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 ちりん、ちりん。




「――暑い」

「暑いわねえ」

「良いのか、姉さん?お客の相手しなくて」

「ええ、ジュン君。おばさんが少し休んでて良いって」

「全く…あの人も姉さんに甘いよ。只でさえ屋敷の中に人手を回して、店にまで人が行き届いていないというのに」

「おばさんが大丈夫だって言うんだから大丈夫よ。それに、私も炊事の方に手伝いにそろそろ行かなきゃいけないもの」

「全く…姉さんも他力本願なんだから…
 …あ、炊事は人手が足りてるらしいから他の手伝いに行ってくれよ、頼むから。
 はあ…それなら仕様が無い、僕が――」

「――失礼します。あら、のりちゃんもいらしたのかしら?
 ふふ、坊っちゃん、お客さんですよ」

「分かった。上がって貰って――」

「ジューン!来てやったですよ――」




《とある呉服屋での出来事―八月二十四日―》




「――はあ…
 御免ね、おばさん。大変だったでしょう…」

「なっ、それはどういう意味――」

「ええ。大変でした」

「なっ…おばさんまで!酷いです!
 ジュン!おばさんに変な事吹聴すんなです!」

「ああもう、喧しい!何も吹聴などしておらん!
 前々から思っていたのだが、君は、少しは淑やかになったらどうなんだ!?」

「はぁ!?おめぇにそんな事言われる筋合いはねえですよ!」

「ああ…もう疲れる…一体何しに来たんだよ?」

「あ――そうですそうです。今日は私だけじゃねえんですよ」

「…ええと…中々入りづらかったのものでのう…
 桜田――ジュン君。のりちゃん。久し振りだねえ」

「あ…柴崎さん!?」

「おっ、お久し振りです!えっ、どうして!?」

「おじじがどうしても此処に来たいと行っていたですから、連れて来たです」

「そうでしたか…
 わざわざ遠い処から済みません、柴崎さん。然れば、今日はどういった御用件で?」

「まあまあ、そう急かずに。未だお天道様も登り坂。時間はたっぷりある。
 翠星石や、儂はスコーンが食べたいのう――」




 ちりん、ちりん。




「――そうですか。父の時計を…」

「ああ。丁度十年程前に、君のお父さんに修理して欲しいと頼まれてのう。
 ――ほれ、此の時計じゃ」

「うわっ…た、高そうです…」

「こんな物を父が…」

「ああ。儂も最初は持つ手が震えて仕舞って敵わんかった。こんな立派な時計を修理するなんて機会、中々無いのでな」

「そうだったんですか。わざわざ、有難う御座います」

「なに、構わんよ。
 ――其の時計は、君が譲り受けると良い」

「こ、此れをですか?でも、父の…」

「そう。だからこそ、君が譲り受けたら良いのじゃよ」

「…どういう事でしょうか?」

「君が、父親に似ておるからじゃ。…ふふ、解らんかね?
 兎に角、君が持つしか無かろう。他に誰が居ると言うのじゃ?」

「……分かりました。此れは僕が」

「ふふ、良かったわね、ジュン君」

「ああ。父さんの形見って少ないからな…」

「良いなあ…」

「あら、翠星石ちゃんも此の時計欲しいのかしら?」

「えっ…べ、別に欲しくなんか!」

「――あれ?そう言えば、姉さんと翠星石って、初対面になるのか?」

「ええと…前に着付けを手伝って貰ったときにちょこっと話はしたです」

「へえ…其れは知らなかった」

「――あ、そうだ、ジュン君。皆にあの時の写真、見せてあげましょうよぉ」

「えっ…もう出来てるのですか?」

「ああ、未だ型録にも入れてない。其処の戸棚の中に、確か――ああ、在った。はい、此れ」

「……うわあ…綺麗ねえ…」

「な、何だか恥ずかしいですねぇ…でもでも、やっぱり私は綺麗なのです」

「ほう…成程、可愛らしいのう。流石私の孫じゃ。マツに、似ておるよ」

「ええっ、おばばにですか!?」

「ああ。そっくりじゃよ」

「へえ…おばばにですか…
 それで、ちゃんと型録に載せてくれるのですよね?」

「当たり前だ。こんなに素晴らしい写真、載せない方が勿体無い」

「なっ…」

「あっ、いやあですね、おじじ…ジュンは純粋に被写体として私を気に入ってるだけで…べ、別に疚しい意味なんか――」

「ははは、判っておるよ。
 ――彼の親して、此の息子在り、じゃのう」

「はは、確かに父もよく母に色々な着物を着せていましたものね。
 でも、未だ父には到底及びませんよ…」

「そんな事無いぞ。何も、己を卑下する必要は全く無いからのう。矢張、君は父親に似ておる」

「…………」

「そ、そうですかね…自分では追い付こうと日々努力している心算ではあるのですがね…」

「ふふ、此の調子ならば、今に君の父親を乗り越えて行ける事よ」

「はは、そうだと良いのですが…」

「……何だか私が馬鹿みたいですね」

「ん?何か言ったか?」

「――何も言ってねえです!もうジュンにはスコーンあげねぇです!」

「な…何でだよ!?」

「ふんっ――」





 ちりん、ちりん。




「――そろそろ頃合いかのう…
 済まぬ、暫し儂はこの子――桜田ジュン君と話がしたいと思う。席を、外してくれるかね?」

「えっ、どうして――」

「畏まりました。さあ、行きましょう。のりちゃん、翠星石ちゃんも」

「えっ、な、何の話をするですか!」

「男と男の話じゃよ」

「其れじゃあ解らない――」




 ぱたん。




「――あの娘の作るスコーンは本当に美味い。此ればかりは自慢できる」

「ええ。僕も大好きです。彼女が作るスコーンは、此処の皆の、元気の源ですよ。『一日の元気は、翠星石のスコーンから!』などと、自ら謳っている程ですからね」

「…………
 ――済まないのう、ジュン君。家の孫が毎度毎度、迷惑を掛けて仕舞って」

「い…いえいえ、そんな事有りませんよ。
 …寧ろ、有難いですよ」

「――有難い…」

「はい。此の家には、あの様な快活で明るい性格の娘は居りません。姉も、此処で働いてる者達も、皆彼女の明るさが大好きです。
 幸い、彼女も此の家に愛着を持ってくれたようで。此処に来る理由も、皆と話がしたいからなんですよ?」

「此処は店なのにのう。ははは」

「はは、確かにそうですね」

「そうか……ふふ、確かに其れは珍しい事よのう。
 あれだけ見知らぬ人との関わりを避けてきたあの娘が、こんなにも積極的に関わりを持とうとするなんてのう」

「そうですね――確かにあの娘は人の混む処が苦手な様で。
 此方に来る時は僕に内緒で電話を入れて、駅から此処までの付人を頼んでいるらしいんですよね。ふふっ」

「そ、そんな事を……」

「あ、いやいや。其の話は此方から持ち掛けたものですよ。
 ――其れ程、皆があの娘を好いているという事ですよ」

「其れは、誠に有難い事じゃ。あの娘に変わって、礼を言わせて頂きますぞ。
 ――あんなに、活き活きしている翠星石を見るのも、久々じゃよ。
 あの娘……ええと……ううん……」

「……蒼星石、でしょうか?」

「おお、そうじゃった。いやはや、孫の名前を忘れて仕舞うとは、儂も情けないのう……」

「…ええと…」

「おお、そうじゃ。続きじゃな。
 それであの娘は、蒼星石が戦争で死んだ後、自分も後を追おうとしたのじゃよ。儂の息子が――翠星石の父親が――止めなければ、間違いなく、此の写真を拝む事は出来なかったじゃろう」

「そんな事を…彼女は一度も…」

「ああ。もうあの娘も二度と思い出したくないのじゃろうな」

「……そうだったんですか…」

「――君には、礼を言うぞ」

「えっ?僕は何も――」

「いいや、元を糾せば、君があの娘と出会っていなければ、此の様な事にならなかった。
 ――電車で、相席したそうな。何とも数奇な、然れども運命の様な出逢いじゃないか」

「そんな、運命だなんて…」

「ほっほ、良いではないか。儂も、偶にはこういう気障な台詞を吐いてみたくなるものなのじゃよ」

「はあ…――」




 ちりん、ちりん。




「――まーったく、人に隠れてこそこそ密談なんて卑怯です!」

「まあまあ、良いじゃないのよぅ、翠星石ちゃん。お爺様もジュン君と二人っきりでしか話せない事でも有るのでしょうよ」

「だから、其れが許せないのですよ!私に黙って話なんか――」

「ねえ、翠星石ちゃん?」

「――はい?」

「…貴女、此の家、楽しい?」

「えっ…藪から棒に何を――」

「どうなの、楽しいの?」

「え、ええ…そりゃあ、楽しいですよ?のりさんやおばさん、それに他の皆もいい人ばかりで。楽しいです」

「そう……ねえ、翠星石ちゃん」

「は、はい…」

「ジュン君はね、貴女が来てから本当に――変わった。
 今まではね、何処かで人との距離を取っていたのよ。そりゃあ、お客様との応対は確りこなしていたのよ?でもね、彼は――孤独だった。
 小さい頃から病弱で、あまり他の子達とも馴染めず、延いては苛められたりもしてね。更に、父の死が彼に追い討ちをかけて…彼の子供の時期は、本当に彼にとって辛いものだったの。
 其の所為も有ってか、彼は余り内を曝け出す事が無くなったのよ。上辺でしか、話さなくなったの。
 でもね、貴女と話してるジュン君の顔は、本当に楽しそう。あんなに楽しそうな顔が出来るんだと思うと、私まで嬉しくなっちゃう」

「…………」

「……ねえ、翠星石ちゃん?」

「…はい?」

「――ジュン君の事、どう思っているのかしら?」

「えっ――」

「……こんな事訊くのは、野暮なのかも知れない。でも、ジュン君もいい年だし、そろそろ奥さんの一人でも迎えて欲しいのよ」

「なっ…そそ、そんな事を私に――」

「でも、いつまで経ってもそういう気を出さないから。
 …だから、貴女に訊こうと思うの。貴女は――ジュン君の事、好きなのかしら?」

「えっ――」




 ちりん、ちりん。




「――……」

「……あのう…」

「…………」

「…………」

「君は」

「は、はい!」

「君は、雲のかたちを、覚えているかね?」

「…雲の形、ですか?」

「左様」

「ううん…いや、覚えてはいないですね。そもそも、雲は形を変えるから、形を覚えるのは難しい話だと思います」

「まあ、其れが正常よのう。雲と云うのは、当に無常のもの。一時として、かたちを留める事は無い。有体に、其のかたちを変え続ける。
 …かたちの無いあれに、器は在ると思うかね?」

「器、ですか…
 ――はい。僕は在ると思います」

「そうか――矢張、君はお父さんと似ておる。儂も、在ると思うぞ。器は――たましいを受け止める為の器は、此の世の万物に在るもの。仮令、其の中身がもう居ないとしても、器は残る」

「しかし…」

「器はなにも物質のみという訳では無いのだぞ?
 『在る』と思えば、其れは其処に『在る』のじゃ。
 然し、器が無くなる時だって、有るのじゃぞ?誰からも忘れられる――誰の記憶からも居なくなって仕舞ったとき、器は『在る』事を辞めるのじゃ。其れは、とてもかなしい事じゃ」

「…………」

「はは、ちいと難し過ぎたか。言葉足らずの耄碌爺の噺は、妄言としか、聞こえんからのう」

「――いや、解りますよ。似た様な事を言っていた人を、僕は知っていますから。尤も、考え方は逆だったのですが」

「ふうむ、似たような考え、か。そうか――」


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「――……」

「…私だって、こんな事訊くのはいけない事は分かっています。でもね、彼には“跡取り”という問題があるから。
 そう何時までもうだうだ待って居られない。彼はそんな事全く口に出さないから、姉として心配になって仕舞うの。
 ――貴女にしか、こういう相談は持ち掛けられないのよ」

「…………」

「どうなの、かしら」

「私は…」

「…………」

「私は…確かに、あの人の事を――す、好きなのかも知れんです」

「そう、其れなら――」

「でも、でも!ジュンには、あの人が――巴さんが、居るじゃねぇですか…」

「えっ……」

「…其れなのに、私にどうしろと…」

「…………」

「…………」

「――ええと…翠星石ちゃん。巴ちゃんって、…誰なのかしら?」

「…えっ、知らないのですか?」

「え、ええ…知らないわ」

「そうだったんですか?
 全く…ジュンもそんな事を秘め事にするなんて…でも、どうしてですかねぇ…」

「――あの、こんな事貴女に聞きづらいのだけど。巴ちゃんとジュン君って、もしかして交際しているの?」

「いや、あのう…巴さんは、戦争に巻き込まれて…」

「あ…そうだったの…」

「だから私も、その人の顔は、見た事が無いのです」

「そう。一体、どんな人なのかしらねえ…
 どうしてお姉ちゃんには何も話してくれないのかなあ…」

「…ジュンは私の妹に似てるって、言っていたです」

「――え?…貴女、妹さんがいるの?」

「ええっ!?私、其の事も話していなかったですか!?」

「…多分、初めて聞くと思うけど」

「そうでしたっけ…可笑しいですね、私が妹の話をしない訳無いんですがね…」

「翠星石ちゃんの妹さんか…逢ってみたいなあ」

「其れは…もう出来ないです…
 遠くへ、出掛けて仕舞ったですから…」

「あっ――ご、御免なさい」

「や、構わんですよ」

「…………」

「…………」

「……何か、湿っぽくなっちゃったわね…
 ――御免、やっぱりさっきの話、無かった事にして頂戴!」

「え、いや…」

「良いの。私、どうかしてた。
 そうよね、急にそんな事を言われて首を縦に振る人なんか、居ないものね…
 …ふふっ、どうして当の本人じゃ無くて、私が焦ってるのかしらね?」

「……――」




 ちりん、ちりん。




「――のう、ジュン君?」

「はい…何でしょうか?」

「スコーンをお食べ。あの娘は出された物を食べ残すのを良しとせんのでな。後が、怖いのじゃよ。ふふ」

「あ、はい――」

「……美味いかのう?」

「え、ええ。美味しいですよ」

「そうか…」

「…………」

「此処に来たのには」

「はい…」

「確かに君の父親の時計を返すという理由もある。
 じゃが一番の理由は、君とこうやって面と向かい、話をする事。
 ――君とは、話しておかなければならん事が、有るからのう」

「話しておかなければ、ならない事?」

「左様。…儂は、回り諄い話をするのは嫌いな性質じゃからのう――単刀直入にお訊き致しますぞ。
 君は、家の孫――翠星石と結婚する気は、御座らぬか?」

「――えっ?…僕が、翠星石と?」

「左様」

「…えっ…ち、ちょっと待って下さい!ええと…事態が上手く呑み込めないんですが…」

「…あの娘は、昔から人見知りが激しくてのう。男子と話をするのが殊更苦手じゃった。
 儂は、心配しておった――此の侭、碌に男と話せないのであれば、あの娘は独り身で一生を送らなければならなくなって仕舞う――。
 儂も、もう九十近く。悠長に構えて居られる訳も無し。居なくなって仕舞った父親代わりと思っていたのじゃが、いよいよそうも居られなくなって仕舞った。
 ――あの娘から、男の子の話を聞いた時には、本当に驚いた。あの娘の嬉しそうな顔と言ったら。…而も、其の話を聴くと、どうやら儂の誼の孫らしい。
 儂は、君に賭けてみる事にした。そういう訳で、今日此処に来たという次第じゃ。
 儂は其れ迄、君の幼少の頃に逢ったときの気弱な印象しか無かった。じゃが、今日の君の立ち振舞い、商人として――否、人間としての立派な器量を――儂は目の当たりにした。君は、父親にも祖父にも劣らぬ、立派な御仁じゃ。
 君になら頼める。儂は確信した。
 小さな時計屋の老い耄れ爺の、身の程知らずな頼みだとは分かっておる。じゃが、聞き入れては、くれんかのう?」

「…………」

「其れと……若し、君に其の気が無いなら……
 もう、あの娘には、逢わないで欲しい」

「えっ――」

「あの娘には、幸せになって欲しい。儂は、切に願う。若し、あの娘の幸せにとって、君が足枷になるのなら――儂は、其の足枷を外してあげたい」

「…………」

「不条理な話だと云うのは、重々承知しておる。然し、儂も老い先短い。せめて、あの娘の幸せな顔を此の目に焼き付けて――ひとつだけ残してある、最後の儂の『箪笥』の引き出しに仕舞ってから、旅立って行きたいのじゃ」

「…………」

「ああ、儂にも未だ少しは余裕が残っている。こうやって電車に揺られて、此処まで足を運ぶ事が出来るのじゃからな。今直ぐに結論を出せ、とは言わん。
 ――どうか、宜しくお願い致します」

「…………」

「――さて、目的は果たした訳じゃし、そろそろ皆を呼ぶとするか。
 呉々も、此の話は他言無用、と言う事で」

「分かりました…――」




 ちりん、ちりん。




「――随分と、長いお話でしたね」

「はは。つい、話し込んで仕舞ってな――独りごちて仕舞った、と言った方が宜しいのかな?」

「…………」

「…………――」



----------



「――其れでは、そろそろ帰るとするよ。マツを独りにしておいた侭は、気が引けるからのう。後が、怖いのじゃよ」

「…そうですか…」

「今日は本当に、有難う御座いました。わざわざ時計まで持ってきて頂いて下さって」

「や、良いのじゃよ。其れは飽く迄、序でじゃからのう」

「…ジ、ジュン?」

「…何だ?」

「あ――やっぱり…良いです…」

「…………」

「じ、じゃあね、翠星石ちゃん、柴崎さん」

「ああ。のりさんも達者でのう。
 ――ジュン君や。件について、良い返事を、待って居ますぞ」

「はい……――」




 ちりん、ちりん。




「――さて…スコーンの残り、食べましょうよぅ」

「…………」

「……ジュン君?」

「ん…あ、ああ…分かった」

「何が分かったのかしら?」

「…御免、聞いて無かった」

「全く…処で、柴崎さんと何の話をしてたの?」

「言えない」

「そう…じゃあ、私も言えない」

「…そうしてくれると有難い」

「――そうだ!貴方に訊きたい事が有ったのよぅ」

「…何?」

「ジュン君って――……」

「……何?」

「……あれぇ?」

「何だよ!」

「…忘れちゃった。可笑しいなあ…何て訊こうとしたのかしら」

「しっかりしてくれよ…困るぞ、そんなんじゃあ。出納帳、別の人に書いて貰おうかなあ」

「あっ…本当に!?」

「…やっぱり止めた」

「うっ、そんなあ…」

「はあ…じゃあ、僕は店に顔出しに行くよ」

「うん…行ってらっしゃい。
 ――其れにしても、何だったかしらねぇ――」




 みーん、みーん。




「――……」

「…どうしたのじゃ、翠星石?顔色が悪いぞ」

「あ、いや…何でも無いです。
 そうだ、ちょっと豆腐屋に寄ってくるから、此処で待っててです」

「独りで、大丈夫か?」

「ええ…頑張るですよ――」



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「――済みませんです」

「いらっしゃ――おぅ、君はあの時の嬢ちゃん!今日はお独りかい?」

「あ…えと……はい」

「そっか、そっか。まあ坊っちゃんも忙しいものな。何たって、創業二百五十年の老舗の店長だからなっ!」

「…………」

「…どうした?」

「…あっ!いや…何でも、無いです」

「そっか…何か――や、こんなの一々他人が突っ込む話じゃねぇな。ははっ、済まんな――」

「…縁談を」

「――へっ?」

「縁談を…持ち掛けられたです。ジュンのお姉さんに」

「……ほう、のりさんにか…そりゃまた、珍しい事も在ったもんだ」

「…どうしてですか?」

「だってよお、未だ嘗て、あそこまで弟想いな姉御さんは見たこと無いぜ?
 と言っても、此処いらのみの話なんだがな、ははっ」

「そうなんですか…」

「まあ要するに、そんなお姉さんに縁談を持ち掛けられるって事ぁ、お前さんもあの店の皆から相当好かれてるって事だなぁ…
 くうっ、羨ましいぜ!
 ……実はな、女房には内緒なんだがな、坊っちゃんの付き人の方が居るだろう?俺ぁ、あの人に恋をしていたっ!だが、身分の違いもあって、叶わぬ恋となってしまった訳よ…
 くあぁっ!若し俺がもう少しでっけえ豆腐屋を持っていたなら、あわよくばこんな可愛げの無え女房じゃ無くて、あの人と――」

「ちょっとあんた!誰が可愛いげの無い嫌な女房だって!?」

「ひいっ、御免なさい!でも嫌なんて言って無いぜ!
 ――じ、嬢ちゃん!ほれ、豆腐。二丁で良かっただろ?更に今回は特別に一丁おまけだっ!」

「あ、ありがとです…おめぇも、頑張るですよ?」

「ああっ…!有難うよ嬢ちゃん!」

「もう、話ばっかしないで手伝っておくれよ!」

「ひいっ、済みません――」



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「――済まんです、遅くなっちまったです」

「や、構わんよ」

「其れにしても…皆、大変なんですねぇ」

「…何の話じゃ?」

「何でも無いですよ」

「そうか…今日は冷奴か?」

「うーん…ちょっと暑いけど、湯豆腐なんて、どうですか?」

「ほう。中々良いではないか」

「じゃあ、決まりですね。此処の豆腐は、本当に美味しいですよね」

「ああ。大豆の香りが素晴らしく堪らんのう」

「――蒼星石にも、食べさせてやりたかったなあ…」

「…誰じゃ、蒼星石とは?」

「…はぁっ!?何言ってるですかぁっ?」

「いや…誰だかさっぱり」

「もう…しっかりするですよ。私の、妹ですよ?」

「――はて…」

「……こりゃあまずいですね…
 ……先に、電車に乗ってるですよ――」



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「――はて?確かあの娘は、独りっ子だった筈じゃが――」




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 がたん、ごとん。




《とある呉服屋での出来事―八月二十四日―》

おしまい。
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