敢えず上がってくれ。寒かったろう?お湯、沸かしてくるから、入ったらどうだ――」




 しと、しと、しと。




「――お風呂、使わせて貰ったです」

「ああ。――其の服、大きさは合っていたか?」

「ええ、ぴったしです」

「そうか…」

「…………」

「…………」

「あのう」「なあ」

「あっ…ジュンから、話すです」

「…どうして傘も持たずに此処まで来たんだ?」

「ええと…そのう…」

「…………」

「…け、喧嘩したですよ、おじじと!」

「…はあ…何でだ?」

「はあっ!?理由なんて何でも良いじゃねえですか!」

「あ…そうか…」

「えっ…」

「…どうした?」

「…何でも、無いです」

「ん?そうか…」

「……――」




 しと、しと、しと。




「――其れで、君の話は何だい?」

「いや、そのう…」

「…まさか、泊めてくれ、などとは言わないよな?」

「…………」

「はあ…
 ――姉さんに、後で訊いてみるよ。空いてる部屋は有るから、今日は其処に寝床を敷くと良い」

「…ありがとです」

「…其れで?柴崎さんの方には連絡は入れなくて良いのか?」

「あ、ええ…大丈夫だと思うです…」

「ん、話しにくいか?ならば後で姉さんに――」

「あっ、駄目ですっ!」

「…どうしてだ?」

「あ、いや…と、兎に角!駄目な物は駄目なのです!」

「そうか…分かったよ」

「…あの、ジュン?」

「どうした?」

「…迷惑、ですか?」

「…何を急に言い出すんだ、君は」

「だって…何時も私は此処に遊びに来て――此処はお店なのにですよ――私は御世話になってばかり。
 私は、余りに虫が良過ぎるです。こんな人、誰が快く迎え入れてなど――」

「…ふふっ」

「な――何で笑うですかあっ!」

「ふふ、だって君の口からまさか其の様な言葉が出るとは思わなかったからな」

「う…五月蝿いですよ。私だって、分別の有る人間ですから、其れ位は気にするです」

「へえ。君にもそう云う部分が有ったとはね。良い事じゃあないか」

「なっ…馬鹿にしてるですかぁ!?」

「や、馬鹿になどして無いさ。本当に良い事だと、思うが?
 其れに、何を今更、此処に来るのに躊躇いを感じているのだ?前も言ったろう、皆君の事を好いていると。どうして迷惑な事が在ろうか」

「…………」

「そんな風に君がしょんぼりしているのは、似合わんぞ」

「そう、ですよね…
 ――やっぱり、言えないな…」

「…どうした?」

「や、此方の話ですよ。ところで、おばさんとのりさんは何処ですか?」

「そうだな…店に居るんじゃあ無いか?」

「有難うです。ちょっとお礼を言いに行くですよ――」




 しと、しと、しと。




「――あのう、すいませ――あ、お客さんがいるですね…」

「あら、翠星石ちゃん、どうしたの?」

「あ。のりさん、お風呂、有難う御座いましたです」

「そんな、良いのよぅ、翠星石ちゃん。気軽に使ってくれて構わないのよ?」

「あ、ありがとです」

「――あ、そうだ!ちょっとおばさん!」

「何でしょうか?」

「……ごにょごにょ……」

「ええ…ええ、良いじゃないですか!」

「…何ですか?」

「ちょっと翠星石ちゃん、此方にいらっしゃい」

「え、ちょっと!何処に行くんですか――」


----------



「――さあ、此の色留袖に着替えて頂戴」

「此れって…嘘、まさか!」

「ええ。貴女にはちょっと接客をさせてみようと思うの」

「ええっ!?むむむ、無理ですよぉ!」

「ふふ、大丈夫よぅ。接客って言っても、立ってて『いらっしゃいませ』って言うだけで構わないから。後は私達で何とかするから。ね?」

「あ…わ、分かったです…」

「やった!じゃあ、早速着付けよぉ」

「ふふ…お客さんが増えてきた頃合いだし、丁度良かったわ――」



----------



「――先ずはご挨拶。そして上品な振る舞いで、ね」

「わ…分かったです…」

「よし、じゃあ行くわよ?」

「なななな…何でさっきより人が増えてるですか!」

「そりゃあ、今が一番混む時間帯なんだもの」

「ひいぃ、やっぱ無理です――」

「私は向こうの方に行きますから、のりさんと翠星石ちゃんは入口のあの方をお願いします。あの方、いつもは旦那様と来ているから、独りは馴れていない筈。
 よし、じゃあ行くわよ!――いらっしゃいませ」

「じゃ、私達も行くわよ――」

「あ、待ってです…」

「いらっしゃいませ。お久し振りで御座います」

「あら、のりさん。いつにも増してお綺麗な事。
 ――あら?そちらの方は…」

「あ…え…ええと……」

「ほら、翠星石ちゃん。ご挨拶」

「い…いらっしゃいませですぅっ!」

「へ……」

「…あ…うう……」

「いらっしゃいなの、お姉ちゃん!」

「こらっ、ヒナ!失礼ですよ!
 ――ふふっ、大変元気で素晴らしい事。何か良いですよ、其の元気さ。
 のりさん、此方の可愛らしいお転婆なお嬢さんは?」

「ええとですね、今日一日だけ、看板娘になって貰っている娘です。御迷惑をお掛けして、申し訳御座いません」

「そんな、迷惑だなんて思ってないわよ。寧ろ、良い物を見せて貰っているわよ。貴女、とても似合っていますよ」

「あ、有難う御座います…」

「――ええと、いつもは主人と来ているものだから、何れが良いのか今一分からないのだけど…」

「其れなら此方に着付けの例を載せている型録が御座いますが、御覧になるでしょうか?」

「本当?是非、見せて頂きたいですわ」

「畏まりました。
 ――此方になります」

「へえ…皆綺麗な事」

「何れも、私の弟が撮った物です」

「へえ、ジュンさんが…流石、此の店の店主なだけありますね」

「恐縮です」

「ううん…皆似合っているわねえ
 ――あら?あっ、此の写真って…」

「ふふ、お気づきになりましたか?」

「――ああっ!此れって、私の…」

「……綺麗…
 貴女、本当に綺麗よ。素晴らしいわ」

「あ、有難うです…」

「決めた、私も此れと同じのを頂戴。貴女とは、十歳位離れているみたいだけど、似合うかしらねえ?」

「え、ええ。きっと似合うですよ」

「ふふ、其れなら良いのだけど。有難う、お嬢さん」

「ふふ、どう致しましてです」

「試着の準備が出来ましたので、此方へ」

「ええ、有難う。…頑張ってね」

「はいですっ!」

「うゆ…お姉ちゃん、お母さんは何処に行くの?」

「ふふ、綺麗におめかししてくるですよ」

「ヒナ、楽しみなの!」

「そうですね、大好きなお母さんが綺麗になるのは楽しいですよね…」

「お姉ちゃんは、楽しいの?」

「えっ――」

「お姉ちゃんも、とーっても楽しそうな顔、してるのよ?」

「…………
 ええ…楽しいですよ…此処は、楽し過ぎるです…楽し過ぎて、つい忘れちまってたですよぉ…」

「…うゆ?お姉ちゃん、泣いてるの?」

「…うっ…泣いてなんか…」

「やっぱり泣いてるの!
 ヒナのうにゅーあげるから、もう泣かないでなの!」

「い、苺大福…」

「食べてなの!食べたら元気いーっぱいになるのよ」

「わ、分かったですよ…」

「…美味しいの?」

「…美味しい…有難う……」

「どう致しましてなの!
 お姉ちゃんが元気になって、ヒナも元気になったのよ!」

「ふふ…うっし!私も頑張るですよ――」




 しと、しと、しと。




「――翠星石、厭に遅いな。ちょっと店にも顔出しておくか。
 …いらっしゃいま――…せ……」

「あっ、ジュン!」

「…何やってるんだ、君は」

「のりさんに、看板娘を任されたです」

「…姉さんめ…余計な事を…」

「段々慣れてきたです。接客って、何だか楽しいですね」

「――ええっ!?接客が…楽しい?君が?」

「…何ですか、其の馬鹿にした様な言い種は」

「だって、あれ程怖がりだった君が、ねえ」

「此処の人は善い人ばかりですから、安心して話が出来るです」

「そうか…其れは僕としても嬉しいよ」

「ふふん、じゃあ、私は忙しいので接客に戻るですよ」

「ああ…
 ……嫁、か…って、ななな、何を考えているんだ僕は!」

「……せん」

「いくら柴崎さんの頼みとは言っても、そう簡単に了承など出来るか!
 彼奴と、一生一緒に過ごさないといけないのだぞ!?一生…一緒に…」

「…みません…済みません!」

「――は、はいっ!」

「着付けを、頼めないかね?」

「はっ、はい!只今…――」




 しと、しと、しと。




「――うあ、疲れた…」

「お疲れさまです、坊っちゃん。今日はいつもよりきびきびとしていましたね?」

「そりゃあな。あんなに人が多かったらいつもの調子じゃ捌き切れないからな。
 つい三時間程前までは誰もお客が来なかったのに、さっきの盛況振りは一体何なんだ?」

「…さあ、どうしてでしょうねえ?」

「…へ?どうして此方を見るですか?」

「ふふ、何でもないわよ。
 ――さてと、私は夕御飯の準備に行きますね」

「あっ、私も、手伝って良いですか?」

「えっ?…そんな、良いよ、翠星石ちゃん。お店の手伝いもさせて貰ったのに――あっ、後でちゃんと其の分のは――」

「良いですよ。私だって楽しませて頂いた訳だし、お金なんて…」

「そんな事言われてもねぇ…やっぱり其れはきちんとしておかないと――」

「家に泊まりたいんだろう?なら、其れでおあいこだ。どうだ?」

「えっ…此処に泊まるの?これまたどうして…」

「ま、色々有るんだってさ。そうだろう?」

「…そ、そうです!あのう、お金は結構ですから、き、今日だけ此処に泊めて頂けないですか?」

「ええ、全然構わないわよ!空き部屋だって使っていない蒲団だって有るし、若し貴女が良ければ一日と言わず何日でも――」

「や、一日だけで、良いですよ。一日…一日だけ……」

「………?」

「分かったわ!じゃあ、部屋を掃除してお蒲団の準備をしてくるね。
 じゃあ、翠星石ちゃんは…料理、お願い出来るかしら?」
 
「合点承知ですぅ!じゃ、上手いご飯作るですよ!
 今日は何を作る予定ですか?」

「ううん…そうね、肉じゃがなんかどうかしら?」

「本当ですか!?」

「何だ、君も好きだったのか、肉じゃが?」

「あ、いや…そうじゃ無くて、ですねえ…」

「ふふ、ジュン君に美味しい肉じゃがを作ってあげたいんだって」

「な…そんな事言って無いじゃないですかあっ!」

「ふふ…良いじゃない、そう言う事にしておけば」

「ま、まあ…別に構わんですけど…」

「そうか。楽しみにしてるよ」

「…………
 …まあ、せ、せいぜい涎を垂らして待っとけです」

「ふふ…じゃあ、のりさん、お願いしますね。翠星石ちゃん、炊事場は此方よ。行きましょう」

「あ、分かったです。
 …ええと、ジュン?」

「何だ?」

「…さっきは、ありがとです」

「…どっちの、さっきだ?」

「…………
 両方です――」



----------



「――じゃあ、翠星石ちゃんはジャガイモの皮剥きをして、具材を全部入れ終わった後の鍋を見てて頂戴」

「分かったです」

「――此の肉じゃがはね、お父様も大好物だったのよ?だから小さい頃から坊っちゃんも影響されてね、好きになったの。
 最近、漸く牛肉なんかも手に入る様になって、坊っちゃんは『また肉じゃがが食べられる』なんて大はしゃぎしていた位なのよ」

「へえ…そうなんですか。
 …ジュンのお父さんって、どんな人だったんですか?」

「そうね…何と言うか、当に職人、と言ったところかしらね。平素は物腰の柔らかい方なんだけど、仕事の事になると目の色を変えてね。怒鳴り散らした事もあったわねえ」

「…ジュンとそっくりですね」

「ふふっ、確かに其の通りね。
 そして、お母様は…高貴な方だったわ。何と言うか、抱擁されるような優しさと言ったら良いのかしら。上手く言えないのだけど、兎に角素晴らしい御仁だったわ」

「へえ…私とは正反対ですね」

「そうかしら?貴女も優しい人じゃない」

「そうですかぁ?」

「ええ、私にはそう見えるけど?」

「ふふ、そうですかね…」

「ええ、そうよ…」

「…………」

「何かね」

「えっ」

「――妹が、出来たみたい。私は、いつも坊っちゃんに付きっ切りだったから。こうやって、一緒にご飯作ったり話をしてるとね、まるで貴女の事が妹の様に思えて、とても嬉しい」

「…私も、お姉さんが二人も増えた気分ですよ」

「……ふふ、有難う。そう言ってくれると嬉しいわ。
 ――いつでも、いらっしゃい。妹、なんだから」

「……――」



----------



「――ジューン、ご飯出来たですよ!」

「はいはい…おお、美味しそうだな!」

「そりゃそうです。何たって此の翠星石様が腕によりをかけて作ったんですからね」

「へえ…じゃあ、頂きます」

「「「頂きます」」」

「…………」

「…ど、どうですか?」

「…美味い。とても上手い」

「ええ、本当に美味しいわぁ」

「ほ…本当ですかあっ!」

「ああ。こんなに料理が上手いなんて知らなかったな」

「良かったです…」

「ふふ、良かったわね?」

「…お代わり」

「あら、もう食べたの?仕様が無いわね、ジュン君。はいはい、今持って来ますからねぇ――」




 りん、りん、りん。




「「――御馳走様でした」」

「「御粗末様でした」」

「本当、美味しかったわ。料理上手ねぇ、翠星石ちゃんは」

「姉さんも見習ってみたらどうだ?」

「あら、お姉ちゃんだって肉じゃが位作れるわよぅ」

「作るだけならな」

「のりさんも練習すれば出来るようになるですよ」

「そう?有難うね、翠星石ちゃん」

「全く…直ぐいい気になるんだから」

「ふふ、良いじゃありませんか。
 其れにしても、本当、上手よね。よっぽどマツさんの手解きが良かったのね」

「えっ…」

「私も、マツさんがお祖母さんだったら、もっと料理が上手くなっていたのかもね。だって、こんな若いのに、私より上手いんだもの」

「本当よねぇ。私も一度で良いから、教えて欲しいわぁ」

「…………」

「ねぇ!翠星石ちゃん、今度貴女の家に行って、マツさんに料理を教えて貰って良いかしら?」

「…………」

「おい、姉さん、幾ら何でも其れは不味いんじゃあないか?」

「あっ――そうね、ちょっと厚かましかったわね…御免ねぇ、翠星石ちゃん」

「…………
 …違う…違うんですよ…っ――」

「――あっ!何処行くんだよ!」

「……何か、様子が可笑しかったわね…」

「ジュン君…」

「そう言えば、今日は何処と無く様子が可笑しかったかも…分かった。行ってくる――」



----------



「――…翠星石、入るぞ」

「…………」

「…一体、どうしたんだ?」

「…何でも、無いです…」

「何でも無い訳無いだろう…
 差詰、喧嘩云々の話も、嘘なんだろう?」

「…………」

「…何があったんだ?」

「…赤の他人のおめぇには、関係無いですよ…」

「…関係無い?」

「…………」

「人の家に転がり込んどいて、泊めてと頼んで、店の手伝いまでしてさ」

「…………」

「ご飯を作ってくれて、……妹が出来たみたい、って言われても、其れでも赤の他人か…
 さっき、偶然聞いて仕舞ったんだ。あの人の横には、いつも僕しか居なかったからな。余程、嬉しかったのだろうなあ…
 ――少し、さみしいな」

「…………」

「…教えて、くれないか?」

「……ふふ。馬鹿ですね、私も。良いですよ、話しても。
 ……はぁっ……
 ――そうですよ。別に喧嘩などしてねぇですよ。する訳無いじゃないですか。
 一昨日、私の家、全部焼けちまったです。おめぇに貰った振袖も、全部」

「…………」

「おじじもおばばも、家事に巻き込まれて、死んじゃったです」

「なっ……」

「…ね、言わなかった方が、良かったですよね?」

「…………
 君は、君は……その事を、今の今までずっと隠していたのか…隠しながら、接客したり、ご飯を作ってくれたり、してくれたのか…」

「…そうですよ」

「どうして…どうしてだ…」

「…だって、此の家が、余りにも楽しいんですもの」

「えっ…」

「楽し過ぎて、忘れちまう位に。皆優しくて、本当に妹の様に接してくれて…そんな人達に、言える筈…無いですよ」

「そうか……」

「…………」

「君は…辛く無いのか?」

「辛いに決まってるじゃないですか…泣きたい位ですよ、大声を出して。
 でもね、あの娘が――蒼星石が居なくなったときから、私は悲しい事が在っても、絶対に泣かないって、決めたんですよ。泣いたら、また蒼星石にからかわれちゃうですから。
 ――こうやって、笑っていれば、良いのです」

「――っ……
 ……だから…」

「…何ですか?」

「だから…そうやって微笑むのは、止めろと…言っただろう…!」

「…だって、笑っていないと、どうなっちまうか判らねぇですもの」

「…………
 …泣いて、良いんだぞ?」

「えっ――ち、ちょっと!」

「――僕は、女の子の扱いに慣れている訳じゃあ無いから、こういう時にどうしたら良いか解らない。でも、でも…君の其の表情(かお)を見ているのはもっと辛いから!だから…」

「ちょっと…お願い、ですから…止めて……じゃないと…」

「今なら、君の妹も、見ていないぞ。其れに元々、君は、電車の中で泣いていたではないか」

「…………」

「君は、独りで荷物を背負い過ぎだ。嘸、疲れただろう?
 ――其れに、『箪笥』の中に、仕舞わねばならんのだろう?箪笥に仕舞う前には、掃除をしないといけない。違うか?
 …な?今なら、僕しか見ていないから」

「…………」

「――大丈夫。安心しろ」

「――っ…ふっ……うっ、ううっ――」




 りん、りん、りん。




「――……」

「……もう、泣き止んだか?」

「…もう少し…」

「…ん?」

「…もう少しだけ、このままが良いです…」

「……分かった――」



----------



「――……」

「……そろそろ良いか?」

「…………」

「…なあ?」

「…すー。すー…」

「…何だ、寝ちゃったか。
 仕様が無い、蒲団まで運ぶか。よいしょ――わ、軽いな…
 ……はあ。此れで良いか?
 ――あ、涙が、跡に……っ……
 …どうして…どうして!どうして此の娘ばかり、こんな辛い目に遭わねばならんのだ!此の娘が…何をしたと言うのだ!
 唯、人一倍口が悪くて、人一倍負けず嫌いで、人一倍――妹想いなだけではないか!何が…何が悪いと言うのだ…
 くそう、済まん!僕は…僕は何も出来ない…目の前で苦しんでる君に、手を延ばす事さえ侭ならない!僕は、僕は…君を、護ってやりたい…だが、其れも叶わぬ事。僕は…何も、何一つ、出来やしない…――」




 ちゅん、ちゅん。




「――…ふぁ、あ。…ん、朝か?――そうだ!すいせ――って、あれ?確か僕がベッドに寝かして…
 …ん?…スコーン?手紙…」




----------




 勝手に居なくなっちゃって、ごめんなさい。心配しましたか?


 昨日あの後、親戚のところに連絡したところ、私の面倒を見てくれるそうなので、其方に行く事にしました。
 通夜も告別式も、其方で執り行う心算です。


 連絡先は、教えない事にしたです。ごめんなさい。貴方達も本当は招かなければならない方達ですのに。
 でもこれ以上、貴方達に迷惑は掛けられないのです。
 もう、私は厭と言うほど迷惑を掛けているので。


 特に貴方には、ずっと甘えっ放しでした。ごめんなさい。
 昨日の事は、本当に有難うです。貴方は、本当に優しい人なのですね。
 貴方の腕から、胸から、身体全体から、優しさが伝わってきたです。貴方のたましいの優しさが、伝わってきたです。
 後、貴方に貰った着物、ごめんなさい。大切に、仕舞っていたですのに。


 思えば、あれからもう一月半ですよ?あの頃は、唯の気障な浮浪者としか思っていなかったですのに。まあ、今でも余り変わらないんですけどね。


 さて、もうそろそろ行かなきゃ、始発に間に合わなくなっちゃうです。


 のりさんやおばさん、他の方々にも、宜しくお伝え下さい。
 二人には、急に何も言わずに出ていってごめんなさいと、伝えといて下さい。


 貴方に、逢えて良かったです。貴方の事、絶対に忘れないですから。


 さようなら。


 追伸

 スコーン、此処に在った小麦粉なんかを使って作りました。勝手に使って、ごめんなさい。
 もし良かったら、食べて下さい。




----------




「――何だよ、此れ…あの馬鹿…
 『ごめんなさい』って、六回も使ってるじゃないか…
 其れに、どうしてこんなに、染みだらけなんだよ……
 …………
 スコーン、未だ少し暖かいな…――ん、美味しい。
 …もう、食べられないのか、な…――」




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 ------------
 ちゅん、ちゅん。




《とある呉服屋での出来事―八月二十六日―》

おしまい。

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最終更新:2008年02月04日 19:35